「なぁ。私は、何を間違えたんだ」
「うーん、多分、何も間違えてないと思うよ」
「だが、外されたんだ」
「考える時間をもらえたんじゃない?」
「どういう意味だ」
「誰かを育てるってね、本当に難しいの。ギムレットさんとウオッカちゃんみたいに、何から何まで波長が合って上手くいくなんて、稀だから」
しばし、沈黙。
マスクをつけたナリタブライアンは、白い壁に囲まれた部屋で、ベッドに横たわるウマ娘に相談を持ちかけていた。
入学以来面倒をみていたホップことチイノホッパーを、デビューに向けて鍛えるため組まれた合宿。だというのに、同行メンバーに選ばれなかったことは、屈辱であっただろう。
現役時代はライバル……いや、しつこく突っかかってくる挑戦者だと思っていたマヤノトップガンは、普段のトレーニングでは指導の補助といった役回り。そんな彼女は、合宿へ同行するというのに。
まるで、自分のやり方を否定されたかのよう。そんな風に思えてしまうのも、仕方ないことかもしれない。
「私もね、誰かを育てるとか、あんまり得意じゃないから。ほら、BTって、自分で目標を見つけて、自分で強くなっていくウマ娘ばかりでしょ。だったら、ホップちゃんは、何が目標なんだと思う?」
「バッタの、目標だと?」
「ブライアンさんは、より強いウマ娘と走って、胸に湧く闘争心を満たしたいとか。マヤちゃんには、あなたという目標があったし。私なら……いつまでもターフを走っていたい、とか。原動力みたいなもののこと」
ブライアンは押し黙った。
彼女自身が飛び抜けて強いウマ娘だ。血の滲むような努力だってしてきた。その全てを乗り越えてきた。誰かに勝ちたい、というものではない。強さの証明、それこそが、ブライアンの走る理由だった。
では、ホップはどうだろうか。
走り方のクセは強いし、決して怠けるわけではないがブライアンやウオッカほどのストイックさもない。並大抵のことでは、デビューしたところで一勝できるかも怪しいというのが、ブライアンの素直な感想だ。
だからこそ、何とかしてやりたい。
今、眼の前にいる、病床に伏したリーダーの代役を務めねばならないのだから。
しかし、彼女には、ホップの目標が何であるのか分からなかった。もしかしたら、ホップ自身にもよく分かっていないのかもしれない。
「トレーニングを積めば、実力はついてくる。そうなれば、必然的に目標も見つけるんじゃないのか。現に私も、クラシックを走り、力をつけたからこそ――」
「自分にできたんだから、あなたにもできる。そんな言葉、呪いだと思わない?」
「呪い、だと」
「できないから、上手くいかないから。そんな時、やっぱりさ、できる人や上手い人に、どうしたら良いのかって聞くでしょ。でも、自分にできたんだから、なんて言われたら途方に暮れちゃうよ」
「何が言いたい」
「ははっ、もう分かってると思ったんだけど……ケホッ」
ここまで流暢に喋っていた彼女が咳き込む。
最初はただの咳払いかとも思ったブライアンだったが。
「ブライアンさん、ケホッ、あなたと、ホッ……うっ、ゲホッ、ちが、ゴホッ」
「おい、もう喋るな。ナースコールはどれだ!」
相談の結果、答えを得られたわけではない。しかしこれ以上の会話は不可能だ。
ベッドに備え付けられたナースコールを押したものの、どう対応したら良いか分からないブライアンはオロオロするばかり。
程なくして看護師が駆けつけると、患者保護のために病室を出されることとなった。
これは、しばらく面会しに来ることなどできないだろう。
慌ただしく駆け回る看護師たちの邪魔にならぬように病室を離れたブライアンは、ギュッと拳を握りしめて呟いた。
「お前には何が見えているんだ……。ダンツフレーム」
「というわけで、これより二人には、わしらを背負って走ってもらう!」
やってきたビーチでは、ノーリーズンが例の如く手を前へ突き出して声を張り上げていた。
合宿にやってきた四人のウマ娘とトレーナーは、早速デビューに向けた特別メニューに取り組んだ。
海岸沿いの砂浜ということもあり、ホップこと自分と、今回特別に同行することになったノーリーズンの弟子、ニイロハヤトは学園指定の水着に着替えている。
一方でノーリーズンは何故か甲冑姿。BTから合宿に同行することになったマヤノトップガンはホットパンツにフライトジャケット。いずれも二人が現役時代に着用していた勝負服である。
「合図と共に駆け、先にあの旗まで到達した方を勝者とする。ただし、これはあくまで特訓であるが故、一度のみで決着とはせん。五本勝負、先に三本取った方を勝者とし、褒美を用意した!」
「つーワケで、これがご褒美だ」
ノーリーズンの隣でトレーナーが抱えているのは、スイカだ。
ご褒美、ということは、負けた方は食べることができないというわけか。
「あの、ちょっといいッスか」
疑問はただ一点。自分はマヤノを背負って走る、ということは、ノーリーズンを背負うのはハヤトだ。彼女らはそもそも背丈が違う。十五センチ以上マヤノのほうが小さく、重量も軽い。
さらに、勝負服が軽装であるマヤノはともかく、ノーリーズンの勝負服は甲冑。重そうだ。
むしろよくぞあの勝負服でレースを走っていたものだ。これで皐月賞を勝っているのだから驚愕の一言。
今回のトレーニングについてだが、自分に有利とはいえ、ここまで大きなハンデがあって、本当に良いものだろうか。
といった旨のことを尋ねると。
「つまり、わしの勝負服が重いからトレーニングにならぬと言いたいわけか。ならば走ってみようではないか。ハヤトもそれで良いな?」
「はい、大丈夫……です」
ハヤトがそれで良いというのなら。後で背負った相手の差で勝ち負けが決まったと言われなければ良いのだけど。
ともかく、ルールは決まった。
スタート位置として砂に線を引き、ゴール地点の旗を向く。
距離は、五〇〇メートルほど。瞬発力勝負だ。
砂上を走るのだから、スピードを落とさずに足を回す必要もあるだろう。
「じゃ、一本目いくぞー!」
少し離れたところで、ストップウォッチを持ったトレーナーが声を上げる。
背中のマヤノを落とさないようしっかり支えて。
「スタート!」
合図と共に駆け出す……はずだった。
「うぉぁッ!?」
瞬間、視界が消えた。地響きのような振動とともに、眼の前が真っ暗になる。
何が起こったのかとうろたえ、顔にまとわりつく何かを振り払うように首を振って、目を開ける。
すると、まるで竜巻のような砂煙が、一直線に視界の先へ向かっていくのが見えた。
それが、砂を蹴り上げて走るニイロハヤトだと気づくまで、しばし呆然。
「こらホップ! 何してるんだ!」
トレーナーの声にハッとして、慌てて駆け出す。が、もはやその時点で勝敗は決まっていた。
ウマ娘の脚では、五〇〇メートルなどほんの一瞬。自分がスタートを切った時点で、ハヤトは既に中間地点に到達している。
これは背負った重量の問題などではなく、相手の脚力、瞬発力に引けを取った結果だ。
もちろん、一本目はハヤトの勝利となったわけだ。
「す、すごいッス。あんなに力強い走りができるなんて、思いもよらなかったッス……」
ゴールした彼女がスタート位置に戻ってきた時、素直な感想が漏れた。
あれだけ砂を巻き上げて走るのは、それだけ踏み込みが強いということだ。
「そう、ですか。でも……まだまだ、です、から」
これは謙遜なのか。確かにデビューはまだだけど、これだけの力があるのなら一気に注目の的となり得るだろう。
正直、まともに戦って、勝てる気はしない。
「その通り! 良いかハヤト、まだ踏み込みに余計な力を使いすぎておる。それでは足に負担がかかりすぎるし、長く走ることができん。ワシを背負いながらもっと軽やかに走ることを意識せんか」
「はい、先生」
背負われたままのノーリーズンが指摘する。
あれだけの走りをしておきながら、まだ無駄があると。
では、自分は何を意識するべきだろうか。
「ホップちゃんはね、まずはちゃんとスタートするところからかな。それから、軽く走ることを意識するといいかも?」
「軽く、ッスか?」
自分の背からはマヤノからアドバイスが聞こえる。
あの力強い走りに対抗するのが、軽い走り? 踏み込みを弱くすることだろうか。
「さっき、走りにくかったんじゃない? 砂に足が沈んでさ。それだったら、思い切り踏み込んで砂で足を支えるか、こう、足を砂でバウンドさせるっていうのかな?」
学園では芝の上を走ることが多かったこと、そしてさっきハヤトの走りに圧倒されたこともあって、自分がどんな走りをしているかなんて意識もできていなかった。
言われてみれば、確かに踏み出した足の力が砂に吸収されてなかなか進めなかったような気がする。
「とりあえず意識してみるッス」
「よーし、じゃあ二本目いくぞー」
トレーナーが合図を出し、スタート位置につく。
今度は出遅れないように。それから、砂を被らないように目線を低くすることを念頭に置いて。
「スタート!」
同時に走り出す。今度は出遅れなかった。が、やはり出足はハヤトの方が早い。
巻き上がった砂が顔にかかる。だがそれよりも考えるべきは、走り方だ。
砂に足が沈む。次の足を出すのが重い。ダートコースともまた違う砂浜では、こんなにも走りにくいものなのか。
マヤノを背負っているから、というのもあるだろうが、相変わらず顔にかかる砂に集中力が削がれる。
一歩踏み出すのがようやく、といった具合。
ゴールである旗までたどり着いた時には、やはりというかハヤトの方が先に到着していた。
「ハァ、ハァ……。何スか、めっちゃ走りにくいッス」
「そうであろう! しかし、ここで走るからこそ、足腰が鍛えられるというもの。これを繰り返せば、本番のレースに向けた体作りになるというわけよ」
得意気に語るノーリーズンのセリフで、合宿の目的を思い出した。
今、ハヤトに勝つことよりも、デビューに向けた強化を図ることが大事なのだと。
とはいえ、相手が二本先取。もう一本取られてしまえば、ご褒美のスイカはなしだ。
このまま逆転は難しいだろうが、せめて一矢報いたいところ。だが。
「というわけで、ハヤトのストレート勝ちだな」
結果は惨敗。元々の力量が全く違うのだと痛感する。
この日のトレーニングはこれだけで終わりではなく、その後も様々なメニューが待っていた。
伏せた状態から立ち上がって旗を取りに行くビーチフラッグ、海水に入って決まった地点まで泳ぐ水泳、砂上での反復横跳びなど、いずれも学園では体験できないような、負荷のかかるトレーニングが中心だった。
いずれも、ハヤトとの勝負という形で行われたが、やはりどの種目でも勝つことはできない。デビュー前の段階でここまで実力に差があるものかと突きつけられ、その度に無力感に襲われる
やってもやっても追いつけない。それはいつか、トレーニングではなく、ただの蹂躙だとすら感じるようになった頃、ようやくその日のメニューが終わった。
宿へ戻り、食事を終え、割り当てられた部屋に入る。すると途端に疲労が襲ってきた。
体中がだるくて動けない。
ベッドへ倒れ込むと、同じ部屋に泊まることになったマヤノが声をかけてきた。
「ホップちゃん大丈夫? 顔色悪いよ」
「……大丈夫ッス」
正直、かなり参っている。
慣れない環境でのトレーニングが、体にかける負担は大きい。そして、何度も負けたことにより、精神面もボロボロだ。
そうやって声をかけてきたマヤノにも一目で分かるくらい、ひどい顔をしているのだろう。
心配かけまいと言ってはみたものの、それを見抜けないはずもないだろう。
カンの鋭さはチームでもずば抜けている彼女に、強がっても仕方がないことは分かっている。
それでも、泣き言を言っても合宿は明日も続くのだ。今から気持ちで負けていては仕方がない。
明日から、どうやってこの過酷な環境でトレーニングをするべきだろうか。
そんなことを考えていては眠れるはずもなく。悶々とした気持ちを抱えたまま、気づけば夜が明けていた。
日に日に、結果は悪くなってゆく。
ハヤトは徐々に砂浜に慣れ、力強く踏み込みながらも砂埃を必要以上に巻き上げることなく、それでも速度を落とさずに走る術を身に着けていた。
一方で自分はというと、砂上での走り方はある程度覚えたものの、それを活かして速く走ることはまだできずにいる。差は開く一方で、合宿が始まってから五日目となっても、たった一本すら取ることができずにいた。
勝てない、勝てないとメンタルも削られ、気がつけばすっかりトレーニングへのモチベーションも失っていたのだ。
合宿は七日間の予定。この日は六日目ということで、ようやく終わりが見えてきたという頃だった。午前のトレーニング前にトレーナーに呼び出され、自分は個室へやってきていた。
木造の建物、殺風景な部屋にはテーブルと四つ足の椅子が四脚ほど。自分の正面にトレーナーは座っている。
「単刀直入に聞くがな、ホップ。お前は、この合宿で何を学んだ?」
と、トレーナーは問いかけてくる。
自分はうつむいて口ごもるしかない。何を学んだか、何を身につけたか、そんなこと、自分でも分からない。
そもそも、何のために合宿へ来たのか。ただハヤトの規格外な強さを目の当たりにして、自分なんかじゃ到底太刀打ちできない、やっぱり自分程度ではデビューしてもG1どころか、一勝することすら困難ではなかろうかという不安を覚えただけだ。
どうやって走れば良いだろう。何のために自分はここにいるのだろう。
「答えるんだ、ホップ。思ったことを素直に言え。遠慮なんてしなくていい」
「……自分は、その。もう、くじけそうッス。思うように走れない、ハヤトにも追いつけない。マヤノ先輩のアドバイスをもらっても、ブライアン先輩の教えを思い出しても、何もピンとこないッス。何も身につかないし、こんなんでデビューしたって、勝てるわけがない、って」
「そうだろうな。合宿が始まってからずっと、一方的に負け続けてきたんだから、そんなところだろうと思っていた。一方で、ハヤトの方はどんどん力も自信もつけてきている。このままじゃお前は、何一つ成し遂げられないまま、学園を去ることにもなりかねない」
不安をズバリと言語かするトレーナーに、ますます気分は下がる。
言われなくてもそんなことは分かっている。
もうこの場で言い出してしまおうか。自分なんかには到底無理だと。もう学園を去りたいと。
応援してくれた母には期待を裏切る形になってしまうけれど、周囲の誰もが言ったように、やっぱり自分には無理だったと気づいてしまったから。
「確かに、実力ではお前はまだまだ足りていない。もっと鍛えなきゃならないだろう。だが、今、トゥインクルシリーズへ駆け出していくにあたって、お前はとても大事な経験を積んでいることを忘れちゃいけないんだ」
「大事な……? 何スか、それ」
何度挑んでも勝てない、どんなに走っても実を結ばない。
こんなに苦しい思いをすることに、どれだけの価値があるというのだろうか。
「レースというのは残酷なものだ。何人で走ろうが、勝利するのはたった一人。つまり、十六人のレースなら、十五人は敗北者となるわけだ」
それは、当然だ。勝負の世界なのだから。
生涯未勝利のままターフを去るウマ娘だって少なくない。
「つまり、どんなに優れたウマ娘であっても、勝利よりも敗北の方が多い。ごく一部の例外を除けばな。だからこそ、今、敗北の味を知っておくのは大事なことなんだ」
「何で、それが大事なんスか?」
「ブライアンの成績、知ってるか?」
今では臨時のチームリーダーを努めているナリタブライアン。クラシック三冠を掴み取った、誰もが認める最強ウマ娘の一角だ。
怪我を契機に成績が落ちた時期もあったが、阪神大賞典でマヤノと戦い、その強さを改めて証明した。
平坦ではなかったが、輝かしい競技人生であったに違いない。と、言ってみたが。
「それは、成功したウマ娘の、限られた部分しか見ていないんだ。多くのファンは、負けたレースよりも勝ったレースを語りたくなるものだからな。そこで、だ。これを見ろ」
そう言ってトレーナーが広げたのは、ナリタブライアンのトゥインクルシリーズデビューから引退までの競走成績を全てまとめた表だった。
一番上部、デビュー戦のところを指さしてトレーナーは語る。
「ブライアンはデビューで二着。そのわずか二週間後、未勝利戦に出て勝ち上がっている。翌月のG3レース、函館ジュニアステークスは六着。次のオープン戦は勝って、一ヶ月後のG2、デイリー杯ジュニアステークスは三着だ。さぁホップ、どう思った?」
「……思ったより、負けてるッス」
ナリタブライアンは、無敗の三冠ウマ娘というわけではないことは知っていた。
しかし、年末の朝日杯を勝つまで、重賞では勝てていないことがここから分かる。
「じゃあ、どうしてブライアンは三冠を取れたと思う? 有馬記念を勝てたと思う?」
「負けたから、それが、悔しくて、ものすごく努力した、とか?」
「違うな」
自分の考えを、トレーナーはバッサリと否定した。
「ブライアンは、負けたことを喜んでいたんだ。もっと強い相手がいる、もっと早いウマ娘がいる。それに挑戦できる、戦えることをな。だからもっと走りたいという一心で、走り続けたんだ」
あり得る話だ。レースジャンキーな気質のブライアンなら、相手が強ければ強いほど燃えるタイプだろう。
決して、本人がいる前でできる話ではないけれど。
「いいかホップ。負けることは恥じゃない。勝てないことは悪いことじゃない。この合宿の先を見ろ」
先。
自分が悩んでいたこと、辛いと感じていたことは、今、現時点の自分に対することだ。
フォームが悪い、踏み込みが悪い、ペース配分が悪い。
だからハヤトにも勝てないし、自信が持てない。
でも、トレーナーは「それがどうした」と言う。
「全ては経験だ。全てのトレーニングに、全てのレースに意味がある。正直、お前がハヤトに敵わないことくらい、やる前から分かっていた。でも勘違いするなよ、ホップ。俺は、
そう言って肩を叩き、トレーナーは部屋を出ていった。気づけばもうトレーニング開始時間が迫っている。
落ち込んでいる場合じゃない、くじけている場合じゃない。
自分が目指す道、目標は、きっとトレーナーが一緒に探してくれる。
マヤノが手伝ってくれる。ブライアンが引っ張ってくれる。
今がゴールじゃない、スタートだから。
少しだけ、前を向ける気がした。