2021年8月2日ICT08:12 インドネシア共和国バリ州 FJW第8甲板『Sapphire』
この日、知樹は遅めに起床した。
普段なら日が昇る前に自然と目が覚めるはずなのだが、慣れない───というより、初めてのことをしたせいだろう。
隣で眠るハンナを起こさないようにそっとベッドから離れると、部屋のテレビをつけた。
この巨大な客船ではほぼ24時間なんらかのイベントが催されており、船内専用の放送局では常時アナウンサーをつけて配信している。
もちろん、それ以外にも衛星放送の番組も視聴できる。
知樹はこれまた非常に珍しく、日本の
普段なら国賊企業と呼んでいる放送局───彼は日本国内すべてのメディアを売国奴扱いしているが───の番組など、例えニュースだといえども見ることはない。
それでも、昨日の経験がどうしても日本国内の情勢に関心を向けさせた。
───やはり
JHKのニュースは相変わらずしょうもない、取り上げる価値のないスキャンダルばかりで構成されていた。
1年前に開催された東京国際大会での贈収賄など、なぜまだ擦り続けているというのか。
そんな理由は、知樹にとっては分かりきった話だ。
───メディアはやはり、ダーク・ステートの用意した台本でしか報道できない。
父が何らかの動きを見せたことで、知樹のなかでひとつの疑念が湧いた。
もしかしたら、父は自分を蚊帳の外にして実行するのではないか。
そんな疑念である。
何らかの動きがあるならば、そんな薬にはなれない報道でも読み取れるはず。
少々どころかかなり自信過剰な判断である。
「インドネシアでの反政府運動に、ロシアが関与している恐れがあるとオーストラリアの報道官は語りました」
アナウンサーの声に思わず反応してしまった。
「7月30日。オーストラリア政府はインドネシアから西パプア奪還を目論む武装勢力『パプア独立軍』の戦闘員に対し、ロシアの民間軍事会社シータグループが軍事教育及び作戦等の指導をしていると会見で語りました」
パプアニューギニア島。
西部西パプアをインドネシアが領有し、東部は独立したパプアニューギニアが存在する。
この2勢力が存在する
東部のパプアニューギニアは
これ自体は特別妙なことはない。米英を憎む知樹にとっては気に入らない事実だったが。
しかしインドネシア領西パプア州は独立運動が強く、政府も武力を用いた鎮圧に躊躇いはない。
それでも、独立の機運は収まらない。
パプア独立軍は烏合の衆に等しい状態にあった反政府勢力をひとつにまとめ上げ、東のニューギニアとはまた別の独立・国家樹立を目指す勢力だ。
そこにシータグループが関与していたのを、知樹は知っていた。
───彼らは、横暴な権力とダーク・ステートに隷属する白人国家と戦う戦士達だ。
言語を習得できるほどの長期間ではなかったが、それでも直に会った友人達だ。
テロリスト扱いは気に入らなかった。
「パプア独立軍は現地で移民への暴行や公共交通機関へのテロ行為を行い、また他国から兵器類を入手したことが確認された。放置した場合周辺諸国への甚大な脅威になると報道官は語りました」
圧政と陰謀に虐げられる人々を救い、自由と解放を求める人々へ手を差し伸べる。
それがシータグループだ。
幕内知樹はそう教えられ、そう信じていた。
「シータグループの教育によって、パプア独立軍はジャカルタで発生した病院爆破テロを実行に移したとされています。この事件では標的となった政府高官以外にも、子供8名を含めた37名が……」
「デタラメだっ!」
故に、そのような報道は信じなかった。
テレビの電源を落とし、ソファーに座り込む。
巷の陰謀論者と呼ばれる現実逃避が趣味のカスは、この手の映像を突きつけられればCGなどと呼んでルーチンに逃げ込むだろうと考えている。
「あんなのは……
幕内知樹という少年は見る目があり、妙なところで律儀だった。
そのため自身の経験から気に入らない映像が事実だと判断した場合、陰謀と決めつける癖があった。
この場合ならば、パプア独立軍とシータグループの名誉を毀損するため。
圧政と横暴を正当化するための、所属を偽装した
これは人命をなんとも思わない横暴なインドネシア政府と白人国家オーストラリア、つまりDSの仕業だ。
そんな具合である。
現実逃避と大差ないが、本人に自覚はない。
「マック……?」
思案の海の中で声がした。
ベッドで寝ていたハンナが目を覚ましたのだ。
恐らく、思わず出てしまった叫びで起こしてしまったのだろう。
「悪い、驚かせたな」
「どうかしたの? 急に大声出して」
「いや。ただ……報道の劣化に呆れただけだ」
ハンナは政治の話題には欠片も興味がなかった。
それよりも、今と未来だ。
ベッドから立ち上がると、彼女はよろよろと歩いて知樹の対面に腰掛けた。
互いに身を包むものはない。
丸裸のまま、語り始めた。
「ごめん……私の問題に巻き込んじゃって」
「気にするな。もっと俺が強ければ、君をあんな目に遭わせることはなかったんだ」
「それは……慰めにしては無理がない?」
しかしハンナにとっては心強いひとことだった。
ますます彼をその手にしたいほどに、欲しくなった。
それでも、すぐ手からこぼれ落ちるようでは意味がない。
「今後のことなんだけど……昨日、マックは私のことを知らないって言ったよね?」
「ああ、言った。正直今も、わかってるとは言い難い」
意外な一面を多く見たがそれでも、普段のハンナを知ったとは言えない。
家族構成は不明で、学園でどんな過ごし方をしているのかもわからず、誕生日すら知らない。
深く結びついても、長く接しなければわからないことは多いのだ。
「だから……付き合うのはまだ、答えを置いておいて欲しいの。もっともっと、お互いのことを知ってから、答えを出して欲しい」
「……わかった」
「それまでは今まで通り……よりも、一歩先に踏み出してね。私もそうするから」
今までより、一歩先に。
互いを深く知るのなら、そうしなければならないのは当然だ。
そのためにまず、知樹は視線を上げた。
そこには一糸まとわぬ姿のハンナがいる。
恥ずかしくなって、また目を伏せてしまった。
他人に触らせたことのない場所まで触れ合った関係だというのに。
「そういうところも、少しずつ慣れていけばいいから」
「……でも、そういうのは、なしなんだろう?」
「えっ?」
思わず出た言葉に、ハンナのみならず知樹自身も驚いた。
───俺は、何を言ってるんだ?!
それではまるで、自分が昨夜の行為にドはまりしているみたいではないか。
いや、実際しているのだが。
「……ごめん。私が我慢できなくなっちゃいそうだから」
そして、微笑みと共に断られてしまった。
羞恥のあまり知樹は顔を覆った。
「くそっ、親父の言うとおりだっ。男はちんちんを触ってると馬鹿になってしまうっ!」
「男が射精する瞬間のIQは3になるんだって」
「俺は150だっ、そんなに下がるわけが……」
いや、あり得る。回想した知樹は確信した。
ここまで知的で聡明と自負する自分が、ああなるのだ。
きっと、そこまで下がっているに違いない。
「危険だ……」
もしや、この知能も下がって今や70くらいの境界知能まで落ちてしまったのではないか。
そんな危惧を募らせつつも、日常に戻るためシャワー室へと向かった。
◆このふたりの行く末は───?