2021年8月2日ICT19:18 インドネシア共和国バリ州 ベノア市街地
日は西方の地平線へと過ぎ去り、世界に闇が訪れようとしていた。
暗い影がどこにでもいる時刻の始まりである。
ホテル数百メートル手前に到着した知樹と亮は人気のないホテルの屋上に登ると、目的地の裏側を双眼鏡で偵察した。
もちろん、警備は厳重だ。
ホテル屋上には数名哨兵の姿があり、彼らの持つ銃器に目を凝らしてみると、大型の光学照準器のシルエットが浮かんでいた。
「
衛星画像から哨兵らしき姿は確認されていたが、さすがに装備の詳細を把握できるほどの解像度はない。
人体が持つ熱を可視化する装置など、一昔前では先進国の軍隊でしか運用不能な高コスト装備であった。
しかし技術が進めば生産に必要なコストは安くなり、量産すればさらに安くなる。
作るための技術がなくとも、ある程度の基礎技術があれば既存の製品を分析して似たようなものは作れる。
知樹の知る限り、彼らの装備しているサーマル・スコープはベラルーシ製だった。
映像を投影しているデジタル・スコープなので、AKだろうとM16だろうと時間と場所に余裕があれば調整は容易だ。
サーマル・ビジョンの性能は本物だ。
例え物陰にいようと、真っ暗な空間にいようと、センサーを向けられれば発見されてしまう。
まさに、スパイ・キラーである。
「今のこっちの装備じゃ、視界の隅に入っただけで見つかるな」
「熱探知装備が支給される兵士は偵察検定を通過している。半端な偽装は通じない」
ならば、暗闇に紛れて進むのは現実的ではない。もっと物理的な遮蔽を用いて潜入する必要がある。
「こちら赤9、地上から進行する政府の犬に対応せよ」
敵が使用している周波数からはずっと健司が流している欺瞞情報が聞こえて来る。偵察を初めてまだ数分だが、ホテルの動きは全くない。
ここで、亮が気づいた。
「あいつら、欺瞞情報が効いてない……?」
「……欺瞞情報が効くほど、彼らは馬鹿じゃない」
そうは言った知樹だが、やはり疑問は抱いた。
この状況で陸路から敵が攻めて来る可能性は十分にあり得る。確かに疑問が浮かぶ情報ではあったが、優秀な偵察をひとりも出さずに守らせるのはおかしい。
たとえここに最重要防衛目標があるとしてもだ。
「欺瞞情報が絶対に効かない相手……作戦指揮官がここにいる」
その可能性に思い至るのは、至極当然の道理であった。
なぜわざわざ、重要目標が一ヶ所に集まるのか。防衛のために人手を多く割くのを嫌ったのか。
あるいは単なる無能か?
その理由を追求するのは事後で問題ない。
今はその事後を過ごすためにも生き残らなくては。
「そうだな……あのホテル周辺は細かい道が多い。遭遇する危険は大きいが、見張りに見つからずに行くには、そうするしかないだろう」
亮は持ち込んだ周辺の地図を睨みながら言った。ベノア市街地には日本の田舎町のような、車両が通行不能な細かい道が無数に走っていた。
道をパトロールしている哨兵がいれば危険だが、近づくには無数の壁と敷地を乗り越えていく他ない。
「俺がもし、敵の指揮官なら……途中の敷地に罠を仕掛ける。味方に立ち入らないように命じるから、遠慮のないやつだ」
「だろうな。だからこそ、見張りは注目しない」
見張りのリソースを増やすためのトラップ・エリアだ。
ただでさえ人手が限られる状況なのだから、そこが付け込める隙である可能性は高い。
「行くぞ」
「ああ、わかってる」
今後の作戦を決めると、ふたりはそっとホテルの雨どいを伝って地上へと降りた。
◆一筋縄ではいかない───!