トレーナーとウマ娘を巡る、いろんな愛が重たい物語、開幕です。
ドアに鍵をかけ、鏡の前に立つ。
栗東寮の自室にある、大きな姿見だ。ルームメイトのメイショウドトウと共用している。正しい使い方をしているのは、あいつだけだ。オレは鏡の前で洒落た服など合わせない。
オレが映っている。
目元にどす黒いクマをひっさげた、不健康そうなウマ娘。
中央トレセンのお上品な制服が、ミスマッチすぎて滑稽だ。規則通りのリボンとソックス、膝上の適正な丈のスカート。着崩すつもりはない。無意味だからだ。
蹄鉄のあしらわれたリボンを剥ぎ取り、ベッドの上に放る。ブレザーも、肌着も、不本意ながら装着しているブラも、次々と投げ捨てていく。ソックスを脱いでから、スカートを落とす。
夕食の時間までドトウは帰ってこない。オペラだか舞台だかの練習に連れ回されている。困惑しながらも参加しているのだから、おそらく精神の根っこにはお姫様願望があるのだろう。
苦難を耐え忍び、スポットライトを浴びる瞬間を待つ健気な女。
オレには縁のない行動原理だ。
可愛げなんか欠片もない黒のボクサーショーツを引き下ろす。右足でひっかけて、ベッドの上に飛ばす。ばさりと髪をかきあげて、細長いガラスの正面に立つ。
そこにいるのは、容赦なく剥き出しの自分。
オレは自分の裸を眺め回して悦に入るようなナルシストじゃない。こんなモン、本当は見たかない。でも鏡は嘘をつかないんだ。オレの信奉する数字と同じく。
苛立ちを押し殺し、鏡の中のオレを睨みつける。
痩せた輪郭。菊花賞から二カ月、さらに体格が薄くなった。もう写真を撮る気も起らなかった。画像を比較するまでもない。ここ最近の体重減の原因は、筋繊維の密度低下だ。
トレーニングは完璧に行っている。栄養管理だって万全だ。それなのにオレの肉体は衰え始めている。
答えはハッキリしている。
競走ウマ娘としての、身体機能のピークが過ぎたんだ。
多くのウマ娘が10代後半で肉体がレースに適応する。いわゆる本格化をむかえ、トレーナーに見初められてデビューしていく。その後の成績は個人の才能と努力次第だ。爆発的に伸びる奴もいれば、クラシック期からシニア期にかけて緩やかに上昇する奴もいる。
だが、永遠に成長し続ける奴はいない。一定量の努力から得られる成果は逓減していき、いずれ必ず頭打ちを迎える。
競走ウマ娘としての平均寿命は、わずか6年。屈腱炎、繋靭帯縁、骨折、その他の病魔が常に襲い来る。トゥインクルシリーズを勝ち抜いてなお肉体を維持し、第一線で戦えるのは、トレセントップ層のなかでも、ほんの一握り。怪物だけだ。
分かっているさ。オレが、うちのチームの皇帝サマみたいな怪物じゃないことくらい。けどよ、これはあまりに早すぎるぜ。まだシニアに挑戦してもいねえ。まだまだ獲るべき冠は、山ほど残ってるんだよ。
勝つこと。それが、オレにできる唯一の価値証明。そして、トレーナーに対する貢献だ。
二千人近い生徒の中から、よりによってオレを見出したモノ好きな男。そいつにしてやれる恩返しは、これくらいしかないんだ。
勝つことしか。
エアシャカールを担当したがるトレーナーはいない。
選抜レースに出る前から、陰口を叩かれているのは知っていた。
計算の本質とは、反復だ。実戦を繰り返してデータを集め、少しずつ解に近づいていく。地道な努力こそが、計算だ。雨垂れが石を穿つように。
だが、オレの意図を理解できない周囲の連中にとって、オレは暴走バ鹿でしかないらしい。結果だけ見れば、浮き沈みの激しいレースだったからな。計算が狂えば、最下位近くに沈むこともある。負けたら、そりゃ気分は荒れる。おかげで、入学して間もなく、気性難の危険人物扱いされてしまった。
だから今回の選抜レースをぶっちぎりで勝った後も、オレに近づくトレーナーはいなかった。
予想していたことだが、やっぱり気に食わねえ。オレに負けた奴らがトレーナーに声かけられて、目をキラキラさせてやがると、思わず埒を蹴り飛ばしたくなる。
なんか妙に虚しくなって、さっさと寮に戻ろうと思った矢先、ふと視界の端から視線を感じた。
振り向くと、外埒の向こう側に、ぽつんとひとりの男が立っている。
身長は、ざっと見て175センチ前後。ダークスーツと紳士帽に、痩せた頬。もし雨の夜に出会ったら、マフィアか死神に間違えられそうな、不気味な男だ。
だが、オレはそいつの顔に見覚えがあった。
有馬記念や天皇賞春といったビッグタイトルのレース中継で、よく見かけた男。史上初の快挙である七冠を成し遂げたシンボリルドルフの隣で、いつも亡霊のように佇んでいた。二十代にも見えるし、四十代にも見える、曖昧な存在感。
あの皇帝サマの、専属トレーナーだった。
噂なら色々と聞いている。レースの本場である欧州から招聘された凄腕だとか、生徒会長のほうから契約を持ち掛けたとか。真偽は定かじゃないが、七冠という結果を見れば、腕の良さは疑いようもない。
そんな奴が、オレを見ている?
はっ。まさかな。妄想がすぎるぜ。しかし、そのまま立ち去るには、あまりに粘っこい視線だ。舌打ちをこぼし、そいつの元に駆け寄る。
「おう、なんださっきから。オレの走りに文句でもあんのか?」
とりあえず威嚇しておく。初対面の相手の本性を、手軽に暴ける手法だ。
だが、男は眉ひとつ動かさなかった。まるで檻の中の犬でも見ているかのような、冷徹な瞳だった。
「選抜レースは、これで何回目ですか?」
低く抑揚のない声で、皇帝のトレーナーが尋ねてくる。感情のこもらない、冷たい瞳。
奴の瞳は、青かった。
明らかに日本人の目ではない。空よりも深い、底知れぬ海の色だ。
その瞳で凝視されると、なぜか分からないが不安な気持ちになる。丸裸にされて、奴の前に立たされているみたいで。
「4回目だ。それがなんだってんだよ?」
不安を掻き消すため、無理やり苛立ちを湧き上がらせ、つっかかる。だが男は、オレの様子など眼中に無いかのように、満足気に頷いた。
そして、信じられない言葉を吐いた。
「きみをスカウトしたい。よければ、トレーナー室まで一緒に来てくれ」
さすがに面食らっちまった。こっちの反応なんてお構いなしに、すたすた歩き去る男。こいつ、確かにスカウトと言ったよな。
皇帝の次に育てるウマ娘が、オレってことなのかよ。わけわかんねえ。
内心の動揺をよそに、オレはその背中を追いかけるしかなかった。認めたくはないが、初めてスカウトというものを受けて、舞い上がっているのは間違いない。
あれよあれよとトレーナー室まで誘導された。
その空間は、データ主義者のオレから見ても魔境だった。鼻孔をくすぐる紙とインクの匂い。うず高く積まれた膨大な多国籍語の書籍。壁面が見えないほど貼られた資料。複数のディスプレイを備えた高性能PC。
だが、なによりオレの目を引いたのは、部屋の片隅の応接ソファで脚を組んで座っている、ひとりのウマ娘だった。
シンボリルドルフ。学園の生徒会長にして七冠の皇帝。
だが、いつもと様子が違う。生徒たちの前で見せる王者然としたアルカイックスマイルはどこへやら、もの凄く不審そうな顔でこちらを見つめている。
「トレーナー君。いろいろと言いたいことはあるが、まずはきみ自身の口から説明してくれないかな?」
落ち着いた声音。だが、その奥底には、かすかな怒りが潜んでいる。あの公正無私の会長サマが、他人の前で感情的になるなんざ初めて見た。
「今日から専属契約を結ぶことになった、エアシャカールだ。よろしく頼むよ」
さらっと男は言った。ルドルフの耳が、ぴくりとわずかに後ろを向く。この時点で、オレは帰りたくなってきた。もしかしたら、だいぶ頭のヤバいトレーナーに捕獲されたのかもしれない。
「私は何も聞いていないぞ。なぜきみが新たな担当を取らなければならない? 今は私の海外遠征に向けの準備に集中するべき時ではないか?」
不機嫌さを隠そうともせず、ルドルフは言った。おう、なんだ。オレは邪魔だって言いたいのか? だけど、今突っかかれるほどオレは命知らずじゃない。それに、公の場ではお目にかかれない、あの会長の掛かり気味の姿を観察できるチャンスだ。
「今日付けで理事長からお達しがあった。トゥインクルシリーズで功績をあげたのだから、複数名の担当を持ってチームを立ち上げろ、と。今年度は最低でもふたりは取らなければならない」
だから選抜レースを見に行って、文字通り引き抜いてきた、と男は悪びれもせずに語る。それを聞いた皇帝は、額に手を当てて小さく溜息をついた。
「経緯は分かった。しかし、いかに上司からの命令とはいえ、まずは担当に一言あるべきじゃないかな? 私だって、チームメイトになる娘のことを事前に知っておきたい。ウマが合わなければ、チームの未来に禍根を残すことになる」
たしなめるようにルドルフは言った。しかしトレーナーは、どこ吹く風。
「きみは本学の生徒会長だ。未来のトゥインクルシリーズを担う人材を指導する役割も併せ持つ。才能あるウマ娘を、気が合わないからという理由だけで排除できるのかな?」
あの皇帝相手に、平然と言い返してやがる。
こいつは、あれだ。バ鹿となんたらは紙一重ってやつだな。そうに違いない。頼む、どうか後者であってくれ。
ルドルフはまだ何か言いたげだったがソファから立ち上がると、オレたちの前まで歩いてきた。皇帝の神威を見よ、とばかりにオーラを剥き出しにして。
大人げねぇ。
「きみのことは知っているし、きみも私を知っているだろう。しかし、チームメイトとして接するのは初めてだから、改めて自己紹介しておくよ。シンボリルドルフだ」
右手を差し出す皇帝。
いかに相手が七冠ウマ娘だろうが、ここで引き下がれば精神的な序列が決してしまう。それは後々まで尾を引く。
「おう、よろしく頼むぜ、会長サン」
品定めするような視線をはねのけ、オレはそいつの手を握った。妙に力のこもる握手だった。全力で握り返してやったが。
「さて、僕も自己紹介といこうか」
電柱みたいに突っ立っていたトレーナーが口を開く。
名前は六条薫。出身は日本だが、高校卒業と同時にアメリカにわたって博士号を取得したのち、イギリス、フランス、ドイツを転々とする。そして現在、日本でトレーナー業をしている。語られたのは、それだけだ。
本人が軽く流した経歴のなかに、この学園が喉から手が出るほど欲した何かが隠されている。そうでなければ、着任初年でルドルフを担当するなど不可能だ。
「なあ、ひとつ聞いていいか?」
握手をする前に、オレは尋ねた。
「なんで、オレをスカウトしようと思ったんだ? 自分で言うのもなんだが、イカれたウマ娘として名高い、エアシャカール様だぜ?」
強がっちゃいるが、本当は期待していた。トレセンに入って以来、初めてとなる称賛の言葉を。でも、それと同じくらい不安も大きかった。どう考えても、オレは皇帝の後継者としてスカウトされるようなウマ娘じゃない。何か裏があるんじゃないかと、頭の片隅で警鐘が鳴っている。
「素質があったからだ」
何の迷いもなく、六条は言った。
「専属トレーナー不在のなか、そのバランスの悪いバ体で選抜レースを勝った。おそらく、相当な努力と研鑽があったのだろう。そして4度目の挑戦でも、まったく衰えない闘志。自らの頭で道を切り拓く力。これがきみの素質だ」
青い瞳が、オレの肉体を容赦なく見透かしている。バランスの悪いバ体か。ここまでハッキリ言われちゃ、腹も立たねえ。
ひとつ分かったのは、こいつの言葉には嘘がないってことだ。
つまり信用に値する。
「分かった。よろしく頼むぜ、トレーナー」
六条薫の手を取る。ウマ娘の握力で壊してしまわないよう、すこしぎこちない握手になった。血が通っているのか怪しいくらい、冷たい手だった。
トレーナーは、日本最高位のトレセンにおいても、貴重な話の分かる奴だった。
スピード、スタミナ、ラストスパート。なんとなく語られてきた言葉の意味を、トレーナーは正しく理解していた。
スピードとは脚部筋肉が地面を蹴るときに発生する、鉛直方向の反力と水平方向の反力の合力。
スタミナとは、心臓の血液運搬能力と筋細胞の最大酸素摂取量。
ラストスパートとは、解糖系を用いたブドウ糖代謝により発生する爆発的なエネルギー。
能力の源を理解しているからこそ、全てのトレーニングが逐一具体的で合理的だった。坂道を3本ダッシュだとか、そういうアバウトな指示をトレーナーは出さない。
オレの心拍数、血圧は、左腕に装着されたスマートウオッチで記録されている。それをトレーナー室のCPに取り込み、マスデータを構築していく。
要するに、オレはこいつとウマが合った。
水を得た魚のように、オレは破竹の勢いで勝ち進んだ。
負けるときもあったが、それは走行実験をしたがための、意味のある敗北だ。G3だろうがG2だろうが、躊躇わず使い潰した。生まれ持った肉体のバランスを軸に、トレーニングで筋肉量を微調整していく。オレという肉体から引き出せる、最高速度に到達するために。
さらに、他のトレーナーと決定的に違うのは、蹄鉄へのこだわりだ。
練習に使うものですら、全てオーダーメイド。筋肉と体重の変化ごとに、常に新しいものを特注で作る拘り。
しかし、そのおかげで、脚の調子は以前より確実に良くなった。
トレーナーとオレは、いつもレースの前に互いの結果予想を披露しあう。そして、答えはいつも一致していた。
クラシック三冠の初戦・皐月賞を制したとき、ほぼ確信した。だから、そのぶん絶望も深かった。次に挑むのは、あの東京優駿。ターフを走る者なら誰もが憧れてやまない『日本ダービー』。
オレの計算は、何度やり直しても、7センチ差での敗北。
三冠の夢は、ここで潰える。
しかし、このときだけ、トレーナーとオレの答えは食い違った。トレーナーは、繰り返し口にした。「きみなら勝てる」と。
その言葉が根拠のないまやかしでなかったことを、オレは思い知る。
オレは勝った。あの天下のダービーで。
絶対に届かないと思っていた7センチ先の景色。日本ダービーで、わずか7センチぶん、オレの背中を押してくれたのはトレーナーだった。
三冠を獲る前提で、逆算してスタミナをつけていたオレは、クラシック最後の菊花賞も制した。
オレはなったんだ。シンボリルドルフ以来の三冠ウマ娘に。
あのときばかりは感極まって、つい舞台裏でトレーナーの前で涙をこぼしてしまった。他の連中に見られなかったのは幸いだった。
このことは、墓場まで持っていく。
だが、問題はその後だった。ハードなトレーニングの代償なのか、身体が思うように動かない。世界の強豪と戦うジャパンカップでは、14着の大敗。その後もレース結果はふるわなかった。
史上最弱の三冠ウマ娘などと揶揄する者もいた。だが、その批判はオレではなく、トレーナーに向けられたやっかみだった。日本に来て数年の若造が、立て続けに三冠ウマ娘を輩出したとあっては、古参のトレーナー勢は面白くないだろう。
だが、そんなことはどうでもいい。トレーナーは、皇帝の神威すら飄々と躱す性格だ。他人からの批判を気にするようなタマじゃない。
オレが一番堪えたのは、ジャパンカップ後の、トレーナーの目だった。
菊花賞での激勝が嘘だったみたいな、14着の大敗。勝者テイエムオペラオーの影さえ踏めなかった。
憐憫も落胆も、何の感情もないガラス玉のような目が、オレをじっと見つめていた。
なあ、トレーナー。もうオレは、お前にとって気にする価値もなくなっちまったのか。
ここのところ、トレーナーとの会話が減っている。オレ以外にも担当が増えて、そいつが重い病気にかかって大変だから、仕方ないと理屈では分かっている。年明けからは、治療のため海外に同行すると聞いた。
トレーナー業は道楽じゃない。オレたちと同じく、生きウマの目を抜く競争社会だ。勝てるウマ娘を育てなければ、自分の存在理由が無くなる。
それでも、オレは……。
喉まで出かかった言葉を噛み殺す。
あってはならない感情だ。あいつはトレーナーであり、オレは担当ウマ娘。それ以上でも以下でもない。走れなくなったウマ娘は、ただ学園を去るのみ。
学園に留まる者を、その外側に連れ出すことなどできない。
追憶を断ち切る。
ふたたび、現実にある鏡に意識を戻した。そこに映る、裸の自分に。
薄い胸と尻。浮いた肋骨。青白い肌。手足ばかりひょろ長くて、およそ女らしさとは縁遠い肉づき。
トレーナーのことを考えると、なぜかレースと関係ない部位まで見てしまう。そのたび、言いようのない不安と苛立ちに駆られる。
右手で、左胸を鷲掴む。薄っぺらい脂肪に爪が食い込む。鋭い痛みとともに、じわじわと深部に広がっていく熱。だけど、ついに着火することはなく、不完全燃焼を起こしたように消えてしまう。
何もかも、どうでもよくなってベッドに倒れこむ。
ルームメイトのドトウはいない。絶好のチャンスだというのに、そろぴょいする気分じゃなかった。
性欲は、生物として健康であることの証拠だ。何ら恥じるものではない。しかし、それを満たす対象のことを想うと、理性とは別の後ろめたさが邪魔をする。
そのせいで、最近はずっとご無沙汰だ。
下腹部に手を伸ばすことなく、ベッドから起き上がる。今日はファインモーションと外出の約束があった。
下着を身につけ、私服に着替えてから寮を出る。都内に新しくできたラーメン屋の視察とか言ってたな。ラーメン自体はどうでもいいが、今は学園内にいたくなかった。
ファインモーションは、オレにとって数少ない友人と呼べるウマ娘だ。アイルランドの王族という、とんでもない高貴な出自のわりに気取ったところはなく、いつも自然体で愛嬌があった。
しかし、やはり国を背負う者。言動の端々に、なんとも言えない凄みを感じることがある。柔和な笑顔だけで、他人の心を制圧してしまう。ただそこに立っているだけで周囲を自発的に平伏させる、キリストみたいなウマ娘だ。
ただ、オレは、ファインの肝っ玉の太さに救われていた。
鬱陶しいと思うこともあるが、オレを恐れることなく真正面から踏み込んでくるファインは、替えの効かないファクターだった。
普段口にしないラーメンと、他愛もない会話。それだけで、オレの心は凪いでいく。最近は互いにレースで忙しかったから、共に外出することも少なくなっていた。もしかしたら、気を遣ってくれたのかもしれない。
「年が明けたら、私の実家に遊びに来ない? 歓迎するよ」
ラーメン屋を出た帰り道、隣を歩くファインが言った。
「アイルランドだろ? さすがに遠いぜ。長すぎるフライト時間は苦痛でしょうがねえ」
「でもシャカールって、ダービーの後に海外遠征してたよね?」
ファインが尋ねる。
オレは一度、イギリスのG1に遠征したことがある。キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス(長ったらしいのでKGVI & QESと略される)だ。凱旋門賞と並ぶ、世界最高峰の芝中距離レース。結果はギリ入着の5着。
1着の栄光は、フランスのモンジューに掴まれた。
ダービーに勝って、菊花賞に向けてスタミナづくりも進んでいた絶頂期だったが、欧州の壁は厚かった。アスコット競バ場の高低差は、中山の心臓破り坂の4倍だ。思い出しただけで吐き気がする。
「言っとくけど、オレが出たいって言ったんじゃないぜ。トレーナーが勝手に決めてきたんだよ。世界を知っとくのも悪くないだろ、ってな」
正確には、トレーナーは提案してきただけだ。最終的に出走を決めたのはオレの意志。トレーナーに、ちょっと良いカッコしたかったのかもしれない。
「そっか。私も、いつか故郷のレースに出ることもあるのかな」
ファインは一瞬、遠くを見るような、少し寂しそうな目をしていた。しかし、すぐに元の快活な笑顔に戻る。
「そういえば、シャカールの他にも日本からウマ娘が出てたよね。珍しい白毛の娘」
「あー、いた気がするな。あんま話したことないから、印象に残ってねえな」
記憶を探ってみる。うちのチームの皇帝とクラシック戦線で争っていた白毛だ。クラシック期には目立った成績は残せていない。というより、大部分のウマ娘が、強烈すぎるルドルフの功績の前に霞んでしまっていた。
今年、海外遠征をしたってことは、実力を上げてきているのだろうか。
名前は、確か……。
そんなことを考えていると、隣のファインが足を止める。駅に続く大通りの反対側を、じっと見つめている。
「あそこにいるの、シャカールのトレーナーさんじゃない?」
ファインが指さす先を見てみると、ちょうどオレたちの正面を、トレーナーが横切っていくところだった。珍しく私服を着ている。飾り気のない黒のトレンチコートと、いつもの紳士帽。相変わらずマフィアみたいな恰好だ。
そこで目を逸らしておけば、よかった。
オレは浅はかにも、そいつがいる方を凝視してしまった。
トレーナーの左隣に、誰かいる。でかい図体に隠れてはっきり分からないが、寄り添う小柄な人影がある。オレの前を通り過ぎていくとき、その後頭部の控え目なポニーテールが見えた。
女だ。
オレの知っているヒト女。
学園のトレーナーだ。名門の出身だとか、中央トレセンの最年少合格者とかで有名な。一度カフェテリアで、うちのトレーナーと話しているのを見かけたことがある。同期らしく、いろいろと情報交換をしているらしい。
「あらら、デート中だったかな。見なかったことにしてあげようね……」
ファインの言葉が途切れる。
その顔に視線を戻すと、彼女は困惑したような目でオレを見ていた。
「……シャカール、どうしたの? なんか、怖いよ」
怖いと言いながらも、こいつは決してオレから目を逸らさない。瞳にあるのは、怯えではなく心配の色だった。
勘弁してくれ。オレはまだ何も言ってないぞ。それとも、そんなにオレはひどい顔をしていたか。自分のトレーナーが、異性の同期と一緒に歩いていた程度のことで。
黒いポニーテールを視界から振り払うように、オレは目を逸らした。
「何でもねえ。行くぞ」
ファインの顔を見ず、さっさと歩きだす。
自分じゃどうすることもできない激情。怒りなのか悲しみなのか区別がつかない、胸の炎。レースに敗北したときとも違う、鋭い刃物で裂かれるような痛み。その危険な感情を、オレは今、トレーナーに向けている。
あいつからしたら、とんだトバッチリだろうさ。
学園の外で、トレーナーがどんな人間関係を構築していようが、オレには関係のないことだ。
関係ない、はずなのにな。
気づかないうちに常足から速足になっていた。公の歩道を行く速度ではないが、ファインは何も言わず、暴走寸前にオレについてきてくれた。
「シャカール。今は何も聞かない。でも、もし話したいことがあったら、いつでも私を呼んでね。きっと力になるから」
電車のなかで、いつもの明るく穏やかな声でファインは言った。その優しさに、オレはぶっきらぼうに礼を返すことしかできない。
この胸ン中、全部きれいさっぱり因数分解できちまったらいいのにな。
そうしたら、オレを苦しめるものの正体がつまびらかになるだろう。
トレーナーに抱く感情の名前も。
彼の隣を簒奪する、あの女に向ける感情の名前も。
次回、フジキセキ編。
トレーナーを巡るウマ娘たちの感情は、混迷を深めていく。