レヴィアタンは暖炉の側の椅子に座り、永遠に滴る水を乾かしていた。彼女自身、それを疎いと思ったことは少ないが、家具などの性質上、傷めるのを早くするだけならと仕方なくしていた。
彼女が机に広げる分厚い本は軋む音を立てながら開かれた。神書、3区にて最も読まれている本にして、この星で最も複雑な本だ。彼女の存在はそんな神書の中での異端の書、航海士の日誌から再現された「偽リヴィア書」内で言及される。成り行きが成り行きであるが故に神書に相応しくなく、結局本家に編入はされなかった。次第にそれは忘れ去られていき、ついに覚えているのはマニアだけとなった。
「もうこんなにも時間は過ぎてしまったのねぇ。なんか感慨深いわぁ」
そうレヴィアタンは言った。天使から揺り落とされ、つまりは腐れ縁でしか既に旧友には会えなくなっているが、彼女はその中で人間の美しさを見出した。
1人の人間が彼女の姿を見つけた。レヴィアタンは人に取り憑くことが出来たものの、上から見ていた身にとってそれは疎まれた。自分が動くことによって転覆した船の声を聞いた。波に乗って大声が響き、木材の割れる音、何かが潰される音が聞こえた。
「船長!こんなところで転覆するんじゃ俺らぁもう...」
「諦めるな。諦めたものから死んでいく。海の渦に飲まれて消えるんだ!」
最終的に1人となった乗組員は、深い海の底に黒く、時折反射する何かを見た。それに気づきあたりを見回すと、そこらじゅうがそんな様子だった。彼の中に浮かんだ海の大蛇の伝承...彼は死ぬと思っていたのだろう。
レヴィアタンは自分の声を使った。これ以上動けばこの男もろとも飲み込んでしまう。海の中から声を響かせる。
「人の子よ。生きたくば片腕を上げよ。死にたくばこちらに来い」
海の声、意志のある声だと、今際の際に聞こえる幻聴だと、自分の望んでいた勇気付ける声だと。彼は自分の右腕を上げた。寒さによってあざれ始め、じきに動かなくなるその右腕を高らかに上げた。
この海蛇は波を操ることが出来たから、この男の乗った転覆船を比較的安全な場所へ送ってやった。
「『海に潜む大蛇は神の御創り賜われた世界の内、5日目のものであり、混沌の海を沈め我らに恵みを与える存在だ』なんて。おかしくて笑っちゃいそうになるわねぇ。ふふ。どれだけ嬉しかったのか手に取るようにわかるわぁ」
彼女は神書にて空白と著された5日目の項目にその紙を継いだ。それを確認すると趣味悪く笑顔を浮かべ、立ち上がる。絨毯の上を歩くたびに水が浸透し、奥部でカビが繁殖を始めた。時期に毛は藻類のようになり、壁には植物が侵食する。掃除のしない彼女であるからそれは安易に予想ができる。
まだ空白の棚の前に立つと、その神書を入れる。そういえば、と、彼女はただの紙の束を取り出し、一枚目を見つめた。
それはその船員の病床での記録だった。表題の下には以下のように書かれている。
"僕の、海に捧げた数十年"
その時のレヴィアタンは船員の妻の墓に臥せたその遺体に取り憑いて、自分の姿とした。初めて地に足をつけただとか、そういう感動を噛み締めながら彼の家に向かう。少し借りるだけで、その妻の姿というのは跡形もない、さらには行ってきて初めて気付いたが、彼の目は塩によって殆ど見えなくなっていた。
「随分と久しぶりですわねぇ、乗組員さん」
そういうと彼は目を開けた。右腕を上げようとしたが、激痛ですぐに諦めた。額には汗が浮かび始める。
「あら?今は海にはいないのよぉ〜?」
彼女は咄嗟に優しい声でそう言うが、彼はあの頃の若さを思い出していた。あの頃の必死さと無謀さを。彼女は布に冷水を浸透させて、額に乗せた。そして左手を取る。骨張っている。
細い目はレヴィアタンを見ると、驚いた様な安心したような、彼女の感じていた彼の早い心臓の鼓動も正常まで落ちた。
「元気にしていたかしらぁ?あの時はごめんなさいねぇ」
彼女はそういった。彼は何かを言おうとはしているが、何も言えなかった。咳が部屋中に響く。いくら人間でないと言えども、彼女自身人間については良く理解していた。彼が救えない状況にあることや、救ってはいけないことを考えれば、彼女のできることといえば傍観だった。
彼はわずかに動く左手で机の上を指差した。湿った彼女の手に取った紙の束こそ、彼の人生だった。その中身を知った怪物は彼の目をよく見て、彼女の元いた場所についての話をし始めた。ベッドを僅かに波を用いて揺らし、ゆりかごの様にしながら。彼の目は段々と閉じ、レヴィアタンは彼の弱まる鼓動を聴き、最後、止まった時、言った。
「ゆっくり、おやすみなさいねぇ」
彼女は彼の遺体を抱きかかえると彼女の帰った場所に持っていった。閑散とした港町、潮の匂いがレヴィアタンにとっては心地よかったが、それが抱える未曾有の闇を愛すのは彼女だけだった。
取り憑くのをやめ、夫妻は同じ場所に帰った。本当は海に還したかったが、一緒でないと言うのはなんとも不憫な様だった。
紙の束は簡単に言えば夢物語だった。もしああであれば、もしこうであったとしたら。しかしそんなより良い選択をしているにもかかわらず、彼は現実を認め、今より少し良いと言うことを書いていた。
また、紙の束を棚に戻した。彼女は椅子に戻ると、漸く沸騰した水をカップに注ぎ、紅茶を味わった。沸騰したままの熱が彼女を浸透する。それに従って体温も上がった。
彼女はどうやっても人間になれないことを理解している。外面がこれでも心臓がなくても生きれるし、食べ物がなくとも生きれる。ありえない蛇の尻尾さえついているのだ。人間でない彼女は人間にちょっかいを出してみたかった。それは何をしても何も起きないであろう諦観からの好奇心があったからだ。