「あ……うぅ……?」
「目が覚めたか。だが身体は起こすな、できる限り安静にしていろ」
「怪我人はー」
「安静にー」
「してろー!」
「は?え……?な、に……?空飛ぶ鼬……?」
百柄が覚醒した時、そこは天国でも地獄でもなくどこか懐かしい雰囲気の日本家屋の中であった。病衣と包帯は新しいものに付け直され、冷やした手拭いを額に被せられ、治療を受けている。頭は痛むし重いし気分としては最悪だが、不思議ともう自分が死ぬというような感覚は無くなっていた。
目を醒ました百柄に声をかけたのは、長い黒髪をポニーテールに束ねた小柄な少年……と、色だけが違う同じ姿形をした謎の空飛ぶ鼬であった。
「取り敢えず、ここのことを教えよう。寝たままでいいから聞いてくれ。もっとも、そう簡単に受け入れられるような話ではないと思うが」
「きっとびっくりー」
「おっかなしゃっくりー」
「おったまげー!」
空飛ぶ鼬のことは無視して、少年は百柄をここに連れてきた経緯とこの場のことを説明する。簡単に纏めると現在、百柄は神隠しに遭っている。
ここは『風隠の森』と呼ばれる秘境。外界とは隔絶された言うなれば別世界であり、霧の出る満月の夜に、日本のどこかの森と存在が繋がってしまうのだという。少年はそんな外界と風隠の森が繋がる日に迷い込んでしまった一般人を、安全に元の世界へ返す役割を与えられているとのことであった。瀕死で倒れている百柄を見つけたのは、その見回りの途中であったという訳だ。
「俺はヒエン。君が死にかけていた理由は後で聞くとして……本当に運が良かったな。あの時、俺だけでは君の命を助けることはできなかった。お師匠がたまたま一緒でなかったら、君はそのままあの場で命を落としていただろう」
「お師匠……?」
「後で君の様子を見にくるはずだが……一応この場で知っておいた方が衝撃が少ないかな?この風隠の森の主人にして、天地揺るがす大風を司りし大魔王ナナワライ。大層で恐ろしい二つ名で呼ばれたりしているが、実態は心優しいお方だよ」
「大魔王……」
聞き慣れない、そして信じ難い言葉ばかりが出てくる説明に、百柄の脳は混乱を極める。しかし今もこうして自分が生きていること、彼らが自分を死の淵から救ってくれたことは理解した。突拍子もないことについては受け入れるまでには少し時間がかかるだろうが、それも時間が解決してくれるだろう。百柄は災害の日から初めて落ち着いた気持ちで、ヒエンの言葉を飲み込んだ。
「助けてくれて、ありがとうございました」
「礼はいい。俺は見つけただけ……君の命を救ったのはお師匠だからな。礼ならお師匠に言ってくれ」
「分かった……大魔王様にも伝えておく『ぐぅ〜』あ」
「はは、生きてる証拠だな」
まだまだ鉛でも着込んだかのように重たい身体を起こし、包帯まみれの頭を下げて助けてもらったことへの礼を言う。ヒエンはその言葉に対して謙遜し礼を受けることを拒んだが、百柄にとっては自分のことを見つけてくれたヒエンだって命の恩人。礼を言うのは当然のことである。
それはそれとして、実際に自分を救ってくれた大魔王ナナワライにも後で礼を言うと約束する。その瞬間に緊張が解きほぐれたのか、百柄の腹の虫が大きな音を立てた。羞恥に包帯の下を紅潮させる百柄であったが、ヒエンはその様子を見てくすくすと微笑みながら、自身の横に置いてあったお盆を百柄に渡した。置かれていたのは重湯である。
「お腹が空いただろう、これでも食べてくれ。病み上がりに普通の食事はキツいだろうから、重湯を用意したんだ。おかわりも欲しかったらカマイタチに持って来させるから、遠慮なく言っていいからな」
「食べてー」
「食べてー」
「元気になーれー!」
「……いただき、ます」
添えてあった木製のスプーンを左手に取り、ぎこちない動作で手を合わせる。小さく掬い取った一口を口の中にゆっくりと入れ、久しぶりのように感じる食物の温かみと優しい味が、百柄に今日何度目かの生の実感を与えた。
「良かった……!私、生きてて良かった……!」
「……うん。本当に、良かった」
涙が溢れて止まらない。一度失ったと思っていた大切なものが、壊れかけながらもそこにある。重湯の一口一口が、己の命を生かしてくれる大事なものであることがよく実感できる。
皿の中が空になるまで、百柄は何度も何度も己の命を噛み締めるのだった。
〜
「意識が戻ったか、外の娘よ!よくぞあの重傷から生還できたものだ、素晴らしい生命力だな!」
「あ……あなたが、魔王ナナワライ……ですか?」
「いかにも!我こそがこの風隠の森を率いる首領にして天下無双の大天狗!その名もナナワライ様よ!」
「えっと……この度は、助けてくれて本当にありがとうございました」
重湯を食べ終わってしばらくした頃、布団の中で大人しくしていた百柄の前に身長6・7mはあろうかという巨大な天狗が現れた。この天狗こそが風隠の森の主にして大魔王ナナワライ。想像していたよりも随分と気さくで陽気なナナワライの雰囲気に面食らいながらも、百柄は命を助けてもらったことへのお礼を言う。
礼を受けたナナワライは、「しっかり礼が言えるのはいいことだ」と、豪快に笑いながら百柄のお礼を受け入れるのだった。
フレンドリーで柔らかい態度ながら、その厳つい風貌に見合った威厳は兼ね備えている。これが大魔王と呼ばれる者の風格かと、百柄は眼前に座るナナワライの姿に小さく息を飲み込んだ。
「さて……目を醒ましていたのなら丁度いい。お主があの場で倒れていた理由を聞こうか。もちろん心苦しいだろうしな、思い出したくないというのなら無理はしなくていいのだぞ」
「私は……あれ?」
──どうして、あんな所にいたんだっけ?
百柄は災害時の荒魂との戦いで、脳を損傷しており記憶の一部を欠落していた。特に隠す理由なんてないはずなのに、自分の中にこれまでのエピソードが少しも浮かび上がってこない。かろうじて思い出せるのは病院で意識を取り戻した時の瞬間と、腹の底から湧き上がってくる荒魂への怒りだけ。
分からない。どうしても記憶を掘り返せなかった百柄はせめて、ありのまま今の状況を伝えた。
「ふむ……『怒り』、か。何があったのかは想像がつくな。恐らくはあの場に倒れていたのも、怒りが無意識にお主の身体を荒魂をどうにかせんと突き動かしていたのだろう。元より瀕死の状態でそこまで動けるのは凄まじい怒りと言う他ない、が。怒りでは何も成すことはできぬぞ、百柄よ」
「……それは、どういう意味なんでしょうか」
「怒りに限らず、これは強く重い感情の全てに言えることなのだが。感情それそのものを原動力にした行動は、すぐに冷めてしまうものなのだ。強い感情を持つことは大事なことだ。お主の荒魂への怒りもそうだがな。しかし、それでも怒りだけで動いてはいけない。感情はあくまで行動する理由の一つに過ぎぬ。努めて頭は冷静に、しかし己がそうしようとする理由は忘れず、そうして事を成すのだ」
「なる、ほど……?」
怒りに身を任せてはいけない、というナナワライからの説教だということは分かったが。怒りながらも冷静にという部分は、少し難しくて百柄には理解が及ばなかった。怒ることと冷静でいることなどは相反する状態だと思うのだが、と。
「要は己の原点を忘れるな、ということだ。こうなりたい、こうしたい、あれが欲しい、許せない……原点とは即ち感情なり。ただ思うがままに動いたところで、どうなるかはたかが知れていよう」
「……なるほど。分かったような、気がします」
今度のことは百柄にも理解できた。何せ怒りに身を任せて無意識で動いた結果が今なのだから。死の淵から戻って意識が曖昧になっていた時の出来事であるとはいえ、少しでもあの時の百柄に冷静に考えられる頭があったのなら、死に体で森の中を彷徨って更に瀕死の重傷を負うなんて馬鹿みたいな真似はしなかったであろう。
怒りはあくまで行動の原点であり、原動力としてはいけない。思いのままなど、考えなしに身を滅ぼすだけ。ナナワライの説教が、百柄は今度こそ身に染みて理解できた。
「……怒りに身を任せないようにするなら、そうしないための手段が必要です。瀕死の人間をたちまち癒せるその力で、どうか私に荒魂と戦う力を与えてはくれませんか」
「ほう……いいだろう。確かに、行動とはゴールに繋がる手段と視点を持ってこそだ。荒魂と戦う力がなければ、行動もクソもないか」
「……!それじゃあ」
「しかし、だ。お主を救ったのはあくまでこの森に伝わる癒しの力。どんな怪我や病気もたちまち治せる龍のウロコと言えども、戦う力を与えるなどという効果は流石にない。だからその代わり、お主には我が七笑流の剣術を伝授してやろう!」
七笑流剣術。その単語を聞いて、百柄は言葉にならないような高揚感を感じた。
流石に不思議な力でパワーアップ……なんて美味い話はなかったが、それでも戦う力を得ることができるということへの喜び。荒魂と戦うために御刀を振るう刀使として、刀を扱うための剣術を修められるということへの期待。七笑流という、元の世界では聞いたことのない流派を習得することができるという特別感。
今まで刀なんて縁のない生活を送ってきた百柄であったが、それでも内から湧き出すワクワクを抑え切れなかった。
「ヒエン!ハヤテ!」
「は、ここに!」
「お前達に妹弟子ができるぞ、先輩としてしっかり百柄の助けとなってやれ!」
「かしこまりました、お師匠!」
ナナワライが名を呼ぶと、どこかで待機していたのかヒエンともう1人緑髪で鳥の仮面を被った少年が現れる。どうやら2人ともナナワライに師事している、百柄の兄弟子にあたる存在らしい。さっきヒエンと会話をしていた時は感じなかったが、そう言われると何だか強者のオーラのようなものを感じるようになった。恐らく気のせいだが。
「次にお主の世界と風隠の森が繋がる日まで、儂ができる限りお主を強くしてやる。病み上がりの身体には、キツい鍛錬となるだろうが……お主が望んだことだ。泣き言を言ってくれるなよ!」
「もちろんです。ご指導よろしくお願い致します」
──私は、強くなる。
記憶がなくとも怒りを覚えるのは、自分がきっと荒魂にいいようにやられたからだ。荒魂に命を脅かされた恐怖が裏返っているからだ。冷えた頭でよく考えてみれば、自分の気持ちも理解できる。
強くなれば、荒魂を倒せる。強くなれば、荒魂に怯えなくて済む。骨を折り、爪を剥がし、血反吐を吐く覚悟はできている。百柄はそんな思いの全てを背に乗せて、ナナワライに頭を下げた。自分が、そして他の人達が──二度とこんな思いをしなくても済むように。
堀川百柄は、戦うことを決めた。