「隕石は多大な影響を及ぼしましたねぇ...チーフ」
「やれやれ」と、資料を持つ彼の手は呆れを示す。その紙の資料はほとんどがダミーではあるがそれを解いた先にある情報とは、彼と鍵を渡された者、鍵を作る者のみが知ることとなる。法律上この程度の文書は各所に提示しないといけないからだ。
「お前はそれを言ってばかりだな。まぁ、分からなくはない。あれから時代は変わった。それまでの世界はあそこで死んだのだ」
「その理屈で言えばこの星は何度も滅んでいますよ、チーフ。詳しくは鍵を渡した後になりますけど、私たちはどうやらヘマしたそうですよ」
チーフは彼を見下すように一瞥した。その視線に気づいておきながら見返さないのは彼がそれなりに扱いを心得ているからだ。彼らの歩く廊下の天井、その両端はレールが繋がり、箱が擦れる音を立てながら渡る。大柄なそのチーフはそれを見てから言った。
「ノイズに現在感染している同志は既に1万人を超えている。死に至った者は23万人。ここに限らず星の住人は月と音に4割は精神を病んでいるだろうと推測されている。あるものは鼓膜を破り、あるものは目を突き、あるものは何かに鬱憤を押し付けた」
「単純な犯罪率の上昇。ノイザーの治療に一般的な抗不安カウンセリングは効果なし。上から提供された聖水とやらも効果はありませんでしたね。全く...」
彼はため息をついた。彼ならびに彼の上司の受け持つ場所はおそらく非現実的な思考を持っているだろう。聖水を口に含めば万病が治癒され、活力の源となることは誰もが言っている。「能力が高いから」「脱退されると困るから」という事から彼らは首の皮一枚でこの好待遇を弄んでいる。
「月の発する精神の異常を引き起こす何かも研究途上。発生源不明の音が何故病ませる原因となるのかも未だわかっていない」
チーフが動きを止めたので、彼も釣られて動きを止めた。大柄なその男は後ろを振り返って、レールを行き来する箱を見ながら呟いた。
「本当に私たちの相手するべきはこの病なのか?」
2人は無言を貫いた。対面から歩く人間は彼らの胸についたバッジを見て畏れるだろう。彼らこそ世界の救世主の組織、その深度3なのだから。
彼は扉を開け、チーフが少し屈みながらその入り口を潜った。中は自然光に見せかけた照明を用いており、長机の先には白の手袋をつけた老人が座っていた。
「ようこそ。どうぞ座ってください。チーフ」
誘導されるがままに、老人の秘書の引いた椅子に座る。この中では一番若いであろう彼が資料のコピーを秘書に渡した。
「再度伺いを立てて下さる機会を得られ、誠に恐縮でございます。区長」
チーフは頭を下げた。その区長は快活に笑い、資料を受け取った。
「つきましては、2区での我々の同志の研究。月や音に蝕まれる病気、ノイズに関してお聞きしたいのです。これから研究の拡大の為5区での建設を推し進めるか、現状維持とし、新たな研究者を雇用するか。もし建設を行う場合、区長、貴方のお力を貸して頂けないか」
区長はその話を聞きながら資料をパラパラと捲った。簡潔に言ってしまえば「伝染元は実験からハッキリとはしないが、数年前が初の症例である事から大方月と音が原因だ。更にそれを治す手段が今のところ見つかっていない」と言うこと。老人は少し唸り、言った。
「君は、どっちがいいのだね」
チーフはこの半ば放棄の質問を待っていた。高らかに、されど静かに宣言をする。
「私が思うに、ノイズは最優先すべき根絶対象です。それはこの星全体の命題であり、全区民がそれを望んでいる事でしょう。5区の人間であれば我々は効率を優先し、確実な成果を上げることが可能です」
若い男はその不適な笑みを浮かべ発言する男を不安そうに見ていた。一応、作戦通りであったのだからいいのだが、今の発言と、道中での発言は食い違っている様に思える。
区長が熟考している隙に、台本を彼は読んだ。
「我々の組織の技術を持ってしても完全な防御措置は出来ず、少なく見積もってこの星の住民約4割は月に掌握されているでしょう」
チーフが言葉を加えた。
「もしも我々がこの病を根絶できた場合、場所を提供した2区、5区には多大なる注目が集まる事でしょう。今よりも発展し、効率の上がった都市を想像出来ませんか。区長、貴方様は場所を提供する。ただそれだけなのですよ」
その時、秘書が彼に耳打ちした。区長は立ち上がり、杖を持ってこう答えた。
「私は君たちを歓迎することはできる。病の克服、何と素晴らしいことか。その心意気は称賛するに値する。では、君達はこの星の救世主、と言うわけだ」
老人と秘書はチーフと若き研究員の元へゆっくりと歩み寄ってくる。彼は資料を纏めて手の内に収めた。
「さて、君達は私と、土地の提供者に何ができる?金か、地位か?いや、そんなものはもうどうでも良い。誰もが欲しなくなった空白の席だ。私の求めるものは、そう。責任の委託だ。もし君たちがしくじったとしても5区は無視をし続ける。しくじった出来事に対しとやかく言われたとしたら、5区は君たちの周囲の土地だけを2区だと主張しよう。それでいいな?」
杖で、姿勢を維持するチーフの肩を2回弱く叩く、そして区長は踵を返した。区長室に戻る扉が秘書によって開けられた後、振り返って、救世主2人に声をかける。
「...もし、病を取り除いたとして、君たちには本当の病には気付かんだろう。そもそも君たちは5区の協力を得たいのは半分、この近くにある何かを目的としているのだろう?」
さっきと同じように笑い飛ばすと、区長は部屋に入って行き、秘書は2人に礼を一つして去っていった。
残された2人。研究員が上司を見ると、その両手は硬く握られていた。
「さ...さっさと行きましょうね。仕事が山積みですから」
救世主は部屋から逃げるように去っていった。残されたチーフもすぐに立ち上がり、
「分かっている」
とだけ言い、彼の後を追った。