自室に戻ると同日のカイエはまだ戻っていなくて、向かいのシデンもまだの様で。
……シデンと同室のシャナは二度と帰ってこない。
扉の前でゴロゴロしていた黒猫のティピーがクレナに気付いて身を起こす。とてとてと歩み寄り、ブーツに頭を擦り付けて鳴く。
小さく笑みが溢れる。
「……ただいま」
頭を撫でて抱き上げる。八六区でダイヤが拾い。その時は仔猫だったが、なぜかシンに一番懐き、リノには一番懐かなかった猫。戦闘が終わって一息吐く夜にはシンの傍を定位置に、クレナもシンと猫の傍にいて、戦隊長のやや広い個室にいつのまにかみんなの溜まり場になった……
「今はもうあんなこと……ほとんど無くなっちゃったね」
言うとも無しにティピーに言う。見上げてくる黒猫の、人のそれとはまるで違う透明な瞳。
機動打撃群の基地の執務室や居室が溜まり場になることもなく、代わりに食堂や併設のカフェ、談話室や娯楽室がプロセッサーの溜まり場だ。どれもあの部屋よりも何倍も大きい。
なんとなくの定位置があるが、あの時のように仔猫のように甘えるのは人目について気恥ずかしい。大抵シンはクレナ達と一緒に、スピアヘッド戦隊の指定席の娯楽室奥のソファに居るけれど、基地の自習室によく通うようになった。
いつのまにライデンやアンジュ、ダイヤやカイエも。同じスピアヘッド戦隊のプロセッサーも何人も。
「……わかっているんだよ。単に私も、一緒に行けば良いんだって」
寂しいと思うなら自分も一緒に行けば良いと、誇りさえ失われるのなら尚更、戦場の外を指し示すあの部屋に今からでも行くべきなのだと。別にシンだって皆んなだって、具体的に何か、戦場の外でやりたい事ができたわけではない。まだ漠然と、何かを目指すための準備を始めただけだ。本当に自分の振り方を決めるのは、もっと後でも良いはずだ。それもわかっている。
それでも怖い。
自習室に行こうにも、どうしても足がすくんでしまう。戦場の外の未来を意識するのが恐ろしくて、考えたくない。
あるいはそれは、エイティシックスに共通する感情だったかも知れない。
踏み出した先に、地面なんてないかも知れない。
未来なんていつも保証がない。自分達は今日死ぬかも知れない者だ。明日には生きていないかも知れない者だ。まともな支援もない絶死の戦場に長く暮らして、諦観にも似たその認識はどうしても去っていかない。
望めば幸福な明日が来るなんてーー信じられない。
みぃ、と黒猫が鳴いて、クレナは抱きしめたその毛並みに顔を埋める。
その様子を窓の外から眺める、やや悲しげな一人の少女の影が居た。
任務を終えて船団国群から撤収する、その日になっても機動打撃群のプロセッサー達の気分は晴れない。
船団国群に派遣された当初の作戦目標は、きちんと完遂している。電磁砲艦型こそ取り逃したが、あれは想定外の事態だ。だから追い払っただけで十分なはずだが……。
海では呑気に海鳥が鳴き交わし、〈ステラマリス〉は港に停泊し、その様は幽霊船のようだった。
遠目では大した損害もなさそうだが、艦の走行部分に致命的な損傷を負って、国自体が疲弊しており修復は不可能だと言う。艦首側にはクレーンが近寄り、何やら切断をしているのだろうか時折火花が散っていた。
最後の作戦を終え、〈レギオン〉に隠す必要がなくなった。だからこうして曝け出したまま。
征海艦の元乗組員も、街の人々もどこか火が消えたようだ。
出撃前の、祭りの喧騒が嘘のように火が消えた様だ。
「ーーこれから、国名とかどうするんだろうな。だってもう、船団国はなくなったわけじゃん」
「やめなさいよ。……悪いでしょ」
「けどさ、だってもし、」
自分達がもし、そうなったとしたら?
それをつい、少年兵達は考えてしまう。他人事だとしても、割り切れはしない。
かつて一度、奪われた。八六区ができた時に、強制収容という形で彼ら自身が。
それならもう一度起きない保証はない。
かろうじて手に入れた大切なもの、新たに手に入れられるかも知れない大切なものも。ーー奪い取る側にはそんなもの、知った事じゃないから。だからまた奪われない保証なんて。
何処にもありはしないのだから。
船団国群の避難民を乗せるために派遣されたのだろう大量のトラックや列車。合州国の貨客船を見ながら彼らはその時を待っていた。
船団国群の国民は大陸南方の合州国が途中で建造を中断したコロニーに亡命する。彼らは国の終わりをその目で眺めていた。
「おいセオ、悪いんだがちっと手伝って……」
移送のためのチェックリストに音を上げたライデンが傍に目を向けるが、そこにはアンジュがいた。
舌打ちを堪えてライデンは天を仰ぐ。そうだった。今、あいつはいない。
視線の先、アンジュが微笑む。無理をしていると、思う。
「手伝うわね。ライデン」
「悪い」
「いいえ」
リストの半分を持っていき、一枚目を流し見る。その天色の双眸には微かな笑みもない。
「……堪えてんな。思ってたよりずっと」
恐らくは今まで共に来た仲間たちも。
仲間の死は八六区ではいつもの事で、連邦に来てもそれは変わらなくて。
死んではいないが戦えなくなる。……そう言う喪失はこれが初めてで、その痛みをやるせなさには、きっと慣れることはできない。
視界の端、アンジュが唇を噛むのを見た。
ダイヤとの関係も進み、最近では見慣れた。淡くベニを差したペールピンクの唇。
「そうね、私たちの誰かが居なくなるなんて、いつのまにか思わなくなっていたのに、ね」
作戦前は見に行かなかった海。けれど終わってからは事あるごとにクレナは海辺に行っていた。
帰還を控えて、仲間たちは一人もいない。作戦の翌日には有志と征海艦の乗員と街の人たちがそれぞれに、花を捧げて訪れていた海辺。
戦死者とセオの腕を飲み込んだままの海の辺り。
「ーークレナ」
振り返るとシンがいた。
「ギリギリで面会の許可が出たから、これからセオの見舞いに行くけど。……大丈夫か?お前も」
「うっうん!私はもう、大丈夫!」
取り繕っているとシンも察し、何か言われるよりもクレナは先に言葉を続ける。
「あの、ごめんって、言っておいてくれる?……私はあの時、全然ダメだったから」
あの時の戦闘で、自分の役割を果たせなかった。仲間の助けとなるのが、自分も役割で存在理由だったはずなのに。
「私があの時ちゃんとしてたら、セオやリノは……」
「クレナ」
静かに遮られる。見返すシンは何処か、痛みを堪える様な顔をしていた。
「お前のせいじゃない。誰のせいでも」
「……うん。でも、私がちゃんとしてなかったのも事実だから」
自分がちゃんとしていたら、変わっていたはずだ。
「次は、ちゃんとするから。ちゃんと戦う。もう失敗とか、しないから」
「ーークレナ」
「みすてないで」
最後に長生きしろと、自分達に言った人に本当は会いたかった。だが、面会は最後の日になっても許される事は無く。結局顔を合わせることさえできなかった。彼が射線に入って電磁砲艦型の主砲を発射直前に破壊したから砲弾がずれて摩天貝楼拠点の崩壊が遅くなり、大勢のプロセッサーの命が助かった。
最後くらい、声が聞こえなくとも感謝の言葉くらいはしたいと思っていた。〈ジャガーノート〉では変わらなかった結果を少しでもマシな方に持って行ったその行動に……
教えられた病室の前に付くと、扉に寄りかかる人物がいた。
潮風の褪せた金髪に、船団国群の藍碧の軍服。イシュマエル。
「よう」
片手を上げ、目礼で返す。背後の扉をイシュマエルは目線で示す。
「坊主含め、機動打撃群の負傷者はある程度治って移送できるまで船団国群が責任を持って預かる。……手足じゃけえねど経験者だ。話くらいは聞けるから」
「ええ。……頼みます」
真摯に頭を下げ、藍碧のその背が廊下の向こうに消えてから、シンは病室の扉を開けた。
中にはセオがおり、ベットに腰をかけて外を見ていた。
「シン。……もう出歩いて大丈夫なの?」
「傷の具合を聞くのは俺のほうだと思うが……少なくとも動ける程度には」
「そう、良かった」
自分はまだ退院もできない重症のくせにと、セオは肩の力を抜く。
「こっちも取り敢えず、感染症とかそう言う心配はないってさ。わりあいすっぱり切れたらしくて、順調に塞がっているからそれほど痛くもないよ。ただなんと言うか……変な感じ。立ってみるとバランスが取れないんだよね。こんな……」
包帯が巻かれた左腕を目で示して、力が抜ける様に苦笑する。
「先っぽが少しなくなっただけなのにさ」
「……」
「腕って重いんだって。普段はくっ付いているから、あんまり分かんないけど、何十キロとある人体の一部だから、ちゃんと重いんだって」
その目は失った左手を眺めていた。
「八六区の時、腕が吹き飛んだ奴がいて。僕はそれを拾ったことがあったのに……忘れていた」
その実、いつ失われるとも知れないものだったと言う儚さ。
手とは。ーー戦い抜く誇りとは。
「そいつはさ。そのまま死んだ。治療なんかしてもらえなくて。それで血が止まらなくて。そのまま死んだ」
戦えない家畜に無駄に餌をやるのも、共和国は厭ったから。
「僕はもう、戦えない」
八六区では確実に見捨てられた傷。
八六区の外ではそれが当然の様に治療された傷を。
「でも、死ななくていい。こうやって助けてもらえて、自分で始末を付けろなんて言われたりもしない。……ここは本当に八六区じゃないんだなってーーー僕は本当に、あの戦場の外に出られたんだなって。今更だけど、実感できた気がする」
必ず死ねと言われた、未来などないと定められた彼らの死に場所から。その死を受け入れてしまった彼らエイティシックスの運命から。
「あとは僕が、囚われるのを止めるだけ」
それが自分の運命だと、抱え込んでしまった傷をーー手放すだけ。
「……大丈夫だよ。生きてるから。僕は生き残ったんだから、ちゃんと幸せになるから。そうじゃないと、色んな人に顔向けできない」
「それはーー」
「わかってる。でも今は、それくらいしか縋れるものがないから」
最期まで戦い抜く誇りを失った今では……。
「縛られたら本当に呪いだけど、君みたいに
「ーーセオ」
耐えかねてシンは口を開く。
「無理しなくていい。……平気なふりをするな」
言われてセオは、泣き笑いに双眸を歪ませる。そう言うつもりで来てくれたのは、わかっている。
「うん。でも、カッコつけさせてよ。これまでも頼りきりだったのに、これ以上、」
頼らせないで。甘えていいなんて、言わないで。
「……いまになってハルトたちの言って居たことが理解できるよ。ごめん、これまでずっと、重かったよね。我らが死神、なんて」
それはシンと戦ってきた全員にとって得難い救いだったが、その思いを一身に背負っていたシンは、……どんな重荷だっただろう。
「ごめん。これまでーー本当に」
反射的に否定しようとして、思い直してシンは口を噤む。
「そうだな。……重かった。本当は最初からずっと」
頼りにされたことは。
「重いから、簡単に死んで投げ出す様な真似はできないと思える様になった。それだけ大勢に頼られていたから、折れずにいられた。……支えてもらったのは俺も同じだ。それだけでもしてやれることがあると思えたから、楽になれた」
救いになることでシン自身も救われていたのだろう。その関係が軽いはずもなく、とても重くてーー大切だった。
「………。そっか……そっか。あれでも役には立てたんだ。じゃあ……」
何度も頷き、まだ頼りない緑の瞳の顔をあげて。途方に暮れつつも、少しだけ、せいせいと明るかった。
「……僕がいなくても平気?」
「平気ではないが、そうだな。大丈夫だ」
「僕も、今は大丈夫。…ちょっとだけホッとしたよ。僕らの誇りを、呪いにしなくてすむから」
隊長の祈りを、呪いの様の思って戦死する最期を迎えずに済んで。
「取り敢えず、頑張ってみるよ。……ダメになった時に今度は、頼らせてって言えるように。その時までには僕も君に、頼ってって言える様になりたいし……」
オペレーション・ハイスクールをやるか否か
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やってほしい
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やらなくていい