スカイとキングの同棲生活、一年を迎えるお話
今までありがとう。
これからもよろしく。
話し方等々、解釈違いにはご注意ください。
おやつ感覚でご堪能あれ。
朝。だんだんと腰の低くなった朝陽が優しく瞼に触れてくるよりも先に、どんな季節だろうと変わらない不躾な目覚ましのアラームがけたたましく耳を貫いた。目を瞑ったままでも、反射的に眉間にシワが寄ったのがわかる。もっと気持ち穏やかに起こしてくれないものかと悪態を吐きたくなるけれど、そのせいでリラックスしてしまって、むしろ深い眠りに沈められるようではそれこそ本末転倒という話。だとしたらこのくらいやかましく騒いでくれた方が隙あらば眠たがりの私には合っているのかもしれない。
なんて、一人納得。でもまだ眠い。
薄目を開き、何度も同じフレーズを繰り返す携帯電話を一旦黙らせる。示す時刻はちょうど、06:00になった頃。――ということは、これはまだ何重にも掛けてあるアラームの最初の一つであるということで。
大丈夫、まだ眠れる。
電源を落とし、意識はもう一度たゆたう微睡へ。
すると、間髪入れずに再びあの煩いアラームが鳴る。ついさっきと同じように止めて時間を確認してみれば、不思議なことに示す時間は06:15。おかしい、これは二つ目の。たった今最初のを止めて、安心して怠惰な二度寝に落ちていこうとしていたのに。
あれかな? 「目覚ましを止めた夢を見ていた」みたいな。寝坊する夢を見るよりはマシとはいえ、紛らわしいから控えてくれると私は嬉しい。
鳴る携帯か、それとも夢を見せるふわふわとした妖精にでもゆるくお願いをして、今度こそ、念願の三度寝へ――――リーン‼ リーン‼ リーンリーン‼‼
………………………………おかしい。眉間のシワがさらに深くなったのを感じつつ、見た携帯の画面には07:00の文字。一つ目を止めて二つ目を止めて、そしたら三つ目も四つ目もすっ飛ばして、いつの間にやらこれはもう最後通告。納得がいかない。うん、本当に。目が覚めてから質のいい二度寝を堪能できた気がまったくしないのに、もう、ポカポカのベッドとお別れをしなくちゃいけない時間だなんて。
でも、起きなくちゃ。悲しいことにセイちゃんももう大人なので。「あと五分」と甘えられる人も、いないのだし。
一端枕に顔を埋めて「せーのっ」と力なく気合を入れてから上半身を持ち上げる。正面にある北向きの窓からは、一時間前にはほとんど見えていなかったはずの朝の陽ざしが差し込んで、ぼんやりとした曇りガラスの向こうでも今日が晴れなことを教えてくれる。
欠伸に併せて背中が伸びて尻尾が揺れる。ネコがする伸びの、ちょうど逆の恰好。半袖の寝巻きから覗く二の腕や隙間のできたお腹の周りに、太陽が温めきれなかった空気が染みる。ぶるっと身体が振るえたけど、おかげで眠気も少し吹き飛んだ。
さあ、誘惑上手なベッドに誑かされてしまう前にさよならをしてしまわないと。後ろ髪どころか手も足も身体全部が引っ張られる感覚をなんとか振り切って、その代わりにモコモコしたパーカーの袖に腕を、スリッパにはつま先を通す。
そして、思い出したように――――
「おはよう」
誰もいないベッドの、整えられたまま使われていない隣の枕に向かって、そう呟いた。
今日も、一人ぼっちの一日が始まる。
ガラス戸からずっと光が差し込むはずの南を向いたリビングは、誰もいないせいかがらんどうに見えて、体感、寝室よりも寒かった。それに静か。フライパンの上でベーコンが油を弾けさせる音もしていなければ、テレビの中のアナウンサーたちが今日の天気を全国の風景と一緒にお報せしてもいない。また、身震い。
エアコンは入れて、テレビは……まぁいいや。朝ごはんは、なにを食べよう。
開けた冷蔵庫の前に立ってみても、最近まで溢れるように湧いてきた料理の創作意欲は今では微塵もやってこない。どんなに頭を捻ってみても朝の寝ぼけた思考のままじゃ、思い浮かぶのは野菜が丸ごと浮かんでいる手抜き料理もビックリなスープくらい。名付けて「そのまんまスープ」。美味しくはなさそう。だから――これで何日連続か――一食分に小分けされたヨーグルトのパック一つを手に取った。
「朝ごはんの準備は大変だもんね」
それっぽい言い訳を添えて仕方ないとしておく。どんなに忙しくともほとんど毎日用意してくれていた人の顔は、一旦棚に上げておいて。
でも、本当に。私だってちょうど去年の今くらいまでは一人暮らしをしていたのだから、食生活だって赤ペンを入れられるほどひどい有様じゃあなかったはず。それをここまで怠惰に堕としてしまうためには、愛着を持った日常が一年もあれば充分らしい。用意されることに慣れきってしまった私は、どうやら朝食の作り方を忘れてしまっているようだった。
だってどうしても考えちゃうんだ。「キミが作ってくれたご飯じゃないんだもんな」って。
夕食についても、そう。朝よりはマシというだけで、比べてみれば作る料理も随分と簡単なメニューばかりになってしまった。「美味しいわ」の一言が貰えないだけでこうも作り甲斐がなくなってしまう。
それでも一人の大人として最低限自立できていることのせめてもの証明として、彼女が好んで淹れてくれていた紅茶だけでも用意する。香りはアッサム。そのままじゃ熱すぎるから、冷ますのも兼ねてミルクをたっぷりと。
ヨーグルトと乳白色にまで薄まったアッサムティー。それが今日の朝ごはん。
「ん~。星はあげられないかな、これじゃ」
カウンターテーブルの上に並べられた二つを見比べて、そんなことをぼやく。なんというか全体的にこう、白い。見る食事としては、ちょっと退屈。食べる食事としても、お腹は膨れなさそうだ。わかってはいたつもりだけど、やっぱり彼女の存在は私の生活に色をたくさん足してくれていたんだなと再認識する。今じゃ目の前のご飯と一緒、真っ白だ。
だからといってなにか一品拵えようとする気分にはどうしてもなれなくて、手を合わせていただきますをしようとしたところ、――――タイミングよく携帯が鳴った。さっきまで口うるさく私を起こしてきたお母さんのようなアラームとは違う、特定の人から来た着信の時だけ流れる私の好きな音楽を奏でて。
躊躇わず、応答。
「おはよ、キング」
「――よかった。今日はちゃんと起きていたのね」
ビデオ通話の画面に映っているのは、現在出張で地球の反対側まで飛んで行ってしまっている同居人の女の子。ホテルのガウンを着て髪をタオルでくるんでいるから、シャワーを浴びて出てきたところかな。
朝食時のこっちに対して、向こうは夕食時どころか夜食時。時差から考えて、ちょうど日付が変わる前くらいだったはず。何度かこうして顔を見ながら挨拶を交わしたはずなのに、相手のいる日付はまだ昨日らしく、いまだこのズレに対して新鮮味を覚えると同時にまだ慣れない。
「やだなぁ。昨日の寝坊はたまたまだって言ったじゃん」
言いながら、今朝の献立が映り込んでしまわない画角でスマホをスタンドに立て掛ける。そうしたら若干逆光っぽくなってしまったから、椅子ごと少し移動して映り具合を調整していく。
「そんなの信用ならないわよ。普段私が起こすまでいつまでも眠っている貴方なんだから」
「傷ついちゃうな~。こう見えてもちゃんとお仕事してる立派な大人なんですけど?」
ちらり。ミルクを注いでなお湯気を立てたままの紅茶と、カップから滲み出た水分が結露となって机に水溜まりを作り始めたヨーグルトを収める。「立派な大人」。なんとも、味気ない言葉だ。間違ってもキミにこんな食事はあげられない。
そんな私のご飯事情についてはもちろん知らないはずだから、キングは西の国から「それなら一人で起きて来なさいよ!」ってお小言をくれる。けど、知ってる。なんやかんや言いつつ、もしもギリギリの時間まで私が眠ったままだったら、いつも通りに起こしてくれるってことを。だから甘えて、結果この朝ごはんだ。きっとそれが、いけないんだろうなぁ……。
「そんなことよりさ、仕事は今日で終わったんでしょ?」
考えていたら顔に出てしまいそうだったから、少し強引に話題を逸らす。
あからさまな方向転換に不服そうに眉を吊り上げながらも、仕事から解放されたのはやっぱり気分がいいのか、スピーカーからはホッとしたような前向きなため息が一つ聞こえた。
「ようやくね。慣れないことばかりで、正直骨が折れたわ」
「ははっ、お疲れさま。明日は飛行機までオフだっけ?」
「オフと言えばそうだけど、ほら話したでしょう? エルさんと――――」
「あぁ。会うんだっけ?」
「そうよ。食事がてら街を案内してくれるって」
エルは卒業してから世界の各地を転々としていて、行く先々で開かれるレースに出走してはセンターの座を掻っ攫っているらしい。なにがすごいって二十代半ばを過ぎても現役ってこと。名実共に『世界最強』。
そんな彼女の今いるところが偶然にもキングの出張先だったから、それなら会おうって話になったんだって、確か同居人が家を出る直前に言っていた。
「楽しんできなよ。エルにもよろしく言っておいて」
「貴方とも話したがるんじゃないかしら、あの子。
――時間が合えばまた電話しましょうか?」
「あー、何時頃になる?」
「たぶん……そっちの真夜中くらいかしら」
「なら大丈夫かな。うん、いいね。待ってる」
「また連絡するわ」
「はいは~い」
相槌を打ちながら湯気の立たなくなった紅茶を一口啜る。熱過ぎずぬる過ぎず、ちょうどいい。ヨーグルトにはまだ手は付けない。バレちゃうからね、ズボラな私生活が。
画面の向こうにいるキングも部屋に用意されたパックで淹れたらしい紅茶を飲んでいる。出自のよさから滲み出る所作のせいで、お風呂上がりの気が抜けた格好であってもまるでコマーシャルに使われる広告みたい。この一枚を使って良さげな宣伝文句でも謳った日には、きっと品物はすぐにでも大ヒットするんだろうなとお茶の間のセイウンスカイは思う。手が間に合わず、その絵を保存できなかったことだけが人知れず名残惜しい。
それから話したことはエルにどこを案内してもらう予定なのだとか、帰国できるのはこっちの時間で何時頃になりそうだとか、久しぶりの日本、引いては我が家で食べる晩ご飯ではなにが食べたいだとか。同棲相手として必要な連絡から左程重要でもない雑談までをしていると、時刻はあっという間に、私が仕事の準備へと取り掛からなくちゃいけない頃に。
「! ごめんなさい、こんなに話し込んじゃって。貴方はこれからお仕事なのに……」
ハッとして誤ってくる真面目さんには首を振って返す。
「気にしないで。どうせ今日も在宅なんだしさ」
「でも――――」
「悪いと思うなら、そうだなぁ――……お土産にお菓子の一つくらいもお願いしようかな」
交換条件とは便利なもので、そもそも感じる必要もない罪悪感にテイのいい罪状を提示してくれる。今回の罰は、空港にでも売っていそうな千円前後のチョコレートということで。一人で食べてしまうのはもったいないから、そうだ。もうじき帰ってくるキミにも分けてあげよう。
読み上げた罪状を聞いて、キミは安心したようにふわっと綻ぶ。
「そういうことなら任せなさいっ! このキングが完璧なお土産を用意して帰るから‼」
…………あれ? なんか変なスイッチ入れちゃった⁇
「ちょっ、あんまり高いのは買わなくていいからね⁉」
買い物と理解して目つきの変わったキミに諫める言葉が聞こえているのかいないのか。返ってきたのは「わかってるわよ!」と自信満々に張られた言葉と胸と、笑顔の三つだけ。なんとなく不安を覚える。時々あるからなぁ。キングと私の金銭感覚の違い……。間違ってもひと箱五桁とかするものは買ってこないといいけど。
(ブレーキ役は任せたよ、エル)
異郷の地から「ケ?」と訊き返される声が聞こえたような気がしたけれど、くしゃみはしてないといいな。いつも元気なあの子ならダイジョブか。
まぁ、うん。そんなこんなで。
「――じゃあ、そろそろ休むわ。スカイさんも、これからお仕事頑張って」
「はいは~い。給料分くらいはちゃんと働きますよー」
「もう…………――――おやすみなさい」
「おやすみ」
朝食の代わりに一日の活力になってくれるような、お気楽な電話が終わった。
通話を切れば、ここはエアコンの稼働音くらいしか聞こえない静かな部屋。今家にいるのは自分一人で、キミはここにはいないんだという今更の事実を改めて実感する。スタンドに立て掛けられたまま暗くなった携帯の画面には、寝ぐせも整えられていないボサボサ頭のウマ娘が映る。
画面を雑に叩いて、電源を入れ直してみる。表示されるのは学園の卒業式で同期のみんなと撮った集合写真。スぺちゃんとグラスちゃんとエルとツルちゃんと、私とキング。所狭しと一枚に収まる私たちは、それぞれに思っていたことはあれど、みんな一様に笑っていた。
あれから十年弱経った今でも鮮明に思い出せるあの日の出来事。
式の直前まで体調を崩していたツルちゃんがなんとか身体を治して顔を出せたかと思えば、卒業式ではグラスちゃんが一番涙を流していることに驚いて、エルがその当日の夜の便で海外へ渡ることを突然告白してきたから戸惑いながら見送ったのに、今度はスぺちゃんも一度北海道へ帰ることにしたと打ち明けてきた、感情がジェットコースターのようで目が回りそうだったあの日。
私は、キングは。どうしていたっけ…………?
――――私は。バラバラになっていくんだなって。そう思っていた。ずっとみんなと一緒にいられるだなんて、最初から思っていたわけじゃない。けど、こうして。「生きる」分岐点に自分たちが立たされた時、その意味を実感と伴って理解したとでもいうか。大学で、そして社会で。それぞれ生活の舞台の変化から、離れることになった人は大勢いた。しかも連絡すら取り合わず、関係が希薄になっていくような人すらたくさん。
同期のみんなと――――特に、その中のとある女の子とはそんな結末を迎えたくなかった。だから、私は言ったんだ。
――――ねぇキング。一緒に暮らさない――――?
結果は、言わずもがな。
「まさかこうなるとはねぇ」
誰が一番驚いてるって、そりゃあそれは他でもない私自身。
手を離したくないって気持ちで同棲を持ち掛けて、期待半分不安半分の中、キミが振った首の向きは縦。それから続いてる、同棲生活。好きも嫌いも知った仲だと思っていたけど、蓋を開けてみれば知らないことだらけで。例えば卵焼きは醤油より砂糖派だとか、洗濯物の畳み方だとか、好みのお風呂の温度だとか。
笑ったり揶揄ったり、たまにちょっと怒ったりしている内に早い話がもう一年が経とうとしていて。
先日、キミに想いを告げられた。
――――私はこれを『恋』と名付けることにしたわ
『恋』。目を背けていたわけじゃない。けど、直視する勇気は持てなかった関係の輪郭。視界の端っこに置いておいて「そんな言葉もあるよね」と曖昧なままにし続けていたら、言葉の方から寄ってきて、これはもう、疑いようもない。自覚して、世界の彩度がまた一段と鮮やかになったから、踏み込めなかった理由も無視をできないくらい明瞭になってしまった。
だから詰まった、言葉に。ただ目の前で見つめ返してくる秋色だけしか見えなくて、困ったように下がった眉と垂れた夏色の瞳は頼りなく笑うことしかできなかった。
それがどう映ったのかはわからない。私は、キミじゃないから。それでも、そんなことで引き下がってしまうキミではなかったから、続いた言葉には、むしろ私の方が安心させられたんだ。
――――いつか貴方が私たちの関係に付ける名前を見つけることができたなら、その時は、それを私にも教えてくれないかしら?
小さく「急がないから」と付け足して。
似ていた。私が同棲を持ち掛けた時と。あの時と、立場は逆だけど。すぐには導けなかった答えを、あの時はキングが考えて、今は私が考えて。
だから、
――――うん、必ず。キミに伝えるよ
と、だけ。
放置したスマホの画面は勝手に電源を落とし、映っていた思い出の代わりにそこには大切な返事を待たせている女の子の顔が再び映る。
キングが出張で家を出てからこれまでずっと、これについて考えている。おかげで会議中にボーッとして話を聴き逃してしまうわ、料理をしていたらうっかり小さな火傷を作ってしまうわ、突然の雨に気付かず折角洗った洋服たちをずぶ濡れにしてしまうわ。とにかく散々だった。さっき話にも出た昨日の寝坊についてだってそう。帰ってくるまで時間がないと思ったらどうにも寝付けなくて、気晴らしに散歩に出かけてみれても、気付いた頃には東の空が白んできていて。慌てて帰ってベッドに入っても結局寝れやしないんだからタチが悪い。
「ホント、我ながら随分と繊細過ぎる女の子だったよ」
画面に朧げに反射する人物を指で指しながら語りかける。返事も待たず携帯は伏せて、もう湯気どころか外気に当てられ冷え始めてしまっている紅茶をひと思いに流し込んだ。水たまりに浮かぶヨーグルトも、同じように胃袋へと収めてしまう。案の定物足りず、まだなにか食べたいという衝動に駆られるけれど、満たされるのはキミがいる時がいい。
帰ってくるのは明日の夜だから、今日を含めてだいたいあと二日。
だから――――
「お仕事、頑張りますか」
それまでに決めないとね。キミとの関係を、なんて呼ぶことにするのかを。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
新月から始まって、それがまんまると肥えた満月になって、また新月として姿を隠してしまうにはだいたい一ヶ月の時間が掛かるらしい。今日、ベランダから見上げる夜空に浮かんでいるのは満月なのだから、先月の同じ頃にも、それは同じところにいたんだろう。
なら、きっと。あの日の空にもあったはず。引っ越してきたばかりの家に荷物を詰めたダンボールを運び込んで、最低限整えたベッドの上に二人並んで寝そべった、同棲ゼロ日目の夜空にも。今日はそれから、ちょうど一年が経とうとしている夜だから。
期待と緊張と、楽しみと恥ずかしさと、熱いのと肌寒いのと。抱えていた感情が多すぎて最初の満月を見上げる余裕なんて当時はなかった。記憶の中の形が朧げな月の代わりに、小窓から差す光を浴びるキングの姿がまるで、一流の画家が描いた人物画のようだったのはよく覚えてる。
カバーを外して晒された耳のてっぺんから緩やかに巻く髪に沿って細い腕としなやかな指先までを、青白い輪郭線が縁取っていく。薄暗い中、吸い込む光すら潤沢ではないはずなのに、秋色の虹彩はいつもと同じく煌めいて……。心の底から、見惚れてた。太陽以外にも、月の光でさえこんなにもその名前に似合ってしまうとは思っていなかったから。この生活が始まって、一番初めに知ったキミの知らなかったところ。
『キングヘイローには、月がよく似合う』。
そんなことを、普段はあまり愛でもしない星空に浮かぶ満月を眺めながら思い出す。同棲を始めてから、たぶん十三回目のはずのそれ。回数だけで見れば、まだそれだけかという感覚とまあまあそれなりにあるなという感覚が同居して、充実した一年を振り返った時に覚える感想とよく似ていた。
でもまだ、思い出を振り返るには大切な人があと一人足りない。当の本人からは、今朝のまだ私が寝ている間に「これから飛行機に乗るわ」と、仕事を切り上げようとした夕方頃には「無事日本に到着したところ」とそれぞれ短い一文がが送られてきた。だから今頃はもう最寄り駅にも着いていて、家までの道のりをガラガラとトランクを引っ張りながら歩いているのかもしれない。
いつかぶりにやる気を出した夕食の準備はほとんど終わってる。出来上がったスープは鍋の中で保温されてるし、炊飯器には炊き立てホクホクの白いご飯。サラダのドレッシングはしなっちゃうからまだかけないであって、メインのお魚はちょっと火を通すだけで完成。ご注文にあった甘めのラペの光沢もいい感じ。もちろん味もね。
お風呂だってピカピカに磨き上げてあるから、帰ってきたら定番の質問だって投げてあげられる。「ご飯にする? それともお風呂?」っていう、よくあるあれ。
キミを迎える、おもてなしの準備は万端。
ただ、唯一。想いへの返事だけが、まだ、決められていない。それだけが準備しきれなかったこと。だから待っているだけじゃどうしても落ち着かなくて、せめてもの努力として帰ってくるまでの時間をこうして夜空に黄昏ていた。とはいえそれだけで右か左か決められるのなら、ここまで悩んでないというのも事実なわけで。
傍から見れば今の私は、さながら季節柄よろしく月見に興じる一人の女性。ならお団子が欲しくなってくる。
「あの月が食べられたらいいのに」
手を伸ばして、モチっと摘まんで、パクッ。
そうすれば今日はまだ三日月か新月ってことになって、少しだけ一年が伸びてくれないかな?
生憎そんなやり直しは利かないみたいで、頭のずっと後ろの方でガチャリと鍵の開く音が小さく響いてきた。考えていた通りのタイミングで、勝手に決めていた期日が帰宅する。
振り返ることはせず、気配だけを待つ。本当は玄関まで飛んで行って「おかえり!」と出迎えてあげたい。なのに今そうしないのは、悪いけどわるあがき。せめて答えを出せていないことを棚に上げてしまうくらいの時間だけでもちょうだいよって。
人の気配はあるはずなのに同居人からの返事がない自宅に違和感を覚えて、警戒しながら部屋の中へ入ってくる足音が聞こえる。そしたらリビング奥のガラス戸越しに月見に興じている後ろ姿なんか見つけて、余計にわからない顔をしているかもしれない。机の上に広がった好物ばかりの食卓をチラリと見て、口の中にはほんのりと涎が滲んで、長旅で疲れたお腹がぐぅと鳴る。早く食べたいから、早く帰って来たことを伝えたいから、早く会いたいから。
キミは、ガラス戸を引いて――――
「スカイさん」
私の名前を呼んだ。
振り向けば、あぁやっぱり、久しぶりのキミ。
「おかえり、キング」
「えぇただいま。
…………なにをしてたの?」
「にゃはは。ちょっとね」
数週ぶりの再会は、困り顔とそれを誤魔化すおちゃらけた笑い声を携えた、「おかえり」と「ただいま」の挨拶から始まった。
一見ありふれたやり取りのように思えても、その二つを交換し合えるほどの関係は、人生百年と言われるくらい長い生涯の間でさえ、実はそんなに多くない。三十年弱に渡る逢瀬の中でこの言葉をあげられたのは、家族を除けばキング一人だけ。言える相手がキミでよかったと感慨に浸ってしまうには、空白の期間が短すぎて流石に気が早すぎるかな。なんてことまで含めての「にゃはは」。
キングが開けたガラス戸を通って、暖房に温められた空気が波打ち際みたいに足元に寄せては、外の風に押されてまた部屋の中へと引いていく。
なにはともあれ、帰って来たんだ。なら、黄昏はおしまい。
「長旅ご苦労さま。
ご飯の用意はできてるし、お風呂もすぐに沸かせられるけど、どうする?」
訊かれたキングは卓上で食べられるのを待っている夕食たちを一瞥して、またこちらに向き直ってからハッキリと言った。
「疲れているのはそうだけど、まずは貴方と話したい気分かしら」
まさかの、選ばれたのは「私」。
言うが早いか、キミは提げていた鞄を窓際に置くと流れるようにガラガラとガラス戸を閉め直し、予想外の選択にキョトンとした目をする私の隣へと収まった。少し見上げたところにある昔から美人だと思っていた顔。いつかと同じように輪郭線が青白く月光に縁取られていて、やっぱりあの日は満月だったんだと不意に納得する。中心で秋色の虹彩が煌めいているのも変わらない。
なら、と、二人並んで夜空を見上げた。都会の空だから、何光年も先から届く光より近所に建つコンビニの看板の方が目立ってしまう。誕生日に貰った漆黒を埋め尽くすほどの満天とはほど遠い。でも、月はキレイだった。
「じゃあ、お願いしてあったお土産話でも聞かせてもらおうかな」
「なにから聞きたい?」
「そうだなぁ。――――仕事はどうだった? 首尾は上々?」
問いにキングは少しだけ考えるように黙ってから、そして、あっけらかんと答えた。
「アイディアは採用されなかったし、評価されるよりダメ出しを受けた方が多かったくらい。いいところ無しで、散々だったわね」
「――にしては、そんなに残念がってる風にも聞こえないけど?」
「悔しいわよ? もちろん。でも、気持ちはむしろ逆。
酷評だったからこそ、いつか必ず、私は自分の実力を証明してみせる。その覚悟がこの体験を経て、より強いものになったから」
残念がっている風に見えないならそれが理由ね、とキミは続けた。
見たことのある挑戦的な表情。普段は柔らかいツリ目の双眸が、至る「一流」の二文字を見据えて鋭さを増し、口元は不敵に笑む。なんと言われようとも、時には後ろ指を指されようとも、そのまま朽ちる気なんて毛頭ないそもそも選択肢にすら挙がらない。挑んで挑んで、一歩ずつ。もしも二歩下がってしまうことがあっとしても、そうしたらまた三歩進めばいい。本人が前だと信じた道を、泥臭くとも、ただ、ひたすらに、歩み続けるその気概。
「だから、これからよっ!」
言って、遥か何万キロも先で太陽の代わりに夜を照らす月へと手を伸ばした。距離がたった数十センチ縮まっただけなのに、どうしてだろう。この人の手ならもしかしたら届くんじゃないかと思ってしまう。
……ううん。「もしかして」なんかじゃなく「本当に」。だってキミは浮かぶ雲がおずおずと伸ばした手を掴んでくれて、今度はもう片方の手をこっちへ伸ばしてくれているんだから。
「応援してるよ」
小突くような感覚で、軽く肩でぶつかる。
「ありがとう」
小突かれるような感覚で、軽く肩をぶつけられる。
「いつか貴方を私のショーに招待するから楽しみにしておきなさい!」
「ほほう。じゃあその時はVIP待遇でよろしく~」
「VIPって……。
――――! なら貴方もステージに立ってみる? それなら間違いなくVIP対応よっ!」
「うぇっ⁉ モデルとしてってこと⁉ 無理無理‼」
「うふふ。冗談よ」
今更ながら、夜といってもせいぜい今はまだ夕食時。うら若き女性が二人、マンションのベランダ騒いだりしてますが、どうか気にしないでください。しばらくぶりのやり取りなんです。
心配を察したのか、季節にしては柔らかい夜風が吹いて、二人の声をせっせとどこかへと運んでくれる。ついでに尻尾の毛先が揺らされて、隣に立つキミの先っぽに少しだけ絡まる。まるで、恥ずかしがり屋の恋人同士が、ひと目を気にしながらも精一杯高鳴る胸に抗って、小指の一本で想いを繋ぐように――――。そう考えてしまったから、顔から火が出そうなくらい熱くなる。返事を待たせているがゆえ、ホント、余計に。なんとか……なんとかそれを夜風で冷ます。
知ってか知らずか、繋がれた先の本人は続く土産話を語り始める。
「あとは……あぁ、旅行」
「そうだ。エルは元気だった?」
「貴方も電話で話したでしょう? 元気もなにも相変わらずよ。むしろ学生の頃よりあり余ってそうなくらい」
「確かに電話に出た途端『セイちゃ――――――――んっ‼‼』って叫ばれたのには驚いたかな」
「あの前も大変だったのよ。車で片道二時間は掛かりそうなところへ行こうとして『私たちが走れば余裕デース』だなんて言って……」
「あははっ」
簡単にその光景が目に浮かぶ。グラスちゃんがその場にいれば静かにエルを諫めるんだろうけど、そこにはキングしかいなかったから舵取りが大変だっただろうなって。電話を繋いだ時妙に彼女が疲れていたように見えたのはそのせいだったのかもしれない。
それでも駆け足とはいえ、なんとか限られた時間の中で行けるところを効率よく案内してもらって、楽しい思い出もたくさん作れたらしい。街に建つ大きな教会とか、有名なカフェとか、世界遺産にもなっている宮殿とか。送られてきた、ポストカードにも使われていそうな写真がキングとのSNSには、たくさん。エルからも、こっそり撮ったらしい後ろ姿のキングが外国の街並みと綺麗に溶け合っている写真が、いくつか。そっちはファッションとか流行の先端を追う雑誌の表紙みたいで、すぐに頂戴した。もちろん、それのことは内緒。バレたらほら、エルが怒られちゃうから。
「それだけ楽しかったんなら、出張の疲れも取れたんじゃない?」
「確かにいい気分転換にはなったわね」
並んで月を見上げていたはずだけど、なんだか見られているような気がしてキミの方を向く。そうしたらちょうど目と目が逢って、秋色の瞳の中に向かい合う女の子の顔を見つける。
自然と背筋が伸びて、身長差が少しだけ縮まって。なにかを察した心が続く言葉を聞き洩らさないように、全身に感情を駆け巡らせ始めた。むしろドクドクと、感情がうるさい。その振動のせいで棚上げしておいた迷いまで落ちてきて、受け止めた指先は情熱って言葉が相応しいくらいに、熱い。
向き合わなくちゃと思った矢先、目の前でスローモーションみたいにゆっくりと動く唇が、優しく、言葉を紡ぐ。
「だからいつか、貴方も一緒に行きましょう」
口説こうとか、そんな意図は全然ない言葉なんだと思う。これは、一人で行って楽しかったから今度は一緒に行こうというような、子供でも交わす遊びの誘い。変に意識なんかせず本当に思ったままを語っているから、言葉の中にはキミがいて、だからこんなにも私の胸に響いてきたんだろう。
(…………そっか。キミの中じゃ、『セイウンスカイ』はずっと『キングヘイロー』の隣にいるんだ)
そういえばさっきも、想いを伝えられた時もそう言っていた。「いつかショーに招待する」、「いつか見つけたなら、関係に付けた名前を教えてほしい」って。
度重なる「いつか」。
遠く不確かで、なんの保証もない将来についてを語る言葉。なのにキミはこうも胸を張って、その「いつか」が必ずやって来ると信じて語る。加えて語る本人が他でもない、幾多の苦難を乗り越えて本人の掲げる悲願をその手に掴んだウマ娘とくれば、言われた側も同じ言葉を信じたくなってくる。どんなに幸せに浸り続けても飽きることはなく、いつまでもいつまでも、キミと幸福であり続けられる将来を。
だから――――
「――――――――ねぇ、キング」
私も、見つけたよ。
「私もキミに『恋』をしている」
キミと私の関係に名付ける言葉の輪郭を。
「――――っ⁉」
息を飲み込む音は、まるで小さな悲鳴のようにも聞こえた。それが拾えてしまうくらい、いつの間にか夜は静かで、満月だけがそこにいた。まんまるく、その全身で太陽からの明るすぎる光を照り返し、今こうしてベランダで見つめ合い佇む二人を照らしている。雲一つない都会の空に生憎星は瞬いていないけれど、そのずっと奥にはキミがくれた星雲が変わらずに煌めいている。
なんだったんだろう、私があれだけ悩んでいたのは。うんうん唸って、夜も眠れなくなったりもしたのに、気付かされるのはやっぱりキミの言葉だったなんて。一周どころか十周くらい遠回りをして、笑えてくる。
だんだんと今日この夜が、私たちのためだけにあるような気さえしてきた。
ううん。きっとそうなんだ。これが私たちの夜だと私自身が思うなら、二人のための夜なんだ。これまでの一年は――――もしかしたらキミと出会った日から続いた今日までの毎日は、全部全部、今この瞬間を迎えるためにあったんだ。
名前のなかった日常に『恋』という一文字が与えられる、この、一瞬のために。
「…………スカイさんそれ、本当……?」
「うん。――というより、セイちゃん、キミがいないとダメみたい」
今更、嘘なんて言わない。誤魔化しなんてしない。これから先、恥ずかしがって本音を隠しちゃうセイちゃんはいるだろうけど、誠実でいたいことだけはいつだって変わらないから。今の私から出てくる言葉は、なんの疑う余地もないくらいキミが見つめる女の子の心そのものだって保証してあげる。
「キングが出張でいない間、料理のやる気がしなくってさ。朝ごはんはヨーグルトとかゼリーとかそんなんばっか。部屋の片付けだってサボっちゃって、今日帰ってくるからって大慌てで部屋の整理してたくらいなんだから。あとは……そう! 仕事でもさ、会議中にボーッとしちゃって内容聞き漏らすこともしょっちゅうだったっけ」
自分事ながら、なんとまぁ情けない。
包み隠さず全部を打ち明けているのは、こんな私でもいいのと問う最終確認か、受け入れてくれるよねと高を括っているのか、それとも単なる思い出話か。
答えを一つ、これとは言えない。だって「貴方がいい」と言ってほしいし、キミを信じているし、たくさんのものを共有したいから。全部本当だから。
酸いも甘いも喜怒哀楽も、十二支も春夏秋冬も。月が沈んでまた昇って、その満ち欠けを二人で追いながら、道端にあった出来事を面白可笑しく星でも眺めて語り明かしたい。ちょうど、今の私たちのように。
「傍にいてくれるから、私はちゃんとできる。その隣でキミが笑っていてくれたら、嬉しい。
――――――――なのに、なんで泣いてるのさ?」
「仕方ないじゃないっ! わかるでしょう…………っ‼」
向かい合う秋色からは透明な雫がポロポロとこぼれ始め、おのずとしゃくりあげるような嗚咽が溢れだす。十一度目にして初めてG1レースに勝利したあと控室で涙を流していた様子と重なって、あの時と同じ気持ちってことかな? キミが人生を賭して証明した「一流」に手が届いた瞬間と。
だとしたら、自惚れてしまう。セイウンスカイとはキングヘイローにとって、それだけ大きな存在なんだという事実に。
「うん。わかるよ」
ありがとうの気持ちでもって、抱きしめる。出張先で使っただろう知らない洗剤の香りの奥に、キミの匂いを見つける。ブランド物の香水と、ちょっと汗と、夕方のお日様を混ぜたような。そう伝えたらきっと汗については嫌がって、夕方については疑問符を浮かべられるんだろうな。それでもいいよ。私だけが知っていればいいから。
泣くキミの顔を肩で受け止めて、いつの間にか回された腕から受ける締め付けを甘んじて受け入れる。だから、同じくらいのものを返す。仕事用のブラウスにシワを寄せないようにとかは、考えないで。
(キミがいてよかった)
同じ学校に。
クラスに。
世代に。
レースに。
隣に。
振り返っていくと今度は私の方が泣きだしてしまいそうだから、走マ灯はまた今度。今はただ、キミの温度だけをこうして抱きしめていたい。
すると次第に震えていた背中は落ち着いてきて、不規則にしゃくりあげていた呼吸も、いつも傍で聞く心拍のテンポと同じになってきた。
「――――落ち着いた?」
「えぇ……」
と返事は貰ったものの、背中に回される腕はもっと力を増した。
「あれ? キング?」
「メイクが落ちて、絶対ひどい顔になってるから……」
そりゃあ大変。顔を見ないでってことか。ブラウスのシワどうこうよりも大問題。いくら気にしないよと言ったところで、そういう話じゃないんだろうし。
なら、ご飯の前にはお風呂だね。メイクを落としがてら、少し足を畳まなくちゃいけない湯船にゆっくり浸かって存分に羽根を伸ばすといいよ。――――あぁ、海外じゃバスタブもそうはないだろうから、お風呂に入るっていうのも久々なのか。
なのに抱きしめるキミは一番風呂と同じくらい温かい。不思議だ。気温なら夏日の二十五度ですら暑くて鬱陶しく思うのに、それよりももっと熱いはずの四十度弱の体温にはいつまでも包まれていたいと思えるんだから。
「スカイさん」
「ん」
名前を呼ばれる。
頭を少しだけ寄せて、二人の、髪色が混ざる。
「――――いいの?」
「!」
一言。たった三文字を。キミは尋ねてきた。
それだけで、わかるから。「なんの話?」とシラを切れるほど、私の性格も、ひねくれちゃいない。
「うん。いいよ」
人は、幸福に慣れていく。そしてもっと味の濃い幸せを求めて、どんどんと未来から幸福を前借りしていってしまう。いつの日にかその全部に飽きて、ポイ。
白銀の景色に包まれた温泉で語った、「人との関係は揮発性」に並ぶもう一つの自論。「人は幸福に慣れていく」。
恋という言葉を差し出されたのに、すぐに握り返すこともできず、今日まで頭を悩ませることになった原因。まだ今の関係ですら幸せなままなのに、そんなに焦って次の関係に進んでしまったら、大切な人との幸福をどんどんと消費していってしまいそうだったから。消費しきったその先は、考えることすらしたくなかった。
でもキミが、ずっとずっと「いつか」を信じてくれるなら、私も同じものを見て、キミと、進みたい。わかる? キミが心配してくれているものは、他でもないキミ自身が解決してくれたんだ。
……ところで、どのくらいの時間が経ったんだろう。帰ってきてから。話を始めてから。抱き合ってから。流石に深夜まで迎えてはいないだろうけど、夕食時からは長針一周分くらいは過ぎてしまったかもしれない。
初めての夜。早く寝なきゃと言いながら、日付を跨ぐまでベッドの上で話続けていたのを思い出す。あのくらいでいい。そう、あのくらい――――
「のんびり行きましょうよ。焦りすぎないで、私たちのペースでさ」
一年間、名前のない関係であり続けながら、けれど幸せを噛み締めながらここまで来られた私たちのペースで。一朝一夕なんてあっという間じゃなく、一日千秋くらい気長に、いつまでも。
「そうね」
小さく、安心したようにふっと吐かれた息から続いたたった三文字の同意は、これまで聞いたことのあるどれよりも優しくて嬉しくて、艶っぽくて子供っぽくて、そして、愛おしかった。
「スカイさん。明日の朝はゆっくり、好きなだけ眠っているといいわ。いつものように私が一流の朝食を用意して、貴方を起こしに行ってあげるから」
「そりゃあ、いいね」
気に入った。特に「いつものように」ってところが。
名前が付いても、これまでと変わらないんだ。じゃあ明日は目覚ましを切っておかないと。折角キミが起こしてくれるっていうのに、勝手に目を覚ましちゃ勿体ない。ギリギリまで眠って、お得意のフレンチトーストの香ばしい匂いに誘われて、夢から醒めたら瞼を開けて、まず一番に、キミの顔が見たい。
――――うん、胸を張って言える。
その朝は、私にとってこれ以上ない幸福だって。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
新生活、という言葉が色褪せてきたくらいの一年が経った頃。変わらないものもあれば変わったものもある。
「新」の一文字から思い浮かぶ四月の桜は例年と同じくまた満開に咲き誇ってはいるけれど、糊でパキパキだった制服やスーツの白いシャツには着慣れた証拠のシワが幾重にも寄ってきている。
――――なんて、語っちゃいますがね。
前回同様、時分は春という季節を遥か背中に置いてきた、大概秋のオレンジ色をした季節。親友との同棲生活を始めてからちょうど一年が経過した朝に、当の私はまだどんぶらこと微睡の海を漂っている。海岸に近づくほど目が覚めそうになっていき、離れればそれだけ眠りは深くなっていく。
寄せては返して行ったり来たり。岸が近づいて目が覚めそうだと思いきや、いやいやまだだと沖までプカプカ。目覚ましの鳴らない朝の覚醒前なんて大抵こんな感じ。それからどこからともなく釣り針が飛んできて器用に私の身体に引っかけると、ズルズルと岸まで引っ張られ「おはよう」になる。気が済むまで横になっていたかったのにと小言を漏らしたりもするけど、食欲をそそる美味しそうな香りに免じて釣り師を許してあげるところまでが一連の流れ。
「――ィさん」
あぁほら、今日も誰かが私の名前を呼んでいる。
「ス――――、もう――」
随分と必死に呼び掛けてくるその声は不思議とどこか子守唄のようにも聞こえて、安心した意識が海の底まで沈んでいきそうになる。でも同時に「起きなくちゃ」とも思えてくるから、仕方ないなぁ、と私は岸まで泳ぎだす。近づくに連れて、呼ぶ人の、顔がわかる。
(あぁなんだ――ううん。だよね。キミしかいない)
じゃあ、起きないと。
「ほらっ」
ようやく海岸までたどり着いた私に彼女は手を差し出してくれたから、それを取るように、こちらもそっと手を伸ばす。触れて、引き上げられて、そして――――
「おはよう、キング」
「――おはよう、スカイさん」
伸ばした手はキミの頬に添えられて、伸ばされた手は私の頬に触れていた。腕が繋いだレールの先には、朝一番のキミの秋色。これまでの一年も、そのずっと前からも、そしてこれからも変わることのない色が今日もそこにある。
もしも「恋」という言葉に色が付いているのなら、私の恋は、きっとキミの秋色。
季節は秋。それは、キミの季節。そして、私たちの始まりの季節。
これからまた新しい一年が始まる。桜の香りも真新しい糊の匂いもしないけど、代わりに上手になったたまごの焼ける甘く香ばしい匂いが私の鼻孔を擽った。
だから今、昨日はちゃんと言えていなかった言葉を、これからの私たちに向けて――――
「好きだよ」「好きよ」
これはもう数年前に学園を卒業して、今となってはレースからも退いたセイウンスカイとキングヘイローの、そう、たった二人だけの女の子たちのお話。
ご意見・ご感想など頂けると嬉しいです。泣いて喜びます。
ホントに。
(またもや投稿が遅れてしまいました。申し訳ありません……)
いかがだったでしょうか?
今回で、セイウンスカイとキングヘイローの同棲生活を描いたお話――“Nameless Daily”は完結となります。
作者自身の「好き」を詰め込んだものとして、読者の皆様もお楽しみいただけていたら幸いです。
また別のお話を投稿することがありましたら、そちらでお会いいたしましょう。
最後に、これまでこのお話をご愛読いただきまして、本当に、本当にありがとうございました!