バベルという組織に彼女は所属していた。隕石の遺した瓦礫の山の上に立つ施設であり、今の世界に反抗する人の集まりである。故に、少数派の集合だ。月明かりに照らされ、灰色のコンクリートの霧は肺を侵しながらそれを反射、もしくは取り込んでいる。
警報を解いたSecteraryは自室に戻り武器のメンテナンスを行おうと思っていた。
...メンテナンスといってもそれを鑑賞して思いに耽るだけだが。
自室にカードキーを差し込むと、ランプは緑色に点灯し開扉する。人工のものだけでできた部屋。外からの干渉を一切受けず頑丈で意地っ張りな壁だ。
机の前の椅子に座り、左を見て、壁に接している棚の中にある本を無意味ながら見てみようと思った。
「既に失われたものか、私の妄想かと。言っておりましたわ」
彼女はある場面を思い返していた。「何を書いてあるのかがわからない」として、小隊03のメンバーの1人である文学に詳しい研究者に相談したが、その研究者すらお手上げ状態だったもの。彼女はカウンセリングを勧められ、受診した。
異常なし。その言葉は本来安心するべき文言の筈だが、そうは捉えられなかったらしい。
「人格乖離、妄想癖...散々な言われ様でしたが、紛れもなくこれは妄想でも何でもなく、事実だと思いますの」
ハードカバーのその本を取り、表紙を撫で、彼女は部屋の隅に向かって言った。そこには知らされていない監視カメラがある。
発音のできないそれは「
Secteraryの書き方でつらつらと並べられた度々空白や段落が用いられるその記号たちはページを埋め尽くしている。一度本から顔を上げ、同タイトルで埋め尽くされている棚を見た。自分の書いたものだと認めざるを得ないが、自分が病気なのではないかと言う不安が湧き上がるのみである。
「これが私か」と彼女は心の中で思った。「身に覚えのないものをここまで違和感なく生活していたのは流石におかしい」と批判があった。それは同感だ。
ノックの音がして、反射的にそちら側を見る。視線をあまり動かさずに本を棚に入れた。
「誰ですの?」
彼女は呼びかけた。扉の外から見知った声が聞こえた。
「私だよ〜!アンリ・シェルバー!」
早足で扉に駆け寄り、解錠する。自動の開扉を待たずにアンリは部屋に飛び込んできた。入ってくるなりベッドに座る。
「もう夜は遅いのですよ?もうてっきり寝てしまったものかと思っていましたわ」
「仲間がもしかしたらって時に寝れる訳ないじゃん?まぁシュカレのことだし大丈夫だとは思ってたけどさ」
彼女の口からは溜息が出た。公認していない呼び方で呼ばれるのは未だ慣れるもので無いが、自身から名乗った名が何と読むのかわからない故のしょうがなさは絶妙に噛み合わない。どこかで軋轢が生まれていた。
「あなたは何をしに来たのかしら。私にはもう語れるお話は残っていないと何度も言ったわよ?」
ベッドに座るアンリの隣に座り、Secretaryはそう言った。
「外のことを話してくれるだけで私は十分なの!ねぇ、今回の巡回はどうだった?」
覗き込むようにそう言うので、睡眠時間が擦り減る感覚を覚えながら、丁寧に巡回員は説明した。
「侵入者感知...あの信頼するに値しない装置が反応したので現場に急行しましたら、本当に侵入者がいました。男性で、何かを探している様でしたから、探し終わったら声をかけ、できれば穏便に済ませたかったのですがやはりそうはいかないのでしょうね。一言も発さず、私が麻酔銃を取り出した直後に走り出し、瓦礫に躓いて気絶してしまったの」
アンリは興味深そうに話を聞いていた。表情を「呆れ」と「羨望」に占められている。「そりゃ、誰でも麻酔銃を取り出されたら逃げるでしょうよ」という言葉を飲み下した。常識という分野を未履修という訳では無い。
「最低限処置を施して回収班に任せましたわ。あの人は...古い人形を手に持っていましたわ。多分、その場所が彼の家では無いかと今になって思います。とても、探している姿は真剣でしたから」
静かに話を聞いていた生物学者は「不思議だね」と言い、彼女の注意を引いてから話した。
「人やコンクリートすら蒸発するほどの被害だったのになんで人形が残ってるの?」
Secretaryは一度頷いてから言った。
「...あぁ、確かにそうですわね。しかし、あの方は元から人形を持っていて、弔いのために置きに来たとも考え辛いのですよ。やはり探しに来たとしか...」
灰色の瓦礫達は全ての人の痕跡を消し去っているはずが、今回それが見つかったことによって揺らぎ始めていた。しかし5区が人形の所持を許すだろうか。都市の裏路地に捨てられたものか、見つからずに隠し通してきたか、どれも考えていたものの無意味に見える。
「5区にそんな習慣ある訳ないじゃんシュカレ〜。他の5区出身の人達って大体エンジニア部か精神病棟に入ってるよ?有名な作家の本にも書いてあったし!」
そもそも5区は経済都市であり、輸入に依存していた都市だ。独自の法だとか何とか言って区全体で決められた最低限の人間への尊厳を遠回しに捻じ曲げる様なものを満場一致で可決させるような区だ。そこに隕石が来たのは不幸としか思えないが、「報いだ」とも思わない。先代から受け継がれて来た非科学的技術を否定し、それこそ機械のように働くことを望むか、罰として機械として働いてもらうために左遷される各区の人材の廃棄所。
「『5区は機械の街。人間の機械。』でしょう?もしかしたら職を移された人の家族からも知れませんわね。ここを知っている私から言うと、人形などの布製品なんて見たこともなかったですから。」
Secteraryはアンリの頭を撫で、優しく言った。
「ここまでにしましょう、アンリ。早く眠った方がいいわ。そうしないと幽霊があなたを連れ去ってしまうかもしれないわよ」
アンリは時計を見ると立ち上がり、早足で部屋を出、それを彼女は手を振って見送った。
数秒、ベッドに座ったままだったが徐に立ち上がると、疑問が再燃する。
「本当に、どうして人形が残っていたのかしら...」
非科学的が現実的と言う意味を表す訳ではない。物体自体を強化することや他のものと肩代わりさせるという代物がない訳ではないが、そんな人形を守って何があると言うのか。もしくは死者の心残りか、最後の執念か。
街中で光の様なものでお手玉をする道化師や、裏路地でゴミ箱を叩き割るホームレスや、物理法則に反して物体を引き寄せる学生。使い方は多種多様だが方向性は決められる。
もしかしたら、記憶すら改竄したり、常識を壊すようなものもいるかもしれない。月が意地悪く拗ねる場所だ。あってもおかしない。
部屋の中を何回か周り、ベッドに横たわった。疲れが一気に押し寄せてくる。「後に考えてしまおう」という思考が頭を巡ると、意識は落ちていった。