CyberPunk EDGERUNNERS Ver1.6.3   作:甘井モナカ

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第三章 Binary Star
01話 エンカウント


 

 

 

 1

 

 

 

 暗闇に沈む路地裏。

 劣化したコンクリートとむき出しの配電ケーブルが、夜風に揺れて微かな音を立てる。

 散乱する手足。通路を覆うように転がる人影。どす黒い血と焦げた肉の臭いが、湿った空気に溶けていた。

 

 その中心で、女が肩で息をしていた。

 

 汗が頬を伝い落ちる。閉じていた瞼を押し開き、茜色の双眸が淡く光を帯びた。

 網膜フィルタが拡張され、周囲の生命反応を瞬時に走査する。

 

(……ゼロ。防衛は完了)

 

 喉の奥で、呼ぶ相手のいない名がかすかに揺れた。

 女はそれを押し潰すように息を吐く。

 

 腕部の《モノワイヤー》を収納すると、光粒子が血に濡れた腕を照らした。

 視界の端で転がる死体が揺れる。

 

「――っ」

 

 女は意識的に顔を逸らし、汗と血だけを拭った。

 死者を数える癖は、ずっと前に捨てた。

 

(時間を使いすぎた……。早く戻らないと。一人で待つの、彼は苦手だから)

 

 歩き出した瞬間――その足を縫い止めるように、声が落ちてきた。

 

『なるほど。我々の障害は君か』

「……!」

 

 背後には誰もいない。生命反応もゼロのまま。

 だが声は、彼女の戸惑いを楽しむように続いた。

 

『存在隠蔽も上出来だ。惜しい人材だよ』

「……何の用?」

 

 嫌悪を押し殺しながら再スキャンするが、結果は変わらない。

 

『投降の交渉だ。これ以上の損耗は避けたい』

「なら、今すぐ手を引くことね」

 

 女は思考を切り替え、意識を電子の海へ沈めた。

 膨大なデータの奔流を縫い、不自然な痕跡を追う。

 

 発信源は――転がる亡骸のデバイス。

 

(バックドア経由……安全圏からの一方的な干渉ってわけ)

 

 舌打ちしながら、指先に光を灯す。

 掌に浮かぶ立方体が、侵入用アルゴリズムを高速展開していく。

 

『……交換条件といこう。君の身柄を一時的に預かることを引き換えに、君の望みを一つ叶えよう』

 

 胸の奥が、ひどく古い痛みに触れられたように疼いた。

 忘れたはずの願いが、薄闇の底から顔を出す。

 

「……!」

 

 女の動きが止まる。

 心臓が跳ね、呼吸が乾く。

 

 終わりの見えない戦い。

 コーポという巨壁に一人で挑む愚かさ。

 その全てを理解していたからこそ、提示された“救い”は甘く響いた。

 

『ここで君ほどの実力者を失うことは……私としても本意ではないんだ』

 

「……」

 

 唇が震え、足が前へ出かけ――脳裏に言葉が過る。

 

(『……ナイトシティでは人を信じるな。信じて騙された方が悪い』)

 

 彼の笑顔が、月光のように脳裏をかすめる。

 女は足を止め、拳を握りしめた。

 

「断るわ。その条件じゃ、私の望みは叶いそうにないから。……それと、もう少しマシな嘘をつきなさい。本音が透けてる」

『……なるほど。一本取られたよ』

 

 姿の見えない交渉人を前に、女は自身の意見を吐き捨てた。

 彼女は自身の胸の内を改めて確かめた。

 

 ――私だけ助かる道なんて、最初からありえない。

 

 あれほど自己中心的な響きを纏っていた声の端が、初めてわずかに揺れた。

 その揺らぎは一瞬で消え、代わりに冷たい本性が滲み出す。

 

『底辺の虫が見せた意地に敬意を表し、1つ良いことを教えてやろう。私はこれから“オリジナルデータのハード”を手に入れる』

「……っ!?」

 

 女の心音が一際大きく、全身にこだまする。

 彼女の顔から一瞬で血の気が引く。

 

『バックアップは用済みだ。凍結されていた計画は復元できる』

 

 最悪の事態。

 女は即座に逆探知の構築を加速させた。

 

「そんな事、させると思う?」

『無理だよ。君はこちらの位置を――』

「だから今から確かめるのよ!」

 

 立方体が四散し、通信経路へ殺到する。

 暗号化をこじ開け、相手のパーソナルネットへ侵入。

 

 奔流のデータを走査する中、女は意識をさらに深層へ沈めた。

 通信層・暗号層・識別層――多層化された情報の壁を次々と突破する。

 破棄されたログ、偽装されたパケット、意図的に歪められたタイムスタンプ。

 それらを高速で照合し、異常値だけを抽出していく。

 通常の通信では生じない“逆流するデータの尾”が、ひとつの経路へと収束していた。

 女はその不自然な流れを捕捉し、さらに深く潜り込む。

 

 そして――一つの答えにたどり着く。

 

(見つけた――)

 

 彼女の意識が秘匿兵器の情報を掴んだ瞬間、視界が闇に沈む。

 

「……っ!?」

 

 突如自身の視界を警戒ウインドウが埋め尽くした。

 それに呼応するように、通信経路が根元から次々と遮断される。

 痕跡を残せば逆に危険。女は激痛を無視して《情報端子》を引き戻し、意識を現実へ帰還させた。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 脳に残る痛みを吐き出しながら、得た情報を思い返す。

 マップに点在する赤いカーソル――秘匿兵器の保管地点。

 

 (あのプロテクトの数……偽物じゃない、わね)

 

 女は息を呑み、足に力を込めた。

 この場を離れなければ――そう判断した瞬間。

 

『ここまで仕込んでも得られたのは君の現在位置だけか。惜しい人材だよ』

 

 声が、落ちてきた。

 

「……!」

 

 女の背筋が凍る。

 

 最初から。

 逆探知させること自体が目的だった。

 

『駒を掃除してくれた礼だ。精々、無様に逃げ延びてくれ』

 

 雲間から月が顔を出した。

 銀色の前髪が揺れ、視界の端で月光を弾いた。

 その柔らかな光に、女はほんの一瞬だけ目を細める。

 それは彼の微笑みに、ひどく似ていた。

 

(……どうして、こんな時に――)

 

 その感傷を遮るように、彼女の背筋に悪寒が駆け抜けた。

 

 空気を裂く甲高い音が響く。

 夜空に赤い光が無数に走る。

 

 それが《対艦ミサイル弾》だと理解するのに、時間は要らなかった。

 

 ナイトシティの一角で、星のような爆光が重なり合った。

 

 

 2

 

 

 

 煙草に灯した火が、ぱちりと小さく弾けた。

 身体に蓄積した疲労のせいか、混濁していたルーシーの意識がゆっくりと現実へ引き戻される。

 

 まるで白昼夢の残滓に囚われているようだった。

 先刻の壮絶な記憶が、何度も脳裏を焼き直す。

 

 ルーシーはそれを振り払うように、咥えていた煙草を灰皿へ落とした。

 短くなった煙草の燃え滓から伸びる煙が、吸い込まれるように夜空へ溶けていく。

 

 彼女がいるのは、借りているマンションのさらに上――誰もいない屋上だった。

 穏やかな風が頬を撫でる。

 右腕で目元に掛かった髪を払おうとして、走った鈍痛に小さく顔をしかめた。

 諦めるように腕を下ろし、空を仰ぐ。

 

 いつもなら綺麗に見えるはずの星空は、厚い雲に覆われていた。

 今にも落ちてきそうな圧迫感を漂わせる空から視線を逸らし、ルーシーは自分の手足を見る。

 白い布で巻いた箇所には、ところどころ赤色が滲んでいた。

 部屋の応急キットから拝借した止血剤を、乱雑に包帯で押さえつけただけの処置。

 痛みは消えない。

 断続的な刺激が、今も神経を通して脳へ送り返され続けている。

 医者へ向かう気力すら残っていなかった。

 力の入らない身体を引きずり、気づけばこの屋上へ逃げ込んでいた。

 

「……状況は最悪。一刻の猶予も、もう無い」

 

 焦点の合わない瞳を街並みに向けたまま、ルーシーはぽつりと呟く。

 

 コーポのランナー達は、壊れたデータ片に異様な執着を見せていた。

 何人潰しても、また次が来る。

 何度迎撃しても、諦める気配はない。

 

 それだけで理解できる。

 あれは、絶対に失わせてはいけないものだった。

 

 だから守れた。

 どれだけ時間が掛かっても、ランナー相手なら辛うじて対処できる。

 いつかコーポ側が『費用対効果』を見直し、計画を凍結するまで時間を稼げれば、それで良かった。

 

 ――“オリジナル”さえ存在しなければ。

 

「早く、何か手を打たないと……。今までやってきた事が……」

 

 新しい煙草に火を点けても、不安は薄れなかった。

 思考を巡らせるたび、自分がどれほど追い詰められているかを理解してしまう。

 理性は告げていた。

 もう間に合わない、と。

 それでも感情だけが、まだ諦めるなと喚き続ける。

 彼女がここで踏み止まっている理由は、自分のためではない。

 

 自身よりも大切な存在のため。

 冷え切っていた血肉に、初めて熱を与えてくれた存在のためだった。

 

(ああ……思考が、まとまらない……)

 

 肺の奥が焼けるように苦しい。

 吐き気が込み上げる。

 

(駄目……落ち着いて)

 

 呼吸を整えようとしても、上手くいかない。

 

(……もう、悩みたくない……痛い思いも、したくない……)

 

 弱音が、疲弊した心の隙間から零れ落ちる。

 

(でも……私が、頑張らないと……)

 

 その決意すら、今では身体を締め付ける呪いみたいだった。

 

 限界を超えた疲労で、表情筋が痙攣するように震える。

 早鐘を打つ心臓の熱が、吐息となって漏れた。

 

 目頭が熱い。

 凍り付いていたはずの涙腺が、ゆっくりとほどけていく。

 考えないようにしていた結末が、静かに浮かび上がる。

 

 人命を無視した兵器実験。

 被験者リストに載せられた、一人の少年の名前。

 

 街の隅にいる傭兵と、権力の化身。

 結末など、考えるまでもなかった。

 

 喉が震える。

 

 そして。

 

「……デイビッドが……死んじゃう」

 

 その言葉と共に、長く押し殺してきた想いが決壊した。

 

 涙が零れる。

 

 その直後だった。

 

「……ルーシー?」

 

 背後から響いた声に、ルーシーの呼吸が止まる。

 

 ずっと聞きたかった声。

 そして、今一番聞きたくなかった声。

 

 彼女は壊れた玩具のように、ぎこちなく振り返った。

 

 屋上へ続く出入口の前。

 そこに彼は立っていた。

 

 いつもと同じように、黄色のジャケットの端を夜風に揺らしながら。

 

 

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