2021年8月2日ICT16:35 インドネシア共和国バリ州 FJW
「堕落した船に乗り込む者よ。大人しく船を明け渡せ」
それは、露骨な脅迫だった。
事件発生から数時間経過し、状況を見守っている中でベノア───厳密には、敵が持っていた無線機から垂れ流された声だ。
「本日19時までに引き渡さない場合、こちらの武力をもって貴船を撃沈する」
「生意気な野郎だ。一方的に撃っておいて、投降しろとは」
現場に居合わせたジムは憤慨した。
当然の怒りである。休暇に訪れた先で、理不尽に殺されそうになったのだ。
そのうえ、返り討ちにされれば船ごと沈めるぞとは。
「投降する場合……」
「バッテリーの無駄だ。電源を切れ」
敵のものとはいえ、無線機は貴重な通信手段である。
知樹は無線機の電源を落とすと、甲板に転がした。
「ねえ、マック……このまま降参しなかったら、どうなるの?」
少しでも役に立ちたいと、立哨に参加していたハンナが囁いた。
近くにいるジムをはじめとした外国人に配慮して、英語である。
「この脅しは、端的に言って件の巡航ミサイルを使うという意味だろう」
この状況下では、雑な励ましの言葉は意味を成さない。
加えて、そういうのは苦手である。自覚している知樹ははっきりと自分の見解を述べた。
「だが、見せしめは済んでる。動けない至近距離の標的に貴重な巡航ミサイルを無駄に使いたがるとは思えないな」
「じゃあ、どうなるの?」
「ボートで接近して、RPGのような兵器で航行不能にする」
「そ、それで?」
知樹としては答えを出したつもりだが、知識がないハンナにはうまく届いていなかったようだ。
眉ひとつ動かさず、知樹は続けた。
「向こうとしては、それで十分だろう。船内の物資は豊富ではあるが、じき尽きる。少なくとも、
「また乗り込んできたりは……?」
「そんな余裕はないだろうな。別に向こうにとってこの船は目的を達するための手段でしかない。余計な人員は使わずとも、根を上げるのを待てばいい」
「……兵糧攻め?」
「その通り。船内のネット環境から、阿鼻叫喚の地獄を自ら広めてくれる。そうなれば、惰弱な連中は言うだろう。『命が大切だ、テロに屈しろ』とな」
敵の目的ははっきりしていた。
西パプアの独立。そのためには、インドネシア国民の感情を揺さぶらなければならない。
国内外から家族や友人が窮地に陥っているという圧力が強まれば、要求が達せられる可能性は高まる。
どうせ、よその土地の辺鄙な島。くれてやればいい。
外国人はそう考えるだろうのだから。
しかし、それではだめなのだ。
この解決策では、次がない。相手に錦の御旗を与えてしまう。
独立が成し遂げられても、ほとぼりが冷めた先にあるのは国土奪還という大義名分を伴った武力侵攻である。
「こんな無為に犠牲者を出す手段……連中の思う壺じゃないか……」
だからこそ、圧政者のみを狙い、極限まで犠牲者を減らす作戦と計画が求められる。
ここまでしなくては、ダークステートには勝てない。
そう教わって来た知樹は静かに歪んだ心を軋ませていた。
そんな知樹の手に、ハンナの手が重ねられた。
「なんだか私、よくわからないけど……マックのやってる事って、間違ってないと思う」
何も知らないハンナは、政治に興味が皆無だった。
故に知樹の呟きの意味も理解できず、本当の意味で理解する気もなく。
ただそっと、寄り添った。自分の言葉に、半ば酔ったまま。
◆噛み合わずとも、歯車は動き続ける───