けたたましい音を鳴らして雨が降ったある日、俺はこの女に出会った。
トンネルの中でしゃがみ込むが、地面はすでに水浸しのため、すぐにズボンが濡れてしまう。
さらに湿気のせいで、レインコートの中に着ているTシャツも徐々に湿っぽくなってしまった。
そんな俺の前に立つこの女は、トンネルの中で雨が来ないにも関わらず傘をさし、じっとこちらを見つめてくる。
その眼差しはまるで我が子を愛でる母親のような、お気に入りの玩具を眺める子供のようだ。キラキラとした目の中に何処か優しさがある。
「ねぇ」
女が話しかけてきた。
顔を上げると、右手に何かを持って俺に差し出した。
それは、何の変哲もない黒いUSBメモリだった。
何がなんだか分からず、ただ右手に握られたものを呆然と見つめる。
「面白い謎解き、したくない?」
全くもって意味不明だった。
だが、何故か俺は右手に握られたUSBメモリをいつの間にか手に取っていた。
俺の中の何がそうさせたのか、未だに分からない。
感情という非合理的なものを嫌っていた俺が、初めてそれに動かされたのだろうか。
「じゃあ、貴方は今日から『シャーロック』」
シャーロック……?
アーサー・コナン・ドイルの、あのシャーロックか?
「
つまりそこからいくと、『Sherlock』は『錠前を閉じる、ライオンみたいに勇敢な人』って意味になるわね」
突然この女は何を話し始めたんだろう……。
全くもって、本当に意味が分からない。
第一、「Sherlock」という言葉は英語で「探偵」や「おかしな人」という意味だ。
何から何まで間違っている。
だが、何故か惹きつけられてしまう。
この、まるで中身のない言葉たちの羅列に、俺は惹かれていった。
「貴方は、そうなれる?」
女がこちらに手を差し伸べてきた。
惹かれてしまったのだ。何も跳ね除ける理由などなかった。
手を取って立ち上がると、女はトンネルの出口の方へと歩き始めたので、それについて行く。
何処まで行くんだ?
試しに訊いてみた。
さぁ、何処へだろうね。
意味のない答えが返ってきた。
でも、帰ろうよ。
微笑む彼女の顔を見た時、俺は何故か居ても立っても居られず、彼女の横について歩き始めた。
雨が止んだ。
薄暗かった外は、徐々に光を取り戻し鮮明になっていく。
濡れているズボンや湿ったTシャツへの嫌悪感も、いつの間にか薄れていった。
あの女に拾われた日、俺は名前を捨てた。