Emigreという本をSecretaryは持っている。しかし何故かその本のタイトルを誰も読めないし、1文字1文字が何という記号なのかすら理解はしていない。
彼女はそれについて幾度か考えてきていた。大体決まって散歩に出る。散歩といっても5区の大地に足を踏み入れるわけにもいかないから、物資伝達通路、所謂パイプラインを歩いて思索に耽る。鉄錆の匂いと反響する5区の音、もしくはうめき。人生に関する事をよく考える彼女にとっては良い場所だった。
しかし、出張で来た人と鉢合わせたみたいだった。
グッドフェローズは硬直した。Secretaryは珍しいものを見つけたと思い、驚きで瞬きを繰り返した。
「貴女は誰かしら?」
苦笑混じりにシュカレは聞く。フェローは逃げようとも考えたが警戒されるのも良くないので大人しく会話に乗ることにした。
「え、えと...ここら辺を散歩していた人、です...」
「そう。なら、少し驚かせちゃったわね」
そう言いながらもSecretaryはこの侵入者がどのような人物かを見定めようとしていたが、グッドフェローズはヘイダルのバッジをあらかじめ外しておいていた。故に、バベルから見れば7区の人間としか思えないはずだ。
「でも、ここは既に秘匿されていたはずだけど...」
Secretaryは小声で何かを呟きながら目を逸らし、考え事をしている間、彼女は過去を見ていた。そこは消灯や点灯を繰り返す中で輸送車が稀に行き来している。つまりはこれは立派な組織であり、何かしら別の企業がこの組織に物資を輸送しているということだ。
フェローは目の前にいる敵に対して申し訳なさそうに言った。
「...どうかしました?」
「あっいえ...少し考え事を。つまり貴女は偶然ここに来たということかしら?宜しければ経緯をお聞きしたいのですが」
Secretaryは少し早口で言った。フェローはヘイダルのことを隠しながらここまでの経緯を話すのをどうすればいいのか、悩み続けていた。しかし、ある程度のシナリオが決まったので、話す。
「ご存じ、私は7区の人間です。そして、ここを見つけたのは私が外縁に沿って散歩をしていた時です。古いレールを見つけたんですね。こんなところでこれを見つけるのは珍しい。私はそのレールを追うことにしました。そこで行き着いた先がここでした」
Secretaryはその言葉を1語も間違えずに転写した。何度か頷くと、彼女は言った。
「わかりましたわ。貴女の話は理解しましたし、今後に活かすことにします」
言い終わるなり、通路の灯が消えた。完全に真っ暗な中、フェローに聞こえたのは数個の足音だけだった。グッドフェローズが状況を理解した時には既にバベルはすぐそこに迫っていて、彼女の脇腹に重い1撃が加えられた。
がっくりと、ヘイダルは脱力し、冷たい床に臥した。Secretaryは電話を取り出し、本部と連絡を取る。通路の灯がまた点いた。
「...えぇ、回収と、あと、チャフに見直しを要請しておいてもらえるかしら。あまりこんなことしたくないの」
薄ら意識の中、ヘイダルは状況を整理していた。しかしそこに一つの声が聞こえる。
「シュカレさん?」
Secretaryは振り返る。その表情や目がいつもと違い笑っていないことにAugeは少し狼狽えた。
「どうかしましたか?」
「忙しいなら後ででいいんだけど、少し話したいことがあって」
Augeはもたもたしながら答えた。Secretaryは気持ちを切り替えるために深呼吸をひとつして、フェローから離れた。本部からは今数人の作業員が項垂れた彼女を運び込もうと動いているところだ。
フェローは目を開け、Secretaryの奥にいるAugeを見た。彼女の中で既視感が芽生え、それはなんとも言い難い感情を生んだ。
「ギャドペカドル...?」
「えっ」
Secretaryは直ぐに振り返ったが、Augeは素っ頓狂な驚いた声を上げた。グッドフェローズは脇腹を抑え、浅い呼吸をしながら立ち上がり、言う。防弾の為に来た衝撃吸収用のクッションが彼女の意識を保ってくれていた。
「ギャドペカドル。ギャドペカドルだよ...知っているでしょ?君の大切な親戚」
Secretaryは両者に代わる代わる視線を送った。グッドフェローズは笑顔を取り戻し、サングラスを地面から拾い上げ、胸ポケットに差した。反面、Augeは当惑するばかりであった。グッドフェローズが手摺に腰掛けたタイミングで彼女は言った。
「知り合いなのかしら?」
「...多分、僕の親戚の知り合い。僕とは直接会ったことがないだろうけど」
だいぶ呼吸も落ち着いてきたのか、良き同輩はAugeに手招きする。
「君を待っている人がいる。ここがどんな組織かは分からないけれど、こっちに来ない?多分、もっといい場所が君を待っている。安らかに君は生きることができる」
Augeが一歩進んだところでバベルは彼女を引き留めた。
「...貴女がどんな人間で、彼女とどんな関係にあるのかはわからないけれど、私にはこの子を渡せない理由があるの。だから、諦めてもらえると助かるのだけど」
「あっ、シュカレ...私の伝えたいことは、これと似たようなものなの」
Augeはもう一歩踏み出した。グッドフェローズの口元が緩み、笑顔が彼女を迎える。パイプラインの奥の奥から足音が聞こえてくる。
「僕をここから出して。Secretary。さよならをさせて」
Secretaryは唖然とし、もはや追い止める気にもなれなかった。ただ失望と自責があり、呆然としていただけだった。グッドフェローズはAugeを招き、遅い足取りで出口へと向かっていった。後から来た作業班は未だ固まったままのSecretaryを見て、困惑しただろう。
Emigreという言葉に、彼女は当初、既視感はなかった。しかし、Augeの放ったSecretaryという言葉。それは大いに、大いに既視感があった。以前はそれで呼ばれていたのかのような、そんな既視感。Schelber地区、Frinkran地区、Stokehole地区。隕石によって溶かされた...いや、今はそれではない。
もしかしたら、自分の今話している言葉とは、数年前、自分の知っていた言語とはかけ離れているのかもしれない。すべてが置換されたのかもしれない。考えすぎなのか?いや、その可能性も一応はある。
バベルは一つの可能性に気付いた。もし、言語が全て置き換えられたのだとすれば。しかしそれをしたところで何の意味がある?なんだ。やっぱり考えすぎか。
グッドフェローズはAugeの回収という思わぬ成果を誇っていた。当のAugeは自分の置かれている状況や、その、変にスキップ気味の侵入者に対して不信感を抱くばかりだった。
「僕はどこに連れて行かれるの?」
ヘイダルはそれに直ぐに答えることはできなかった。チーフやモラルと合流できなければ永遠に5区に閉じ込められたままだからだ。フェローはカバンから飴を取り出し、Augeに渡した。そしてサングラスをかける。
「そうだねぇ...最終的には1区の、君の親戚に会うことになる。いやぁ!彼女の親戚とかどんな堅物かと思ってたけど割とフランクで助かったよ」
釋は長く続く。それを嫌がるフェローは反面教師として多くは語らなかった。Augeの親戚がヘイダルという組織にいること。そして自分もその構成員だということ。
グッドフェローズは携帯で一つの連絡を受け取った。それにはこう書いてある。
「ギャドペカドルが5区に向かったらしい。もしかしたら個人作戦かもしれないため、避難はしておいた方がいい」
彼女はAugeに何かを尋ねることは控えていた。それよりも腹部が痛い。しかし、聞かずにいられなくなり、ついにはこう言った。
「なんか...君、親戚に手を焼かされることない?」