2021年5月29日21:06 永葉県大桑村大桑研修センター
少年はアスファルトに背を預け、瞼を閉ざしていた。
彼曰くしばらく休むとは言っていたので、眠っているのだろう。
───でも、本当に寝てるの?
瑩は疑問に感じた。
胸の上下はかろうじてうかがえるが、寝息ひとつ耳に届かない。
寝返りどころか身じろぎさえない。
その姿は睡眠というより、死んだふりだった。
大人達が話し合う間、彼は自主的に見張りに志願していた。
さすがにひとりでやらせるのは気が引けるため、瑩と春香も同行することにした。
「そりゃ、丸一日ほとんど休んでなかったら寝たくもなるよね」
聞くところによれば、彼は登山中に遭難して一日中山を歩いていたらしい。
その末が、この事件である。
現実には少々欠けた部分のある認識だったが、概ねその通りである。
28日の放浪に加えてこの29日の激闘。
尊敬と畏怖の感情を抱くのも無理のない話である。
そう、視線を少し道の方にやれば見えるこの光景の中では。
路上には相変わらず暴徒達の姿がある。
松明で周囲を照らし、かつての隣人達の首を掲げる、狂わされた人々。
いずれ、自分達を殺しに来る人々。
見たくない現実だが、生き残るために見張らなければならない。
化け物相手に力を持つ自分はともかく、完全に無力な春香はよくもまあ一緒にいてくれるものだ。
瑩は口に出さずとも自然と感心していた。
不意に、知樹の瞼が開いた。
彼の視線を追うと、校舎から出て来る徹の姿が目に入った。
「知樹、方針が決まった」
「なんだ?」
「裏手の崖から降りて脱出する。支援のため、相手を揺さぶる」
「陽動か」
見張りに立つ3人に歩み寄った徹は、瑩と春香に続けた。
「ふたりとも。悪いが、校舎の裏にあるロープを持って西の崖に集まってくれ。先生もすぐ来るはずだ」
「私も手伝います」
「わっ、わたしも!」
瑩と春香も志願しようとしたが、心意気は嬉しいがよろしくなかった。
「いや。脱出のために必要不可欠なんだ。こっちは俺達でやる」
その真剣な眼差しと声色に、知樹はこれからやる
穢れを知らぬ乙女達は、言葉の通り受け止めた。
「お気を付けて」
「気にするな。別に危険な真似をするわけじゃない」
一礼したふたりの背が消えるまで視線で追うと、徹と知樹は動き始めた。
「お前は村人の死体を6人ほど集めろ」
「……いいのか?」
「善悪で語れるほど、状況は甘くない」
そう言われると、異論は出なかった。
知樹がデミノと運命を共に
獄介の自家用車である。
元はドイツ製のセダンだったが、今やルーフが引き千切られてオープンカーと化している。
エンジンは停止していたが、キーは差しっぱなし。
動作させる分には何の問題もなかった。
「よし、動くな」
「まずひとり目だ」
ちょうど現れた知樹が息絶えた老婆を放り込んだ。
見覚えがある。この辺りに住む市村さんだ。
もうひとり、引きずった男を放り込む。
これは52になる市村さんの息子さんだ。
思考から消そうにも、やはり少し前の記憶が流れ込んでくる。
精神的に当然、よろしくない。
なるべく視界に入れないように運転に集中する。
「これでいいなっ」
知樹はズボンの裾を掴むことで、同時4人運搬に成功していた。
その頃には車は正門前まで到達し、門を開けて前に出すばかりとなっていた。
「よし、載せろ」
「なあじいさん。本当にいいのか?」
「どうせ生きて帰っても、近いうち逝くんだ。文句は現地で聞く」
「あん?」
理解し難い言葉を耳にして、知樹が素っ頓狂な声を上げた。
特に話す気などなかったが、口から出てしまったものは仕方がない。
表情ひとつ変えずに、徹は答えた。
「猟友会の連中に言われて、健康診断に行ったんだ。その時、主に臓器がヤバいと言われてな」
「……どんぐらい?」
「5年で死に、3年以内に動けなくなるとさ」
心当たりはある。
若い頃、主に空挺団での人生を摩耗する激しい訓練だ。
極限状態を作り上げて行う訓練に、腎臓や肝臓が疲弊していたのだ。
「いい歳で辞めた
「それは……」
出会って間もない頃の知樹なら、迷いなく嘲ってみせただろう。
しかし、数々の死闘を共に潜り抜けた今なら。
心にある複数の感情が渋滞し、押しのけ合い。
明確な答えがもみ消されていった。
「……えっと」
「知樹。よく聞け」
サイドブレーキを引くと、改めて知樹に向き直った。
「死ぬな。お前の先はまだ長い」
「この状況じゃ、難しい相談だな」
「……お前は、お前の人生を生きるんだ」
「どういう意味だよ?」
自分の人生。
そう考えると、知樹の頭の中で霧が広がった。
先の見えない霧に思考が阻まれ、言葉に出来ない恐怖心を覚えた。
それを表情や口に出したりはしない。
「生きて帰れれば、わかるかもな。門を開けろ」
釈然としないまま、知樹は正門に手を掛ける。
徹は火炎瓶に火を付けると、助手席の足元に立てた。
瓶が割れるか、導火線が燃え尽きれば激しく炎上する。
なんにせよ、注目を集めるだろう。
「開けたぞ!」
「次へ進め!」
駆け足で校舎裏へ向かう知樹を横目に、一速でゆっくりと車を進ませる。
腰を下ろしていた暴徒が動きを認め、立ち上がるのが見えた。
ライトを点けてアクセルを踏み込み、坂に差し掛かると車から飛び出した。
急勾配の坂はしばらく真っ直ぐ、やがて急カーブに差し掛かる。
その間にいる暴徒を跳ね飛ばし、崖から落下するだろう。
「来たっ殺せぇっ!」
「通らせるなぁっ!」
一部始終を確認する暇はない。
「すまん、みんな……」
虚空に向けて謝罪すると、徹は駆け出した。
◆しかし、やらねばやられる───