気配が変わった。
床で跳ねるボールが規則性を失う。
自分ではなく、相手のリズムを奪う盤外戦術だ。
「そろそろ始める?」
「おう」
普段知らない従兄弟の姿に、文華は思わず息を呑んだ。
───これが、ケーくん……?
慶太がバスケ経験者で、今はもうやっていない。
それは知っている。しかし、実際にやっている姿を見るのはこれが初めてだ。
思わぬ気迫に、彼女は気圧された。そして、彼の目配せを見逃した。
始まりは息を吸う暇もなかった。
強烈な瞬発力で距離が詰まる。
一直線に知樹とハンナが待ち構えるゴール下へ直行する。
彼は純粋な身体能力ならば、同年代のスポーツマンを優に超えている。
さらには体格にも優れる身長175cm、成長中。
そんな巨人相手に巨人の間合いで戦っても、生半可な小細工は
ならば、懐に飛び込み技術で倒すまで。
知樹の前にハンナが立ち塞がる。
「行かせないわ……よっ!?」
彼女の股をくぐってボールが跳ねる。
慶太はそれに追いついた。
しかし、そこに現れるのが真打ちだ。
このルートを予期していたかのように、真正面に立ち塞がった。
通常の試合と違い、ゴールは目前。
シュートは知樹にまず弾かれる。
もたつけば、背後のハンナまで相手をしなくてはならない。
そう、コートにいるのは自分一人ではないのだ。
「姉さん!」
慶太以外全員素人。
試合の定石を知らないのだから、誰もがボールに集まる。
だからこそ、作戦はヒットした。
コートの隅に立つ、完全にノーマークの文華。
彼女のシュートなら成功率が高い。いける。
ただしこれは、彼女がバスケットの経験者であればの話だ。
パスしたボールは彼女の真横を通り過ぎ、フェンスに衝突した。
「あっ、ごめん……」
「あっ、いやっ、その、僕こそ……」
目配せをしたが、気付けなかったのか。
違う、自分が悪いのだ。何も考えなかった、自分に問題があるのだ。
こんなだからダメなんだ。
真剣にやってないだろ。
もう少し周りを見ろよ。
何も言わずに周りがわかってくれると思うなよ。
思考が猛烈な勢いで自身を貶め始めた。
余力が瞬く間に奪われ、身体が硬直する。
「気にすんな、気にすんな! こんな事もあるって。それにこれ、お遊びだしさ」
そんな言葉が知樹の口から出なければ、彼は倒れていたかもしれない。
───これは、お遊び。本気じゃない。
脳内で
そうだ。また自分を追い詰めてどうする。
「そう、だね」
かろうじて笑みを浮かべ、言葉を引きずりだす。
対する知樹も笑みで返す。
「流石、危ないとこだった。もうちょっと先輩と話しといたら、うまくいったかもな」
「……お遊びじゃなかったの?」
「遊びだって、全力で楽しむ事もあるだろ」
結果だけではなく、楽しむためにも全力を出す。
その通りだ。言葉に出されて、ようやく思い出した。
「ありがとう」
「? おう」
やはり、知樹は他人の内心を理解していなかった。
◆ ◆ ◆
───私は、ケーくんの事を何も知らない。
帰路の中、文華は隣を歩く青年に思いを馳せた。
菅原慶太。名北学園に通う従兄弟で、ひとつ年下で、彼の家に居候している。
そして、元バスケ選手。
それ以上の情報はない。
彼がどれほどの選手で、どれほどの活躍を残したのか。
何も知らないのだ。
本来なら、大した話ではない。
居候先の人間に失礼がなければ、最低限でいいのだ。
「ごめんね、姉さん巻き込んじゃって」
「気にしなくても大丈夫だよ。ケーくん一人がついてくわけにもいかないだろうし」
最低限でいいはずだ。
だというのに、心が晴れない。
「それよりも、さっきのケーくん凄かったね」
「え? いや、それほどでも……」
「前の学園でもやってたんだよね、バスケ」
街並みがようやく馴染み始めた景色に入る。
もうすぐ自宅だ。
「まあね。3年の時に辞めちゃったけど」
「どうして? すっごく動けてたじゃない」
「いや、それは……」
その行先を、不意に白い車が遮った。
「えっ?」
道を塞ぐように停車した白いバン。
側面のキャビンドアが開くと、マスクとサングラスで顔を隠した男達が躍り出た。
距離は5mほど、真っ直ぐ向かってきた。
「こいつだっ、捕まえろ!」
その一喝に文華の脳内は混乱し、硬直した。
なぜ自分が? 彼らの目的は?
考えている場合ではないのに、脳が現実逃避のようにリソースを分析に割き始めた。
「来いっ」
「───!」
気づいた時には、男の一人が袖口を掴んでいた。
「姉さん!」
思考の渦から彼女を引っ張り出したのは、一足早く正気を取り戻した慶太だった。
ぎこちない動きで右足を蹴り上げ、男の股間を蹴り上げる。
「あううっ?!」
強烈な衝撃に手が離れる。
「走って!」
文華の手を取り、逆方向へ。
ここは住宅街のど真ん中。逃げれば、状況は良くなるはず。
とにかく一旦撒いて、警察を呼ばなければ。
───マックから教わった、緊急時の心構えがなければ……
知樹は言っていた。
『思いもしない事に巻き込まれた時、人ってのは混乱して固まっちまう。相手が
『マックは出来るの?』
『俺ぐらいになると全部同時に、滞りなく出来る』
実践できたとは言い難い。少し固まってしまった。
しかしそれでも、致命的になる前に動けた。
知らなければ、何も出来ずされるがままだったに違いない。
───けど、これからどうしよう。
心に強い不安を抱えたまま、二人は走った。
◆突然の襲撃?!