2021年5月29日05:23 永葉県大桑村周辺
「……おっかしいな。なんか磁気に触れちゃったか?」
目的地の国道には数時間前に到着しているはず。
だというのに、一向に森は開ける気配がない。
この違和感の正体は、この方位磁石が解明した。
「ええっと、磁石に頼ったのが1時間前だから……」
少年はポケットから地図を取り出すと、自分の歩速から現在位置のズレを計算した。
誤って東へ進んだその距離、推定7キロ。
日の向きを確かめられる時刻まで待つべきだった。
そうしていれば、こうして無駄な時間を過ごすことはなかったはず。
「ま、考えてもしゃーないか」
思考を切り替える。
飲料水が欠乏し、現在位置を見失った現状では遭難して死ぬ可能性が高い。
物資的に戻るのも厳しい。なら最寄りの集落へ向かうべきだ。
「えーっと、近くの集落は……」
推定される現在地から東に少し。
大桑山のそばに大桑村という、これまたわかりやすい名前の村があった。
「大桑村、か。ここへ行ってみるか」
どうせこのまま真っ直ぐいけばいいのだ。
肩に食い込む40キロのリュックを背負い直すと、少年は先ほどと変わらぬ速度で歩き始めた。
◆ ◆ ◆
深い森は、相も変わらず視界が開けない。
しかし森を包む音は変わった。
耳鳴りと鳥の鳴き声に、わずかな車のエンジン音が混じった。
車、つまり車道が近づいている証拠だ。
大桑村の中心には県道が通っている。目論見通りの方向へ進めているのだ。
「よっし。このまま行けば……」
ひとまずは死なずに済む。
坂を登りつつ、内心で安堵する。
目的を達せないのは残念だが、多少の疲労だけで問題点を収穫出来るのなら上々だ。
ガサリ。
不意に、少年の耳が気配を察知した。
その音は自然が発するそれではなく、かといって人工的なそれでもない。
何かが、藪を進む。または踏み締めた音。
それなりの重量がある生物でなければ生じない。
脳裏に熊の一文字が過ぎる。
羅宮凪島に生息する熊は、ラグナクロクマと呼ばれる種だ。
性質は本州のツキノワグマに近く、攻撃性も低い。
もちろんこれは、気が立っていない時に限る。
空腹であれば人を襲うし、腹が減らずともじゃれつかれて体の一部を食い千切られた話もある。
集落に近づき過ぎれば、当然駆除される。
人間という種からすれば、遊び半分で殺されかねない危険な動物なのだ。
腰のホルスターから熊除けスプレーを引き抜く。
もしこちらを殺す気満々であれば、恐らく止めきれない。
それでも、面白半分に近付いてきた熊を撃退出来る能力はある。
緊張を研ぎ澄ませながら、歩みを進める。
何度か歩くと、ガサリ。ガサリ。
不規則に気配は動く。
位置関係は森の木々が音を反射させるせいで、あまりハッキリしない。
ただ、坂の向こうにいる。そんな感じがした。
危険があるなら、迂回するべきだ。
しかし下手に方向を変えると、村から離れてしまいかねない。
今は現在地を見失っているのだ。
───頼むから、真正面にいてくれるなよ。
スプレーの安全装置を確かめつつ、坂の稜線を越える。
茶色の大地に、緑の葉をもつ山菜。
そのど真ん中に、異質な色彩を持つ生物が屈んでいた。
手には鋭い刃があり、頭部を白い布で覆っていた。
つまり、人である。
「あっ、人……」
少年の呟きに、彼女はフキを取る手を止めて見上げた。
「あら。あんた、こんなとこでどうしたの?」
山菜採りの老婆は、異様な装いの少年に驚きを隠さなかった。
◆この少年の正体は───?