CyberPunk EDGERUNNERS Ver1.6.3 作:甘井モナカ
1
「……」
「……」
二人の間を妙に湿った夜風が吹き抜ける。
手すりにもたれ掛かるように肩を並べる二人の距離は、あと少しで触れられるはずなのに、まるで目に見えない壁が隔てているように遠かった。
白煙の残滓が夜の街へ溶けていく。
「……今日さ、昔の知り合いに会ったんだ」
耐えきれなくなったように、デイビッドが静寂を破る。
銀髪に隠れたルーシーの横顔をちらりと見て、続けた。
「相変わらず嫌な奴でさ。結局殴り合いになったけど……話したら、なんかスッキリしたんだよな。喉の奥の小骨が取れた、みたいな」
「……」
「チームの皆も無事だし、色々あったけど……ようやく軌道に乗ってきたって感じかも」
楽しげな声が、少女の耳に否応なく流れ込む。
垂れた銀髪の隙間から彼を見た瞬間、胸の奥で心臓が大きく跳ねた。
(……ずいぶん楽しそうじゃない。こっちは地獄を見てるっていうのに)
浮かんだ言葉に、彼女は目を見開いた。
違う。そんなこと思ってない。
否定しようとするが、疲れ切った身体は震えるだけで動かない。
(……もう、やめちゃえば?別に、私の命が掛かってるわけじゃないんだし)
そんなこと、できない。
声にならない言葉が唇から零れ落ちる。
(痛い思い、苦しい思い。まだ続けるつもりなの?気づいてるくせに。変えられない結末から、いつまで目を逸らすの?)
黒い声が、耳の奥で囁くように溶けていく。
心が冷えていく。氷水に沈められたように、内側から凍り付いていく。
呼吸が乱れ、喉が詰まり、反論の言葉は霧散した。
黒い声は笑いを堪えるように吐息を漏らし、ルーシーの理性をこじ開ける。
(逃げちゃおうよ、また。周りなんて見捨ててさ。今までだってそうやって生き延びてきたでしょ?)
弾かれたように顔を上げた瞬間、過去の光景が脳裏に溢れた。
逃走の最中に倒れた仲間たち。
凍える路地裏で息を潜めた夜。
ゴミ溜めで命を繋いだ日々。
(愛する人のため?居場所を守るため?……何寝ぼけたこと言ってんの。あんたにそんな資格あるわけない)
嘲笑が響く。
黒い声は彼女の足元から這い寄り、手足に絡みつき、重圧となって押し潰す。
顔を上げたルーシーの瞳に、暗い輝きを放つ双眸が映り込んだ。
(全部捨てて逃げた弱虫。それが、わたし――でしょ?)
そこに立っていたのは、幼い日の彼女自身だった。
涙を滲ませた少女の前で、幼い彼女が嗤う。
守り抜いてきた矜持が音を立てて崩れていく。
見ないようにしていただけで、本当は気づいていた。
周囲との線引き。
自分だけは違うと思い込んでいた傲慢。
反論できない。
だから、唯一残された対抗手段を選ぶ。
羞恥心が産声をあげ、ルーシーは黒い手を振り払うように右腕を振り上げた。
直後、彼女は“別の温もり”を感じた。
「うるさいっ!」
「……えっ?」
右腕に残る体温。
顔を上げると、黄色のジャケット。
振り払われた手を宙に残したまま、デイビッドが困惑した表情で立っていた。
「……ルー、シー?」
あれほど煩わしかった声は、もう聞こえない。
鮮明になった視界の先で、拒絶してしまった少年の瞳が揺れていた。
(ちが……違うの、デイビッド!そんなつもりじゃ……!)
遅れて意識が戻る。
傷つき始めた少年を前に、ルーシーは慌てて息を吸い込んだ。
その瞬間――。
彼女の双眸が茜色に輝いた。
(……!)
脳裏に警報音が突き刺さる。
ストレージ内のマップアプリにマーカーが点灯し、位置情報が更新される。
裏路地で仕込んだ≪GPSマーカー≫が動き出したのだ。
強制切断された通信の不安定さを利用して忍ばせた、唯一の道標。
だが、少女の表情は晴れない。
むしろ、不安が濃くなる。
(挙動が違う……まさか)
マーカーは不規則に点滅し始めた。
距離が離れるほどノイズが増え、情報が崩れていく。
(あと十数秒で追えなくなる……でも、今飛び出したら……)
顔を上げると、デイビッドが心配そうに覗き込んでいた。
「……ねぇ、大丈夫?傷、痛むのか?」
「……」
「具合悪いなら、部屋で休んだほうが……」
優しい声に、ルーシーの肩が震えた。
温かさが、凍りついた心を溶かしていく。
このまま寄りかかりたい。
触れていたい。
でも――。
「……ごめん、デイビッド。私、行かなきゃ……!」
「え?どこに?」
「ごめん、言えない。でも、行かなきゃ」
通信切断まで、あと数秒。
「帰ったら、ちゃんと話すから。だから、待ってて……!」
振り返らずに走り出す。
手すりを越え、夜の街へ飛び込む。
彼の顔を見たら、決意が揺らぐから。
熱くなった目頭から雫が落ちるのを感じながら、少女は足を速めた。
2
喧噪が徐々に消えていき、ゆっくりと静寂が辺りを包み込む。
建屋の屋上に一人佇む彼は、無言のまま自身の掌を見つめていた。
唐突に弾かれたあの時の感触。
痛みはほとんど無かったはずなのに、奇妙に残り続けるそれが、指先を微かに震わせる。
(何が、あったんだ……?)
(いつものルーシーとは、どこか違った……)
力なく開かれた指先を眺めながら、デイビッドは心の奥底でぽつりと呟く。
まるで鉄の楔を打ち込まれたかのように、心がゆっくりと暗い底へ沈んでいく。
(なんで……なんでだよ?)
(俺じゃダメなのかよ?)
(ただ、助けたかっただけなのに――)
(また、なのか)
(また俺は置いて行かれるのか……?)
思考が巡る。
複数の糸が醜く絡まるように、仄暗い感情が視界を覆っていく。
ふと、視線を掌から外した瞬間――。
“誰か”の視線が、彼を見ていた。
痩せた身体。
涙の跡が残る顔。
何も出来なかった、あの日の自分。
どくん、と。
心臓が一際大きく脈打つ。
(あの時と同じだ……俺が弱いから。力が無いから……)
(この手から零れ落ちるっていうなら、俺は……)
走馬灯のように過去が流れる。
理不尽な暴力、差別、家族の死。
胸の奥底から炎のような熱が湧き上がる。
デイビッドはゆっくりと拳を握りしめた。
(もう、あの時とは違う……!)
(俺の持ちうる≪全て≫を使い潰してでも、守る。守り通す)
(これ以上失うのは、もう……)
視界の端にノイズが走る。
瞳が二重三重にぶれ始める。
デイビッドは首筋へ伸ばした指先で≪サンデヴィスタン≫に触れた。
冷たい金属の感触が、指先に沈黙を伝える。
胸の奥で蠢く熱に背を押され、彼は瞼を閉じる。
眠る≪神経加速装置≫に火を入れようと意識を集中させた、その瞬間――。
「なぁ……おい、何か食いモンもってねーか?腹減って、しにそーなんだよ……」
「!?」
弾かれたように振り返る。
誰もいないはずの屋上に、紫色の奇抜な衣服を纏った青年が倒れていた。
「おい、聞こえてんのか?あんただよ……頼む、なんか……」
「えっと、大丈夫か?チョコボールと飲みかけの炭酸なら……っ!?」
差し出したはずの菓子とジュースが、一瞬で消えた。
青年はすでに口いっぱいに頬張っている。
「たすかったぜぇ……!お前は命の恩人だ。名前は?」
「え?……デイビッド」
「デイビッド!いい名前だな。俺は……そうだな、怪獣使い、と名乗らせてもらうぜぇ」
「は、はぁ……」
デイビッドの覚悟も決意も、困惑に押し流されていく。
「しっかし、この食いモン旨かったなぁ……」
奇行を続ける青年に、デイビッドは深いため息をついた。
「なぁ。あんたはここへ何しに来たんだ?」
「……!」
空気が凍り付く。
「ああ!そうだよ。こんなとこで菓子食ってる場合じゃなかったぁ……!」
青年は不敵な笑みを浮かべた。
「デイビッド!俺は、お前がモヤモヤしてる原因を断ちに来たんだよ!」
「え?」
再び空気が凍る。
「さっき、ここでウジウジしてただろ?何に不貞腐れてんだ?」
「聞いてたのか……?」
「おう。駄々洩れだったぜ?言ってみろよ。俺が聞いてやる」
「ちょっと。近いって……」
詰め寄る青年を制しながら、デイビッドは言葉を探す。
だが、青年の瞳には敵意も打算もなく、ただ温かさだけがあった。
デイビッドは息を吐き、目を閉じた。
「ルーシーが……仲間の様子がおかしかったんだ。心配したのに拒絶されて、理由も言えないって……」
「ほうほう」
「俺に力が無いからだ。頼られなかったのは、まだ足りてないから……だから俺はもっと強くならないと……」
「ちょいちょい。一旦落ち着こーぜ、デイビッド」
「……っ」
青年の言葉で、デイビッドの呼吸が戻る。
「要は彼女が心配なんだろ?気持ちは分かるさ。俺もそうだったからな」
「……あんたも?」
青年は遠くを見るように目を細め、そして笑った。
「でもな。相手の全部を知ろうとするのは傲慢野郎のすることだぜ?男なら余裕を持て」
「……余裕」
「そう!彼女の帰りをどーんと構えて待っとけばいいんだよ!」
デイビッドは唇を噛む。
「……もし、それで彼女の身に何かあったら?」
青年は目を丸くし、次の瞬間、獰猛に笑った。
「それを俺に言わせるのか?」
「!」
デイビッドの胸に、鋭い痛みが走る。
だが同時に、脳裏に浮かぶのは――。
銀髪の横顔。
微かに笑う彼女。
(ああ……そうだ)
デイビッドはゆっくりと息を吐いた。
視界のノイズが薄れていく。
(これが俺だ。弱くて、情けなくて、みっともない。でも、ここまで歩いてきたのも俺だ)
(見誤るな。失望するな。理想に背を向けるのは、まだ早い)
胸の奥の炎は消え、代わりに小さな光が灯る。
デイビッドはゆっくりと目を開き、青年を見据えた。
「……そうだな。助かった」
「目が覚めたみてぇだな。いい顔になってんぜ?」
そよ風が吹き抜ける。
デイビッドは街を見下ろし、電子音に気づく。
「あー悪い。仕事の連絡が……」
隣を見ると、青年の姿は消えていた。
デイビッドは苦笑し、端末の通知を切る。
眼下に広がるのはいつもの風景。
無数のネオン。
終わらない喧噪。
狂った街の灯火。
見飽きていたはずのそれは、自分がまだこの街の底にいるのだと無言で突き付けてくる。
デイビッドはポケットに手を突っ込み、屋上を後にする。
夜風だけが、誰もいなくなった空を吹き抜けていた。
3
静寂の続く屋上の隅。
そこには、未開封の菓子箱と、口の付けられていない瓶の炭酸だけが置かれている。
誰かが居た痕跡は、どこにも無い。
夜風だけが、そこで確かに交わされた言葉の余熱を静かに撫でていた。