2021年8月2日ICT18:58 インドネシア共和国バリ州ベノア市街地
かなりの危険を冒したが、得たものは大きかった。
敵が利用している識別マーク付きのピックアップトラック。
ボンネットと左右のドア、そしてリアに描かれた赤い縁の白丸。これはパプア独立軍が採用している識別マークだった。
まじまじと見られれば発覚するだろうが、見つかっても相手の行動を一瞬だけでも遅らせることが出来るはずだ。
知樹はこのマークの由来も覚えていた。
赤と白で構成されているインドネシア国旗、通称Sang Merah Putih(我らが紅白)。
紅色は自由と勇気を、白は誠実さと真実を表している。
パプア独立軍は赤の自由と勇気を自己都合の欺瞞、白はインドネシアという国に欠けたものと捉えている。
欺瞞に穴を穿ち、真の正義を示す。
パプアの友人たちは、知樹にそう語って聞かせたのだ。
現実はどうだ。
西パプアに圧政を敷くインドネシア政府と、何が違う?
被害を盾にして横暴を働くのは、正義の行いではない。チンピラの所業だ。
───このマークに込められた思いは、単なる嫌がらせだったのか? 達成する気のない意趣返しに過ぎなかったのか?
困惑と不安に胸が押しつぶされそうだった。
自分の信じてきた正義が、目の前で否定されつつあるのだ。
普通ならば、捨てられるのだろう。変われるのだろう。
しかし、幕内知樹という少年は絶対的な正義の存在を信じてきた。
ここまで来て今さら、簡単には変われないのだ。
何度も何度も、今まで価値観を揺さぶられても。
やはり簡単には変われないのだ。
この価値観が根本から崩れ去らない限り。
「おい。そのサプレッサーはもう駄目だ。捨てておけ」
運転席に座る亮が指摘した。腰のホルスターに差した拳銃を見ると、確かにサプレッサー代わりに装着したペットボトルは固定がほぼ外れてぶらぶらと揺れていた。
中途半端に接着していたテープごとはがすと、荷台に転がした。
ミラー越しにそれを確認した亮は静かに続けた。
「お前の渡航歴は把握してる。恐らく、その間に違法な越境をしていたこともな。だが今は……」
「わかってる。今の状況に集中する」
「出来てないから言ったんだ」
知樹の反論はたったの一言で無力化されてしまった。
その通り、知樹は全く今の状況に集中できていない。
恩があり情の移った集団が悪逆非道を働き、そして自分に銃口を向けて来る。
あってはならないこと。それが起きている。
同時に、自分ひとりだけが命の危機に晒されているわけではない。
これもまた、あってはならないことだ。
「……お前のすべてがひっくり返されているように感じてるんだろう? だが世の中にはそういう事が往々にして起きる」
警戒を欠かすことなく語る亮の目には、怒りと悲しみが滲んでいた。
「価値観を他人任せにしてるから、そうなる」
「……そんな事はない。俺は常に自分で考えている」
「本当に? 尊敬してるあの人が言ってたから、だとか考えてるんじゃないのか?」
知樹の表情が強張った。図星であった。
尊敬しているあの人、なんてものではない。
行く先々で尊敬され、評価され、国の要人───トップに会っていたと、父はこっそり知樹に教えていた───とも顔が効く。
それが、唯一の肉親。父なのだ。
「親父は、正しくて有能な人だ」
「肉親こそ真っ先に疑え。血縁は物事においてなんの保証にもならない。正しさなんぞ価値観でどうにでも変わる曖昧な概念で、有能かどうかは分野による。一分野の権威も、専門を外れれば素人だ」
否定したい衝動に駆られたが───落ち着いて考えればその通りだった。
血で正しさが決まるのは、真の自由な世界が必要としない権威主義的な古い発想だ。
文化による価値観の相違もよく知っていた。ロシアやイランの人々はそれぞれ全く異なった価値観を持ち、苦労した経験がある。
過去に著名な保守ジャーナリストと話したこともあったが、軍事的な知識に関しては馬鹿な左翼と大した差がなく落胆した記憶もあった。
自衛隊が本気を出せば朝鮮半島全土を制圧できるなどと、本気で抜かしていたのだ。議論が成立しないレベルである。
しかし、しかし父は知樹にとって別格なのだ。
「でも、親父は違う……」
「なら今はそう思っておけ」
亮はブレーキを踏むと、車を停車させた。
「考えるのは、終わった後に出来る」
さすがに敵の車両を鹵獲したからといって、要塞化されているホテルに直で潜入できるとは考えていない。
まずは偵察が必要だ。車両から降りると、ホテルが一望できる別のホテルへ。
その頃時刻は19時。船の方で戦いが始まるころだった。
◆戦いは待ってくれない───