CyberPunk EDGERUNNERS Ver1.6.3   作:甘井モナカ

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02話 ジレンマ

 

 

 

 1

 

 

 

「……」

「……」

 

 二人の間を妙に湿った夜風が吹き抜ける。

 手すりにもたれ掛かるように肩を並べる二人の距離は、あと少しで触れられるはずなのに、まるで目に見えない壁が隔てているように遠かった。

 白煙の残滓が夜の街へ溶けていく。

 

「……今日さ、昔の知り合いに会ったんだ」

 

 耐えきれなくなったように、デイビッドが静寂を破る。

 銀髪に隠れたルーシーの横顔をちらりと見て、続けた。

 

「相変わらず嫌な奴でさ。結局殴り合いになったけど……話したら、なんかスッキリしたんだよな。喉の奥の小骨が取れた、みたいな」

 

「……」

 

「チームの皆も無事だし、色々あったけど……ようやく軌道に乗ってきたって感じかも」

 

 楽しげな声が、少女の耳に否応なく流れ込む。

 垂れた銀髪の隙間から彼を見た瞬間、胸の奥で心臓が大きく跳ねた。

 

(……ずいぶん楽しそうじゃない。こっちは地獄を見てるっていうのに)

 

 浮かんだ言葉に、彼女は目を見開いた。

 違う。そんなこと思ってない。

 否定しようとするが、疲れ切った身体は震えるだけで動かない。

 

(……もう、やめちゃえば?別に、私の命が掛かってるわけじゃないんだし)

 

 そんなこと、できない。

 声にならない言葉が唇から零れ落ちる。

 

(痛い思い、苦しい思い。まだ続けるつもりなの?気づいてるくせに。変えられない結末から、いつまで目を逸らすの?)

 

 黒い声が、耳の奥で囁くように溶けていく。

 心が冷えていく。氷水に沈められたように、内側から凍り付いていく。

 

 呼吸が乱れ、喉が詰まり、反論の言葉は霧散した。

 黒い声は笑いを堪えるように吐息を漏らし、ルーシーの理性をこじ開ける。

 

(逃げちゃおうよ、また。周りなんて見捨ててさ。今までだってそうやって生き延びてきたでしょ?)

 

 弾かれたように顔を上げた瞬間、過去の光景が脳裏に溢れた。

 逃走の最中に倒れた仲間たち。

 凍える路地裏で息を潜めた夜。

 ゴミ溜めで命を繋いだ日々。

 

(愛する人のため?居場所を守るため?……何寝ぼけたこと言ってんの。あんたにそんな資格あるわけない)

 

 嘲笑が響く。

 黒い声は彼女の足元から這い寄り、手足に絡みつき、重圧となって押し潰す。

 顔を上げたルーシーの瞳に、暗い輝きを放つ双眸が映り込んだ。

 

(全部捨てて逃げた弱虫。それが、わたし――でしょ?)

 

 そこに立っていたのは、幼い日の彼女自身だった。

 涙を滲ませた少女の前で、幼い彼女が嗤う。

 

 守り抜いてきた矜持が音を立てて崩れていく。

 見ないようにしていただけで、本当は気づいていた。

 周囲との線引き。

 自分だけは違うと思い込んでいた傲慢。

 

 反論できない。

 だから、唯一残された対抗手段を選ぶ。

 

 羞恥心が産声をあげ、ルーシーは黒い手を振り払うように右腕を振り上げた。

 

 直後、彼女は“別の温もり”を感じた。

 

「うるさいっ!」

 

「……えっ?」

 

 右腕に残る体温。

 顔を上げると、黄色のジャケット。

 振り払われた手を宙に残したまま、デイビッドが困惑した表情で立っていた。

 

「……ルー、シー?」

 

 あれほど煩わしかった声は、もう聞こえない。

 鮮明になった視界の先で、拒絶してしまった少年の瞳が揺れていた。

 

(ちが……違うの、デイビッド!そんなつもりじゃ……!)

 

 遅れて意識が戻る。

 傷つき始めた少年を前に、ルーシーは慌てて息を吸い込んだ。

 

 その瞬間――。

 彼女の双眸が茜色に輝いた。

 

(……!)

 

 脳裏に警報音が突き刺さる。

 ストレージ内のマップアプリにマーカーが点灯し、位置情報が更新される。

 

 裏路地で仕込んだ≪GPSマーカー≫が動き出したのだ。

 強制切断された通信の不安定さを利用して忍ばせた、唯一の道標。

 

 だが、少女の表情は晴れない。

 むしろ、不安が濃くなる。

 

(挙動が違う……まさか)

 

 マーカーは不規則に点滅し始めた。

 距離が離れるほどノイズが増え、情報が崩れていく。

 

(あと十数秒で追えなくなる……でも、今飛び出したら……)

 

 顔を上げると、デイビッドが心配そうに覗き込んでいた。

 

「……ねぇ、大丈夫?傷、痛むのか?」

 

「……」

 

「具合悪いなら、部屋で休んだほうが……」

 

 優しい声に、ルーシーの肩が震えた。

 温かさが、凍りついた心を溶かしていく。

 

 このまま寄りかかりたい。

 触れていたい。

 でも――。

 

「……ごめん、デイビッド。私、行かなきゃ……!」

「え?どこに?」

「ごめん、言えない。でも、行かなきゃ」

 

 通信切断まで、あと数秒。

 

「帰ったら、ちゃんと話すから。だから、待ってて……!」

 

 振り返らずに走り出す。

 手すりを越え、夜の街へ飛び込む。

 

 彼の顔を見たら、決意が揺らぐから。

 

 熱くなった目頭から雫が落ちるのを感じながら、少女は足を速めた。

 

 

 

 2

 

 

 

 喧噪が徐々に消えていき、ゆっくりと静寂が辺りを包み込む。

 建屋の屋上に一人佇む彼は、無言のまま自身の掌を見つめていた。

 

 唐突に弾かれたあの時の感触。

 痛みはほとんど無かったはずなのに、奇妙に残り続けるそれが、指先を微かに震わせる。

 

(何が、あったんだ……?)

(いつものルーシーとは、どこか違った……)

 

 力なく開かれた指先を眺めながら、デイビッドは心の奥底でぽつりと呟く。

 まるで鉄の楔を打ち込まれたかのように、心がゆっくりと暗い底へ沈んでいく。

 

(なんで……なんでだよ?)

(俺じゃダメなのかよ?)

(ただ、助けたかっただけなのに――)

(また、なのか)

(また俺は置いて行かれるのか……?)

 

 思考が巡る。

 複数の糸が醜く絡まるように、仄暗い感情が視界を覆っていく。

 

 ふと、視線を掌から外した瞬間――。

 “誰か”の視線が、彼を見ていた。

 

 痩せた身体。

 涙の跡が残る顔。

 何も出来なかった、あの日の自分。

 

 どくん、と。

 心臓が一際大きく脈打つ。

 

(あの時と同じだ……俺が弱いから。力が無いから……)

(この手から零れ落ちるっていうなら、俺は……)

 

 走馬灯のように過去が流れる。

 理不尽な暴力、差別、家族の死。

 胸の奥底から炎のような熱が湧き上がる。

 

 デイビッドはゆっくりと拳を握りしめた。

 

(もう、あの時とは違う……!)

(俺の持ちうる≪全て≫を使い潰してでも、守る。守り通す)

(これ以上失うのは、もう……)

 

 視界の端にノイズが走る。

 瞳が二重三重にぶれ始める。

 

 デイビッドは首筋へ伸ばした指先で≪サンデヴィスタン≫に触れた。

 冷たい金属の感触が、指先に沈黙を伝える。

 

 胸の奥で蠢く熱に背を押され、彼は瞼を閉じる。

 眠る≪神経加速装置≫に火を入れようと意識を集中させた、その瞬間――。

 

「なぁ……おい、何か食いモンもってねーか?腹減って、しにそーなんだよ……」

「!?」

 

 弾かれたように振り返る。

 誰もいないはずの屋上に、紫色の奇抜な衣服を纏った青年が倒れていた。

 

「おい、聞こえてんのか?あんただよ……頼む、なんか……」

「えっと、大丈夫か?チョコボールと飲みかけの炭酸なら……っ!?」

 

 差し出したはずの菓子とジュースが、一瞬で消えた。

 青年はすでに口いっぱいに頬張っている。

 

「たすかったぜぇ……!お前は命の恩人だ。名前は?」

「え?……デイビッド」

「デイビッド!いい名前だな。俺は……そうだな、怪獣使い、と名乗らせてもらうぜぇ」

「は、はぁ……」

 

 デイビッドの覚悟も決意も、困惑に押し流されていく。

 

「しっかし、この食いモン旨かったなぁ……」

 

 奇行を続ける青年に、デイビッドは深いため息をついた。

 

「なぁ。あんたはここへ何しに来たんだ?」

「……!」

 

 空気が凍り付く。

 

「ああ!そうだよ。こんなとこで菓子食ってる場合じゃなかったぁ……!」

 

 青年は不敵な笑みを浮かべた。

 

「デイビッド!俺は、お前がモヤモヤしてる原因を断ちに来たんだよ!」

「え?」

 

 再び空気が凍る。

 

「さっき、ここでウジウジしてただろ?何に不貞腐れてんだ?」

「聞いてたのか……?」

「おう。駄々洩れだったぜ?言ってみろよ。俺が聞いてやる」

「ちょっと。近いって……」

 

 詰め寄る青年を制しながら、デイビッドは言葉を探す。

 だが、青年の瞳には敵意も打算もなく、ただ温かさだけがあった。

 

 デイビッドは息を吐き、目を閉じた。

 

「ルーシーが……仲間の様子がおかしかったんだ。心配したのに拒絶されて、理由も言えないって……」

「ほうほう」

「俺に力が無いからだ。頼られなかったのは、まだ足りてないから……だから俺はもっと強くならないと……」

「ちょいちょい。一旦落ち着こーぜ、デイビッド」

「……っ」

 

 青年の言葉で、デイビッドの呼吸が戻る。

 

「要は彼女が心配なんだろ?気持ちは分かるさ。俺もそうだったからな」

「……あんたも?」

 青年は遠くを見るように目を細め、そして笑った。

 

「でもな。相手の全部を知ろうとするのは傲慢野郎のすることだぜ?男なら余裕を持て」

「……余裕」

「そう!彼女の帰りをどーんと構えて待っとけばいいんだよ!」

 

 デイビッドは唇を噛む。

 

「……もし、それで彼女の身に何かあったら?」

 

 青年は目を丸くし、次の瞬間、獰猛に笑った。

 

「それを俺に言わせるのか?」

「!」

 

 デイビッドの胸に、鋭い痛みが走る。

 だが同時に、脳裏に浮かぶのは――。

 

 銀髪の横顔。

 微かに笑う彼女。

 

(ああ……そうだ)

 

 デイビッドはゆっくりと息を吐いた。

 視界のノイズが薄れていく。

 

(これが俺だ。弱くて、情けなくて、みっともない。でも、ここまで歩いてきたのも俺だ)

(見誤るな。失望するな。理想に背を向けるのは、まだ早い)

 

 胸の奥の炎は消え、代わりに小さな光が灯る。

 

 デイビッドはゆっくりと目を開き、青年を見据えた。

 

「……そうだな。助かった」

「目が覚めたみてぇだな。いい顔になってんぜ?」

 

 そよ風が吹き抜ける。

 デイビッドは街を見下ろし、電子音に気づく。

 

「あー悪い。仕事の連絡が……」

 

 隣を見ると、青年の姿は消えていた。

 

 デイビッドは苦笑し、端末の通知を切る。

 

 眼下に広がるのはいつもの風景。

 無数のネオン。

 終わらない喧噪。

 狂った街の灯火。

 見飽きていたはずのそれは、自分がまだこの街の底にいるのだと無言で突き付けてくる。

 

 デイビッドはポケットに手を突っ込み、屋上を後にする。

 夜風だけが、誰もいなくなった空を吹き抜けていた。

 

 

 

 3

 

 

 

 静寂の続く屋上の隅。

 そこには、未開封の菓子箱と、口の付けられていない瓶の炭酸だけが置かれている。

 

 誰かが居た痕跡は、どこにも無い。

 

 夜風だけが、そこで確かに交わされた言葉の余熱を静かに撫でていた。

 

 

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