婚約破棄された公爵令嬢は田舎の醜男貴族に嫁ぎますが幸せになるようです 作:品☆美
「私もエルフの里に同行するぞ。無論、子供達も一緒だ」
「はい?」
アンジェの口から出た言葉の意味を理解するまでの数秒間、思考が止まった。
ゆっくり深呼吸してもう一度アンジェに聞き返す。
「……ごめんアンジェ、もう一度言ってくんないか?」
「リオンがエルフの里に向かう際に私も同行する、子供達も連れて行く予定だ」
「……すまない、やっぱり意味が分かんないんだけど」
領地に戻ってからの数日で急ぎの仕事はとりあえず済ませた。
商業ギルドの顔役達と打ち合わせ、領軍の現状報告と訓練の視察、近隣領主を招いての会食、あとはアンジェの報告を聞きつつ溜まってた案件を一つずつ決裁するのは随分と骨が折れる仕事だったな。
アンジェが事前に準備を済ませてくれたお陰で最短の時間で面倒な仕事を片付けられた、その代わり細かく決められた予定を無理なく熟すのはしんどいけど。
領主の仕事が一段落ついてやっと面倒な調査任務に取り掛かれる、後回しにすればするほどジルクや諜報機関との腐れ縁が続く上に
さぁ、やるぞ!って始める前にアンジェにお伺いしたらコレだ。
こんな時はどう反応すれば正解になるのか迷う、アンジェの事だから何も考えないまま発言した訳じゃないんだろうが。
「俺一人で向かう予定だったのに何でまた?」
「リオンが単独で向かうという行動自体が問題だ、エルフの里の現状がどのような物か把握しているのか」
「うちとは違った意味で観光地だな、綺麗なエルフを見物する連中と里の近くにある遺跡目当てな冒険者が多い」
「その通り、エルフを含めた亜人を奴隷として雇うのは法律で禁じられている。現状に於いて里の収入はエルフ目当てに訪れた者と遺跡目当ての冒険者が里の宿泊で落とす費用が充てられている状況だ」
「なら冒険者として里に入れば問題無いだろ」
「伯爵位の領主貴族が供も付けないまま里を訪れて怪しまれないと思っているのか」
そんな風にアンジェに言われると自信が無くなる。
今までいろんな所で危険な仕事を請け負ってきたが大抵は俺で取り掛かる、或いは
あいつが居れば里の調査は早く終わるだろうし、ロストアイテム関連の問題が出たら対処も可能だ。
今回も同じように済ませる予定だったけどアンジェは俺が
「私も里についてドロテアから幾つかの情報を得ている。嘗ては里に出入りする人間が極僅かで制限などは設けられていなかったらしい。だが亜人に対する法が改正されて以降は急速に来訪者が増え、それに伴い一時期は治安も悪化している。苦慮した里の指導者達により来訪者に素性を提示させた上で滞在を許可するように変わった。貴族と言えど飛行船の大きさや同行する者の人数は著しく制限されている」
「やっぱり俺一人で行った方が良いじゃん」
「リオン、エルフの里を訪れるのは冒険者以外に貴族も居る。特にお前はこの数年間の功績で国内に於いて顔を広く知られている。王家の覚えがめでたいバルトファルト伯爵がたった一人でエルフの里を訪れるだと?何の要件かと疑われる可能性が高い」
「冒険目当てで里の遺跡を訪ねたとか」
「未知の場所より菜園で育てている野菜が気に掛かる男が何を言う」
「じゃあ美しいエルフを見に来たなんて…」
「ほう、貴様は私よりエルフの女に興味を持つのか」
「滅相もありません」
ヤバい、余計な事を言ってアンジェの機嫌が悪くなったらマズい。
だけど確かに上手い理由が必要だ、正直に調査に来たと言って滞在が認められる訳は無いよな。
他の来訪者に紛れて里に忍び込むのも悪くないが、不測の事態が起きて逃げなきゃならない場合は自由に使える飛行船は必須だ。
コソコソするよりは堂々と入った方が疑われない時もある、何なら立場を利用して休暇に訪れた貴族を装うのも悪くない。
だけどアンジェ達を巻き込むのはどうにも気が引けた。
「ライオネルとアリエルは学園から長期休暇中の課題としてダンジョンに関する報告書の提出を命じられている。理由としては悪くないと思うが」
「何だそれ?王立学園ってのは貴族のお坊ちゃまやお嬢様にそんな危ない宿題を出すのかよ」
「珍しい事ではない。私が在学していた頃は授業でダンジョンの探索があったぞ」
「やっぱホルファート王国貴族の価値観ってのはよく分かんねぇ」
「お前も既に高位貴族の一員だ、そろそろ慣れろ」
ここ何日か不機嫌そうだったアンジェの顔が何となく楽しそうに変わっていた。
身分や年齢を問わずホルファート王国の大部分が冒険者に憧れを持ち、見果てぬ蒼空の果てにある栄光を掴む夢を一度は見るらしい。
ガキの頃から貧乏な実家の手伝いに明け暮れて、十五歳になったら家を出て王国軍に入って仕事をしていた俺にはよく分からない願望だけど俺の子も何人か冒険に対して憧れを抱いている。
たぶん俺が家を空け過ぎてアンジェがずっと子育てを担当した影響だ。
「……確かに高位貴族の一家が訪れるなら要人護衛の名目で兵と武器の持ち込みがある程度は許されるかもしれないな」
「その通り、ダンジョンの探索に関しては人数が制限されるが里を観光する子供一人につき護衛が一人と換算すれば計六人。私達一家と護衛を合わせて十四人が乗る飛行船ともなればそれなりの大きさでも疑われる可能性は低い」
「上手くやれば鎧も搭載できるな。経費は王家に負担させるから弾薬の心配もしなくていい」
「止めろ、リオンは戦でもするつもりなのか?」
顔を顰めて俺を見つめるアンジェの視線が突き刺さるが敢えて無視する。
確かに王都から依頼されたのはエルフの里で起きている不可解な状況の調査だ、失踪者の聞き込みや里の住人の現状把握だけなら過剰な武器や鎧は必要ないと思う。
だけど俺の勘が告げている、きっちり備えて向かった方が良いと。
戦友達の殆どが死んだ戦場やバレたら殺されても文句が言えない任務を俺が生き延びたのは臆病だったからだ。
自信と才能に満ちた英雄じゃない俺にとって念には念を入れて地道に行動するのが一番成功率が高い。
必要な金は王家に用意させればこっちの負担は人を動かすだけで済む。
「本当ならアンジェ達を関わらせるのだって反対なんだぞ、これぐらいは妥協してくれよ」
「……私はロストアイテムより役立たずなのか?」
「俺にとって一番大事なのは家族だ。お前らを危険から遠ざけたいと考えるのを間違いだとアンジェが思うなら別だけど」
『夫は妻を護り、父親は子供を護るもんだ』
それが家庭を持った男の務めだと昔から父さんに口酸っぱく言われてきた。
貴族になった後に領主は領地を治め領民を従え、当主は家の存続を最優先に考えろと教え込んだのは他ならぬアンジェだ。
俺にとって最優先なのは家族みんなの命だ、結論がそうなるやっぱり俺は貴族に向いてないのかもしれないがこれだけは譲れない。
いざとなったら爵位も領地より嫁と子供達の方が選ぶし、危険から少しでも遠ざけたいのが男の器量だ。
「行動中は俺の指示に従ってもらうぞ、出来ないならお前達を同行させないからそのつもりで」
「リオンが私に命令する日が訪れるとはな」
「これは遊びじゃない、王国から命じられてるれっきとした任務だ。功名心で先走って周りに迷惑をかけるような奴に背中を預けたら命が幾つあっても足りない」
「…………」
「返事は?」
「……分かった、リオンの指示に従う」
不満を呑み込んで従ってくれたアンジェの返答にほっと胸を撫で下ろす。
実際の所、
アンジェに無茶をさせるつもりなんて全く無い、だって役に立たなくてもアンジェが愛しい嫁な事に変わりないからな。
かなりキツい言い方になっちまったがアンジェの要求を通して家族全員が危険に晒されるより、家族からどれだけ嫌われても無事に生きて帰れる方が遥かに大事だ。
大事な家族に嫌われるのは心が滅茶苦茶辛いんだけど。
とりあえず感謝の気持ちを精一杯込めてアンジェを抱きしめるぞ、何しろ領地に戻ってから夫婦仲が微妙な状態が今も続いてる。
夫婦共有のベッドで一緒に寝てるのにおはようのキスもおやすみのキスもしてないし、夫婦の営みもずっと絶えたままだ。
一緒に寝れないのも辛いけど、一緒に寝ても会話すら無いのはそれはそれで寂しいもんだ。
アンジェを抱きしめようと一歩進む、するとアンジェが一歩分だけ退く。
また一歩だけ足を前に出す、やっぱりアンジェは後ろに下がる。
ついには執務机の傍に置かれていた椅子に座って俺が抱きしめるのを全力で拒否し始めた。
ここまでされたら流石に追撃は出来ないし、しつこく迫って更に嫌われる事態だけは避けたい。
「……言い方が悪かったのは謝るよ。だけど、そろそろ機嫌を直してくんないか?」
「リオンに対して怒っている訳ではない。予定が決まったなら早急に手筈を整えなくてはならん。領地を空けるなら熟せる仕事は今の内に処理しておくべきだ」
「なるほど、じゃあ俺も準備を済ませておくか」
「準備にはどの程度の日数がかかる?」
「そうだな、細かい打ち合わせや備品の手入れも含めたら三日、万全を期すなら四日ぐらいかかる」
「早く仕事に取り掛かれ、面倒な仕事はさっさと済ませてリオンには領主の務めを果たしてもらいたい」
「それならますます準備を怠れないな、備品の手入れに関しては余裕をもって徹底的にやらせてもらうぞ」
十五の頃に一兵卒として空賊討伐に参加して、領主になってからもファンオース公国との戦闘を数十回も経験してきた。
凡人な俺なりの経験則だけど、予定通りになった戦闘なんて一回も存在しない。
どれだけ頭を捻っても予想外の状況は必ず生まれる、それこそ当日の天候や兵の士気で勝てるはずの戦いが手酷い敗走に変わるのは珍しくなかった。
そんな事態で頼りになるのは入念な準備だ、きちんと手入れした銃器や調整が上手くいった鎧は焦りを打ち消し平常心を取り戻してくれる。
今回はアンジェ達が関わるんだ、どれだけ準備してもやり過ぎの訳がなかった。
「逆に急ぎ過ぎて仕事が雑になっちゃいけないな。ほら、まずは昼飯を食ってから始めようぜ」
「……いや、私は区切りの良い所まで仕事を進める。昼食は子供達と取ってくれ」
アンジェが冷たい、ここまで拒まれると泣きたくなる。
ここで『俺も手伝う』と言えるのが出来た旦那と思われるんだろうけど、最近は王都の仕事にかかりきりでアンジェに領地経営を任せてた。
迂闊に手伝ったら逆にアンジェの仕事を邪魔しかねない、単身赴任の影響か子供達も俺に余所余所しいし。
仕方ないか、ここは大人しく従った方が良い結果になりそうだし。
椅子に座るアンジェの頬に軽く触れて手触りを楽しむ、その後に額へ優しくキスをする。
せっかく屋敷に戻ったのにおはようのキスもおやすみのキスもしてない、そろそろ俺も限界が近かった。
怒るかなとビクビクしてたけどアンジェは受け入れてくれたみたいだ、ほんのり赤くなった顔が実に色っぽい。
「…じゃあ俺は皆と飯を食べるからさ、アンジェも気が向いたら来いよ」
「あぁ、分かった」
そっと執務室の扉を閉じて廊下を歩いてると子供達の声が聞こえてきた。
声から判断するとロクサーヌとメラニー、そしてディランか。
とりあえず声が聞こえる場所に向かって足を進める、辿り着いた場所はメラニーの部屋だった。
ノックしてそっと扉を開けるとロクサーヌはディランに絵本を読み聞かせている、メラニーは二人の横で絵を物語の注釈だ。
アンジェと結婚して生まれ父親になると何気ない日常がどれだけ貴い物かやっと理解できた。
朝起きたら飯を食って仕事を熟し風呂に入って寝る代わり映えの無い生活のどこが悪い。
領主自らが畑を耕さなきゃ飢えて死にかねない貧乏貴族の三男坊だったガキの頃と比べたら天国だろ。
俺の子供が健康な体で戦争に巻き込まれず学園に通える平和な時代に生きれるなら死にかけて顔に傷が残るぐらいは受け入れてやる。
「三人とも、そろそろ昼だから食間に行こう」
「あ、父上」
「もうそんな時間ですか」
「他の三人は自分の部屋か?」
「アリエルお姉様とリーアお兄様は外です」
「またか、昼飯の時間になったらすぐ帰って来りゃいいのに」
「あとライオネルお兄様は子爵家に行かれました」
「兄さんの所に?」
「たぶんテレジアを訪ねたんだと思います」
「そっか」
せっかくの長期休暇で屋敷に戻ったのにライオネルとアリエルからずっと敬遠されてる気がする。
俺は何もしてないつもりなのに長男と長女の双子から一方的に煙たがられるのはつら過ぎるぞ。
これが思春期や反抗期ってもんなのか?
「父上」
「どうしたディラン」
「母上は?」
「アンジェは仕事だってさ」
「まさかお母様に昼食を取らせず仕事をさせるおつもりですか」
「お父様の鬼!悪魔!外道騎士!」
「違うッ!アンジェは俺に気遣って子供達と一緒に飯を食って来いと言ってくれたんだ!」
「父上」
「今度は何だ?」
「母上と仲良くして」
「安心しろ、父上と母上はとっても仲良しなんだぞ」
「でも戻って来てからお父様とお母様はずっと喧嘩を続けているでしょう、屋敷の皆が戦々恐々としています」
「そんな事はないって」
「そんな事あります、そうよねメラニー?」
「お父様が屋敷に戻ってから毎日の朝食で御二人の会話をずっと見ていません」
「いや、それはだな……」
少し思い返してみると、確かに普段はアンジェや子供達と会話を交えつつ食事をしているのに最近は気まずい食卓だった。
おまけに朝食の時に各々の予定を報告し合ってたのに今日はライオネルとアリエルとリーアの予定を把握していないぞ。
これじゃあ子供達にダメ親父扱いされても当たり前じゃねぇか。
ロクサーヌとメラニーに辛辣な忠告を受けてディランに早く仲直りしろと言われても仕方ない。
「よく聞きなさい君達、格好いいお父様と綺麗なお母様は別に夫婦仲が悪くて会話を拒否し合ってる訳じゃないんだぞ」
「とてもそうは見えません」
「むしろ夫婦仲が良いからお互いの意見を遠慮なく交わせると考えなさい」
「仲が良いなら相手を怒らせるような意見を言わないと思いますが」
「それは違うぞ。人は自分の事を理解してるつもりだけど案外ちゃんと把握してないもんなんだ。俺から見た俺、アンジェから見た俺、お前達から見た俺、領地の奴らから見た俺。全部違って同じ人間とは思えなくなるぞ」
「お父様のご意見は分かりましたがお母様と喧嘩している理由と繋がってないと思います」
「俺は頭が悪いからアンジェはいつもいろんな方法を考えてくれんだ、でも予算の都合だったり時間が無かったりして上手く出来ない事もある。いや出来ない方が多いな」
「だから喧嘩したの?」
「何がどうなって無理になった、だから俺とアンジェが話し合ってどうすれば良くなるのか考える。今までも夫婦仲良く解決してきたんだ」
「お母様は賢い御方です、全て一任されたらよろしいのでは」
「確かにアンジェは俺より賢いな、でも苦手な物だってあるんだぞ。自分の得意で相手を助け弱点は助けてもらう。言うべき報告はきちんと伝えて分からなければ相手に聞く。仕事をする上で大事な事だから憶えとけ」
「その為にお母様に疎まれても?」
「俺はアンジェが愛してくれてると信じてるぞ。今回はちょっと難しい問題だからなかなか意見が合わなくて長引いてるだけさ」
尤も俺達夫婦も最初からそんな関係だった訳じゃない。
アンジェと初対面の時は生意気なお嬢様でムカついたし、領地の開拓方針で意見が合わず罵った事だって数えきれないぐらいある。
それでもこの歳まで一緒に暮らし子供が何人も生まれたのは相性の良さと積み重ねた信頼の賜物だ。
今回は王都の連中や
「お前らも何時か嫁入りしたら嫌でも分かるようになるさ」
「だったらお父様も私達に優秀な婚約者を紹介してください」
「いや、それは…」
「そこで情けない答えしか出せないから説得力が無いよ」
「キツいなお前ら…」
「父上」
「ん?」
「母上と仲直りして」
「お前ら本当に容赦ないな」
屋敷を空ける時間が多いせいで子供達全員が俺に対して辛辣だ。
嫌われたくて嫌われてる訳じゃないのに皆がアンジェの味方で俺に加勢してくれない。
俺、この家の当主で父親なのに。
もうやだ、泣きたい。
リオンを怒らせてしまった。
どうしようもない己の愚かさを呪うあまり頭が痛み始めるが全て私が招いた事だ、反省を促すように努めても気分は晴れない。
旧ファンオース公国との開戦前に兵站の真似事をした経験、こそあるが軍務に関して私は素人同然だ。
戦場を経験した事すら皆無の女が差し出がましく口を挟めば軍才に長けるリオンの機嫌を損ねるなど分かり切った事ではないか。
加えてライオネルとアリエルが長期休暇中の課題として王立学園から提出を求められているのを理由にして同行させるなど完全に我を見失っていた。
これもドロテアが私を煽ったのがいけない、あの女が私を煽ったのが全ての原因だ。
夫と離れ離れでひとり寝の寂しさを噛み締めている私を挑発するように『エルフの里で占ってもらったら私とニックス様の相性は最高ですって♥生まれ変わっても結ばれる運命だと言われたわ♥』などとドロテアが自慢しなければこんな事には。
今後はリオンが留守中の茶会でドロテアを招くのは控えよう、如何に義兄上と己が素晴らしい夫婦かと人目も憚らず惚気られるのは不愉快窮まる。
しかし、ドロテアがエルフの占い結果を自慢した後にリオンがエルフの里を調査する事になるとは偶然とは恐ろしい。
ついドロテアに対抗しようとリオンの調査へ同行する苦しい理由をこれでもかと捲し立てて完全にリオンの機嫌を損ねてしまった。
ここ数年のリオンは多くの者達から認められた影響で様々な役職に推挙され、私にバルトファルト領を任せて王都に滞在する事が増えている。
ホルファート王家から有能な若手と認められ、私を娶りレッドグレイブ公爵家の娘婿となったリオンと繋がりを持ちたがる者は宮廷貴族と領主貴族の区別なく多い。
その影響で領地を治める時間よりも王都に滞在する時間が増えたのを快く許容できるほど私は出来た妻ではないのだ。
例え夫や息子の領地を離れる期間に家中の全てを任されるのが優れた貴族と奥方だとしても。
そもそもリオンが変に気遣うのもいけない、私の機嫌を損ねないよう寝所で体に触れようとすらしないのだ。
無理やり迫って私を抱く程度はしてみせたらどうだ、普段は大胆な癖に変な所で怖気づくのが腹立たしい。
……いかんな、どうにも思考が滞ってしまう。
これならリオンや子供達と共に食事をすれば良かった、何とかして気分を変えよう。
執務室から出て向かう先は衣裳部屋だ、使用人達は敢えて同行させず一人でこっそりと足を進める。
私と義母上に加えて娘が三人ともなれば必要なドレスも相当な量に増える、元々あった部屋を改築し数十着のドレスが収められていた。
食事時のせいか誰ともすれ違う事無く衣裳部屋の前に到達できた、扉を開けて中に入ると防虫効果のある香の匂いが鼻を擽る。
衣裳部屋の一角にある私専用の衣装が収められたクローゼット、目的はその中の一着だ。
「……ふむ」
目的のドレスはクローゼットの奥深くで私の来訪を心待ちにして待ってくれたらしい。
定期的に手入れをさせていたのが良かったらしい、色褪せずに鮮やかな真紅は私の記憶そのまま。
真紅のドレスはレッドグレイブ公爵家の女性に受け継がれる冒険用ドレス、厳密に言えば精巧に作られたその模造品である。
夜会用のドレスでも通じそうな意匠だが、これでも公爵家の財を惜しみなく用いて作られた逸品だ。
まず生地その物が特殊繊維で編まれており、極めて高い防刃性と防弾性を備えつつも通気性も非常に優れている。
加えて魔法に秀でた者達が刻んだ魔法文字によってドレス自体が高い魔法耐性も備えているのだ。
幼い頃はこのドレスを纏って冒険する事を夢見ていたが、結局そんな機会が訪れる事は一回も無かったのが惜しまれる。
領主になったばかりのリオンと婚約し辺境の地へ嫁ぐ私を憐れんだ父上が全く同じ技法を用いた上で私の体型に合わせ嫁入りの品として持たせてくれた。
結婚してからリオンと二人きりで軽い探索をする時ぐらいしか着る機会が無かったが、今回は本来の目的を果たせるだろう。
そう考えると沈んでいた気分が否応なしに昂ってきた。
室内用のドレスを脱ぎ去り下着姿になると冒険用ドレスを手に取り質感を確かめた。
最後に着たのは確かディランが生まれる前、凡そ六年程度の時間が経過している。
あの頃の私はまだ二十代だった、今以上に精力的に仕事を熟しつつ時折リオンと二人で出掛けていたものだ。
……いかんな、昔を懐かしむのは老いた証拠だ。
三十代は貴族としては円熟の時、常日頃から節制を心掛けた私の肉体は二十代と比べても遜色ない。
これを着てリオンに同行すれば彼も私への熱情を取り戻す事だろう。
其処まで考えるとついつい顔がにやけてしまう、こんな姿を使用人達に見られたら『奥様は狂ったのか?』と陰口を叩かれかねない。
意を決しドレスに袖を通す、こうした特殊生地を用いたドレスは肌触りが悪いのが通例だがレッドグレイブ公爵家の財を用いたこのドレスは例外中の例外だ。
「…………ぁッ」
…………キツい。
胸元、腰回り、臀部、要はドレスに覆われている全ての箇所が締め付けるような圧迫感を感じて息苦しい。
いや、おかしいだろう、こんな事はありえない筈だ。
確かにこのドレスが採寸されたのは十代の頃、あれから二十年近くが経過した上に六人も出産し体型が崩れたかもしれない。
しかし肉体労働がほぼ無い生活とはいえ可能な限り食事に気を使い、仕事の合間に適度な運動を積極的に取り組んできたのだ。
ディランの出産前に着れたドレスは今も着用できる、そこまで体型が変化しているとは思えない!
部屋の隅に置かれてた私の身長と同程度の姿見鏡に恐る恐る近づく、冒険用ドレスを纏った息苦しさと心中の焦りで汗が噴き出す。
鏡に映る己の姿を見るのが恐ろしくて堪らない。
それでも意を決し、ゆっくりと両瞼を上げて目の前に現れた女の姿を正視する。
……やはり使用人達が居なくて正解だった、こんな姿を見られたらバルトファルト伯爵家の加盟に傷が付く。
全体的に体の厚みが増えている、特に胸周りと臀部の肥大化が顕著だ。
空いた胸元からは乳房が無理やり押し込められる様子が一目瞭然、臀部によって下半身の丈に微妙な歪みが出来ている。
三十代になってから妊娠せず仕事に専念していた結果がコレか。
日常的な小さな変化が積み重なって気付かぬ内に肥え太っていたらしい。
リオンはどれだけ私を抱いても不満を漏らさないし、鏡に普段映るのは化粧を施した首から上と社交用ドレスを纏った姿だけ。
試着したのは正解だった、出発の前日であればリオンを散々詰っておきながら醜態を晒していた筈だ。
今から痩せようにも数日で冒険用ドレスを着こなすのは不可能だ、ならばドレスを仕立て直す方が早い。
だが冒険用ドレスの生地は特殊加工な上に魔法文字に影響が無いか調べるには専門の職人でなければ無理だろう。
他の冒険服を用意するか?
いや、レッドグレイブ公爵家が誂えたこのドレス以上の性能を持つ冒険服など皆無に等しい。
何よりリオンに怪しまれる、着られないほど太ったという恥辱に塗れるぐらいなら舌を噛み切った方が貴族としての矜持を失わずに済む。
焦った頭では考えが纏まらない、大きく息を吸って思案の為に腕を組んだ。
ヒ゛ィ゛ッ゛ッ゛!
文字通り『布が裂けるような音』が聞こえた直後、背中が涼しさを感じる。
ゆっくり背中に手を這わせると汗に濡れた背中が露出していた。
おそらくだが、ファスナーが壊れたらしい。
悲鳴を上げたいが惨めな姿を晒す訳にもいかず、ゆっくりとこれ以上服が破けないよう慎重に脱ぎ始める。
『備品の手入れに関しては余裕をもって徹底的にやらせてもらうぞ』
『逆に急ぎ過ぎて仕事が雑になっちゃいけないな』
確かにリオンの言った事は正しい、余裕を己の愚かさを改めて痛感した。
その後、どうにか冒険服ドレスを脱ぎ着替えた私は急いで専門の職人へ連絡を取らせた。
特殊加工生地を扱う技能料、修繕にかかる材料費と加工料、更に私の冒険者ドレスを優先させる為の特急料はかなりの額となり私の個人資産はかなり額が目減りした。
これも王都の連中がリオンに余計な仕事を回したのが原因だ。
私のドレスの修繕費も必要経費として絶対に計上してやる。
三十代アンジェの姿はReiN様のイラスト(https://www.pixiv.net/artworks/114993732 成人向け注意)を参照にしています。
アンジェの冒険用ドレスはコミック版8巻の裏表紙にあるレッドグレイブ・アヴェンジャードレスの設定に準拠しています。
ムチムチなアンジェとリオンのエッチ回はいずれまた。
次章からいよいよエルフの里に向かいます、挿絵もあるのでお待ちください。
追記:依頼主様によりカメ様、糯様にリクエストのイラストを描いていただきました。
ありがとうございます。
カメ様 https://skeb.jp/@kame_0_0_kame/works/45(成人向け注意
糯様 https://www.pixiv.net/artworks/126297868(肌色多め注意
ご意見・ご感想を戴ければ今後の励みにしたいと思います。