チカチカチカ――
駅前の交差点、その向こう側に女性が立っていた。
透けたような白く、長い髪と、洋服。
恐いくらいに、綺麗な人だった。
「ねえ、あの人めっちゃ綺麗じゃない?」
隣で彼女が興奮気味に言ったのに、僕は頷く。
綺麗すぎて、都心の灰をかぶったような街並みからは浮いて見えたからだろう。
失礼だなとは思ったけれど、心の中でこう呟いた。
幽霊みたいだね
ぬるりと、生温かいものがものが、ゆっくりと、頭の奥深くに、入り込んでくる。
水中から覗く陽光を思い出した。
食指を動かすように光の輪郭が揺れる。
息を止めて、得体のしれないものに耳を塞がれたかのように周囲の音が遠く、曖昧になる。
その内側に、女が一人。
雪のように白く、朧気で。 海月のようにふわふわと。
もう、何十年も昔の記憶だ。
――チカチカチカ
蛍光灯が、三度明滅する。
ああ、またこれだ。
この感覚に、既視感を覚えていた。
寝不足の朝。太陽光線に網膜を焼かれるような。
きっと、そうだ。それに似ていた。
「ねえ、どうだった?」
やはり興奮気味に彼女は聞いてきた。
裸の女を抱えていた。
足を伸ばしたまま湯船に浸かるのに、なんとなく憧れがあった。
コンカフェで働いていだ彼女に、それを話した。
返事として、じゃあ今度行きませんか、と声を潜めて誘われたのがきっかけだった。
こうして会うのは片手では収まらなく、お客さんとして彼女に会うことはもうなくなった。
「どうだったって、なんのこと」
彼女は不満げに顔をしかめて、僕の首に巻きつく。
耳元でベロを出して、うっとりとした吐息を交えて、舌先で僕の耳をなぞった。
焦れったいというか、むず痒いというか。
腹の底を撫でられているような。
みーみーなーめ
声にならない声で、彼女は言う。
「ああ、うん。良かったよ」
当たりもしないし、障りもしない。つまらない感想。
熱量の差を感じたのか、彼女はこれ以上の追求をやめた。
享楽とか、悦楽とか、そういうものを探していたんじゃない。
わかっていたはずなのに、どうあっても僕はあれの幻を追い続けなければ満足しないらしい。
そんなことをせずとも、それは、もうそこにいる。
いるのがわかる。見えずとも、知っている。
あの感覚が、網膜に焼き付いて消えない。
ごそごそと、舌が蠢くよりもずっと奥で。
耳鳴りがずっと止まなかった。
洒落たイタリアンの店で、ピザをテイクアウトして、酒の入った袋を手に、僕らはホテルへと戻る。
買ってもらったばかりの服に袖を通すと、彼女の機嫌は割りかしよくなった。
「手、いつも冷たいね」
「冷え性なもんで」
「私、平熱高いんだ。分けてあげる」
他愛のないやり取り。
夜の街。
小綺麗な部屋と、広い浴室に、気の合う相手。
美味しいご飯と酔えるだけの酒。
日頃の鬱屈を吐き出すように面白おかしく仕事の愚痴を言い合う。
大体、僕が聞いて、共感する役。
それから、好きなものを語り合う。
こういうのが、ありふれた幸せというやつなのだろう。
確かに、感じているのに。
その中にぽっかりと穴が空いたような、違和感を覚えていた。
「どうした、ぼーっとして。もしかしてお腹いっぱい?」
彼女は僕を見て、夢中にさせてやろうと大なり小なりの努力をしてくれているのに。
なんでも分けてくれるっていうのに。
僕の視線は、常に、あの海の底にあった。
それだけが、なんだか申し訳なく感じた。
腹が膨れて、酔いも回ってきた頃。
互いに思い違いのことをしていた。
どうしてか、互いの肩と肩を当てて鬱陶しさを感じない。
じんわりと伝わる熱と、呼吸。すー、はーと聞こえるたびに二つの山が浮き沈みするのが横目にわかった。
それが、なんとなく面白くて、なによりも心地よかった。
突然、なんの前触れもなく彼女は僕に覆い被さって。右の人差し指をぱくりと咥える。
犬みたいな子だなと思った。そこが魅力的ではあるのだけれど。
けれども彼女は、咥えた指先に歯を立て。
がじ
抉るように貪った。
あはは、と抑揚のない声で笑い出した彼女を目の当たりにして、痛みよりも、驚きの方が勝っていた。
それだけに留まらず、喰んだ指先を己の手のひらに押し当てて、流れ出る赤いものを塗りたくる。
堰を切ったように溢れ出す鮮烈な記憶。
――舗装された道を歩く。
どれほど惨めな気持ちだったか、今では想像がつかない。
同時に、疑念が浮かぶ。
――これは、夢だっただろうか?
夢にしては鮮明すぎた。
心も身体も、こんなに跳ねている。
今まで向き合ってきた、誰にも、何にも向けたことのない感情。
今にしてあの心を形容するのなら、
あの存在と出会った瞬間か
あるいは、
この世のものではない存在を目の当たりにした瞬間か
その、どちらにもよく似ていたと思う。
次にその者は、自分の右の人差し指に同じことをして。
僕の口元に、それを差し出した。
その雫を、僕は。
躊躇いもなく飲み干すのだ。
いっそ、狂えたならいいのになどとは思わない。
もうとっくにおかしかったんだ。
こんなおかしなことに、怪異とも呼べようものに出会えたことに。
僕はそれとなく、特別な感情を抱いているのだから。
容赦なく照りつける陽光に三度、瞬きをした。
雑踏が、やけに遠く感じる。 見えぬ存在に耳を塞がれたかのように、周囲の音が遠く、曖昧になる。
少しだけ後悔はしていた。
社会……というには少し大袈裟かもしれない。
俗世というものの輪郭がぼやけて、僕自身が当然あるべき感覚を、感情を、その基準がかけ離れているようなところがあること。
――心だけが、あの夏。
たった十五メートル程度の海の底に沈んだまま。
自力で浮かぶことはない。
取って付けたような心で、恐る恐る、いつも通り彼女の手を握っている。
不誠実なままの僕の手を握り返してくれるこの熱いくらいの手は、きっといつか離れていく。
次に付き合うなら、冷え性の子にしよう。
そんなどうでもいいことで自分を慰めた。
チカチカチカ――
緑のLEDが明滅する。
駅前の交差点。その向こう側に女性が立っていた。
透けたような白く、長い髪と、洋服。
「ねぇ、あの人。昨日の人じゃない?」
指差す彼女の細い人差し指。
そこに巻かれた絆創膏。
血を吸った布の部分が渇いて、あの日の、病んだ空のような紫色になっていたのを見て、思う。
この中に、ヒトではない者がいるとしたら
それは、誰だ
綺麗だと、僕は頷いた。
「もしかすると、綺麗な女の幽霊かもしれないね」