ハンナ・ヒルヴィサロの意識は暗闇の中で覚醒した。
身体に付着していた表面の汚れは日中に現れた男達によって拭い取られたが、当然彼女の心に触れることはない。
またいつ、あの二人組が現れるのか。
また現れて、自分の身体を弄び、心を壊すのか。
いや、もう壊れているのか。
「くっ、ううっ……」
そう考えると涙が溢れ出し、震えが止まらなくなった。
内心に渦巻く不安とは裏腹に、下腹部は快楽を求めて
自分の身体が、自分の意思を無視し始めている。
次にあの二人組が来た時。
それが自分の
「はあっ、はあっ、はあっ……」
呼吸が荒れる。
どうにかしたいのに、どうしようもない。
手段は浮かばないが、逃げ出したい。
───いっそ、狂った方が楽なのかも……
思考に諦観の誘惑がまとわりつく。
そうだ、抗えないから仕方がないじゃないか。
あんな得体の知れない存在相手に、自分はよく頑張った。
「……
いやだ、屈したくない。
なんでこんな理不尽な目に遭って、やりたい放題やられなくてはならないのだ。
不屈の怒りが、ハンナの正気を繋ぎ止めていた。
しかし、孤立無援の状況に変化はない。
彼女が屈するのは、まさに時間の問題であった。
不意に、聴覚が気配を察知した。
扉のノブが擦れる音。人が近づく気配。
倉庫から差し込む日光がない、つまり今は夜。
昨夜の出来事と蹂躙者の存在が頭をよぎり、筋肉が硬直した。
「
叶わないと知りつつも、ベッドの上で暴れ狂った。
暴れ続けることができれば、相手の手を止められるのではないか。
苦し紛れの抵抗だった。
「ハンナ、俺だ」
幻聴だ。
一切のヒントもないであろう彼が、この場に来れるはずがない。
これは、都合のいい妄想なのだ。
「ハンナっ」
頰をわし掴みされ、顔を固定される。
向けられた視線の先。
そこにいたのは、闇に浮かぶ頭骨。
「
ハンナはフィンランド神話を思い浮かべた。
暗闇を
果たして、その正体は。
「……マッ、ク?」
骸骨ではなく、それを模したフェイスペイント。
暗い配色から僅かに伺える顔立ちは、幕内知樹を思い起こした。
いや、考えてみればこの声は間違いなく知樹のものだった。
被っているように見えた暗闇は、単なる彼の頭髪だった。
「静かに、まだ安全じゃない。拘束を外すから、静かに」
非日常の中に、日常が闇を被ってやって来た。
言葉にするとなんとシュールなことか。
彼女の心に光が差した。
しかし同時に、光は彼女の触れられたくない部分を晒してしまった。
「……見ないでぇっ」
「我慢してくれ」
「私、私っ……」
口からうまく言葉が出ない。
───その口で、昨晩何をしていたか。
胃の中が沸騰した。
「うっ、おぇっ……」
茶色く汚れたシーツに、黄色い吐瀉物がぶちまけられた。
汚れたシーツ。再び、脳内で記憶と惨状が結びついた。
「汚いっ……出さないとぉっ」
「おい勘弁してくれっ」
腹に力を込め、体内の異物を排泄しようとする。
見られたくない、しかし全てを葬り去りたい。
両立し得ない問題を今すぐにでも解決しようとして、ハンナは錯乱していた。
「ベッド立てるぞ、気をつけろ」
ハンナの身体を支えつつ、知樹はベッドを傾けた。
土台の足に巻き付けられた鎖を解き、反対側も同じく。
拘束を解かれた彼女の体が、彼の腕に預けられた。
ふと部屋の隅に積まれた衣類の山を見つけた。
記憶にある。あれは前に会った時ハンナが身に付けていた服だ。
「ハンナ。まず、なんか羽織ろう」
肩を貸しつつ服のもとへ向かい、デニムのチョッキに腕を通させた。
全て着せたいところだが、そこまでの猶予があるとは思えない。
このまま脱出しなければ。
「ここを出よう。歩けるか?」
「……」
混乱から立ち直れていないハンナは、静かに首を振った。
本来はあまり推奨出来ないが、仕方がない。
彼女と向かい合った状態から抱き上げると、脇の下に首を差し入れ肩で担ぐ。
いわゆる、ファイヤマンズキャリーだ。
「我慢してくれ」
「……うん」
後頭部で彼女の弱々しい脈動を感じた。
心休まる時間はなく、極限状態のまま置かれ続け、衰弱したのだ。
───
知樹の心で燃えている炎に、義憤という油が注がれた。
燃え盛る火の手は思考に延焼し、憎悪という煙を吐き出す。
ドス黒い煙幕は、彼の心に残っていた抵抗を覆い尽くした。
幕内知樹の中に人知れずあった鎖は、他ならぬ本人の手で引きちぎられた。
◆煮えたぎる怒り───