元ホースマンは零細馬主の秘書になるようです   作:綴人不知

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 この物語はフィクションです。
 実在の人物、団体、制度、その他一切とは関りありません。


昭和48年6月某日 邂逅、セリ市にて

 両国の牧場にて行われるセリに参加するため、橫山の妹の運転する車で会場へ向かっていた。

 競走馬のセリは大体平日に行われることが多い。ごく一般的な社会人である渡海はこの日、わざわざ休みを取って来たのである。この休日については漫画編集部からの強い希望もあって実現したという。当初は取材への付き添いという名目で日帰り出張となる可能性があったが流石にそれは回避された。

「今回のセリ市では、渡海君には掘出物を探してもらおうと思う」

「掘出物と仰っしゃられますけどもね、いなければどうするんです?」

「まぁ、セリ見学というのも悪くはない」

「無理に買う必要はないということですね」

 橫山は頷く。両国のセリで上場する頭数はそこまで多くはなく、牧場の数も内地では青森や宮崎、鹿児島の方が数自体は多い。

「あと、今日は君だけではなく、うちの馬を預かってもらっている大西先生も一緒だ」

 とはいえ、大西の方は元々セリに行く用事があったということであるが。

「先日、第4レースのパドックで挨拶した先生ですね」

 先日のチハヤジヨウの条件戦の際に、橫山一行はパドックで周回する馬を間近で見ていたのである。

 その時に大西歴人とは顔を合わせていたのだった。大西はスガノホマレを管理している調教師で、スガノホマレはこの年の東京新聞杯を勝利していた。

「クラシックこそ勝っていないが、重賞を勝利した馬を預かっている調教師だよ」

「なるほど……。そうそう、質問なんですが、自分も同行することは伝えていらっしゃるので?」

「伝えているよ。見学者以上購入者未満としてね」

 渡海のことは、相馬眼がどの程度あるのか測りたい。ということも既に大西に伝えていた。

「それで、その先生と一緒に見て回れと?」

「むしろ私が先生にくっついて回るから、付いてきて欲しい」

 渡海は「分かりました」と快諾した。大西歴人といえば1950年代から既に調教師であったベテランである。勝鞍にはあまり縁がない厩舎ではあるが。

 果たして掘出物、素質のある馬を見つけたとして、その才能を開花しうるのであろうかと渡海は不安に思った。

「なんだかすいませんね。兄の趣味に付き合ってもろうて。今日もほんまはお仕事されとったはずなんでしょう?」

 とは橫山の妹である。橫山はその言葉に口を閉ざしていた。

「いえ、東京優駿の時に馬主席に招待頂きましたので、この程度は、はい」

 橫山の手前、下手なことを言えずこのように答える。

「そないです? 兄さんも感謝しとかんと……」

「ああ、うん、せやな。平日に来てくれよってんもんな。渡海君、応じてくれて感謝するよ」

「あ、いえ、こちらこそ……。ところで、先生関西弁喋れたんですか?」

「関西弁やなくて神戸弁やけどな。普段は標準語喋るようにしとうねんけどな」

 橫山は一つ咳払いをして切り替える。

「私の方言のことはいいんだ。今日はよろしく頼んだよ」

 

 橫山はセリの展示場で大西調教師と待ち合わせの予定であった。とは言っても、小規模なセリなので見て回る中で合流しようという程度のものである。

 この日上場するのは20頭。それに比してセリへの参加者はゆうに100名を超える。展示場は屋外であるにも関わらず、既に人だらけであった。

 70年には14頭の上場馬に大して100人以上の参加者が集まっていたことを思えば、それよりは競争率は低いわけであるが……。

「これは競争率が高くなりそうですね。因みに先生の軍資金はいくらほどですか?」

「500万までなら出せるが……」

「それだけあれば掘出物でなくとも何か買えそうですね」

 これが道内のセリならもう少し選びようがあるものだが、そちらには海千山千の馬喰や調教師が訪れる。

 却ってこういった注目度の薄いセリの方が掘出物を探すのに適しているとも思われた。

 そうしてしばらくセリの展示場を橫山について回る。セリにおいて下見は重要なもので、この時間に馬の良し悪しを判断するのである。

 とはいえ、このセリで最も注目を集める栗毛の2歳牝馬は既にかなりのマークがされているのか、会場中の視線が集中していた。

「……ウメミドリの72。父はレイバーン。リボーの半弟ですね。ウメミドリはハクセツの半妹に当たります」

「ハクセツというとあの『白い美少女』か。懐かしいな」

 ハクセツとは68年の牝馬東京タイムズ杯や1970年の七夕賞を勝った牝馬で、岡路幸夫の初重賞勝利となった馬である。

 同じ牝系にはあのミラクルユートピアがいる。ミラクルユートピアは3歳にして天皇賞春の前身である帝室御賞典に挑み、その後東京優駿に駒を進めることになった馬であった。あまりの強さに東京優駿を回避した馬が続出し、この時代にしては珍しく11頭立てと少数頭によるダービーとなる。しかし、東京優駿当日の朝の調教で右前足を脱臼し、当日に出走を取りやめた。

 このウメミドリはそんな馬と同じ牝系で、母のハクセツも重賞馬、父はレイバーンで、パリオリ賞、イタリアの2000ギニーの勝利馬である。その父はイタリアクラシック三冠の他、ミラノ大賞、イタリア大賞典、ボッティチェリ。ウメミドリはハクセツの半妹であることから、仔はかなりの額になると予想された。

「父親はイタリア2000ギニーを勝利しています。800万は越えるでしょうが、重賞の一つでも取れば確実に元は取れますからね」

「渡海君、買わないかね?」

「そもそもろくに見ていませんし、私は馬主資格も仲買商の免許も持ってませんよ」

 遠目から見ても良さそうな馬に思える。だが、今日の目標は明らかな高馬ではなく、掘出物を探すのが目的である。

「見に行かないのかね?」

「……あまり気乗りしませんが、とりあえず、見てきましょうか?」

 渡海はウメミドリの72の手綱を握る上場者の元に歩み寄る。

「すいません、こちらの仔を見せていただいても?」

「ええ、どうぞ」

 渡海は、ウメミドリの72の正面、目線が合うような距離を取って正対する。その後右側へ周り、馬の後ろ、左側とゆっくり見ながら一周する。注目するのは顔、正面からの立ち姿、皮膚、全体的なバランス、飛節や尻の角度である。

 そして、最後に一周歩かせてもらって歩様を確認するのである。

 面立ちはセツシユウの一族らしく美形であるが……。バランスは側面から見た第一印象ではそれ程悪くはない。繋はどちらかと言えば立ち気味でやや短く、脚元がやや窮屈に感じる。飛節はやや角度が付いてやや曲飛気味である。恐らく父親にはあまり似ていない。曲飛はその構造上後ろ脚が伸び切らず、直飛に比べてストライドがやや短くなる。

 思えばこの一族の飛節もこのようなものでなかったか。

 他に瑕疵があるとすれば馬格がやや小さいことだろうか。だがそれもやや短い繋をカバーする美点となるように思われた。繋は衝撃を吸収する役割があるが、短ければ吸収され辛い。衝撃は馬格に比例して強烈なものとなるのだが、それもダートで使うならば問題はない。

 この程度の瑕疵であれば十分長所が上回るように思われた。比較対象としては大き過ぎるが、ハイペリオンなども小さいながらも強かった馬である。矛盾するようであるが、能力さえあれば馬格はさほど欠点とはならない。

「なるほど、これは注目される訳だ……」

 レイバーンはボッティチェリの血を引くステイヤー血統ではあるが、本馬に長距離適性があるかは疑問であった。

 渡海は引手に感謝を述べて、橫山の元に戻る。

 橫山の側には先日顔を合わせた大西調教師がおり、渡海が検分しているのを見ていたようだった。

「こんにちは、今日は勉強させていただきます」

 渡海は軽く会釈をして挨拶する。

 橫山は「どの口で」と思ったが、そんな感想をおくびにも出さずに続ける。

「どうだったかね」

「ダメですね。あの仔は高くなりますよ」

「ウメミドリの72は先に見ていたけど、あれなら馬主さんに損をさせないと思いますよ」とは大西である。

「ええ、仰る通り馬主孝行な馬になりそうな気はしますね。ただ、あれで何故手放されたのかがよく分からないですね」

 ウメミドリの母のセッシュウは芦毛の馬で、どちらかといえばウメミドリ自身は父のガルカドールに似ていた。とはいえ、上場馬が少ない上に、あのハクセツの血縁である。この牝系は中村克五朗が自ら経営する扶桑牧場の出である。それがどういう訳かセリに上場されたのだった。

「重賞馬の牝系ですから、欲しがる方はそれなりにいるかと思います。牝馬なので安くなるとしても、予算を越えるのは確実かと思いますよ」

「となると、あの馬は買えそうにないな……」

「今回の目的は掘出物を探すことですから、今回は忘れましょう」

「そうだな。では見て回ることにしようか」

 渡海は頷き、橫山は大西に付いて次の馬へと向かった。

 

 橫山は渡海がウメミドリの仔を見ている間の事を思い出す。

「やぁ、橫山先生、とても熱心にあのウメミドリの仔を見ているようですが、気になりますか?」

 橫山に声をかけてきたのは、調教師の大西歴人であった。

 大西は中山の調教師であるため、千葉で馬を調達することが多く、このセリにも顔を出していた。

「大西先生、先日ぶりですね。今日は一緒に回っていただけるとのことでありがとうございます」

「いえ、構いませんよ。こちらも馬を探していましたのでね」

「それで、あの馬については予算を越えそうなので手を出すつもりはないのですが、気になるものは気になりますね」

 なるほど、と大西調教師はウメミドリの72を見やる。

「あの馬は重賞まで勝てるとは思えませんが、馬主さんに損をさせない馬ですよ。中央にもダートの重賞があればよかったんですがね」

「あの馬はダート向きですか?」

「はい。そもそも、姉は中央に転厩してきた馬ですからね。関東オークスまでに15戦5勝しています。あの馬はむしろダートが本領で、芝は対応出来るだけなんでしょう」

 私もあの馬には手を出そうとは思いませんね。と続けた。中央の馬が地方に出走する事は出来ないのである。

 結局調教師にとって大事なのは、それが中央で走る馬か、それが実際に手に入るかである。例え良い馬だと分かっても、手に入るとは限らない。

 それにしても、と大西は思う。ウメミドリの72を見る渡海の姿は中々に堂に入っているではないか。

「先日連れてこられた渡海君ですが、彼は馬喰ではないですよね?」

「そういう話は聞いたことがありませんね。実家は生産牧場出身だそうですが、何故そう思われたので?」

「彼は馬の見方を知ってますよ。馬を見る立ち位置や視線一つで相馬の腕は分かるものです。下手な関係者より分かっていますよ」

 橫山は嘆息する。『達人は達人を知る』とはこの事だろう。漫画家にしても描き方一つ取ってみても実力が分かるものである。

 相馬の腕を見抜く人物が渡海をひと目見て馬喰ではないのかと確認した。それはつまり、渡海もまたこの世界で通用する人物ということではないだろうか。

「それで、生産牧場出身で渡海というと。平仮名表記の方のわたるみ牧場の倅ですか」

「さぁ、そこまでは……、因みに、平仮名表記の方とは?」

「あの辺にはトカイファームと度会牧場、わたるみ牧場と紛らわしい名前の牧場がありましてね。それぞれ読み方は違うんですが、漢字で書こうものなら被るんですよ」

 同名の牧場なんていくらかありますが、とも大西は付け加えた。

「……それはまた紛らわしいですね。因みに、わたるみ牧場というのは?」

「家族経営の小規模な牧場ですよ。あいにくうちとは縁がないんですが、あそこの自己所有馬の産駒は総じて丈夫でクズ馬が滅多に出ません。馬主孝行な馬が多いと聞いていますよ」

「それは凄いですね。彼がそんな牧場の出身だったとは……」

 生産された競走馬が全て競馬場で走る訳ではない。様々な理由があってそもそも競走馬になれないサラブレッドがいる。それは先天的な体質上の問題であったり、気性が激しすぎたり、事故が原因であったり様々だ。

 また、近年はサラブレッドの生産過剰が指摘されている。そもそも競走数そのものが少なく、また馬房の数が足りていないのだ。一度もターフを駆けることなく消えていく馬は多い。この十何年かは特にその傾向が強く、これまで持ち込み馬で牝馬を輸入し続けてきた上に、活馬輸入自由化がされたことで、この傾向はますます強まることが予想されていた。

 そんな中で生産馬が当たり前のように競馬場で走っているのは、当然のように見えてとてつもない事なのである。

「なので、相馬の腕を抜きにしてもいい拾い物をされたと思いますよ」

 相馬を終えた渡海が、こちらに向かってきたのが丁度その時だった。

 

 大西に付いて一行は会場に展示されている馬を見て回る。

 大西と渡海の見解は分かりやすい馬については大体一致していた。どちらも安く走りそうな馬かどうかという点に絞っているため、そう大きな差は出ない。

 見て回る間にウメミドリの仔が上場された理由のようなものは自然と耳に入ってきた。

 ウメミドリの仔がセリに上場されたのは、栗毛ばかりを揃える織月というオーナーブリーダーが庭先で頼み込んだのだという。オーナーである中村克五朗はあまりに熱心な織月に、仕方がなくセリに上場することにしたのだとか。それを裏付けるように織月は展示場の端で常にウメミドリの仔を見ているようだった。

 馬産の中心地が北海道に移りつつある中、このセリにはそれなりの駒が揃っていたと言える。

 そんな展示会場の片隅で所在無げに前足を掻いている黒鹿毛の2歳馬がいた。

「フランクロビンの72か」

 父は後にカナダ三冠に制定されるレースを勝利したカナディアンチャンプ、母の父は親子でニ代ダービーを制覇したゴールデンウェーブである。

 まだこの時代、カナダ三冠は定められておらず、ただクインズ・プレートとプリンス・オブ・ウェールズS、ブリーダーズSを勝利した馬という扱いであった。

 フランクロビンは未勝利の母、いや、未出走の母であった。どちらにせよありふれたことであり、マイナス材料とはならない。未勝利の母から生まれた重賞馬は多い。こうした牝馬は無理して競走に使われず、繁殖となることがあるからだ。

 母系については思い出せないが、何かに似ているように思われてならなかった。

「すいません、この仔の祖母を教えていただいても?」

「フランクロビンの母親ですか? フランクハレーですよ。その前はリットルハレルヤです」

「リットルハレルヤ? もしやミハルカスの半姉妹で……?」

「すまん、なんであんた分かるんだ?」

「……昔見たんですよ」

 リツトルハレルヤはかつて千葉の吉野牧場で繁養されていた牝馬である。

 このニ頭の牝系を遡れば第弐ハレルヤにたどり着く。その母はカムフオーコウホートという名だが、競走名はハレルヤである。ハレルヤは現在で言うところの桜花賞2着、皐月賞3着、東京優駿5着の成績を残した名牝であった。

 ハレルヤからかなり代を重ねているが、元の血筋は悪くはない。とはいえ、カナディアンチャンプは日本において、ゴールドウェーブも目立った活躍馬は出していない。

 フランクロビンの72自身はといえば、この時期の幼駒と比較してき甲がまだまだ成長しておらず、この馬の活躍時期が比較的遅いように思われた。

 馬格はそこまで大きくはなく、ミハルカスのように脚部不安に悩まされず、長く使えそうな馬であるように思われた。

「父はカナディアンチャンプですか。日本で供用され始めて今年が初めてのクラシック世代ですが、あまり活躍馬を出していませんね」

 大西は父のカナディアンチャンプの成績について言及する。

 カナディアンチャンプは既に米国とカナダで重賞馬を出しおり、中には父と同じくカナダ三冠を制したケインボーラ(あるいはカネボラ)がいる。

 そんな名種牡馬なのだが極東の島国に流れ着き、30頭程度と実績に見合わぬ供用初年度種付け頭数に留まっていた。種付け頭数が抑えられた理由は、この時既に16歳と高齢で、それを生産者が嫌ったという説もある。

 そもそも、牧場が北海道に移りつつある現在の千葉においては、繁殖牝馬を集めるのも困難ではあるのだが。

「一世代や二世代で、評価出来るものでもないように思いますが」

 血統とは馬の未来の可能性を示すもので、この先どのように育つのかを予測することが出来る。

 だからこそ名血が高くなる訳だが。一方で掘出物を探すということは、血統に依らぬ可能性を見出すことに他ならない。あるいは、それは数世代前の血の開花を見出すようなものである。

「この馬について大西先生はどう思われますか?」

「これなら預かっても構いませんが……、大きな仕事は出来そうにないように思いますね」

 大西としても、このフランクロビンの72は父や母父の種牡馬成績を抜きに考えれば悪くないようには思われる。母父のゴールデンウェーブは一応昨年の秋の天皇賞を勝利したヤマニンウェーブを出していた。

「では、渡海君は?」

「まず目がいいですね。この感じなら競馬場まで行けるんじゃないですかね。やや曲飛気味ですが、瞬発力がありそうですね。4歳から使い始めることになるかもしれませんが、4歳の秋か、古馬になってからの方が楽しみかもしれません。鴨肋で骨量がありそうですから、長い活躍は出来そうですね」

 つまり長距離は難しく、クラシックには出るのが難しい。といったところであろうかと橫山は考える。

 フランクロビンの72は牝馬である。古馬となってからは牝馬の重賞は数少ない。秋以降であればクイーンS、ビクトリアカップ、牝馬東京タイムズ杯などであろうか。

 とはいえ、元より重賞に出るような馬がそもそも手に入るとも思ってはいない訳であるが……。

「恐らく250万で始まって、400万もあれば競り落とせますよ。350万で落とせれば上々ですね」

 400万は安い部類ではあるが決して安馬とは言えない。しかし、競馬場には確実に持っていけると考えれば安い買い物ではないだろうか。

 3歳から5歳まで使うとして先々の預託料を考慮すると、その間の預託料が約900万。預託料に代金を上乗せして考えれば1300万は稼いで欲しいところである。

「あとは、参加者が数少ない上場馬を買おうとして予想値を上回るか。あるいは夏のセリに向けて資金を温存するか、そのどちらかでしょう」

 とはいえ、橫山と渡海は調教師や馬喰ではないので、使える資金の面ではやや有利である。

 渡海は購入した幼駒を仲介して売る訳ではない。これが馬喰であれば、購入した馬を馬主に転売するので、手数料として5%か、気の利いた馬主であれば10%程度が購入費に上乗せされる。例えば渡海が橫山に勧めて400万で競り落とせた場合、400万の買い物で終わるが、馬喰が同じ400万で競り落としたとして、馬主の手に渡るには購入額の5%が上乗せされ、その馬主は420万円でその馬を買うことになる。

 掘出物での勝負であれば安馬なので然程差はつかないが、1000万を越えるような馬となれば1050万となり影響は大きくなっていく。

 馬喰としては安く仕入れて馬主に損をさせないことも流儀の一つであるのだ。

「競り合いにならなければ一番なんですが」

 そう言って渡海は何気なく周囲の様子を伺う。会場の隅にわざわざ目を向けるものなどいないはずである。

 だが、一人だけこちらを視ているように思われる男の姿を認めた。30代に差し掛かった頃であろうか、背は低く顔立ちから朴訥な印象を受ける。

 渡海は手元の時計に目を落とす。時計の針は12時を刺さんとしている。展示時間も残り1時間である。

 朝から始まって見て回るとすれば、既にほとんど見終えた後であろう。あとは誰がどの馬に目をつけたのか、ここではそれを察知する時間もある。

「渡海君、どうしたんだい?」

「いえ、やはり上場頭数が少ないと、狙いが被るもんですね。と思っただけですよ」

 渡海は馬産地を離れて久しく、セリに顔を出すのも8年ぶりだが、名も知らぬ馬喰ですらこの馬に目を付けている。

 渡邉常六や長村和男のような著名な馬喰がいないので油断していたが、同じような感性で馬を見る人物がこの僅か100人を越えるかどうかの会場にいる。渡海はそれなりに馬を見ることが出来るという自負はある。だが、こうした玄人がゴロゴロいるのがこの世界なのだ。

 渡海は1時間後に始まるセリを思いやや憂鬱となった。

 

 かくしてセリ市は始まる。

 このセリの目玉であったウメミドリの72はセリの半ばで上場され、これが目当てであった参加者は早々に帰宅の途についた。

 なお、ウメミドリの72は無事織月氏によって落札され、織月氏の喜ぶ姿が会場で見られたという。

 吉野、新堀、下川内、千田といった名門牧場から上場した産駒は高く取引されていく。一方で小さな牧場の生産馬はさほど値がつかず落札されるか、あるいは主取となって出口から退場していく。

 そうして、橫山らが本命とするフランクロビンの72がセリにかけられたのは、終盤に近くなった頃のことであった。

 渡海をマークしていたと思われる背の低い馬喰はセリに参加するも、ほどほどの値段まで参加しては途中で降りていた。まだ一頭も落札していない。明らかに本命に向けてセーブしていた。

 彼は競売人から見て左側に座っており、橫山たちは右側に座っている。丁度対極の位置で観察しやすい位置に座っていたのである。

『次は上場番号18、フランクロビンの72。父はカナディアンチャンプ、カナダのクイーンズ・プレートやをプリンス・オブ・ウェールズSを勝利した種牡馬です』

 引かれて入場してきたフランクロビンの72が会場内を引かれて周回する。

『お代は250万……』

 競売人がお代を言い終える前に、背の低い馬喰がセリに参加した。

 251万、253万と小刻みに値が上がっていく。序盤は様子見ということもあり、それほど上がることはない。

『255万、255万。255万の上ござい……』

 競売人がそれぞれから上げられる値を確認しつつ現在の値を告げる。

「先生、そろそろ参加しましょう。途中参加は不義理に当たります」

 橫山はすぐに声を上げてハンドサインを作って参加する。セリに途中から参加するのは御法度であった。途中から参加するとトラブルの元となりかねない。欲しいと思った馬のセリにはすぐに参加しなければならない。

 256万、257万、258万と上がり続け、お代は280万に近づいていく。

 参加してすぐに声を上げたのは橫山を含めて10人程である。参加者が絞られたのである。

 お代は小刻みに上がり続け、やがて300万を越えたところでセリ合う相手が目に見えて減り、橫山と先ほどの馬喰の一騎打ちとなった。

「やはりあの男が残ったか……」

 そう思ったのは渡海だけではなく、向かいの席に座る馬喰も同じだった。

「300万、300万、300万の上……。ありがとうございます310万でよろしいですね?」

 背の低い馬喰は10万吊り上げて310万の値を付けていた。大きな上がり幅は飽くまで譲る気がないということだ。

 セリには参加せずともセリの呼吸はある程度知っている。言葉を交わすことのない言語のようなものだ。

「先生、320万。あれは譲らんという意思表示です」

 橫山は頷いてもまた譲る気がないので10万吊り上げる。

『右のお客様、320万、320万。320万の上ありませんか』

「はい!」

 という声と共にハンドサインを上げて馬喰が応じる。

『左のお客様、350万でよろしいですね? 350万、350万……』

 その値上げはフランクロビンの72の取引が始まってから最大の値上げだった。その価格は渡海が楽観視して手に入ると考えていた価格であった。渡海はその値上げに一瞬鼻白む。

「400万までは頑張りましょう」

 橫山は380万と手を挙げる。

 あの馬喰が30万吊り上げたのだから、同じだけ上げなければならない。

『右のお客様、380万、380万、380万の上……。左のお客様、410万でよろしいですか? 410万、410万。410万の上ありませんか?」

 橫山が380万を宣言すると、馬喰は競売人が言い終えぬ間に同じだけ値を吊り上げてきた。

「どうする? 」

 橫山が渡海に問いかける。

 セリ市とは、一瞬の躊躇が命取りである。

 あの馬喰は、こちらが相談していると見抜いた上で、勝負を仕掛けてきたのだ。

 橫山に小声で上限を告げる。

「450万以上は多分回収出来ません」

「じゃあ、450万まであげようか」

「え? そんな上げて良いんですか?」

「あの馬喰だってそれは分かってるんじゃないのかい? しかも、君の言う通りなら彼の購入代金に5%上乗せした額が馬主の支払いになる」

 450万で購入した馬は470万程度になるはずである。5%上の攻防である。

「それ以上付けて苦しくなるのはあっちだよ」

 渡海は唸らざるを得なかった。これが忍者や超能力者の攻防を描く漫画家の手なのかと。

 橫山はハンドサインと共に声を上げる。

『右のお客様、450万、450万。450万の上ありませんか?』

 次に考えるのは彼の番であった。彼は険しい顔つきであったが、やがて表情を緩めて諦めたようだった。

『450万、450万。450万の上ありませんか? 次がラストコールとなります。450万、450万。450万の上ありませんか? 』

 場内は誰も動かず、橫山らが競り落としたかのように思われた。だが、一人だけ動く気配があった。

『中央のお客様、500万でよろしいですか?』

 競売人の前の席に座る。いかにも成金といった風の男がハンドサインを掲げていた。

 会場の目がその成金に注がれる。元々の顔つきが悪いのか、半笑いでどこか殴りたくなるような表情であった。

「誰だあれ」

 渡海は思わず呟いていた。同じように驚愕していたのが橫山で、向かいに座る馬喰も、目元を指で抑えていた。

 そうした人物は一騎打ちの当事者だけでなく、会場に残った大半の参加者は白けきっていた。

「どうするかね?」

 その声は向かいに座る馬喰だった。馬喰は橫山ではなく、渡海を見ていた。

「いや、この辺りで十分でしょう」

 渡海は自然と口角が上がる。無粋な闖入者に頭を抱えたのは自分だけではなく、あちらも同じだったからだ。

「違いない」

 二人のやり取りはそれで終わり、フランクロビンの72のセリの終わりを待つ。

『500万、500万、ありませんか?』

 そこに「はい!」という声が轟く。それはフランクロビンの72のセリに参加していなかった馬主であった。

『それは、550万円でよろしいですね、ありがとうございます。550万、550万の上ありませんか?』

 それを皮切りに、次々と声が上がる。

「あの、これ何が起こってるんですか?」

 橫山は大西に問いかける。

「これはですね。要するに、あの金持ちのボンボンが気に入らんのでしょう」

「……というと?」

「最初から目をつけていなかった馬であるにも関わらず、あの馬主が途中参加したのが気に入らなかったのです。それなりの馬喰が手を出した馬を欲しくなるのは、分からない訳ではありませんがね。ですがそれはセリ場では禁物でしてね」

 途中参加した馬主、秋山のいうところの金持ちのボンボン風の馬主は懸命に値を吊り上げて抵抗していた。

『あ、はい。中央のお客様、900万、900万。900万の上ありませんか?』

 その値は当初想定していた上限の2倍である。闖入者であった馬主が900万の値をつけた所で、会場は静まり帰った。

 それが最後のコールとなり、フランクロビンの72のセリは終了した。

『落札されましたのは中央のお客様、都大路伏竜様です』

 

 セリが終わり、帰宅の途につく。

 駐車場には橫山の妹が運転する車が戻ってきていた。

「渡海くん、君は先に乗り込んでいてくれ。私はちょっと先生と話していくよ」

 渡海は大西に一礼し、橫山の車の後部座席に乗り込んでいく。それを見届けて橫山は大西に尋ねた。

「先生、渡海について、どう思われましたか?」

「ここにいる大半の関係者よりも馬のことをよく分かってますね。彼が唯一勧めた馬は、正直あまり魅力を感じませんでしたが、あの馬喰と競り合っていたなら間違いはないでしょう」

「あの馬喰、そんな著名な人物なんですか?」

「いや、最近名を上げ始めた馬喰で、まだそこまで有名ではありませんよ。橫山さんは覚えていますか? 東京優駿の日に先頭を引っ張っていたホワイトフォンテンを」

 東京優駿で第一コーナーから先頭に躍り出た芦毛の馬である。東京優駿でハイペースを作り上げた一頭であった。

「ええ、覚えています」

「あの馬を400万で見出したのがあの馬喰。佐藤伝次だと聞いています」

「そんな人物と競り合っていたんですか?」

 大西は頷く。名を挙げつつある馬喰と見立てが一致した。その意味するところは渡海の相馬の腕を示しているとも言える。

「渡海君は、先生や私が思っている以上の相馬眼の持ち主かもしれませんよ。あの馬もほどほどの能力を見て取ったならかなり安い買い物でしょう。あの時最後まで競り合っていたんですから証明されています。彼が勧めてきた馬ならうちで預かっても構いませんよ。では、また何かあれば中山競馬場の厩舎までお越し下さい」

 大西は踵を返して自らの車に向かう。橫山はその背を見送りながら思う。

 大西の渡海に関する見立ては恐らく正しい。しかし、その見立てはにわかに信じがたい評価であった。

 

「すいません、結局競り落とせませんでした」

 渡身は帰宅の途で橫山に、セリで一頭も入手できなかった事を謝った。

「いや、あれはしょうがないだろう。よく分からない馬主に横からかっさらわれたんだから。無粋なことをするヤツがいたものだ」

「ああいうのは、セリ市では御法度なんですけどもね……」

 平気で不義理を行ったのはいかにも金持ちのぼんぼんといった風体の男、都大路伏竜であった。

「まぁ、あの馬は本来あの値段で売れることはないでしょうから、生産者にとってはありがたい存在かもしれませんけどもね」

「なるほど、そういう見方もあるのか」

 著名な馬喰が手を出せば、突然その馬に興味がわき、食指が動く馬主も出てくるものである。ましてやそれが競り合いとなれば欲しくなることもある。

「血統から言えばもう少し安くなるはずだったんですがね。あの馬喰も同じような値と踏んでいたんでしょう。下見の時から警戒はしていましたけど、まさか本当に競り合うことになるとは。あんな馬喰がいたとは思いませんでしたよ」

 渡海はその馬喰を思い返す。過去、売り手として参加したセリに彼の顔はなかったはずだ。

「あの馬喰、最近名を上げつつある馬喰で、佐藤伝次というらしい。この前の東京優駿に出走していたホワイトフォンテンを競り落とした人物だそうだ」

 渡海は顔を上げて驚く。あのホワイトフォンテンはパドックでみた時、確かにいい馬だと思っていた。結局まだ完成していないと切ったのであるが。

「相手が悪かったんだよ。でも、逆に言えば君はそういう手合と同じ見立てが出来た訳だ」

 しかも、それを良血の中から選ぶのではなく、ほとんど評価されていない血統の中から選定した。

「もしよかったらだが、今後もセリ市に付いて来てもらえるだろか?」

「いや、セリは大体平日なんで私も仕事があるんですが……」

 渡海の回答は至極真っ当なものであった。目に見えて落胆仕掛けた橫山であったが、渡海が言葉を続ける。

「とはいえ、先生にはまだ東京優駿に招待していただいた恩を返せていません。良さそうな馬を競り落とすまではお手伝いしますよ」

 橫山は渡海に喜んで感謝し、渡海は渋々といった風であった。

 渡海はこの先を思って吐息する。今年探すのであれば8月と10月に行われる北海道のセリである。そのどちらかに行くのであれば、今日のようにはいかないだろうと。

 渡海は先々のことを思い、目を伏せた。




 ウイニングポストの小説でありながら、まだ開始年代に到達していない小説ってなんなんでしょうね?
 本当は8000文字程度で終わらせるはずだったんですよ。それがどうしてこうなった……。

 最後、都大路父が不義理を犯したことで、仁義なき札束による殴り合いに発展していますが、実際のセリではこれを破ったものがどうなるかは分かりませぬ。
 これらの作法は昭和の時代のセリでのことで、現代では必ずしもそうではない。ということを明記しておきます。

・中村克五朗
 中村牧場のオーナー。中山競馬場を拠点に活動する大馬主。
 父は中山競馬場の脇にある銅像の人。松戸から中山への競馬場移転に大きな働きをした人物。

・佐藤伝次
 馬喰。齢26にしてホワイトフォンテンを競り落とした人物。

・織月
 織月恵里奈と織月和歌奈の父。
 栗毛が好き。

・都大路伏竜
 殴りたくなるあの笑顔。
 都大路昇竜の父。まだオーナーブリーダーではなく一介の馬主。
 子は親に似たのである。

・トカイファームと度会牧場
 前者は『優駿』、後者は『じゃじゃ馬グルーミンup』に登場した牧場。
 明記しますが今後出てくることはありません。いずれの作品も大変面白いので競馬物に興味のある方は是非手にとって頂きたい。
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