「今から二十年前、相模湾大災厄という事故が起きたことは知っているな?」
「いえ……」
「嘘だろ?刀使なら確実に授業の中でも教わるし、毎年必ずニュースにも載るだろう!」
「私、半年前以前の記憶がなくて。それより以前のエピソードは全く思い出せないんです。授業でも聞いた覚えがないので、多分範囲外ですね。ニュースは普段からあまり見ません」
「そんなことになっていたのか……」
百柄を共犯とすることを決め、姫和は意を決して今回の事件に隠された秘密を話そうとした。しかし百柄の記憶喪失とそれに伴う知識の不足が露呈し、いきなり出鼻を挫かれる。
突然の暴露に頭を抱えてるが、まぁ知らないのならそこも説明してやればいい。手間は増えるがそれ以上のことはないので、姫和は今日いろいろあって乱れていた精神を落ち着かせてから、改めて百柄に必要な話を始めた。
「まぁ文字の通り相模湾で起きた事件だ。江ノ島に現れた史上最悪の大荒魂を、それを折神紫をはじめとする6人の刀使が討伐したという内容だが。その中には私の母もいたんだ」
「十条先輩のお母様、ですか?」
「ああ、折神紫の他の5人は今の伍箇伝の学長達のこと……6人の中に母は含まれていない。世に知れ渡っている記録からは抹消され、大災厄ではいなかったことにされたが。母には唯一、大荒魂を完全に討ち滅ぼす力が備わっていたそうだ。世界を滅ぼしかねないと人々から恐怖された大災厄……忌むべき存在を消し去る力を」
「でも奴は今も尚生き延びて、折神紫として社会に潜んでいる。つまりはそういう訳、ですね」
その後、刀使の力を使い果たしたことで姫和の母は少しずつ弱っていった。姫和が何とか支えることで保たせていたのだが、去年遂に……
「その時私は誓ったんだ。母さんがやり残した務めを代わって私が果たす、と。母さんの命を奪って尚人の世に潜み続ける奴を討つと!」
「……そういうことだったんですね。教えてくれてありがとうございます。十条先輩がずっと心の内に抱え込んでいたこと、少し分かります。私も家族を荒魂に殺されたそうですから」
半年前の災厄で脳を壊された百柄は、風隠の森で目醒める以前の記憶がない。当時の自分にいったいどんなことがあったのかは、戻ってから残されていた記録を探ることで知った。
家も、通っていた学校も、一緒に暮らしてきた家族も、共に学んできたクラスメイトや友達も。関わりがあったであろうと警察から百柄に渡された名簿に書かれていた名前は、全てが災厄の犠牲者一覧に登録されていた。
心底胸の奥がムカつくのを感じた。顔も名前も思い出せないかつての大切な人達。みんな……みんな死んでしまって悲しいはずなのに、百柄の眼からは涙の一滴すら落ちもしない。死者の冥福を祈り黄泉路へ送り出すことも、その死を悼む気持ちになれないのではできやしない。心に在るのはただこの惨状を生み出した荒魂への怒りだけ。その激しい怒りがまた、百柄の心を酷く苛立たせていた。
「何も分からない。それ故か私には大切だった誰かの死を悲しみ涙を流すことも、その死を悼み手を合わせることもできませんでした。それくらい記憶がなくてもできるだろうとは、自分でも思っているんですが……何も知らない、分からない癖にただ人が死んだから手を合わせて悲しむ。そんな半端なことをしたくはなかったんです」
「お前もお前で、大変だったんだな」
「そうですね。記憶を無くした私に残ったのは刀と七笑流剣術……命を助けられた時にそこの人達から教わった、荒魂を斬る術だけでした」
「それでか。聞いたことのない流派だったのは」
百柄のことを聞いて、姫和は彼女の強さの理由が分かったような少しだけ気がした。
一度死にかけた上に記憶を失い、残ったのは荒魂に対する怒りとそれを滅ぼすという使命感だけ。それだけを支えにして、アイデンティティを保たせてきたのだ。百柄は実際半年前に初めて刀を握ったということは聞いている。たったそれだけの短い期間でこの強さに至ったのは、そうでもしていないと自分が分からなくなるから、そうするしかなかったということもあるのだろう。
「……待て。じゃあ私を動けなくしたあの変な風はいったい何なんだ?あんなこといくら御刀に神力があるからと言っても、できる訳が……」
「私の持つ陽剣【七笑】は、実際のところ御刀ではないんですよね。確かにこの刀に荒魂を斬るだけの力はありますが、あるのは御刀が持つような神力ではなく、妖力と呼ばれるものです。私が使っていた風はその妖力を使ったもの……刀だけでなく私自身にも妖力があるので、七笑を持たずとも妖術を使うことはできます。ほら、この通り」
指先で小さな旋風を起こし、百柄は姫和に妖術がどのようなものであるかを見せる。刀使とは全く違う力を使っていることは、余計な揉め事の元になり得るので言わないようにしていたのだが……流石にあんな大勢が見ている場で使った上に、これからは一緒に行動することになる姫和にも隠しておくのはフェアじゃない。
妖力は神力の代わりになるということは、百柄は身をもって知っているが。その逆は御刀を持っていないため試せずじまいで分かっていない。せっかくだしこの機会に確かめてみようとも思ったが。
「やっぱり、難しいですかね?」
「そうだな……【一の太刀】はかなりの無茶をするから身体に大きな負担を強いる。使った後は反動でしばらくの間は写シも貼れないくらいには、弱体化してしまうんだ……」
「十条先輩にも【御伽莉花の幻】が使えれば逃亡に役立てられたんですけど……今のコンディションではしょうがないですね。私が幻覚を作り出して外見を誤魔化すので、しばらくはそれでいきましょう。私の幻は精度が完璧じゃないので、注意深く観察されたら違和感に気付かれてしまいますが」
「……ないよりはマシ、か。やってみてくれ」
その指示に従い、百柄は姫和と自分を幻で覆い見た目を別人に変化させる。本家であるオロシと違って百柄の幻術は完璧でないので、あまり本物とかけ離れた体格にはできないし、指先や鼻など端の部分が曖昧な作りになって見る者に違和感を生じさせてしまう出来となっている。
それでもマスクや手袋で誤魔化せる範囲であるので姫和はこれでいいと納得し、百柄を連れて本来の目的地を目指すことにした。
「取り敢えず、ここを出よう。鎌倉市内ならいずれは捜索の手がここにも来るはずだし、ある神社にもしもの時のための軍資金を隠している。それを回収してから東京方面まで逃げるぞ」
「東京方面ですか?」
「伍箇伝のある地域は全て、折神紫の目が届く場所だと思った方がいい。この辺りならばまだ追っ手の包囲網も薄いだろう」
「成程、それならマスクどうぞ。手袋も」
造形の曖昧な部分を覆い隠し、近くに刀剣類管理局の回し者がいないことを確認してから2人はこっそりと廃ビルを出ていく。姿を変えたおかげか特に怪しまれることはなく、何事もなく姫和が軍資金を隠していた神社まで辿り着くことができた。
「ちょっと【御伽莉花の幻】切りますね……あまり長い間使ったことないから疲れる……」
「ありがとう。うん……置き引きもされずちゃんと残っているな。心許ない額だが、これでしばらくは何とかなるだろう」
「まぁ……あんな周りに大勢の刀使がいる中で暗殺仕掛けて、まんまと逃げおおせられるなんて普通は思いませんからねぇ」
「その通りだな。さて、東京までの道のりを行く手段だが公共交通機関はリスクが高い。お前の空を飛ぶ妖術で行くことも選択肢だが、トラックなどの荷台に隠れて便乗するのがいいだろう。どうせどこも検問はしているだろうし、隠れ場所があった方が撒ける可能性も高まる」
別に【御伽莉花の幻】で見た目を誤魔化せば妖術を知らない相手は欺けるだろうが、それはそれで百柄に大きな負担を強いることになる。追っ手の検問にいつかかるか分からない以上は、負担の大きい技を使ってはいられない。
幸いなことに、この辺りは近くにスーパーマーケットがある。そこに納品に来るトラックに身を隠すことができれば、普通人が乗ることがない荷台までは検問でも深く確認はされないだろう。鎌倉さえ出られれば東京までの道のりも開ける、そういう判断だったが、その前に一つ壁が立ちはだかる。
「……見つけたよ。姫和ちゃん、百柄ちゃん!」
「可奈美……ッ。よく来たね、あなたが刺客か」
「堀川さんっ、ここで戦闘は」
「分かってますよ。十条先輩は下がって回復に専念していてください」
刀剣類管理局が派遣した追っ手、その中の一人である可奈美に逃亡する前に見つかった。
可奈美は取り調べで暗殺事件に関しては何も関係ないということを証明され、その後は2人を捕らえるための捜索隊の一員として派遣された。百柄には空を飛んだり姿を消したりと、様々な不思議な術を使われるが。それでもそう簡単に遠くまでは速度的にいけないはず。だから身を隠しやすいところにいる……そう判断して屋敷から近場の隠れ家にできそうな場所を虱潰しに探していき、ようやく見つけたという訳である。
「可奈美ちゃんだけじゃなく、私もいます」
「舞衣もか……悪いけど、ここで足踏みする訳にはいかなくてね。戦闘になるというのなら怪我させることも辞さないけど……どうする?」
「怪我……?百柄ちゃん……そんなことを言ってる時点で甘いよ。私達は御当主様を殺そうとしたあなた達を、死体に変えてでも連れてこいっていう命令を受けてるんだよっ!?」
「そんなことはしたくありません……どうか大人しく投降してはくれませんか、2人とも!」
大人しく捕まることを促されるが、そんなことは土台無理な話である。百柄は姫和を後ろに庇いつつ2人と斬り結び、逃げ道を探す。正門の方は舞衣が塞いでおり、塀には登れそうだが姫和を抱えながらでは恐らく逃げ切れないだろう。
ここで手こずって応援を呼ばれては、更に対処のしようがない状況になってしまう。道中で追っ手を撒くために使った【御伽莉花の幻】で自分もかなり妖力を消耗しているが、この状況では出し惜しみをしている場合ではない。
「【太郎坊の大風】────!」
「ッ……【金剛身】!あっ、舞衣ちゃん!?」
「きゃっ……!」
「人の心配、してる場合かい」
妖術を使ったとて、生半可な威力では【金剛身】で防がれてしまう。なので百柄は自分の使える中でもかなりの威力を出せる技を選択した。想定通りに【金剛身】で身を吹き抜けるような突風を堪えようとする可奈美と舞衣であったが、舞衣の方は身体を支え切れず吹き飛ばされ外まで弾かれる。可奈美はそれを見て助けに行こうとするも、友人がやられたことに動揺した一瞬で阻止されてしまった。
可奈美は剣撃をどうにか受けているが、百柄はどうも準決勝で戦った時のような覇気がないことに違和感を抱いた。あの時の彼女なら、連撃の隙に反撃の一つでも差し込みそうなものだがそれがない。心が迷い揺らいでいる、斬り合いを通してそれが手に取るように分かった。
──まさか、ね。
「……可奈美。あなたもアレ、見たのかい?」
「……御当主様の髪の裏、のこと?」
正解だった。百柄が折神紫の裏に潜む荒魂の存在に気付いた時、タイミングを同じくして可奈美もまた気付いていたのだ。
揺らいでいるのはそのせいだろう。今自分は刀剣類管理局の命令で百柄と姫和を追っている。それはつまり折神紫の……荒魂のために仕事をしているということになるのだから。
──だったらここで、可奈美も引き込む!
「分かってるなら話は早い。可奈美……あなたにも私達と一緒に来てもらうよ。でなければここで私はあなたを斬る。あなたなら舞衣を悲しませるようなことはしないと、信じて答えを聞こうか」
「っ……!わかっ、たよ……!」
「助かるよ。……舞衣!御刀を置いて、膝を着いてもらおうか」
「……!?分かった」
──ごめんね。
舞衣が従って御刀を手放したのを見て、百柄はすぐに【御伽莉花の幻】をもう一度使う。大技を使って居場所がバレているかもしれない今、しんどくても早く抜け出す必要があった。
「みんな……可奈美ちゃん、大丈夫だよね……」
可奈美が折神紫に荒魂の影を見たことを、舞衣は彼女に聞かされて知っていた。だからこそ百柄は可奈美を連れ去ったのだろう、折神紫を斬る刺客の一員となってもらうために。
「学長が渡してくれた紙……」
捜索にかかる前、美濃関の学長から「困った時に開きなさい」と渡された1枚の紙がある。きっとあれが可奈美の助けになると信じて、舞衣は誰もいなくなった神社を去り報告に向かった。