ウマ娘 グラビティーダービー   作:モルトキ

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トレーナーサイドのヒロイン登場ばい、ヘリオス!

桐生院さんの魅力を、もっと掘り下げたい。


前作→https://syosetu.org/novel/252085/


第3話 シンボリルドルフの腐心

 

 途方もない夢だった。

 

 全てのウマ娘が幸福になれる世界を、この手でつくりたい。

 それが私、シンボリルドルフの最終目標だ。

 

 物心ついた頃から、私はその目標を胸に抱いてきた。

 おそらく両親は、競争ウマ娘としての私の才能を見抜いていたのだろう。ひとの上に立つ者としての義務を、帝王学として幼い頃から教えこまれてきた。

 

 ゆえに、私の夢の指針は、ごく自然に最果てを示した。

 

 中央トレセンに入ったのは、夢を実現させるための第一歩と言える。幸いなことに、両親の目に狂いはなかった。私には大志を抱くに足る才能があるらしく、一度目の選抜レースに勝利しただけで、名だたるトレーナーたちからスカウトを受けた。

 

 しかし、どのトレーナーの言葉も、私の胸を打つことはなかった。トゥインクルシリーズでの勝利など、私にとっては通過点でしかない。それを理解してくれるトレーナーでなければ、私の杖としては機能しないのだ。

 

 勝つことは当然。

 

 必要なのは、この国のレース関係者全てが、シンボリルドルフの名にひれ伏すほどの、絶対的で圧倒的な勝利だ。

 

 焦ることはない。次の選抜レースに向けて準備するとしよう。生徒会活動を通じて、私の名は学園中に浸透している。回数を重ねるごとに、より多くのトレーナーにアピールできるはずだ。

 

 カフェテリアで昼食を終え、生徒会室に戻ろうとしたとき、校舎横の休憩スペースに、何やら人だかりが見えた。

 

 複数の生徒が、自販機横のベンチを囲んでいる。

 

「どうしたんだ、こんなところで?」

 

 私が近づくと、生徒たちは道を空けてくれた。

 視線の先には、ベンチに腰掛けるひとりの男。しかし様子がおかしい。

 

 背もたれに首をひっかけ、天を仰ぐように上向けた顔に、紳士帽を乗せている。

 

 眠りこける酔っ払いの風体。

 

 敷地に迷い込んだ不審者なら、ただちに通報されて終わりだ。しかし周囲を困惑させているのは、スーツの胸に輝く、日本中央トレセンのトレーナーバッジだ。傷ひとつない新品。おそらく今年から学園に配属された新人だろう。

 

 どうやら、周りに集まった娘たちはスカウト希望者らしい。しかし、トレーナーが不審な格好のまま微動だにしないため、声をかけるのを躊躇っていたようだ。

 

「私がなんとかしておく。きみたちは学園に戻ってくれ」

 

 私が一声かけると、生徒たちは素直に解散していった。

 

 不思議だった。中央に来たばかりのトレーナーに担当されたがる娘は、ほとんどいない。何の実績もない者に、競争バとしての人生を預けたくはないからだ。ベテラントレーナーでもない限り、先ほどのような光景は見られない。

 

「きみ、起きてくれ」

 

 とりあえず、彼の隣に座って呼びかける。すると、帽子の奥から何やら声が聞こえる。ウマ耳を向けて、聞き耳を立ててみる。

 

「なんてことだ、先を越されるとは。あんな逸材、もう現れはしまい……」

 

 男は、独り言をつぶやいていた。なおさら不気味だが、このまま放っておくわけにもいかない。

 

「おい、きみ。どうしたんだ? 具合でも悪いのか?」

 

 肩を軽く揺すってみると、ようやく男が反応を示した。ゆっくりと顔から帽子を取り去り、顔だけ私のほうに向ける。

 

 理由は分からないが、なぜか背筋が少し寒くなった。

 深淵のごとき青い瞳が、こちらを覗き込んでいた。

 

「これは失礼。醜態をさらしてしまったようですね」

 

 そう言って、男は居住まいを正す。

 

 彼のことを私は知っていた。

 入学式の日に、新入りトレーナーとして紹介されていたし、ウマ娘関連のメディアにも度々取り上げられていた。欧州各国のG1クラブを渡り歩いてきた若き精鋭、六条薫。彼を招くために、理事長自らがURAに強く働きかけたと聞く。

 

 それだけの価値がある人材ということだ。

 

 なるほど、デビューできていないウマ娘が、飢えた野犬のように群がるわけだ。

 

「六条トレーナー。きみほどの存在が、こんなところで呆けていたら生徒が動揺する。もし何か問題があったなら、私に聞かせてはくれないか? 日本に来たばかりだから、いろいろと戸惑うこともあるだろう」

 

 つい無意識に、模範的な生徒ムーブをしてしまう。すると六条は、恐縮するように首を横に振った。

 

「いいえ。情けない話、スカウトを失敗したんです。声をかけたときには、すでに別のトレーナーが担当についていました。ウマ娘を見る目には自信があったんですがね。この学園には、すごい伯楽がまだまだいるようだ」

 

 あっさり六条は言った。

 

 その言葉に、私は戸惑った。世界最高峰のウマ娘を育ててきた彼を、ここまで落ち込ませる優駿がいるとは。しかし、ここ半年間の選抜レースで、圧倒的な成績を残した者など、記憶にない。

 

 私を除いて。

 

「面倒をかけましたね、シンボリルドルフ。僕はトレーナー室に戻ります」

 

「待て、私を知っているのか?」

 

 立ち上がる彼を、とっさに呼び止めた。

 胸のざわめきを感じる。

 

「はい。先日の選抜レースは見事でした」

 

 彼の返答で、ざわめきの正体はすぐに分かった。

 

 この男は、私の選抜レースを見ていた。しかし、スカウトに来ていたトレーナーたちの中に、彼はいなかった。

 

 これが何を意味するのか、私は一瞬で理解した。

 

 無意識のうちに、彼の腕を掴んでいた。

 

「ほう。つまり、きみにとって私はスカウトするに値しないウマ娘ということか?」

 

 自分でもどうかと思うほど、冷たい声がほとばしる。

 

 ぎりぎりと、右手のなかで彼の肉がたわむ。その中の骨まで感触がダイレクトに伝わってくる。

 

「……離してくれませんか?」

 

 ふたたびベンチに腰掛けながら、男は言った。慌てて掴んだ手をほどく。ウマ娘が本気の握力をかけたら、人間の骨など簡単にへし折れてしまう。

 

 痛かっただろうな。アザになってしまうかもしれない。

 

「すまない。取り乱してしまった」

 

 頭を下げる。こんなことで我を忘れるとは、まだまだ私も未熟者だ。

 

「いいですよ。慣れてますから」

 

 さして気にするふうでもなく、六条氏は言った。感情の揺らぎが一切ない瞳。

 いったい欧州で、どれほどの修羅場をくぐってきたのだろう。

 

 私の怒りなど、ものともしていない。

 

「誤解のないように言っておくと、きみはこの国でも屈指の逸材です。トレーニング次第では、あらゆるG1タイトルに手が届く。しかしながら、きみはトレーナーに対し、レースで勝つこと以外の何かを求めているような気がしたんです」

 

 私をまっすぐ見つめながら、彼は言った。

 その青い瞳が、私の心の中まで見透かしているような気がした。

 

「トレーナーの仕事は、あくまで担当を勝利に導くこと。この学園に在籍している間に、できる限り多くの勝ち星をあげること。僕にできるのは、それだけです」

 

「私の夢は、あらゆるウマ娘が幸福でいられる世界をつくることだ」

 

 気が付けば口を開いていた。他者に、自らの最終目標を明かしたのは、これが初めてだった。

 彼は何も言わず、じっと私を見つめている。

 

「そのための過程として、私には勝利が必要だ。それも、圧倒的な勝利が。トレーナーにとって、私の夢は巨大な負担となるだろう。ゆえに、私と同じ視座に立てる者でなければならない。帝道を歩み、まっすぐ淀みない心で頂点を目指せる者でなければ、いずれ潰れてしまう」

 

 認めたくはないが、これは弱音だ。

 もし自分と肩を並べてくれるトレーナーが見つからなかったら。今日まで私を形作ってきた思想、信念、夢といったものは、どうなってしまうのか。

 

 走ることなく、この狭い学園のなかで朽ち果ててしまうのではないか。

 

「そうですか。少し安心しました。あくまで勝つことが第一義ならば、僕はきみをスカウトできる。きみが応じてくれるなら、今すぐにでも契約を結びましょう」

 

 しかし、この男は、私の不安をあっさり消し飛ばした。

 

 こんなに早く巡り遭えるとは思わなかった。遠大な夢。厳しすぎるハードル。それらを聞かされてもなお、私に手を差し伸べてくれるトレーナー。

 

「……二言はないね?」

 

 その覚悟を、再度確かめる。やはり彼は、まっすぐな目で頷いてくれた。

 

 私たちは握手を交わす。この人のもとでなら、私はエクリプスになれるかもしれない。そんなことを、本気で夢見てしまうほど、内心舞い上がっていた。

 

 契約書類にサインするため、トレーナー室に向かう。その途中で尋ねてみた。

 

「トレーナー君の夢は、何だ?」

 

 彼は迷いなく答えた。

 『世界一のウマ娘を育てることだ』と。

 

 

 

 

 トレーナー君の実力は、その経歴にふさわしいものだった。私の強みは、生まれ持ったフィジカルだけではなく、全身の機能を繋ぎ合わせる感覚神経にあると気づかされた。

 

 本バ場入場した瞬間、芝を踏む足裏の感触から、細やかな場バ情報を読み取ることができた。

 

 トレーナー君は、バ場状態『良』のなかにも、さらに『Firm(堅良)』、『Good to firm(良)』、『Good(稍良)』の三段階があると説き、レース当日にそれらを判別できるよう、私に訓練を施した。おかげで、ターフに入った出走者しか知り得ぬ情報をもとに、レース展開を修正することが可能となった。

 

 それだけではない。私の嗅覚が、一般的なウマ娘より遥かに優れていることを見抜いたのも彼だ。ファンファーレからゲートインまでの間に、他の出走者が発する微かな匂いで、好調か不調かが大まかに分かるようになった。これにより、マークする相手を臨機応変に変えることができる。

 

 『ひとりとして同じウマ娘はいない。それぞれの長所を最大限に伸ばす指導をする』。

 

 トレーナー君の信念は、私を確実に勝利へと導いた。

 

 

 いつしか私は、『皇帝』と呼ばれるようになった。レースに絶対はないが、シンボリルドルフには絶対がある。マスコミが書きたてる称賛の言葉は、私が確実に理想に近づきつつあることの証左だった。

 

 勝利後のインタビューで、悠然と受け答えする私。その脇に、従者のように控えているトレーナー。さぞかし世間は、彼のことを有能な杖と思っているだろう。常に皇帝に寄り添い、その願望を支え続ける、寡黙な杖。

 

 思わず、笑ってしまいそうになる。

 

 学園の生徒ですら知らないだろう。トレーナー室で、私と彼はしょっちゅう喧嘩していたことを。

 

 私の説教から始まり、言い争いになり、やがて書類や本が飛び交う。廊下で誰かに聞かれているかもしれないと思っても、口も手も止まらない。

 

 六条薫という男は、ウマ娘が思い描くトレーナー像を裏切る天才だった。

 

 私とて、うら若き乙女だ。トレーナーという生き物に、ある種の憧れを抱いていたのは事実だ。心を通わせ、共に勝利に邁進する関係は、疑似的な恋人、あるいは夫婦に近いものを感じさせる。

 年頃の少女にとって、その関係性は蜜の味だ。

 

 あくまで生徒間の噂だが、自らのトレーナーに対し、親愛以上の想いを寄せる者もいるという。一時的な気の迷いなのか、心の底からの思慕なのかは知る由もない。しかし、自分のことを知りつくし、献身的に支えてくれる若い異性と四六時中、行動を共にしたら、あらぬ感情を抱くのも無理はない。

 

 この私とて、そういう夢想をしたことが無いわけではない。恋に恋するほど精神的に幼稚ではないつもりだが、やはり唯一無二のトレーナーだ。レース以外でも、もっと仲良くしたい気持ちはある。

 

 ところが、私のトレーナー君ときたら。

 

 的確で合理的な指示と言えば聞こえはいいが、受ける側にとっては、情緒に欠けた冷たい命令だ。出走するレースも、建前上話し合って決めているものの、ほぼトレーナー君の独断だ。そこに私の意見は介在しない。

 

 そして彼は、プライベートに一切、私を踏み込ませようとしない。他の生徒が、トレーナーと休日に買い物をしたり、映画を見に行ったりする話を聞くと、どうしても羨ましくなってしまう。

 

 何より、私の渾身のダジャレを、「日本の高等古典か?」などと真顔で聞き返してくるなど、あまりに無神経じゃないか。

 

 だから知らず知らず不満が溜まる。言いたくもない説教をしてしまう。

 

「トレーナー君。きみのトレーナーとしての実力は申し分ない。しかし、もっと自らの担当と心の距離を近づける努力をしてみてはどうか?」

 

「きみとは十分、意志疎通を図っているつもりだ。これまで互いの意見に齟齬が出たことはない」

 

「それでは不足だと言っているのだ。現に私は、きみとのコミュニケーション不足に不満を覚えている。これでは将来のトレーニングに差し支えるかもしれないぞ」

 

「ルドルフに不調の兆候は見られない。レースでも結果が出ている」

 

「違う。私だけの問題ではない。これからきみが担当する娘にまで、そのような一方的な態度で接するつもりか? それではチームが成り立たない」

 

「今、僕の担当はきみだけだ。もし将来、担当が増えるとして、僕の指導が肌に合わないなら、さっさと別のチームに行けばいい」

 

「どうしてきみは、そういつもいつも……!」

 

 苛立ちのあまり立ち上がってからは、いつものパターン。私が書類を投げれば、彼も同じ分量を投げ返す。やがて空中にあらゆるものが飛び交うようになる。しかし、ウマ娘の運動能力に人間が太刀打ちできるわけがないので、途中からトレーナー君の防戦一方になる。

 

「本性現したな、ライオン女!」

 

 机の影からひょっこり顔を出し、トレーナー君が叫ぶ。

 その表情が、なぜか普段より楽しそうにニヤついているものだから、余計に腹が立つ。

 

「言うに事欠いてそれか! この冷血トレーニングマシン!」

 

 もはや私は、皇帝でも生徒会長でもなく、ただの反抗期の少女だった。

 

 皐月賞に挑むまで、こういった戦いが幾度となく繰り返された。

 

 今思い返せば、トレーナー君はわざと私を挑発していたのだと思う。そうすることで、私の本心を引き出し、トレーナーである自分に遠慮を無くさせたのだ。

 

 これも、欧州仕込みのノウハウなのかもしれない。

 

 彼のおかげで、トレーナー室にいる間だけは、ありのままのシンボリルドルフでいることができた。

 

 ライオン女とは、よく言ったものだ。実際、私の性根など、そんなものだった。自分が世界で一番強くてすごい存在でなければ気が済まない。

 

 三冠を獲ったあとも小競り合いはあったが、さすがにトレーナー室が半壊するような大喧嘩はなくなった。私も、彼の人間性に慣れてきた。

 

 しかし、相変わらずトレーナー君は、自らのプライベートに私を立ち入らせることはなかった。

 

 彼が休日に何をしているのか、趣味はあるのか、好きな食べ物は。

 誰かに聞かれても、全く答えられない。

 

 そんな彼の日常を、偶然にも覗き見たことがある。

 

 天皇賞春のあと、生徒の間で流行っているという恋愛映画を見に行ったときのことだ。もっと生徒との距離を縮めたいと考えてのことだが、今いち共感できる内容ではなかった。

 同時期に公開された『ウマ娘の夜明け 未踏の記録へ』のほうが、よほど有意義であると思うのだが。

 

 釈然としない気持ちを消化するべく、学園近くをぶらぶらと歩く。比較的大きな公園が違いけれど、変装しているため騒がれる心配はない。

 

 その公園から、聞き覚えのある声が聞こえた。

 

 道と公園を隔てる鉄柵越しに、そちらを見遣る。

 

 トレーナー君がいた。牧歌的な公園が、最も似合わない男。なぜこんなところに。しかし、その疑問はすぐに解けた。

 彼には連れがいたのだ。

 

 小柄な黒髪の女性。

 

 私は、一度見た顔は決して忘れない。彼女は学園のトレーナーだ。名門一族の出身であり、トレーナー君の同期。着任初年度から担当を受け持つことができた、稀有なひとり。

 

 学園内で、トレーナー君が彼女と話しているところを何度か見たことがある。そのときは、同期として情報交換でもしているのだろうと思っていたが。

 

 今、目にしているふたりは、職場の同僚という雰囲気ではない。

 

 女性トレーナーが、シーソーの上に立った。バランスを取りながら、反対側に渡り歩いていく。まるで小学生のように、無邪気な笑顔を浮かべて。

 

 そんな同僚の様子を、トレーナー君もまた、にこやかに見つめている。

 女性トレーナーが、彼に手を伸ばす。トレーナー君は、彼女にエスコートされるように、ふらふらと覚束ない足取りでシーソーの上を歩く。

 

 軽いめまいがした。

 

 なんだこの光景は。私は何を見せられているのだ。いい歳した大人が、シーソーの上を往復している。かなり痛々しい絵面だが、なぜか目を逸らすことができない。

 

 ああ、トレーナー君。きみは、ちゃんと人間らしい顔もできるんじゃないか。

 一抹の寂しさを感じながら、その場を離れようとした。

 

 そのとき、偶然にも、私の優れすぎた聴覚は、彼女の声を拾ってしまった。シーソーから降りた彼女は、真剣な面持ちでトレーナー君に語りかけていた。

 

「私、絶対に成し遂げてみせます。これからも、どうか私たちをよろしくお願いします」

 

 彼女は、屈託のない笑みでそう言った。

 

 妙な焦燥感に駆られ、私は足早に公園から去った。

 仮にトレーナー君が彼女と恋人関係にあったとしても、私は別段、構いはしない。学園の外でどんな人間関係を作ろうが、トレーナー君の自由だ。

 

 だが。

 

 私『たち』とは、どういう意味だ?

 

 生徒会室に戻る。休日であるため、エアグルーヴもミスターシービーもいない。会長権限をもって、端末から学園のデータベースにアクセスする。

 欲するものは、すぐに見つかった。

 

 桐生院葵。

 

 中央トレーナーライセンス試験では、首席合格。そして最年少記録を更新。日本におけるトレーナー家系の名門、桐生院家の宗家。

 

 直系子女となれば、さぞプレッシャーも大きいことだろう。しかし、その家名に違わぬ実力の持ち主で、さっそく初年度からひとり、担当を持っている。

 

 この娘は知っている。クラシック戦線と、ジャパンカップ、有馬記念で戦った。一度見た顔は忘れないが、正直、名前までは憶えていなかった。実際、どのレースでも確たる結果は残せていない。

 

 全体的にぬぼっとした、やる気のない顔つき。血統も実績も、特筆すべき点は何もない。ぽっと出の田舎娘だ。

 

 目を引くものがあるとすれば、珍しい白毛であることくらい。

 

 私は溜息をひとつこぼし、パソコンを閉じた。

 

 おそらく桐生院さんは、練習台として彼女と契約を結んだのだろう。もし良血統の娘と契約して、結果を残せなければ家名に泥を塗ることになる。その点、白毛の彼女なら、たとえ失敗しても廉が立たない。

 

 結局、G1出場まで漕ぎつけているから、桐生院さんの腕は本物ということだ。

 

 うちのトレーナー君には遠く及ばないが。

 

 桐生院さんは、欧州で実績を積んだトレーナー君からアドバイスを貰っているだけだ。そのくらいなら、私が目くじらを立てるほどのことではない。

 

 欧州の黒船に、名門令嬢のコンビか。

 

 どちらも、その凄まじい肩書ゆえに、学園内で孤立している。ある意味、お似合いのコンビだ。

 

 疑問が解決したことで、集中してトレーニングに臨むことができた。

 クラシック期では惜しくも勝利を逃したジャパンカップを制し、そして有馬記念を連覇。

 七冠の皇帝として、不動の地位を得た。

 

 

 皇帝を育てたことが評価され、トレーナー君にチーム設立の命令がくだった。そのとたん、私に相談もなしにスカウトしてくる始末。しかも、なかなか濃い面子だ。天才と狂犬の間を反復横跳びするエアシャカール。頼れる寮長でありつつも、悪戯好きなエンターテイナー、フジキセキ。

 

 私との相性より、トレーナー君とうまくやっていけるのかが心配だった。癪なので口にはしないが。しかし、意外にもふたりは、すぐトレーナー君に馴染んだ。今や従順な、彼のトレーニーだ。

 

 恥ずかしながら、シャカールよりも過去の私のほうが、よほど狂犬だった。

 

 残念なのは、せっかく優秀なチームメイトができたというのに、当の私が脚を痛めてしまったことだ。これはトレーナー君の落ち度でもなければ、私の過失でもない。いわゆる悪魔のくじ。誰にでも起こり得る不幸だ。

 

 トレーナー君は冷静だった。きちんと治せば、私の肉体ならば、これからも第一線に立てると断言してくれた。その言葉で、私はメンタルを損なわず、リハビリに打ち込めた。

 

 だが、その後が大変だった。私に次ぐ無敗三冠を嘱望されたフジキセキが、重度の屈腱炎を発症し、引退の瀬戸際まで追い込まれた。彼女のケアをしつつも、トレーナー君は私とシャカールにも万全の指導を尽くしてくれた。その疲労は察するに余りある。自らの命を削るように、トレーナー君は痩せていった。

 

 それでも担当の前では弱音ひとつ吐かないものだから、尊敬を通り越して心配してしまう。

 

 私にできるのは、彼の負担をこれ以上増やさないことだ。

 

 優秀なチームメイトだが、ひとつ気がかりがあった。クラシック期の中盤ごろより、その身体から色ボケた匂いを発するようになったことだ。

 

 私でなければ気づかないだろう、微かな匂いの変化。それ以来、フジとシャカールの挙動や視線を注意深く観察するようになった。フジは分かりやすかった。トレーナー君を見る目が、ジュニア期とは別物だ。彼と一緒にいるときだけ、否が応にも『女』を感じさせる目つきになっていた。

 

 一方、シャカールは、まだ自分自身の感情に戸惑っているようだった。普段からトレーナー君を意味もなく見つめては、すぐ視線を逸らす。自らのトレーナーに、そういう想いを抱いてしまったことが受け入れられないのだろう。

 

 今のところ、ふたりともトレーナー君に対し、具体的なアクションを起こす気配はない。だが、もし、その兆候が見られたときは、私が止めなければならない。

 

 年若い男性トレーナーと担当ウマ娘の恋愛スキャンダルは、枚挙にいとまがない。海外と違い、メイクデビューからずっと二人三脚だから、互いにそういう情が芽生えても何ら不思議ではない。

 

 学園側は、トレーナーと担当の恋愛など当然認めていない。ただでさえ生徒数に対しトレーナーが不足している現状で、ウマ娘ひとりにトレーナーひとり番われたら、学園のシステムが崩壊してしまう。

 

 今は自由恋愛の時代だ。恋心を抱くこと自体、私は否定しない。しかし、もはや我々は一蓮托生のチームなのだ。チームの結束が乱れたら、巡り巡って私のパフォーマンスの低下を招く。

 

 それだけは絶対に許さない。

 

 六条薫は、この私、シンボリルドルフのトレーナーだ。私を皇帝たらしめ、さらに上へと押し上げる彼の手腕を鈍らせるなど言語道断。

 

 たとえチームメイトであっても容赦はしないぞ。

 

 幸い、恋愛方面で大きなトラブルはなく、私は復帰戦となる有馬記念を迎えた。長らく第一線を離れていたにも関わらず、ファン投票1位。ファンの期待に応えるためにも、必ず勝ってみせる。

 

 いつも通りトレーナー君に見送られ、地下バ道からターフに出る。芝の感触は、稍良。これならば事前に打ち合わせたとおり、王道の先行策でいける。

 

 周囲の猛者たちは、誰もが私に敵意の目を向けている。身体から放たれる、警戒の匂い。そうでなくては面白くない。

 

 しかし、怯える草食動物の群れの中に、ひとり異物が混じっていた。

 

 ぼーっとした顔で、レースコースを見つめている。私を一瞥もしない彼女からは、何の匂いも放たれていない。存在感自体が、まったく無かった。

 

 垂れ目気味の、凡庸な風貌。

 桐生院さんの担当だ。

 

 警戒に値しない。

 そう結論づけたところで、ゲートが開いた。出遅れなし。逃げから追込まで、全員が10バ身以内に収まる混戦だ。しかし、私の脚に迷いはない。最終コーナー手前から加速をかけ、一気に逃げウマ娘をかわす。

 

 私のコーナリング加速を上回るウマ娘は、他にいない。

 最後の直線は、もはや私の独壇場だ。もはや後続は影さえ踏めまい。

 

 ゴールまで50mの地点まで、わたしはそう確信していた。

 

 ぞわりと、耳に悪寒が走った。

 背後に、何かがいる。もうラストスパートだ。振り返ることはできない。しかし、これまで認識していなかった何かが、突如、私のすぐ後ろに現れた。気配も、音も無かったはずだ。ここまで接近されて、気づかないはずがない。

 

 私は、先頭のままゴール板を駆け抜けた。会場の大歓声など耳に入らず、すぐに掲示板を確認する。

 確定ランプが灯った。2着との差は、わずか1バ身。

 

 信じられない気持ちで、後ろを振り返る。白いドレス風の勝負服の娘が、観客席に控えめに手を振っている。

 その体幹にも、息遣いにも、大きな乱れはなかった。

 

 彼女に遅れて、私も空に拳を突き上げ、観客の声に応えた。

 スタンド前列に、トレーナー君が見える。私に向かって、拍手を贈っている。しかし、その目線が一瞬、客席のほうに逸れた。

 

 その先にいたのは、少女のようにあどけない笑顔で、担当に手を振る黒髪の女性。

 桐生院葵。

 トレーナー君は、彼女を見ていた。

 

 

 最大の敵は、ターフの外側にいるのかもしれない。

 気づけば、指が手のひらに食い込むほど、強く拳を握りしめていた。

 

 

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