虹夏のドラムになるだけのお話 作:愛と孤独
口の中のゲロをコーラで流し込むのは気持ち悪かったけれど、ほんの一瞬だった。
二口目からは、いつものコーラになった。
「あ、そうだ、口拭く?」
伊地知さんが、濡れティッシュを渡してくれた。
優しい。
「あ、ありがとう」
その時、バンドがステージに現れた。トム・ハレルみたいな髭面のトランぺッターが、つんざくようなハイノートを奏でた。
「ジャズ?」
「ジャズの要素を入れたソウル/ファンク/ロックバンド。京都から来たんだって」
「へぇ」
さすが伊地知さん、詳しい。
ライブの音に隠れるようにして、伊地知さんが、僕の耳元でささやいた。
「あのさ、その夢って、このライブハウスが舞台だった?」
うひゃっ、耳元でささやかれると吐息がくすぐったい。
気持ち良すぎる。
「あ、え、えと。ちょっと違うかな。もっとこう、奥行きとか遠近感が不気味な、変な部屋だった」
「何が起こったか、覚えてる?」
「えと……天井が下りてきて、あの女の人が、ぐちゃぐちゃにつぶされた」
「見たのは、そこだけ?」
僕は、唾をのんだ。
言うべきだろうか?
伊地知さんが出てきたって。
僕がドラムになっていて、伊地知さんに叩かれていたんだよって。
でも、そんなことを言ってしまったら、変な奴に思われないだろうか?
僕が、伊地知さんの妄想をしているみたいな。
いや、事実日々、伊地知さんの妄想はしていたんだけど。
「ね、お願い! 教えて! とても重要なことなの!」
「伊地知さん……」
覚悟を決めよう。
気持ち悪がられたって、し、仕方ない!
「実は、その前に、僕がその……い、伊地知さんのドラムになっていて。僕は、叩かれていたんだ。でも、何かが足りなくて、天井がどんどん降りてきてしまった」
「ふ、藤沢君」
ぎゅっ。
伊地知さんが、僕の手を両手で包み込むように握った。
え、え!?
「君だったんだね! あたしのドラム!」
キラキラした瞳で見つめてくる。
「ずっと探していたんだ!」
「そ、そうなの?」
きょ、距離が近い。
「あ、でも、謝らなきゃ。あたし結構力いっぱい叩いちゃってるけど、痛くなかった?」
「ぜ、ぜんぜん。むしろ心地よかったよ」
「え、藤沢君って、ま、マゾなの?」
ちょっと、そこで引かないでよ。
「っていうか、あの夢は、伊地知さんも見ているの?」
問いかけると、伊地知さんは、首を振った。
「ううん、違うよ」
「へ?」
「あれは夢なんかじゃない。現実」
「げ、現実?」
意味が分からない。
あれが現実だって?
僕がドラムになって、そしてPAさんがぐちゃぐちゃになって死んだ、あの世界が?
じゃあ、なぜ僕は人間なんだ?
なぜPAさんは生きているんだ?
僕の内心の疑問にこたえるかのように伊地知さんが言った。
「正確に言うと、この世界の、もう一つの現実とでもいうべきなのかな……私たちはあれを、もう一つの下北沢、下北オルタナティブと呼んでいる」
「下北、オルタナティブ」
「うん。そして、その奥にはさらに、下北沢の奈落が横たわっているんだ」
その言葉には、聞き覚えがあった。
確か、あの夢で伊地知さんが叫んでいた言葉だ。
と、その時。
「遅くなっちゃってすいませーん! ちょっと用事が重なっちゃってて」
キターンという擬音とともに、赤髪の少女が現れた。
なんてタイミングだろうか、ちょうどステージでは、例のファンクバンドが、ドナルド・フェイゲンのH Gangのカヴァーをやっていて、歌の中でもちょうど赤い髪の女が登場したところだった。