婚約破棄された公爵令嬢は田舎の醜男貴族に嫁ぎますが幸せになるようです 作:品☆美
第35章 My Darling
「そん時すぐ後ろでデカい音が。で、振り返ったら地面に砲弾がめり込んでました。我ながら悪運だけは強いなと思いましたよ」
「大変でしたね。基本的に鎧と艦艇は空戦が主で地上での戦闘は私も専門外でして」
慰霊祭の主宰と主賓が談笑する。
傍から見れば実に和やかな光景だ。
わざわざ王都から聖女を招致して戦没者を悼む慰霊祭を執り行ったのだ。
その働きを労い、感謝の言葉を述べ、少なからぬ返礼を贈るのはこの地を治める領主として当然の義務だ。
思えば私がバルトファルト領を訪れた当時のリオンは貴族として社交デビュー前の子供同然だった。
貴族としての基礎教育すら施されず、義父上が手ずから読み書き計算を教え、軍に入った後は独学で知識を磨いたのがリオンの受けた教育である。
決して野卑という訳ではないが貴族として最低限の振る舞いすら覚束ないリオンに一から礼儀作法を仕込んだのは私だった。
その甲斐あって余程厳しい社交の場を除いては危なっかしいが何とか滞りなく済ませられる半人前の領主になってくれた。
こうなると側室や愛人目当ての鬱陶しい奴ばらが押し寄せて来るものだがリオンに限ってはそんな浮ついた話は今まで無かった。
公爵家出身の私を妻に迎えたのも原因の一つではあるが最大の理由は外見だ。
リオンの顔には今も戦争で負った生々しい傷痕が刻まれている。
自らの手で命を奪い合う闘争から遠い貴族という身分で育った若い貴族令嬢にとってリオンは粗野で恐ろしく狂暴な成り上がり者と認識されたのだろう。
私以前に見合いを行った女達はリオンを恐れるか見下すばかりで決して彼を理解しようとしなかった。
全く以って愚かな連中である。
リオンという稀代の英雄を夫にする好機を手にしながらもむざむざ捨てるなど正気の沙汰とは思えない。
以前はリオンの良さを理解しない女達に腹が立ったものだが、今の私はこれで良いとさえ思っている。
リオンの素晴らしさは私だけが知っていればいい。
彼の優しさも、彼の賢さも、彼の強さも、彼の愛も。
その総てが私だけの物だ。
実の子にすら時折嫉妬してしまう時点でリオンに入れ揚げ過ぎているのは自覚してる。
だがどうしようもない。
閨の睦言で愛を囁かれる度にどうしようもなく身も心も蕩けて総てを受け入れてしまう程に私はリオンに惚れ抜いている。
「あのでっかい怪物が目の前の横切った時は死んだと思いましたよ。こうして生きてるのはオリヴィア様のおかげです」
「私だけの力じゃありません。リオン様だけじゃなくて皆さんが頑張ってくれたから私も生き残れたと思います。誰が欠けてもあの戦場は勝てません」
だからこそ受け入れるしかないこの状況が何より苦痛で仕方ない。
リオンはファンオース公国との二度に渡る戦争に従軍していた。
オリヴィアも参加のみならず一度目ではフォンオース公国の総大将ヘルトルーデ・セラ・ファンオースを討ち取り、二度目では多大な犠牲を払いながら超大型の魔物を倒した後にヘルトラウダ・セラ・ファンオースを捕縛した。
誇張無しにオリヴィア達の活躍抜きにホルファート王国の勝利はありえなかった。
そしてリオンもまたオリヴィアの勝利に少なからぬ影響を与えている。
もし一度目の戦争はリオンの奇襲が成功しなければ公国軍はそのまま王都へ侵攻するか本軍へ合流しオリヴィア達は敗れていたかもしれない。
二度目の戦争でリオンが王国兵の損耗を減らさなければ大量に召喚された魔物によって王家の舟が出陣する前に勝負が決していた可能性もある。
同じ戦場を戦い抜いた者同士しか分からない友情という物は確かに存在するらしい。
その点を踏まえれば確かにリオンとオリヴィアは戦友だった。
婚約前は王都の公爵邸で王家への呪詛を呟きながら戦争を他人事のように感じ、結婚後は戦場に赴いた夫の無事を祈るしか出来なかったのが戦時の私だ。
どうしても国を護る為に戦った者に対し気後れしてしまう。
もう何杯目になるか分からない紅茶を飲みながらただ早く時が過ぎ去るのを待ち続ける。
「オリヴィア様、そろそろお時間かと」
会話を続けるリオンとオリヴィアの間にマリエが割って入った。
よくやったマリエ。
王都に帰還する時に付け届けとしてマリエに食べ物を多めに贈ろう。
「あぁ、そうですね。もうこんな時間ですし移動しなきゃ。リオン様もアンジェリカ様もありがとうございました」
「此方こそ有意義な時間を過ごせました。近隣の領主を代表してお礼申し上げます」
「……ありがとうございます」
……リオン、随分と手馴れたように挨拶するじゃないか?
私にいろいろ躾けられた時はいちいち文句を垂れ、叱られれば渋々と従ってたくせにオリヴィア相手だとこうも礼儀正しく振る舞えるか。
苛立ちを抑えるべく息を深く吸い込み、怒りと共に吸い込んだ空気を吐き出す。
落ち着くのだアンジェリカ・フォウ・バルトファルト。
此処で感情に身を任せては嘗て婚約破棄された時の再現に他ならない。
リオンは私を愛している。
それは紛れない事実だ。
救国の聖女で可愛らしいオリヴィアを前にして少しだけ舞い上がっているだけだ。
認めよう、確かにオリヴィアは気立てが良いし賢く可愛らしい女で多くの男を無自覚に魅了する存在だ。
だが私とて次期王妃に為るべく長年に渡って最高峰の教育を施され、美貌を保つ為の様々な知識や実技を与えられた。
私はリオンの妻だし、私はリオンの子産んでるし、私はバルトファルト領の経営に尽力してるし、私は妊娠してからは控えてるけど数日に一回は必ずリオンに求められてるし。
私は負けてない。
リオンは私を愛している、私もリオンを愛している。
だから何の問題も無い。
リオンとユリウス殿下は違うのだから。
邸内を並んで歩くリオンとオリヴィアの背中を見てそう己に言い聞かせた。
胸の中の迷いは一向に晴れなかった。
アンジェが怒ってる。
凄く怒ってる。
俺がオリヴィア様と話してた時からずっと俺の隣で不機嫌で怒りのオーラが滲み出てた。
アンジェが俺に怒るのは大抵俺がなんかしでかした時だ。
そんな時は呆れ半分怒り半分で実はそれほど怒ってない。
出来の悪い弟を叱るようにダメな部分を教えてどうすれば良いか丁寧に教えてくれる。
本当にデカい失敗を俺がやらかして落ち込んだ時は優しく慰めてくれるし。
あの大きなおっぱいに顔を埋めて甘えると後悔とか疲れとか全部吹っ飛んで明日から頑張ろうって気にさせてくれる。
俺の嫁最高。
そんな最愛最高の嫁が頗る不機嫌ときたもんだ、泣きたい。
俺また何かやらかしたか?
確かに慰霊祭の進行は主催者として足りない部分も多かったし、その後のパーティーで危うく来賓の名前を間違えそうになったよ。
でも俺頑張ったじゃん、すっごく頑張ったぞ俺。
絶対にアンジェがここまで不機嫌になる失敗してないぞ。
たぶんしてないと自分では思う。
おそらく、きっと、おおかた、してないといいな。
溜め息をついて玄関までオリヴィア様御一行を案内する。
これから聖女様がお泊りになる当家自慢の温泉宿を紹介しなきゃいけない。
「ちちうえ」
「ははうえ」
家の中を駆け回ってた双子が俺達を見て近寄ってくる。
父さんと母さんに預けてたのに逃げ出したらしい。
子供ってのは何処にこんな小さい体の何処に燥ぎ回れる体力があるんだろう?
「ライオネル、アリエル。パパとママはお仕事だからおじいちゃまの所へ行きなさい」
「え~」
「や~」
見るからに機嫌を損ねて駄々を捏ねる俺達の子供。
これでも母親のアンジェより扱いが簡単だから困る。
そんな愛らしい舌ったらずな口調でお願いしても無理だぞ。
「私は構いませんよ」
わぁオリヴィア様。
アンタ、実は無自覚に状況を悪化させるタイプだな。
後ろのマリエがすっげえ嫌な顔してんぞ。
喜んで俺の足に絡みつく双子。
こっそりアンジェの様子を伺うけどなんか白けた顔でこっちを見てる。
いつもなら子供を叱りつけて行動を制限してくれるのにその気すらないらしい。
嫁がとても冷たい、本当に何をしでかしたんだよ俺。
表に用意した馬車にオリヴィア様とマリエを乗せて他の従者や護衛達は別の馬車や徒歩で移動する予定だ。
この賓客用の馬車にはオリヴィア様と従者のマリエ、そして領主の俺とその妻のアンジェが乗る段取りになってる。
うちの御者と馬丁が恭しく礼をして馬車の扉を開けた。
乗り込む順番は身分や性別が優先されるのがマナーなんでオリヴィア様、マリエ、アンジェ、俺の順だ。
女性陣三人が乗り込んだ所で双子もアンジェに続いて乗り込んできやがった。
本当にアンジェが注意しないと止まらないなコイツら。
滅多に乗れない来賓用馬車の内装に夢中だ。
やれやれと馬車に乗り込もうとした瞬間に冷たい視線が突き刺さる。
「リオンは別の馬車で来い」
……俺、本当に何かした?
ここまでアンジェに冷たくされたら本気で泣きたい。
「いや、来賓を案内するのは主催者の義務じゃん」
「馬車は子供達を乗せたら手狭だ。男なら別の馬車でも問題無い」
「あ、なら私が降りますんで」
「「や〜〜〜!!」」
「お坊ちゃまお嬢様!髪を引っ張るのは止めてってば!」
気を利かせたマリエは双子の前に轟沈した。
いくらなんでもそんな無茶が通る筈ないだろ。
そもそも来賓用に作られた馬車はかなりの大きさだ。
子供二人が増えた所で問題なく走れる。
空いてるアンジェの隣席に座るとあからさまに嫌な顔をされた。
仕方ねぇだろ、俺はアンジェの旦那だし。
俺の溜息は御者の鳴らした出発の鐘で掻き消された。
これから宿に向かうまでアンジェとどうやって仲直りしよう?
「アハハハ!」
「ふぉぼっひゃま、ふゃなをにひぃひゃなひへぇくひぁはい」
ライオネルに鼻を掴まれたマリエが何か呟いてるがよく分からない。
「きれ〜 きれ〜」
「お嬢様、褒めてくれるの嬉しいけど髪を引っ張るのは止めて」
アリエルがマリエの髪を強い力で撫でつける。
俺の子供はよほどマリエが気に入ったのか両親の俺達やオリヴィア様を無視してずっと絡んだままだ。
流石にひどい時は俺が止めるけどオリヴィア様は基本的にニコニコと微笑ましく見ているだけでアンジェは我関せずを貫いてる。
来客と子供二人の面倒を同時に見るなんて俺には無理だ。
視線でアンジェに協力を促しても素っ気なく返される。
もう嫌だ、おうち帰る。
「ライオネルくん、アリエルちゃん」
オリヴィア様が双子に声をかけると手を差し伸べる。
その指先に淡い輝きが灯るとゆっくり明滅しながら指先を移動していく。
微細な魔力制御による魔力制御だ。
俺は貴族として平均以下の魔力値な上に大した訓練を受けてないからあんな器用な真似は出来ない。
アンジェは炎属性魔法に適性があるらしいけど一流には及ばない。
オリヴィア様が放つ光に興味津々なライオネルとアリエルは漸くマリエを解放した。
双子の世話をしなくていい隙を見て俺もアンジェの耳元に口を近付ける。
「アンジェ」
「……」
「アンジェってば」
「……どうした」
気怠げに車窓から外の風景を眺めてたアンジェの反応が冷たい。
露骨に嫌な顔されて泣きたくなるけど此処で諦めたらダメだから覚悟を決めて尋ねる。
「俺、何かした?」
「何かしたとは?」
「いや、だってずっと不機嫌じゃん」
「別にいつもと変わりあるまい」
どう見ても不機嫌じゃん、不機嫌丸出しじゃん。
俺への口調が突き放す感じだし子供達も放置したままじゃん。
普段は貴族の鑑みたいな隙の無さなのに投げやりで露骨に手を抜いてるだろ。
「怒ってる?」
「怒ってない」
「どう見ても怒ってるだろ」
「私の、いったい、どこが、怒ってるように見える」
怒ってるだろ。
その態度、誰が見ても全員が怒ってると判断するだろ。
喉の奥までそんな言葉が出掛かったけど必死に押しとどめる。
こんな時のアンジェを深く追求したら間違いなくもっと不機嫌になる。
アンジェとは三年、いや四年以上の付き合いだけどそれ位の判断は女心に疎い俺にだって分かる。
姉貴とフィンリーは俺が文句を言えば五倍ぐらい言い返すけどアンジェはほとんど言い返さない。
その代わり口数が少ないのに反比例して丁寧に心を抉ってくるけど。
流石に来賓の前で夫婦喧嘩は避けたかった。
普段なら恥も外聞もなくアンジェに平謝りして許してもらうんだけどこの状況じゃそれも無理っぽい。
やっぱ出世なんかしたくない。
ただの平民として生きていくのが一番俺の性に合う。
宿に辿り着くまでにアンジェの機嫌が直れば良いんだけどなぁ。
馬車の外から目的地到着のベルが鳴り響く。
結局宿に到着するまでアンジェの怒りは治まらないまま終わっちまった。
俺の役立たず、ライオネルとアリエルもお願いするからパパとママの仲直りに協力してくれよ。
どんなにつらくても顔に出しちゃいけないのが世知辛い貴族家業だ。
溜め息を圧し殺して開かれた扉から降りると宿の従業員が御出迎えときた。
馬車は男が周囲を確認してから最後に乗って、男が最初に降りて安全を確認してから女性をエスコートするのがマナーだ。
振り返ると今まさにオリヴィア様が馬車から降りようとしてる。
失礼が無いように手を差し出してゆっくり手を引く。
降りる時にオリヴィア様の体が揺れて馬車の中が見える。
ライオネルとアリエルを抱いたアンジェの瞳が俺を睨んでた。
ただ、アンジェの表情は今まで見た事が無いぐらい悲しそうだった。
アンジェの顔を見た瞬間、何かが腑に落ちた。
コレ言っても絶対アンジェは認めないよなぁ。
逆に怒りの炎に油を注いで手が付けられなくなるよなぁ。
でも慰めなきゃいけないだろ、俺アンジェの旦那だし。
たぶん怒られる、めっちゃ怒られる、しばらく口きいてくんないかも。
やらないとアンジェ不機嫌なままだもん。
仕方ない、やりますか。
オリヴィア様に次いでマリエ、その次に双子が降りて最後にアンジェだ。
足元で双子が急かすようにアンジェが降りるのを待つ。
俺が差し伸べた手にアンジェの手が触れた。
「アンジェ」
「……ん?」
何処か気の抜けた声を出したアンジェの隙を狙い素早く腰に手を回す。
そのまま力を込めて一気に引き寄せる。
アンジェの体が浮いた瞬間、その紅い唇に俺の唇を重ねた。
苛立っていたのが失敗だった。
私の教えた社交マナーをリオンがオリヴィアへ施す度に心の中が酷く騒めいた。
そんな事はあるまい、そう信じていても何処か気が沈んでいた。
子供達を抱き締める手に力が籠る。
私とリオンの愛の結晶、そう思っても心は晴れない。
だから注意が散漫になってしまう。
この地で聖女を狙う不届き者など存在しないと思い己の注意を怠った。
馬車を降りた子供達を確認して最後に馬車から降りる。
このままオリヴィアを接待するリオンを見続けるよりバルトファルト邸に戻った方が良いかもしれない。
そんな事を考え込んでいた。
「アンジェ」
「……ん?」
上の空で返事をしながらリオンの手を取る。
この手に私より先にオリヴィアが触れたと思うだけでドロドロとした負の感情が湧き上がる。
次の瞬間、猛烈な勢いで引き寄せられた。
何か唇に触れた感触に戸惑っていると目の前に私を見つめる瞳が在った。
バッッッチイィィィン!!!
蒼く高い空に何かを打つ音が木霊する。
私の右手が震えている。
先程まで触れていたリオンの唇は遠く離れていた。
「痛い」
「馬鹿な真似をするからだ!!」
何を考えてあんな真似をした?
周囲の目がある場所で接吻など恥を知らんのか貴様は。
叫び出したい衝動を無理やり鎮めるも放たれた言葉は微かに震えている。
頭に血が上り過ぎて正しく状況を判断できない。
どうしたら良いか分からず自分の鼓動だけがうるさくて耳障りだ。
「落ち込んでるから元気づけようと思ってさ」
「時と場所を考えろ馬鹿!!」
何考えてるんだこの男。
夫と言えどもやっていい時と場所を弁えろ。
何事かあったかと周囲の視線が私達に突き刺さる。
「何かありましたか?」
心配そうにオリヴィアが私達を見つめる。
そもそも、お前が来なければこんな事態になっていない。
睨みつけたいが流石に聖女に暴言を吐いては領主の妻としての品格が問われかねない。
「ちゅ~」
「ちゅ~」
「ライオネル、アリエル。止めろ」
「ちちうえとははうえ」
「ちゅ~」
ここぞとばかりに息子と娘に裏切られた。
いや、悪意は無いのだろう。
私達夫婦は朝起きた後と夜寝る前に必ずキスをしているし、家族四人で過ごしている合間に唇を重ねれた瞬間を子供達に幾度も見られている。
この二人はキスを単なる親愛表現と認識しているだけだ、決して両親を冷やかすような真似をしている訳ではない。
周囲に視線を送るとオリヴィア達は同然だが宿の従業員、護衛の神殿騎士までが何事かと注目している。
羞恥で頬が熱くなるのを誤魔化すように歩みを進める。
「アンジェ、俺が案内するはずじゃ」
「いらん!!貴様は其処でライオネルとアリエルの子守りをしろ!!」
「……わかりました」
落ち込むぐらいなら最初からやるな馬鹿。
楽しそうに私を見つめるオリヴィアとマリエが憎たらしい。
もういい、ここから先は私が主導する。
リオンは子供達を大人しくさせていればいいんだ。
憤りを胸に仕舞い大股で宿へ来賓を案内する。
振り返ると小さくなった夫と子供達が目に入る。
こんなにも心が乱れているのに、何処か幸せを感じて私の口元が柔らかく緩んだ。
温泉の効用は基本的に何処も似たり寄ったりになってしまう。
大抵の病は清潔を保ち、患部を温め、血行を良くする事で新陳代謝を促せば肉体に備わっている免疫力や回復力によって軽減する。
温泉の成分やその地の気候風土によって効用に差は出るが、不治の病を癒す程の効用は期待できない。
バルトファルト領の温泉が王国内で存在を認知されたのは宣伝力による所が大きい。
王国から傷病兵の療養施設という名目で援助させ、公爵家から人材と資金を借り受け手広く宣伝を行う事で一時的な集客を目論んだ。
この地を治めるリオンが戦争の負傷により弱っていた心身が温泉によって快癒したというのは私達が作り上げた幻想に過ぎない。
実際には温泉は単なる治療手段の一つであり、私が行った献身的な介護と公爵家御用達の医師による継続的な治療とリオン本人の生命力の産物だ。
この地にオリヴィアを招いた理由の一つにバルトファルト領の箔付けがある。
今のオリヴィアはファンオース公国との戦争を終結させた救国の聖女だ。
神殿の思惑はさておいても人々から慕われているのは紛れもない事実。
ならばその求心力をバルトファルト領の宣伝に利用した所で何ら問題は無いだろう。
そうした思惑の下に賓客用の宿をオリヴィア達の為に領主権限でわざわざ貸しきった。
ただでさえ今回の戦争で各地の領主は懐具合が寒いのだ。
少しでもこの地で生きる者達に為に聖女殿には存分に働いてもらうべきだ。
「ア゛~~~ッ。まさか温泉に入れるなんて思いませんでした」
「いつもは女官用の大浴場だもんね」
「私もそっちが良いんですけど」
「聖女様が女官や侍女と同じ扱いなんて神殿の権威を気にするお偉いさんは認めませんって」
賓客専用の女性浴室にはオリヴィア達三人と私とアリエルが入浴してる。
男性浴室にはリオンとライオネル、そしてカイルが使う予定だ。
五人で使うには広すぎる浴室にオリヴィア達は想像以上に少し燥いでいた。
「この温泉の効用って何ですか~?」
「怪我、冷え性、筋肉や関節の痛み、月経不順、整腸作用、美肌」
「良いですね、一泊だけじゃなくてしばらく泊まりたいです」
「あとは気の病と不妊かな」
「「「不妊……」」」
三人の視線が私が抱いているアリエルに向けられる。
いや、向いているのはアリエルの下にある私の体の方か。
「その、アンジェリカ様のご懐妊は温泉の効用なんでしょうか?」
「カーラ、どうしてそうなる」
「だってどう考えても私達と同い歳で三人目は多いかと」
「いえ、平民の女の子でも十代半ばで産む人もいるよマリエさん」
「ちなみにアンジェリカ様は結婚何年目ですか?」
「……三年と少し」
「オリヴィア様、カーラさん聞きました!?一年に一人のペースですよ!絶対に温泉の効用ですって!」
「失礼だよマリエさん、リオン様とアンジェリカ様が仲睦まじいのはさっき見たでしょう」
私をそっちのけで姦しく会話する三人。
オリヴィアめ、流石は聖女だけあって推察力がある。
確かに結婚前の私達は情欲に支配された獣だった。
リオンは戦争で受けた心身の傷を、私は婚約破棄による悲嘆と憤怒を癒す為に互いに好意を抱いてると自覚した時点でひたすら体の繋がりを求めた。
仕事や食事等の必要な時間を除き暇を見つけてはあの別宅で肉の悦びに耽溺していた。
そもそも、この浴室で激しく交わった事すらある。
初めての妊娠も挙式の前なのか後なのか今を以って不明なぐらい結婚前の私達は悦楽の虜になっていた。
いかん、思い出したら体の奥が火照ってくる。
不思議そうに私を見る娘の曇り無き瞳が痛い。
「アンジェリカ様」
「なんだオリヴィア」
「幸せですか?」
「どうだろうな、王都の奴らから見れば落魄れた悪女の末路に見てるのかもしれん」
「学園に居た頃に比べてリオン様とご成婚された後の御顔が随分と変わられています」
それはどうだろうな。
以前の私を知らないリオンは事あるごとに私が怖いと恐れる。
「王都ではアンジェリカ様の噂が極端過ぎて自分の目で確かめないとどっちが本当なのか分かりません」
「どんな噂だ」
「私が聞いたのは公爵家の性格が悪い令嬢アンジェリカは聖女オリヴィアに楯突いた罰として性格の悪く好色な成り上がり者の醜い田舎領主と結婚させられて無理やり子供を産まされるような落魄れた暮らしを送っているですね」
「その噂流してたのフランプトン侯爵の手下と公爵家を嫌ってる王家派の連中ですカーラさん。私が仕入れた噂は心と体を病んだバルトファルト卿を婚約者になったアンジェリカ様が癒して辺境でご活躍してるって感じです。こっちは公爵家が中心に広めたみたいだけど」
「こんな感じの噂ですから自分の目で見るまで納得できなかったんです」
それらの噂が王都に流布しているのは知っている。
尤も前者の方はフランプトン侯爵と公国の繋がりが発覚して以来、公爵家に対する悪質な印象操作として厳しく取り締まられた筈だが未だに信じている輩も居るらしい。
「あの騒動でアンジェリカ様が婚約破棄された後悩みました。私のせいで大変な事になってしまって。何度も公爵家を訪ねましたけど門前払いされてしまいましたし、手紙を書いても全て返却されました」
「オリヴィア様、今でも馬鹿五人の元婚約者を心配してるんですよ」
「アトリー家の御令嬢には幾度もお手紙を出してますし。ステファニーが逮捕された時だって自分のせいで犯罪者になったんじゃないかって気に病んでました」
どうやら幾度もあの騒動の後に幾度も私と会う為に活動していたらしい。
おそらく父上や兄上が私を気遣って面会を拒んでいたようだ。
仕方あるまい、あの頃の私を振り返れば確かに怒りと怨みで憔悴しオリヴィアを目の前にしたら何を仕出かしたか自分でも分からない。
「アンジェリカ様が王都を離れて婚約された時もかなり悪い噂が流れていたんです。あんな事にならなければきっと立派な王妃になられていた筈なのに」
「今の私に王妃の座について未練はほぼ無い。寧ろ殿下との婚約が破棄されたおかげで得難い伴侶を見つけられた」
「安心しました」
何事も起きずユリウス殿下との婚約を継続しそのまま結婚する嘗て思い描いていた幸せな未来は既に霧散していた。
王都の公爵邸に残り延々と王家を怨みながら過ごしていても片田舎で苦労している今の生活ほどの充実感が得られたとはとても思えない。
あの日、父上が持って来た縁談を拒まず良かったと断言できる。
「お前の方こそいったい誰と結婚するつもりなんだ?」
「私は聖女ですよ。この国の人達の為に働くのが役目です。誰かの妻になるなんて考えていません」
マリエとカーラに視線を移すと二人は静かに頷いていた。
平民出身のオリヴィアの箔付けを企てたユリウス殿下を筆頭とした五人の貴族令息。
公爵家を追いやる為にオリヴィアの力の悪用を目論んだフランプトン侯爵。
聖女の名声を利用して体のいい傀儡にするべく裏で暗躍する神殿。
そしてオリヴィアの影響力を取り込み王位の簒奪を狙うレッドグレイブ公爵家。
彼ら全員がオリヴィア個人の資質を見誤り侮っているのだろう。
オリヴィアは聖女の地位に相応しい賢く強い女だと敵対した私でさえも認めざる得ない。
既に力ある者の庇護が無ければ生きていけない弱々しい平民の小娘ではないのだ。
ユリウス殿下も憐れなものだ。
オリヴィアに恋心を抱いた所で報われる日は決して訪れないだろう。
私と婚約破棄しなければ確実にホルファート王国の王座を継承し、権力でオリヴィアを側室にするのも聖女としてのオリヴィアを国を挙げて支援する事すら可能だった。
一刻の感情のまま行動した結末は廃嫡同然の扱いと腕っぷしだけが取り柄という周囲の冷たい視線だ。
国の危機を退けた英雄を粗略に扱う訳にもいかず王宮も扱いに苦慮しているだろう。
「オリヴィア」
「はい」
「バルトファルト領の民を代表して礼を言う。この国を救ってくれたお前の働きに心から感謝する」
「私は当然の事をしただけです」
「それでもお前が戦わなければリオンは戦場で息絶えていた。私と出会う事さえ無くこの子達も存在しないかった。今度の戦いでもライオネルとアリエルは父を失う所だったぞ。お前のお陰で救われた人々、生まれた命が確かに存在している。それをお前はもっと誇るべきだ」
最期まで告げて私はオリヴィアに首を垂れる。
あの婚約破棄騒動から五年は経っていた。
怨讐も悲しみも未だ私の心の何処かに燻り続けている。
それは切り離せない私の一部だ。
だけどそれ以外に愛情も喜びも確かに存在している。
受けた屈辱もいつかは笑って思い出せる日々が訪れるのかもしれない。
そろそろ煩悶を抱えたまま生きるよりも過去の失態を糧に新しい一歩を踏み出しても良い頃合いだ。
「ありがとう」
もう一度、頭を下げて心からの謝意を伝える。
「止めてくださいアンジェリカ様。そんな事されても困ります」
「とは言ってもお前は聖女だ。本来は単なる子爵夫人が対等の口を利ける存在ではない」
「だったら私も敬称を控えます。じゃあアンジェリカさん?」
「控えると言っておきながら『さん』呼びか。まぁお前らしいな」
この場にいる皆が微笑んでいた。
ふと頭を上げると夜空に幾つもの星が瞬いていた。
リオンの過去を知ったあの日、見上げた空には同じように星が夜空を彩っていた。
オリヴィアがこの国を照らす太陽ならば私は地平線の近くで朧気に見える星だ。
それで構わない。
私の隣には小さく輝く星が一つだけある。
誰からも目を惹かれない屑星でも、私を隣にあの星が煌いてるだけで幸せだ。
いつになく感傷的な想いに浸りながら私は抱き締めているアリエルを優しく撫でた。
「ライオネル、パパはお前の将来について凄く悩んでいる」
「う~?」
「世の中にはな、越えてはいけない一線ってもんが存在してるんだ。兄弟姉妹で結婚しちゃいけないとか、打ち負かした相手を過剰に攻撃し続けるとか」
「あ~?」
「女湯に男が入る。これは人間に理性が生まれた時から禁止されるやっちゃいけない事なんだぞ」
「え~?」
「確かにママのおっぱいは魅力的だ。張りがあって柔らかくて大きくて最高だ。だけどな、ママのおっぱいはパパの物だ。お前達を育てる為に我慢して貸してるんだぞ。それを忘れちゃダメだ」
「い~?」
「オリヴィア様は確かに美人だけど子供だからって聖女の裸を見るのはご法度なんだ。あとマリエはパパとママと同い歳だから騙されちゃいかん」
「お~?」
「だからお前も女湯に入れなかったぐらいで泣くな。そんな事をしてると俺の跡を継げなくなっちゃうぞ」
「ぶ~?」
((真面目な顔で何を言ってんだこの人……))
一方その頃、この地の領主とその長男が浸かっている湯船に同伴していたエルフの青年はさっさと浴室から出ようと心に誓っていた。
「行っちまったな」
「あぁ」
飛行船が駆動音を鳴り響かせながらゆっくりと地を離れ飛び立つ。
神殿特注の聖女専用飛行船を護衛船が左右を固めながら少しずつ空に溶けるように小さくなっていく。
慰霊祭の翌日、オリヴィア達は王都へ帰還する。
ささやかな品々と感謝の言葉をオリヴィアへ贈りその後ろ姿を見送った。
双子はマリエと離れるのが余程嫌だったらしい。
こっそりバルトファルト邸から出発しようとすれば泣き叫び私達の服を掴んで離さず、渋々同行させれば別れの時になってもマリエにずっとしがみついていた。
出会いが在れば別れも在る。
次にオリヴィアと会うのはいつの日になるか、或いはもう二度と会う事さえ無いのかもしれない。
だからこそ感謝の言葉を告げて良かった。
お互いに相手への懊悩を抱えたまま生きるには私達の関係は歪つ過ぎた。
「漸く一段落かな?」
「まだ後始末が残っている。それにもうすぐ収穫期だぞ。戦争で失った貯えを少しでも取り戻さなくては」
「いつになったら金の心配をしなくて済む隠居生活になるのかねぇ」
双子に泣きつかれ億劫そうに立ち上がるリオンが何処か安心しているように見える。
「これから王都はどうなるんだろうな?」
「それは分からん。私達に出来る事などたかが知れている。バルトファルト領の民が血を流さずに済むようにする程度が精々だろう」
「でも協力するのか」
「部外者としてこれから起きる未来を悩むよりも当事者として現在の流れを変えり為にもがき苦しむ方が幾分建設的だ」
「やれやれ」
立ち上がるリオンと視線が重なった。
思い返すと昨日キスされてから今日は忙しくて一度もキスをしていない。
このまま敗けっぱなしなのは私の矜持に関わる。
「リオン」
「ん?」
今度は私から唇を重ねた。
両手が双子で塞がっているリオンは為すがまま私のキスを受け入れるしかない。
さらにリオンの首に腕を回して距離を詰める。
やはり気持ちが通じてる相手との接吻は心が満たされる。
たっぷり数十秒の時間をかけ念入りに唇を絡め合うと私達が離れた頃にはリオンの唇に私の口紅がたっぷり付着していた。
「何すんだよ」
「昨日リオンが私にした事をやり返しただけだ」
「時と場所を選ぶんじゃないのか?」
「選んだぞ。私がキスしたくなったからした。感情のままに口付けるのもたまには悪くないな」
「どっちが破廉恥だか分かんねえぞ」
ぶつぶつと文句を言いながら馬車に向かうリオンの後を追う。
「家に帰ったら昨日の夜と今日の朝の分のキスも忘れずしてもらう」
「マジか」
「嫌か?」
「仰せのままに」
愛おしい旦那様と可愛い子供達に囲まれて
何気ない日常が堪らないほど幸せで
馬車に乗り込んだ後、今度はリオンの頬に口付けた。
オリヴィアとアンジェの和解回。
原作の情報だと「悪役令嬢アンジェリカは性格の悪い田舎領主と結婚する」とは書かれていましたが、「二度とオリヴィアと会う事は無かった」「オリヴィアと和解しなかった」とは書かれていません。(屁理屈
実際に復讐のエネルギーは凄まじい力を生み出しますが、復讐を終えた後に残る者が無いと虚しいので悪役令嬢アンジェには愛しい旦那様と子供達を用意。
途中で言われている婚約中のアンジェとリオンが肉欲に溺れる日々はこちら(挿絵付き)になります。https://syosetu.org/novel/312750/(成人向け注意
初代聖女に乗っ取られていない聖女オリヴィアと元悪役令嬢アンジェを和解させるのはかなり苦労しました。
次章からは新展開です、『D』来襲。
追記:依頼主様のご依頼で鳥の巣様、行けたら行く様にイラストを描いて頂きました。ありがとうございます。
鳥の巣様https://www.pixiv.net/artworks/112591467(声優ネタ注意
行けたら行く様https://skeb.jp/@iketara_iku/works/6(成人向け注意
ご意見・ご感想を戴ければ今後の励みにしたいと思います。