・剣も魔法も存在しますが、あまり活躍はしません。
・店主は普通のおっさんとオリ主の兄ちゃんです。
・油そばはラーメンより幾分かヘルシーですが、食べ過ぎにご注意ください
「よし、じゃあアレッタさんは早速研修をしてもらうか。っというわけだから、孝樹。すまんが……」
「次の休みに行くから良いよ。その代わり……」
「ちゃっかりしてんな。分かったよ、休日手当ってことにしとく」
朝食後にマスターと孝樹が何やら話し込んでいたが、徹頭徹尾何を言っているのか分からなくなったアレッタが恐る恐る何をするのかを問いかける。その問いに『異世界には研修制度ないのか』とギャップを感じた孝樹が狼狽えつつも、研修の解説を始めるが──。
「その前に一応料理屋だし、身綺麗にしてもらう必要があるな」
今のアレッタは擦り切れた服に所々薄汚れた姿である。いくら異世界には衛生観念の意識が低く、清潔にする手段が限られていてもこちらの世界の飲食店で働く以上はちゃんとして欲しいというのが孝樹の思いであった。
ふと孝樹はマスターを見やると、どうやら彼も同じ認識だったらしい。アレッタを地下のシャワー室へと連れて行くが、少ししてからマスターだけが戻ってきた。いくらなんでも教えるのが早すぎると首を傾げていると、マスターは非常に嫌な仕事を孝樹に押し付けてきた。
「孝樹。俺がアレッタさんにシャワーの使い方を教えとくから、あの子の下着を買って来い」
「なぜに?」
「なぜって言われても……。脱水するまで下着無しとか変態だろうが」
道理だ。まさに正論ともいうべき完璧な説明だ。
しかし、自分だけダメージが少なそうな仕事でお茶を濁し、他人に嫌な仕事をさせる目の前の叔父に物申したい気持ちで一杯だった。
ただ、ここで言い争っても困るのはアレッタだ。それに幸い似たような状況に陥ったことがあるため、ナオキは渋々と言った様子で出かける準備をしていると、マスターが『経費にするから領収書切ってくれよ』と難易度が鬼高くなる条件を付け足さしてきた。
「そんなに無茶ぶりばかり行ってると、夏華に何言うか知らねぇからな」
「おまっ……、分かったよ。領収書切れたらで良いからさっさと買ってこい」
とある中華料理専門店の娘の名前に思い出すのも憚られる記憶を思い出したマスターは、あっさりと条件を下方修正する。それほどまでにその情報は彼にとって弁慶の泣き所のような物なのだが、孝樹はニヤついた笑みを崩さずに扉から出て行った。
扉の先は異世界──ではなく、見慣れた場所。階段で上へと上がると見慣れた商店街が顔を覗かせる。
「そういえば、うちのシャワー室って男物しかなかったよな。ついでに買っていくか」
アレッタが給仕として加入するとなると、必然的にシャワー室の数少ない女性利用者が増えることになる。そうなれば今までのように加齢臭やフケ予防、炭の成分配合といった男性用の物とは別に女性用の物をこの際だから仕入れておくのも悪くない選択ではないだろうか。
さらに言えば、下着単体で買うよりもタオルやシャンプーといった物を一緒に買うことで『知り合いの着替えが無いから代わりに買いに来た』という理論武装もしやすい。そうと決まったら早速とばかりに孝樹は行きつけのコンビニへと突撃した。
「うーっす」
「いらっしゃいませー。あ、孝樹さんお久しぶりです」
「お、孝樹じゃん。こんな時間に珍しいな。またあそこ行くのか?」
来店音に気付いた青年たちは、入って来た孝樹に挨拶しながら出迎える。彼らは孝樹の同級生と1つ下の後輩で、特に男の方は彼が練習用の食材を購入するために倉庫型店舗に足を運ぶきっかけであり、今まで車を出してもらっている間柄だ。
しかし、今回は別に足が欲しくて来たわけではない。品物が品物なので、孝樹は2人に聞こえるような声量でこっそりと要件を話した。
「いや、今回は別件。実はシャワー室の清掃する時に失敗したアホが居てな。たしかここって女の子用の替えの下着とかシャンプーとか置いてたよな?」
「あ? たしかに女物は置いてるがアホって……。あー、早希ちゃんか」
「あー。でも、若い女の子が履くような可愛い奴は置いてませんよ?」
対象をあえて言わなかったおかげで2人は勘違いしたまま商品を探す。このコンビニは商店街とオフィス街の中間に位置するため、店長判断で男性用女性用問わず下着やシャンプーといったものを数点仕入れている。
ただ、下着はどれも無地なものなので少なくとも年頃の女の子が履くようなそれではないと言って来るが、孝樹は『問題ない』と適当なシャンプーなどを手に取って籠に放っていく。
異世界はこちらの量産品でも上等な部類に入っていることを考えれば、逆にアレッタにそういった専門店の物を渡せばどうなるかは分かり切っているからゆえの無頓着具合さ。しかし、その様子を見かねた後輩が籠をひったくると、ものすごい勢いで商品を籠に移してレジへと向かった。
「私目線ですが、お勧めを選んでおきました。購入お願いします」
「おいおい、コンビニ店員が勝手に商品を……ナンデモナイデス」
ものすごい目力によって無理やり納得させられた孝樹は財布を取り出す。たしかに後輩目線でも選んで欲しかった節もあったのだが、些か適当に選び過ぎたらしい。
そのまま樋口さんを1人渡そうとしたが、ふと領収書を切るのを忘れていたのできれるか問いかける。すると、当たり前だが同級生も後輩も突然笑い出した。
「お前なぁ。普通、それで領収書切るか?」
「うっせーな。一応、シャンプーとかボディソープはねこやの女性従業員の福利厚生も兼ねてんだから良いだろ?」
「先輩、先輩。飲食店だから、"食材"で良いですか?」
「はっ倒すぞ? 素直にお品代……は、今はまずいんだっけか。ボディソープとシャンプーその他とかにしといて」
今は 税務関係で面倒になるためにお品代という但し書きは忌避される流れにある。そのため、福利厚生として怪しまれない程度に具体的な商品名を複数羅列して最後に『その他』を付けて誤魔化してもらった孝樹は会計を済ませて元来た道を帰って行く。後で早希にも口裏を合わせとかないとバレかねないため、後で久方ぶりに連絡でもしようと脳内スケジュールに書きこんだ彼がねこやの扉を開いた。
「お、おかえり。どうだった?」
「とりあえず、早希がシャワーひっかぶったせいにして上下の下着とボディソープとシャンプーとタオルも買ってきた。領収書はこれ、ちゃんと税務署対策で福利厚生になるような商品名書いてるから」
「助かる。しかし、お前はそこら辺よく悪知恵働くよな」
領収書を見ながら呆れるマスターに『叔父さんが行けばよかったじゃないか』と反論しつつ、キャミソールとパンツの固定を鋏で切り離した孝樹は、シャワー室の前にそれらを置いてから脱兎の勢いで逃げ出した。
しばらくした後、半そでの白ブラウスと黒のベストや黒い膝上丈のフレアスカートの上から黒猫のアップリケがついた白のエプロンを身に着けたアレッタが姿を現した。
「ど、どうでしょうか?」
「うん、合格だ。飲食店だからな、来たら真っ先にシャワーを浴びて仕事をしてくれ」
店員が不衛生だと飲食店としては論外だ。そのため、雇用する上で最優先される約束事を良いつけたマスターはアレッタの返事を合図に笑みを作りながら研修の開始を告げる。
始めは店内や厨房の掃除の仕方を教えるが、これは流石に酒場で働いた経験が多いアレッタでも初めて体験することばかりであった。それぞれ壁や机を磨くように渡された数枚の布巾にそれぞれに使用する数種類の薬剤。孝樹のサポートもあって何度か間違えそうにはなったが、アレッタはマスターたちと共に厨房や食堂部分を綺麗にしていく。
「叔父さん、スタッフルームもしといた方が良いよね?」
「そうだな、やっちまうか」
店部分が綺麗になると、対照的にあまり熱心に掃除していなかったスタッフルームが汚く見えてしまう。それに気づいた孝樹はマスターに提案すると、彼も腰に手を当てながらアレッタを見やる。
「アレッタさん、すまないがこっちを孝樹と一緒に片付けてくれるか? 俺は昼飯作っとくから」
「分かりました!」
アレッタは元気な返事をすると、マスターはにこりと笑って厨房に引っ込んでいく。しばらく孝樹と一緒に片付けていると、ガコンガコンという硬い物をぶつけ合っているような豪快な音やジャーという何をしているのか分からない音と共になんとも香ばしい匂いが漂ってきた。
クゥ──
「あう……」
「仕方ないよ。動いてるんだし」
「あ、あの! ところで異世界食堂って一体何ですか?」
その良い香りに朝食を食べたはずの腹が寂しくなってしまい、その音に恥ずかしがるアレッタ。そんな彼女に孝樹は若干のフォローを入れるが、それでも彼女の羞恥心は打ち消せなかったらしい。傍目から見て白々しいにもほどがあるほど慌てた彼女が異世界食堂についての話題に移して来たので、『説明しとくか』と孝樹は奇麗になったスタッフルームに置いている椅子を引っ張り出してきた。
異世界食堂はアレッタの世界の住人が名付けた別称であり、本当の名前は洋食のねこやであること。
洋食というのは基本的には孝樹の世界のよその大陸から孝樹の国に入ってきた料理全般のことだが、先代マスターの時から既に『洋食屋というより何でも屋』という認識が持たれていたため、そういった括りは気にしない方がだ良いということ。
そして……、扉は7日に1度開かれるという制約からその間のアレッタの無事は保証されないこと。
特に1番最後のことが不安だった孝樹は彼女に身の安全について問いかけた。
「大丈夫? 良ければ常連の人に色々頼むけど」
「いえ、大丈夫です。あそこにはかなり住んでるので、色々熟知してますから」
自信ありげなアレッタの言葉に若干不安になりながらも孝樹は『ロースカツの爺さん辺りに頼んでみるか』とサブプランを考えながら異世界食堂についての講習のようなものを続けた。
***
「じゃあ、実際に接客の練習をしていこう。孝樹は客役を頼む」
「はい!」
昼。賄いとしてチャーハンというアレッタのしらない米料理を食べた彼女は、すっかり元気一杯という様子で返事をする。
酒場では文字は分からなかったものの、『誰が何をどのぐらい注文した』といった記憶力だけは自信があるらしい。既にマスターや孝樹から一通りの挨拶を噛まずに言えているため、とりあえずやってみようと2人は早速研修を開始する。
マスターが厨房に行き、孝樹は1度厨房へ行って小型のナイフを持ってからねこやの扉を開けて外に出た。
「日曜日で良かった」
日曜日の真昼間のねこや近くなど誰も通らないだろうが、ナイフ持ちの不審者と通報を受けるのは避けたいと思った孝樹は心なしか機敏な動きでねこやの扉を開ける。扉が開かれたことでアレッタが先ほどのような元気いっぱいな様子で応対してくるが、孝樹はやや挙動不審気味の動きで片手に持っていたナイフを彼女へと向けた。
「いらっしゃいませ。ようこそ、洋食のねこやへ」
「な、なんだ! この店はっ……!」
「うぇっ!? タカキさんどうしたんですか?」
「あー、アレッタさん。これがうちに始めて来た客のお決まりの文句だから」
アレッタが狼狽え始めたため、とりあえずナイフをテーブルに置いた孝樹は頭を掻きながら答える。
アレッタの世界は剣と魔法が不通にある世界なので、辺鄙なところに出来た扉から入って来る初めての客は大抵帯剣している。そのまま警戒心マックスな状態でここに飛び込んでくるわけなので、まずは獲物の間合いに入らないようにしながら宥める必要があるのだ。
「まぁ、うちの常連がねこやの財産を守るとかなんとかっていう魔法? っていうのをかけてくれてるみたいだけど、念には念を入れてね」
「なるほどー」
孝樹の言葉を忘れないように距離の測り方や宥めるための言葉を反復練習するアレッタ。その後はエルフが来店した際の注意の仕方や、常連でも一応はメニューを持って行くといった細々した研修が続いた。
特にエルフについてはプライドが高い人も居るため、孝樹は『肉も卵も乳も使わない食事をくれ』とやや高圧的に言ってしまうが、彼女は笑顔で『マスターに聞いてきます』と対応。文句なしの接客に2人は早々にアレッタを心強い新たな戦力としてカウントしていた。
こうして接客の研修が終わり、続けて皿洗いやビールのつぎ方など様々な研修をしているといつの間にか時計の短針は6を指していた。
「よし、じゃあ晩飯にするか。俺は改めてアレッタさんに契約とかの話をするから支度は孝樹に任せても良いか?」
「あぁ、確かにしてなかったね。分かった、冷蔵庫にある物はなんでも使って良いよね?」
「期限がそろそろ切れる奴を積極的にな。後、昼のチャーシューが半端に残ってるから使ってくれ」
奥から紙を何枚かと朱肉を持ってきたマスターが孝樹に夕飯の支度を頼むと、彼は『分かった』と意気揚々に厨房の冷蔵庫を覗き出した。
***
叔父さん──マスターから晩飯の支度を託された俺は冷蔵庫を見る。熟成中の肉や明日の日中営業を見越した下ごしらえが所狭しと並んでいるが、下段の引き出しの中を探るとちゃんぽんで使うような太麺タイプの生麵がいくつか出てきた。ちょうど良い、これで昼飯が中華だったから俺も麺で行こうかな。
ただ、今からスープを仕込んでいる暇は当然ないし、スープ無しで麺を食べさせるのは味気ない。……いや、よくよく考えれば『アレ』があったな。アレならばめんつゆにごま油、後は砂糖とか調味料あれば分量を外さなければ早々失敗しないだろう。
後は野菜類だが、玉ねぎと普通のネギは当然ある。逆になければ今すぐ発注してるか確認しないといけないから当たり前か。
「まずは薬味から」
俺はそう独り言ちながら玉ねぎの皮を剥いて粗みじんにする。好みは分かれるが、俺は麺のもちもち具合と玉ねぎのザクザク食感が合わさるのが好きだ。油でギトギトになった口の中が幾分がさっぱりするし、食感が変わるという効果も案外馬鹿に出来ない。
玉ねぎのみじん切りを水に晒して辛みを抜いている間、ネギやニンニク、ショウガといった追加の薬味を玉ねぎよりも小さいみじん切りにし、全て耐熱性の容器へと移す。これは後で熱したゴマ油を回しかけることで油通しをしたような状態にするのが目的だ。これをすることによって甘味や風味が立ち、さらにサクサクするから好きなんだよね。
それにアレッタさんは油そばだけじゃなくてこちらの味付けも慣れてないだろうし、なるべく後乗せで味を調整できるようにしたいという気持ちもある。異世界食堂で働く以上、早くこちらの料理に慣れてもらう必要もあるしね。
後は大きな鍋に湯を沸かし、太麺を茹でる傍らで肝心のタレを作る。
まずは小鍋に麺つゆと砂糖を入れたものを煮立たせ、オイスターソースを匙で少量ずつ入れていく。こいつは大量に入れると台無しだが、少量のみならばむしろ味に深みを与えるくれる良い存在だ。後は鶏がらスープの素を先ほどのオイスターソースよりも大匙1杯ほど多く入れてあげればぐっと中華っぽい味に纏まってくれる。
さてさて、酷い味にはなってないだろうけど料理人たるもの味見が大事。というわけで綺麗な匙でタレをすくってひとなめすると──。
「んー、ちょい薄い? もっとガツンの方が良いよなー」
俺にはちょっと物足りなかった。薬味があるから濃い目はタブーだが、これは何というか……主にコクというのかな。味の奥深さが足りないような気がした。
めんつゆで楽をしすぎたのが敗因だろうか。素直に醤油とみりんとか使えば良かったかな。
ともあれ、修正しなければならない。かといって醤油味を強くすればみりんや料理酒といった他の調味料も入れなければならないため、もっと手軽にパンチのある物はないかと周囲を見渡していると、先程取り出していたチャーシューが目に入る。
「マスター、チャーシューの煮汁ってある?」
「ん? 朝飯用の煮卵を漬けてる奴で良かったら冷蔵庫にあるぞ」
アレッタの親指に朱肉を付けていたマスターの言葉に従い、俺はすぐさま冷蔵庫の扉を開ける。そして、下段付近にひっそりと置かれていた中身が黒いタッパーを手に取り、中の煮汁を白く固まった脂ごと大匙2~3杯分入れてから攪拌。再び味見を行う。
「上出来かな」
少々物足りなかったタレが豚の脂が混じった醤油味が追加されたことで良い塩梅となる。そのままタレをそれぞれのどんぶりに入れていると麺を茹でる時に押していたタイマーが鳴ったので、茹で上がった麺を引き上げては丼へと入れていく。
これで本体は完成、最後はトッピングだ。水に晒して辛みを幾分か抜いた玉ねぎを器に移し、チャーシューをまな板の上に置く傍らで小さなフライパンにごま油を数mm程度の深さになるまで投入して加熱していく。
チャーシューは厚切りを何枚も乗せるのも良いが、それだと冷蔵庫において固くなった脂は溶けないだろう。そう考えた俺は茹で立ての熱気で固まった脂を溶かすためにチャーシューをあえて小さく拍子切りにして丼へと投入する。
そうこうしているとごま油を投入したフライパンから煙が立ち上り始める。頃合なため、先ほど切って置いていた玉ねぎ以外の薬味が混ざった耐熱容器をフライパンの近くへ移動させてから十分に熱されたごま油をその中へと投入。バチバチという音と共に薬味たちに火が通っていき、厨房になんとも良い匂いが充満していく。
そろそろ本当に完成──と思われたところで俺の後ろからマスターが声をかけてきた。
「お、期待できそうだな」
「契約は終わったの?」
俺の言葉に答えるようにマスターが数枚の契約書を見せてくる。その中には拙い字だがアレッタという『日本語』が書かれており、その横に拇印が押してあった。
話を聞くに彼女はあちらの文字も書けないらしく、それならばとマスターはこちら側の文字を記号として書き方を教えたのだとか。相変わらず、頭の回転が早い人だ。
「丼と玉ねぎの方、持って行っとくぞ」
「アレッタさんにはフォークとスプーンで。ちょっと上行ってくるからこの耐熱容器のもお願いします」
「分かった」
箸はまだアレッタさんには早すぎるだろう。そう思った俺は食器を含めた配膳をマスターに任せ、ねこやがある地下からエレベータを作って3階の個人用へと移動する。
「えっとー、確かこの辺に……。あった、あった」
入っている調味料の山から俺は目当ての物を持って下へと降りていく。すると、既に食事が始まっているようだ。幸せそうに麺をフォークに巻き付けて口に運んでいるアレッタさんの姿に少々心をほっこりさせながら俺はマスターたちに近づいて行った。
***
マスターに混ぜてもらったアブラソバという不思議な料理。しょっぱいのに噛むごとに甘くなって、ついついもう1口を食べ進めたくなる未知の味にアレッタはもう夢中だった。
途中でマスターがちょっとだけ入れてくれたヤクミというものはシャクシャク、サクサクという小気味良い音と一緒に鼻の奥にチャーハンが作られている時に嗅いだ覚えのある止み付きになる香りが通り抜けていく。時折、生のオラニエ特有の辛みもあるのだが、それもちょっとヌルヌルしだした口の中をさっぱりとさせてくれる。
始めて食べたのに何故か夢中になってしまう味。そんなアブラソバをアレッタが食べ進めていると、タカキが2本の筒を持ってやってきた。
「ほい、酢とラー油。どっちも気を付けてかけてね」
そう言ってテーブルに置かれたのは2本の筒。アレッタは見覚えのない素材で出来たそれらはちょっと白っぽくて中身がよく見えないが、薄い黄色の中に黒い板がある液体と薄い赤のみの液体が見えた。
ただ、それらをどう使うのかが分からずにとりあえず、黄色い方の筒を持って首を傾げていたアレッタにタカキは『ちょっと傾けてみて』と助け船を出す。
「えっと、こう……ですか?」
「うん、最初は少量から試してみて」
筒から黄色い汁がアブラソバに上に掛けられる。少量でというタカキの助言に従ったアレッタは筒を置くと、先程マスターがやってくれたようにフォークとスプーンでかき混ぜていく。そうすると、今までなかったはずの酸っぱい匂いが彼女の鼻に入って来た。
酸っぱい物が基本的に腐っていて危ない物だと思っていたアレッタは混ぜ終わったアブラソバをフォークに巻き付ける手が少々震えていたが、朝と昼の経験から思い切って一口。すると、今まで食べていたアブラソバが別物にかわったように彼女は感じた。
「お、美味いな」
「油そばには酢だよね。ちなみに昆布も入れてるよ」
タカキの言葉は余り分からなかったが、スと呼ばれていた酸っぱい汁がアブラソバを食べ進めたことで慣れてきた舌に別の味を与えてくれる。新たに感じた酸味により、アレッタの麺を食べ進める速度の拍車がかかる。
しかし、そうなってくると今度は赤い筒の物も試したくなってくる。先ほどと同様に中の赤い汁を少量掛けてから混ぜ合わせ、食べる。
──辛かった。
「ふ、ふひっ……!?」
「ラー油はピリ辛の奴を選んだけど、アレッタさんには早かったか」
舌を引っかかれるような刺激に面食らったアレッタにタカキは心配げに見てくるが、そのままもぐもぐと咀嚼する彼女は『あ、美味しい』と口にする。
たしかに何も知らずに口に入れた時は驚いたが、辛いだけの酒場の料理とは違って他の味も分かるような弱い辛み。むしろ、この辛みも先ほどの黄色い汁と同様、舌に新たな刺激を与えてくれる。
シャクシャク。サクサク。モチモチ。食べるごとに食感や味がどんどん変わっていく。すっかり意識が食べ物へ向いたアレッタが底が見え始めた丼の中の麺を全て食べきるのにそう長い時間はかからなかった。
***
その後、タレだけと空になった丼に米を入れるオイメシをした彼女は、今日分の賃金を受け取って住処へと戻ってきた。パタンと閉じられた扉が溶けるように霧散する光景にようやく異世界へ行っていたことを自覚したアレッタは、あちらで覚えてきたことを反復練習しながら賃金を分けてそこら中に隠し始める。
「明日から、頑張らないと」
すでに昨日まであった最後の手段を使う気は一切ない。出来れば給仕以外の仕事にありつけるように魔族の神に祈りながら彼女は毛布の中へと潜り込み、やがて穏やかな寝息を立て始めた。
今回でストックが切れたため、貯まるまでお待ちください。
では、良いお年を
後書き
アレッタを返してすぐのこと。孝樹はすぐに実家へと電話する。
「つーわけだからさ。適当に話を合わせといて」
「りょーかーい。しかし、世の中物騒になったよね」
「まぁ、そういうわけだから」
孝樹が適当にでっち上げた『女性従業員がストーカー被害にあってたから泊まらせた。着替えは早希がシャワー室の掃除ミスったことにして買ってきた』というカバーストーリーに、電話に出ていた彼女は二つ返事で了承する。
ちなみに早希がここまで素直にうなずいたのは、少し前にこの辺りで不審者が出たばかりということもあったが、マスターと孝樹がそんなことをする甲斐性も度胸も無いという嫌な信頼があったからなのだが、孝樹はそんなことは気づかずに電話を切ろうとする。
しかし、唐突に早希の言葉が途切れると、電話口から妙齢の女性の声が聞こえた。
「孝樹。あっちの食堂はどうだい?」
「あ、婆ちゃん。一応は順調だよ。今日、向こうの人を1人ウエイトレスにしたから」
「へぇ、あっちのをね……。どんな人なの?」
「えーっと、頭に山羊の角がついてて……。あ、魔族って「孝樹、魔族は止めておきなさい」」
唐突に会話を遮った彼女はそのまま電話を切ってしまう。ツーツーという音が響く中、孝樹は1人『なんだったんだ?』と疑問の声を上げるのだった。