前日───
視覚を完全に奪われた、狭い闇の中。
喉に押し当てられる鋭い金属が、彼女からありとあらゆる手段を奪った。
───怖いっ。
ハンナマリ・ヒルヴィサロは恐怖した。
最近の誘拐経験もあったが、あれは相手がまだ素人であり、不慣れなところがあった。
今自身を拘束する彼らの
この男達はハンナを道端のバンに引きずり込むと、叫ぶ間もなく布袋を頭に被せた。
何一つ言葉を発することなく、ただ刃物の存在を誇示する。
あの時の奴らとは、明らかに違った。
もしここがフィンランドの田舎道であれば、今頃自分の首から血が吹き出ていたに違いない。
相手の目的は? もしや、これは前の延長なのか?
呼吸が整えきれない。冷静に考え、脱出しなければ。
好機のために体力を温存し、待つのだ。
気付けば、布越しに感じる世界から茜色が消えていた。
そう考えたちょうど、首の圧力が消え、続いて背中を押されるような減速の気配を感じた。
ギアチェンジ、ハンドブレーキ。ナイフの冷たさが戻ってくると共に、すぐ横でドアが開いた。
「立て」
抵抗は無謀だ。促されるまま立ち上がり、バンから降りる。
車外の空間では音の反響を感じた。
屋内、それもかなり広い。
「連れて来ました」
「顔を見せろ」
頭部を包んでいた袋が取り払われる。
繊維の隙間ではない、ナチュラルな世界。
しかし、落ち着く間もなく彼女には別種の絶望が襲い掛かった。
「うむ、確かに」
「小作、さん……?」
目に入ったのは、顔見知り。
学園の楽器を調律するおじさんが、一体なぜここにいるというのか。
いや、今の会話で一部の謎は既に明かされている。
加賀津谷小作こそが、この誘拐を仕掛けたのだ。
「なっ、なんで……?」
「ふふふ……やはり美しい。これが、俺のものになるんだぁ」
粘度の高い唾液が彼の口で弾けた。
これは、冗談ではない。本気なのだ。
本能で察知したが、それでも言わずにはいられない。
「ふざけた冗談はやめてください!」
「そんな口も、もうすぐ叩けなくなる。ブヘヘヘヘ」
この下卑な笑みに食ってかかろうにも、背後の男が許さない。
ナイフが消えた途端、両手が後ろに回る。
「報酬は?」
「そこ」
拘束したハンナをうつ伏せに転がした男は、加賀津谷が指したバッグの中身を改める。
残った誘拐犯達は、未だバンの中。最寄りは、デブの加賀津谷だけ。
───今なら……!
視線を巡らせる。現場は倉庫か、あるいは工場。
床はコンクリート、壁は
自分達のいる場所以外の照明は限られ、全体的に薄暗い。
しかし幸いにも、緑の非常口のマークが目に入った。
───いくなら、今しかない!
加賀津谷がハンナの背にまたがり、胸部で指を走らせ始めた。
嫌悪感を振り切るように、擦り寄ってきた顎に後頭部を叩きつける。
「ぐあっ!」
幸いにも足は拘束されていない。加賀津谷が怯んで圧力を緩めた隙を抜け出す。
拙い動きで立ち上がると、目的地へ向けて駆け出す。
「追えっ!」
「報酬は?」
「はぁっ?! この……っ!」
耳に相手の仲間割れが届いた。
いい調子ではないか。これならきっと逃げられる。
がんばれ、もう少しだ。自身を鼓舞しつつ、足のもつれを修正する。
手は後ろ手に拘束されているが、足で開ければいい。
捻るノブだったのは想定外だったが、もう計画は修正できない。
転ばないように、かつ急いで足を上げる。
ガチャ。その扉は呆気なく、いやひとりでに開いた。
そんなわけがない。反対側から開けた者がいるのだ。
「あっ……」
小さな二つの影。子供。
呆気に取られたハンナは言葉を失った。
敵か? 味方か? それ以外か?
彼らはその正体を、自ら明かしてみせた。
「加賀津谷の言ってたママ?」
理解に苦しむ言葉だ。
しかしこの名前を出すのなら、敵という立場に違いない。
───相手が子供なら逃げ切れる!
意を決して突進しようとするも、知覚した。
甘い匂い。しかし、ハンナの知るいかなる匂いとも合致しない。
だというのに嗅覚は、これを甘いと告げていた。
知覚した途端、足が力を失った。
本能が逃げるべきではないと手のひらを返した。
むしろもっと味わうべきと乱心した。
「な……に……?」
「いらっしゃい、ママ」
ツインテールを靡かせる
甘い。心地よい。
───なんで私、こんなに落ち着いてるの。
まるでペンキで色を塗り替えるように、思考が違う色に塗りつぶされていく。
そんな自分に困惑し、恐怖し。やがて、一つの思考に沈んでいく。
───気持ちよく、なりたい。
布地にじわり、と水分が溜まった。
◆人を狂わせる淫靡な罠───