櫓から降りてきたトレーナーの案内でチーム部屋へ。録画されたビデオには、ブライアンについて走る自分の姿が記録されていた。
マヤノを背負っているため、やや前傾姿勢。そのためか、昨日のトレーニングとは違って飛び跳ねるようなフォームはいくらか改善されているように見える。だが、やはりどこか苦しそうに走っているのは、きっと誰の目にも明らかだろう。
それでも、あのブライアンについていっているのだから、トレセン学園に入学したての新人にしては及第点、だと思う。そうだと思いたい。
「あぁ、
いつの間にやってきたのか。ビデオカメラの小さなモニターを覗き込んだギムレットが騒ぐ。それを、頭からタオルを被ったウオッカが宥めるといった具合。
彼女が一体何を言いたいのか、イマイチ分からない。けれど問題はこの後だ。
最終コーナーに差し掛かり、ペースが上がる。
この時、とにかくついていくことに必死だった。そういえば、この時背中のマヤノが何度も膝を屈伸させるようにして体重をかけてきていた。あれにはどんな意図があったのか。
答えは、ちゃんと映像に残っていた。
疲労か、それとも癖か。スパートをかけるとどうしても上体が起き上がろうとしている。つまり、ダメ出しされた飛び跳ねるような走りになろうとしていた。
そんなタイミングでマヤノは体重をかけ、体を押さえつけるように姿勢を維持させようとしていたのだ。
今日のトレーニングは、フォームの改善に重点を置いたものだったということが分かる。
問題の最終直線。ここは、正直記憶がほぼ抜け落ちているとも言える。自分の走りがどうなっていたのか、想像もつかない。
「そうだ、翔べ!」
この時。映像の自分が思い切り跳躍したように見える。悪い癖、ホッピングだ。
前へ出なくてはならないところを、夢中になるあまり飛び跳ねてしまい、むしろロスになってしまう。
ギムレットは何故だか嬉しそうだが、その声よりも映像の先に衝撃を受けてそれどころではなかった。
「これって、この走りって……」
「バッタというより、ヘビだな」
呟きにブライアンが反応する。
飛び上がる瞬間。今まで腕を全く使っていなかったマヤノが、こちらの頭を思い切り押さえつけていた。少しでもバランスを崩せば、顔が地面に擦れるような。櫓から撮影されたこの映像を見る限りでは、まるで倒れたまま走っているようにも見える。
それは、地を這うヘビのようだと言われれば、もしかしたらそうなのかもしれない。
つまり。上方へ跳び上がる力を、頭を下げることで前方へ変換し、跳躍力を推進力に変える走り方だ。しかも。
「え、う、嘘ッスよ。いや、こんなはずはないッス!」
「いや、事実だ。ふ、もう少しだけ本気を出してやれば良かったな」
校門前に到達した瞬間。自分は目を閉じてなりふり構わず走っていたから全く気づかなかったが、ほんの一瞬だけ、前を走っていたブライアンに並んでいたのだ。
ラストスパートで、マヤノを背負ってこんなことが可能なのだろうか。自分なんかが、追いつけるはずがない。ブライアンが手を抜いていたとしか思えないのだ。
本人も認めた通り本気ではなかったとのことだが、それも嬉しいやら恥ずかしいやら。
「つーかさ、マヤノもよくあんな乗り方できたよなー」
「えへへー、形は違うけど、これもブライアンさんとの勝負だと思ったらついね、負けたくなーい、って思っちゃった」
マヤノトップガンとナリタブライアン。二人の勝負は、互いにトゥインクルシリーズを引退してもなお語り継がれる伝説だ。『甦れブライアン』と思わず実況が叫んだ通り、ブライアンはそれまでの怪我や不調を乗り越えて阪神大賞典のマッチレースを制した。
これが、彼女らのトゥインクルシリーズ最後の対決となっただけあって、マヤノはいつか雪辱を果たさんと考えていても不思議はない。トレーニングとはいえ、相手がブライアンなら気持ちが乗るのも無理のない話だ。
だが、いずれにせよこのビデオで自分の目指すべきフォームが見えた気がする。
飛び跳ねる癖があるなら、頭を下げてそれを前進する力へ。
マヤノのサポートがあってようやくそれらしい形になったものの、自分だけで走った時に同じことができるだろうか。
「それよりもだ。おい、何故こっちのビデオを撮っていた。ウオッカのトレーニングに注力するんじゃなかったのか」
ため息混じりに、ブライアンはトレーナーへ視線を移した。
そういえば、そんなことを言っていたような気がする。だからブライアンがトレーナーに代わってメニューを考え、自分を指導してくれるという話だったはずだ。
「ああ、それな。いやぁ、今日に関しては、俺が見ている必要がなかったというか……」
「俺が説明しよう」
言いよどむトレーナーのセリフを奪うようにして、ギムレットが間に入った。
本来想定していたメニューに何か予定外のことが起こって、トレーナーが介入する余地がなかったということだが、果たして。
話をまとめると、こういうことだった。
ギムレットと併走することで桜花賞に向けて仕上げることが、本日の目標。既に昨年末のG1、阪神ジュブナイルフィリーズを制したとはいえ、ウオッカにとってはここからが本番だ。
今年結果を出せなければ、極端に早熟なウマ娘だった、という評価で終わってしまう。タイトルを獲ったのだからもちろん上澄みであることは疑いようもないのだが、チームBTの門を叩いた彼女は、それで満足というわけにはいかなかった。
むしろ、桜花賞は通過点の一つに過ぎないとすら言える。
ここは軽めに叩いて、むしろ目の前の目標で消耗しすぎないようにしたいところ、だったのだが。
「ちょっとアンタ、誰に断ってここでトレーニングしようってのよ!」
「はぁ? 学園のコースなんだから、誰が使ったっていーだろ」
「へぇ、たった一つG1勝ったからって都合の良いこと言うのね」
「この間のチューリップ賞でオレに負けたクセによく言うぜ」
「何よ!」
「何だよ!」
と、こんな具合に突っかかってきたウマ娘がいたのだ。
ウオッカのルームメイトにして、前回のレースで勝敗を競った相手、ダイワスカーレットである。
確か、ウオッカの過去レースを見た時のイメージだと、緋色の長い髪をツインテールにまとめ、少し気の強そうな顔立ち、そしてとても発育の良い体……正直ちょっと羨ましい。
いや、そんなことはどうでも良くて。ともかく、スカーレットがちょっかいをかけてきたため互いに火がついてしまい、トレーニングどころではなくなってしまったというのだ。
しかも。
「やあやあ、スカーレット君のトレーニングを研究しようと思ったら、これは思わぬ研究対象と出くわしたねぇ。何なら、ウオッカ君とどっちが桜花賞に向けて仕上がっているか、
「ハッ! 俺の鍛えた
「おや、シュレディンガーの猫を知らないかい? 結果は、蓋を開けてみるまでは分からないよ。私はもちろん、スカーレット君が勝つと思うけどね」
「面白い。ならばその挑戦、受けて立とう」
続いて現れたのはアグネスタキオン。既にトゥインクルシリーズを引退したウマ娘で、皐月賞を勝った経験があるのだとか。話を聞く限り、スカーレットにかなり入れ込んでいるらしい。
彼女がギムレットを挑発してきたことで、すなわちウオッカ・タニノギムレットvsダイワスカーレット・アグネスタキオンという図式が出来上がってしまった、というわけだ。
見ていたトレーナーはというと、厄介だが面白い状況になってきたぞと一応記録用のカメラを回していたのだそう。しかしカメラのディスプレイに目を落とすと、賑やかに言い合う四人を遠巻きにじーっと眺めている影があったことに気づく。
「なぁ、あそこにいるの、マーチャンじゃね?」
「え、あら、本当ね。ちょっと、黙って見てるくらいなら出てきなさいよ」
ウオッカとスカーレットも彼女と目が合ったようだ。
見つかりましたか、といった様子で木の陰から出てきたのは、アストンマーチャンというウマ娘。自分は詳しくないけれど、阪神ジュブナイルフィリーズをウオッカと争って惜しくも破れ、今度の桜花賞で再戦することになっているのだという。
何故彼女がここにいたのか。後でウオッカに聞いたところ、どうも彼女はカメラがあると辻写りをしにいく癖があるらしい。トレーナーがカメラを構えていたことに気がついて、こっそりと画角に映り込もうという腹積もりだったのだろう。
「良い機会じゃない。マーチャン、あなたもやるでしょ? 誰が一番か、前哨戦よ」
「おぉ……。本番はすぐですから、今、本気は出せません。構わないです?」
「ハッ! 誰が全力なんか出すかよ。こんなの、ヨユーで俺がぶっちぎってやるぜ」
何よ、何だよ、と揉めながら、結局彼女らは併走トレーニングという名の模擬レースをすることになった。
そうなれば、トレーナーがその都度アドバイスをするよりも、後からまとめて指摘をすれば良い。
「ウオッカか。良い新人が育っているようだね」
「何だ、見に来たのか。結局、チームが気になっているんじゃないか」
「……代わろう。まだ新人がいるんだろう? そっちを見てあげると良い」
そんな時に声をかけてきた者があった。
申し出をありがたく受け入れたトレーナーは、模擬レースの撮影を任せ、もう一つのカメラを持って櫓に登り、自分のトレーニングを観察していたのだ、ということだった。
「以上で
「だいたいのところは……」
正直、ギムレットの説明にトレーナーやウオッカが細かく補足を入れてくれなかったら理解が追いつかなかったところだ。
しかしこれで、トレーナーがこちらの様子を撮影していたことに説明がついた。この後はウオッカへの指導があるのだろう。
そうとなれば、気になることが一つ。
「ところで、ウオッカ先輩たちの模擬レースを撮影したのは誰なんスか?」
「そういえば、ホップとはちゃんと会わせていなかったな。彼女なら、ほら、そこにいるだろ」
トレーナーが部屋の入り口を指差す。
視線で追うと、扉に寄りかかる形で立つ影。背はそれほど高くないが鹿毛の髪は長く腰まで。顔つきというか、雰囲気は物静かで威圧的。そう言うとナリタブライアンにも近いようにも思えるが、力でねじ伏せるのがブライアンだとしたら、彼女は知性で抑え込むかのように感じさせる。その立ち姿は、「ぬらり」という擬音が聞こえてきそうだ。
初めて会ったウマ娘だが、どこかで見たような……。
「紹介しなきゃね! ウチの非常勤メンバー、ハレノヒさんだよ!」
パタパタと彼女に駆け寄るマヤノ。非常勤メンバー、というのはどういうことか。いや、それよりも。
ハレノヒ、という名には聞き覚えがあった。
「も、もしかして、皐月賞とダービーを逃げ切り勝ちした、あの!」
「あのも何も、ただの引退したウマ娘さ。借りたカメラはここに置いておくよ。……じゃあね、新人」
手に持っていたビデオカメラをテーブルに置いた彼女は、ただそれだけ言って部屋を後にした。
当時、皐月賞にもダービーにも出走したが有力なウマ娘とは見られておらず、そのまま優勝したウマ娘がいた。
運が良かっただけ、偶然だ、と囁かれたが、皐月賞でもダービーでも逃げ切ってその実力を証明。その後電撃的に引退した彼女が、BTのメンバーだったとはちょっと予想外だ。
非常勤メンバーというのは、トゥインクルシリーズの際にはこのチームに所属していたものの、引退後にチームを抜けたウマ娘を指すのだとか。とはいえその後も気が向いたら顔を出してくれるので、そんな呼び方をしているのだという。ハレノヒ以外にも非常勤はいるらしいのだが、名前だけ聞いても仕方がないので、また顔を合わせた際に改めて紹介してもらうことになった。
ハレノヒがどうして今のタイミングで顔を出したのかは分からないけれど、もしかしたらこれから桜花賞に挑むウオッカの姿を見ておきたかったのかもしれない。
また会って、ゆっくり話す機会はあるだろうか。
「ともかくだ。おいバッタ、この、最後の走りだがな。身につけようなどと思うなよ」
「え、何でッスか! マヤノ先輩の助けがあったし、ブライアン先輩も本気じゃなかったはずッスけど、それでも追いつけたのはこの走りが出来たからッス。きっと、自分の武器になるはずッス」
ブライアンが吐いた言葉を、素直にそのまま受け入れることは出来ない。
あの時の、地面を這うような、前へ跳ぶ走りをモノにできたら、もっと速く走れるはずだ。それを禁じられてしまったら、自分の癖はただの弱点でしかなくなってしまう。
「前へ跳ぶなとは言わん。だが、地を這うことは許さん。極端に考えるな、間を取れ」
「そうだぞ、ホップ。次からは、違ったやり方でフォーム改善を行うからな。それからウオッカ――」
トレーナーまでもが、そう言う。
せっかく見つけた自分の弱点を長所に変える術だったのに。
何故ダメなのか、何がいけないのか。その理由を問いかける前に、トレーナーはウオッカの指導に移った。ブライアンもさっさと部屋を出てしまい、マヤノも「わかんない」と肩を竦めるばかり。
しかし、無意味にそんなことを言うはずがない。いつか、そのワケを話してくれるだろうか。