静かな空間。穏やかな時間が流れている。
真っ白な机の上には様々な書類が重ねられている。その前で事務処理を行う少女は、今日も頭を悩ませていた。
「はぁ……。私が寝ている間でも問題は起こるものね」
愛用の電卓を片手に溜め息を吐く彼女は、眉間を力ませながら書類を一枚一枚確認しては、また苦しそうに小さく声を出す。
内容は校内で暴走した自立機械によって、爆破されてしまった部分の修理代費用。その額に一瞬目が眩んでしまう。
しかし、この現実からは目を背けてはいけない。後回しにしてしまえば、結局そのしわ寄せが押し寄せてくるだけだ。
「……」
ちらりと正面を見る。
この空間には、彼女以外にももう一人在席している。自身と同じように、山積みになっている書類に目を通している。その目つきはいつもの陽だまりのようなふんわりとした柔らかさとは違い、仕事に集中している時にだけ見せる一面。
まさにこの仕事振りは「大人」といえる存在なのだろう、と少女は感心する。
「そんなに、先生を見つめてどうしたんですか?」
ビクリッ!!
声には出さなかったが、肩をぶるりも震わせ、背筋がピンと伸びる。
全く気配を感じなかった。
「驚かせちゃいました?」
顔はまだ見ていない。
だがきっと、いや、必ず自身の背後に立っている者はにやにやと笑っているに違いない。
少女はゆっくりと後ろに振り返る。ツーサイドアップの青髪がゆらりと揺れた。
「ノ~ア~っ」
少しだけ
しかし、それは全く効いていないようで、視線の先の表情は
「ふふ、ごめんなさい。でも、ユウカちゃん、私が近づいてるのに気づかないなんて……余程集中していたんですね?」
くすくすと
すらりとした
彼女の名は
同級生であり、同じ部活に所属する仲間ではあるのだが……。
「そう? いつも変わらないわよ。たとえ明日に大切な行事が控えてたとしても、ね」
「いえ、そうではなくて……ほら、先生を見るときのユウカちゃんの集中力の深さが……」
「そ、そんなことないってば! 全く、ノアはそうやってすぐ変なことを言うんだから……!」
いつもこうやってからかわれてしまう。
すると、少し騒がしくなってしまったのか、ノアは自身の口元に軽く人差し指を添える。
「先生に気づかれちゃいますよ」
ぼそりと耳元で
ユウカは咄嗟に口を押さえた。そして、横目で先生を見やる。
どうやらまだ集中モードが切れていないらしく、ペラペラと紙を捲る音は止んでいない。
その様子を見てユウカはほっと胸を撫で下ろした。
「ところでユウカちゃん。明日はユウカちゃんのいう通り、大切な行事があります。もう夜も遅いですし、この業務は一度切り上げませんか?」
ノアはユウカの両肩に手を添える。軽くマッサージを施してくれるようだ。彼女の細長い指が疲れきった筋肉をほぐしてくれる。
中々に、気持ちがよい。思わずくぅ、と声がでてしまう。どうやらただの睡眠だけでは、目は冴えても体の疲れは取れないようだ。
「う~ん、でも、これを残して
ユウカは明日に控える大きなイベントについて触れる。
二年に一度だけ行われる、
キヴォトスを運営する
今年はなんと、その運営権がミレニアムに巡ってきたのだ。
「これを終わらせれば、明日は運動会にだけ頭を使うことができる。運営を任されただけじゃ私は物足りない。目指すはやっぱり優勝よ」
ユウカは目に炎を灯す。明日のプログラム内容と競技の人選と人数構成は既に頭に叩き込んである。目の前に積み重なっている後始末をしてしまえば、もう懸念するべき点はどこにもなくなる。そうなればきっと、
シミュレーションはできている。後は本番にイレギュラーが起こらないことを祈るだけ。
……なんて、そう簡単にはいかないのが世界の条理だ。それを今現在痛感している。
「……はぁ」
このままでは頭痛がしてきそうだ。顔色も溜め息を吐くほどに悪くなっていくような気がする。
体の調子自体は改善しているものの、目覚めと共に降りかかってきた書類を処理するのは精神的に疲弊してしまう。ついこの間減らしたと思った請求書が、再び山積みに戻っていた。
故に、明日がどれだけ大切なイベントがあるとは言えども、これを野放しにすることもできない、という手も足も出ない状況に陥っている。
これでは明日、全力を尽くすことができない。
非常にむず痒い。もう明日に開催するというのに。
「ごめんなさい……。私がユウカちゃんを無理矢理に寝かせてしまったせいで……」
ふるふると肩に置かれた手が震えているのを感じた。
「ううん、ノアのせいじゃないわ。それに、ノアのおかげで被害を最小限に抑えることができたんだから」
「ユウカちゃん……」
ユウカは小さく首を振ってフォローをする。
実は彼女に渡された特製の
あのままだったら
それに…………。
「そもそもエンジニア部の子達が応援には無駄なパーツをつけてしまったからこうなってるだけなんだけど……」
ユウカは苦笑いを浮かべる。
「とにかく、弱音は吐いていられない。明日のために頑張らないと!」
ふんと鼻を鳴らし、心の中で自分を
このまま順調に計算していけば請求申請も明日の日付が変わるまでには終わるはず。その後、晄輪大祭の運営の最終確認と優勝のための人員配置の見直しを済ませればなんとか間に合うはずだ。
休養が取れた分、がんばらなくては。
意気込むユウカを見て、ノアは心配そうに見下ろす。
「でも……明日は炎天下の中で動き回ることになります。早く寝た方がいいと思いますが……」
「あはは、大丈夫、大丈夫。先生も手伝ってくれるし、こんなこと
むしろ日常の方が激務に悩まされている、と困ったように笑う。
「……そうですか。それならユウカちゃんが仕事に集中できるように、簡単なお茶菓子と紅茶を淹れてきますね」
「ノアも付き合わせてごめんね。ありがとう」
ノアは少し間を空けて、肩から手を離した。
身を翻し、白銀の髪を揺らして部屋角にある備つきの小さなキッチンへ向かっていく。ユウカはそれを見届けると、視線を書類に戻して作業を再開する。
数枚の書類を捲ったところで、ノアが帰ってきた。
ユウカの空けたスペースにシンプルなクッキーとその横にティーカップが置かれる。
優しい甘い匂いが
「どうぞ、ユウカちゃん。もちろんこの紅茶は、あのハーブティーではないので、安心して飲んでください」
「そこまで疲れてないから寝ることはないってば。でもありがとう。あ、先生にも渡してあげないと」
「……もしかして、ユウカちゃんが先生のところに持っていきたいんですか?」
「あ、また私をからかおうとしてるでしょ。その手には乗らないんだから」
「ふふ、そんなつもりはないですよ。はい、先生にも……あら、先生?」
「うん? どうしたの……って……先生、寝てるの?」
ユウカは異変に気づき、顔を上げる。
先程まで小気味良く書類を捲っていた音が止んでいる。
どうやらその手は空中に止まり、姿勢こそいいものの、頭は軽く上下に揺れている。どうやら一人夢の中、ということらしい。
ユウカは立ち上がり、寝こけている先生の隣へ移動する。
「先生?」
ピクリと腕が動く。
しかし、どうやら深い眠りについているらしく、穏やかなゆったりとした寝息が聞こえてきた。
「……よほど疲れてたようですね」
ひょこりとユウカの横から顔を出したノアは、いつの間にか持ってきていた薄い毛布を肩にかける。
ユウカは机の上にまだ残っている仕事をどかし、呆れたような、しかし、どこか優しげな表情を見せる。
「こんなところで気持ち良さそうに寝ちゃって……」
「セミナーの中で良かったですね。ここなら室温も一定で、セキュリティも万全ですから」
ノアが胸の前で手を合わせそう言うと、ユウカはそれもそうね、と頷いた。