「  」   作:よつゆともにぃ

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「  」

一度だけ、回送電車の夢を見たことがある。

最初はなんでもないような夢で、途中で『これは夢だ』と気がつく。

途端に、海に行きたい衝動に駆られた。

きっと、去年のキャンプの出来事が忘れられないのだ。

当時十歳の僕が、海に行く方法といえば大人の運転する車か電車なわけで、自然と足取りは駅に向かっていた。

田園の中にぽつんとある駅には駅員さえいない無人駅だ。

ホームに立っていると、それほど待たずして電車が近づいてくるのが見えた。

『回送』の文字を掲げている。この電車が行き着く先はどこでもない。

電車が通り過ぎる。

駅のホーム、その向こう側に女性が立っていた。

透けたような白く、長い髪と、洋服。青白く、幽霊みたいだと思った。

電車が通り過ぎる。

彼女と視線が合う

――そもそも、どうして海に行きたいと思ったんだっけ。

僕は海で泳げないのに。

電車が横切る。

彼女が笑う。

――どこかで見たような人だ。

電車が横切る。

彼女が、笑う。

 

 

 

水面に映る月に飛び込む。

みんなの声が遠くなり、境界を超えた先で、異世界が広がっていた。

ライトアップされた海中に飛び込む。子供会のキャンプでは恒例の行事だった。

真夜中の海。七メートルほどの岩場から、とても足が届かないような黒々としたへと飛び込む。

間延びした月が、崩れた卵の黄身みたいにドロっと輪郭を失って、水面に浮かんでいる。

夜の海なんて、今思えばとんでもなく危ない場所なのだが、小学三年生から参加できる海辺でのキャンプ、夜中の海中探索は眠気も吹き飛ぶほどに刺激的だった。

ライトアップされた海中は、本やテレビで見るような宇宙のようだった。

プラスチックのゴミさえ壊れた船の部品のように見えて、僕はしばらく海上に上がれずにいた。

ふと、海底に目をやる。

深い海の底で、女の人が青白い手を伸ばしていた。

遠くないのに、遠い。

手を伸ばせば届きそうだけれど、その手を取ることははばかられた。

だって、彼女は白いドレスを着て、海底に足を着けて歩いていたのだから。

不意に、ぐいと強い力に引き上げられる。

大人と、上級生の友達が、二人がかりで僕を引き上げたのだ。

海面から顔を出してめいっぱいに酸素を取り込む。

気まずさを隠すように笑おうとするとーー

トプン。また沈む。

今度は大人三人がかりで、めいっぱいに引き上げる。

みんなが不思議そうに僕を見ていた。

この瞬間から、僕は泳げなくなったのだ。

 

 

 

たびたび、その人は瞼の裏に現れる。

手を握ってもらった次の日、野球の試合で初めてヒットを打った。

頭を撫でてもらった。三ヶ月で身長が十センチ伸びた。

膝枕をしてもらうとよく眠れたし、なにかよくわからないものを食べると腹痛で夜中に目が覚めた。

家のトイレで倒れていたことが何度かあると、祖母はよく話す。

火事になった高層ビルの屋上から手を握って飛び降りたこともあった。

なんでもない日常、夢みたいなとびきりのスリル。

その傍らにはいつも彼女がいた。

 

僕はそれに名前をつけるようになった。

ミツキ。

クラゲを漢字で書くと、そうとも読めるらしい。

 

 

 

そんな生活に慣れてきた頃、おかしなものを見るようになった。

それらがこの世のものではないことに気づくのにそう時間はかからなかった。

 

ある時、抱きしめられて耳元で囁かれた。

キイと、建て付けの悪いドアがゆっくりと開いた時のような声。

今思えば、イルカの鳴き声にも似ていた。

それから耳が酷く痛んで、病院に行くと中耳炎と外耳炎の併発とされた

曰く、運動はしばらく禁止。毎日ガーゼを取り替えに通院しなければならない。

十四歳の頃だ。

三年生たちが受験に勤しみ、部活や校内活動の世代交代が盛んになって、同級生のみんなが放課後に活動する学校を後にして、僕は病院へと独りで歩く。

 

双子山の間に日が沈む。

山は夜闇よりも暗い影になって、遠い場所で僕の歩く道を塞ぐ。

右も左も田んぼ。それより先は林か山。

舗装された道を歩く。

学校に行くのはそれほど苦痛ではなかったけれど、無用な心配を周囲から受けるのが億劫で週の半分は学校に行かずにネットゲームをしていることが増えた。

学校に行って宿題をまとめてもらう。部活に顔はっ出さずに、放課後に病院でガーゼを取り替えて、土埃の鬱陶しさも、汗の匂いも忘れてしまったテニスバッグを未練がましく担いで歩いて帰る。

握り癖を忘れたグリップは、新品みたいで気持ち悪かった。

どれほど惨めな気持ちだったか、今では想像がつかない。

 

田舎の野山と田園。道の脇には行儀良く電柱が並び、手を繋いでいる。

みんなが寒さから逃げるように家の灯りへ逃げ込む。

街灯がチカチカチカと明滅した。少し経って、足元を照らし始める。

双子山の向こうに日が沈む。

山は夜の海よりも暗い影になって、地平線に切り立つ。

右と左にはなにもない。

何も見えない。穏やかにさざめく水面のようでもあったし、見たことのない生き物たちが、夜目を尖らせて僕を睨んでいるようでもあった。

舗装された道の真ん中を歩く。

その先に彼女がいた。

錆で煤けたブランコが揺れているような声で、キイキイと泣いている。

青い涙を流して。

――これは、夢だっただろうか?

夢にしては鮮明すぎた。

心も、身体も、こんなにも暗くて、冷たいのに。

空は昼と夜の境目で、おどろおどろしいせめぎ合いがはっきりとわかる。

ピンと張った糸が切れた途端に、泣き出してしまいそうなくらい、惨めで、孤独なのに。

彼女は、なにかを求めるように手のひらをこちらへ向けている。

血が滴る。

青い血だ。絵の具のような青。

彼女は泣いていた。

どうして泣いていたのか、理由はわからない。

わからないまま、僕はカバンからホチキスを取り出す。

迷いも、躊躇いも、なんの疑いようもなく。

そいつで右手の人差し指を噛む。歯が二つ、容赦なく皮膚を破って、肉を突き刺す。

空いた穴から流れ出たものを絞り出して、彼女の手のひらにぐちゃぐちゃに塗りたくる。

これで、一緒だ。

僕は言った。

昼と夜が混ざり合うように、僕たちの握り合った手には、あの日見た黄昏の空が映り込んでいた。

 

翌日、目が覚めると酷い熱で、昼間まで眠っていた。

汗と暑さで蒸しこけて、頭が蕩けるみたいだった。

分かるのは、泣くように降り続く、秋の雨。

パチパチと薪の弾ける音。

眠い目を擦る右手の人差し指。

そこに巻かれた絆創膏。

血を吸った布の部分が渇いて、病んだ空のような紫色になっていたのを覚えている。

チカチカチカと、蛍光灯が明滅して、すぐに消えた。

 

 

 

十九の冬。取り立ての運転免許を財布に入れて、母親から借りた白いちっぽけな中古の軽ワゴンに乗り込む。

行き先は決めていた。

一時間半もタイヤを回すと、ウキウキで上を向いていたガソリンメーターもしょぼくれてしまいそうだった。

視力は戻らず、耳はたまに痛む。

変わったことと言えば、身長がさらに伸びたこと。この世のものではないものを見ることがなくなったこと。

進学をきっかけに、一人暮らしを始めたこと。

ミツキが会いに来ることはなくなったこと。

友達が実家の花屋を継いだと聞いて、霞草の花束が欲しいと伝えた。

「なんだ、彼女か?」

彼がそう言ったのに、気まずい笑みを浮かべて頷いたのを覚えている。

「まあ、そんな感じ」

嘘ではないだろう。

だって、あの時。

僕たちは確かに交わったのだから。

 

件のキャンプ場は冬季閉鎖中だが、駐輪場は塞いでいなかった。

車が何台か止まっていたが人が乗っている様子はない。少し待ってみても、キャンプ場にスタッフが出入りしているわけでもらしい。

妙に懐かしい孤独感だ。車を降りて、波の音に近づく。

冬の海は荒々しく、とてもじゃないが傍まで行こうという気にはなれない。

波打ち際から少し離れた岩場に花束を置く。あとは潮風がさらってくれる。

もう少し進めば、彼女に会えるのかもしれない。

そう思って、二つのことに気がついた。

身を投げるというのは思っているよりも難しいこと。

彼女は初めから、この向こうにはいないこと。

ここに来る意味なんてなかった。

そうせずとも会えるように、ミツキは僕を歪めたのだから。

 

彼女を探すために本を読んだ。

図鑑や物語だけでなく、神話をかじって、途中でやめた。きっと、神仏の類いではない。

水族館に行った。

白く、ぷかぷかと揺れるものをぼうっと眺めた。

絵を描くようになった。

文字を書くようになった。

 

そもそも、髪も肌も洋服も白い、あの美しい生き物は水の中から出たかったのだろうか。

考えれば考えるほどわからない。

仮にそうだとすれば、水というものに尽く縁のない僕は最適だっただろう。

水瓶座の叔母が僕と一個上の兄の学費を持って蒸発した。

初めての恋人は清水さん。馬が合わずに一ヶ月も保たなかった。その後の岡村さんはうまくいった。なんせ、“岡”の“村”だったから。

大学で気の合う友人は空と陸。ソリの合わない教授は清水。なんてこったい。

こじつけだっていい。

その方が面白いし、気が楽だから。

 

そんな中、SNSで一人の作家と知り合う。

水無飛沫というらしい。

人ではないものを好み、愛して、どこか愉快で、気さくな人だった。

名前がいい。

なんせ「水が無い」ときた。今の僕にはぴったりだ。

彼もまた、ヒトではない存在に通じているらしい。

この縁は、きっと長く続く。

いつか、彼女のことを話す日がくる。

そんな根拠のない自信を抱き続けて、十年が経とうとしていた。

未だに僕は、彼女を探している。

僕の内側にしかいないのであれば、出力しなくてはならない。

今日も、彼女を想いながら、

ペンを握る

文字を綴る

病める時も、健やかなる時も、瞼の裏に白い影を浮かべて夢に溺れる。

 

手始めに、彼女と過ごした日々の一端をここに記すことにする。

タイトルはとうの昔に決まっている。

クラゲを漢字で書くと、そうとも読めるらしい。

 

「水月」

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