改札口で、後藤さんを見かけた。
中学時代に気になっていた子だ。
高校からは、違う学校に行ってしまった。
僕は、声をかけてみることにした。

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死んだクジラを見に行こうか

「あれ? 後藤さん」

「ひっ!」

 

駅の改札口。

特徴的な髪飾り(それはゼリーみたいな形だ)を見つけた僕は、声をかけた。

すると案の定、おびえたような声で挙動不審な少女が、ぎぎぎぎっと壊れたおもちゃみたいな動作で振り返る。

 

「す、すすすすすいません、すいません、ミジンコみたいな人間が電車に乗ろうとしてすいません」

 

あー、後藤さんだわ。

全く変わってない。

僕は苦笑した。

 

「別に怒ってないよ。前のクラスメイト見かけたから声かけただけでしょ」

「ひっ! クラッ!? へ!?」

 

何を言おうとしてるのかわかんないが、ビビってることだけはわかる。

ってかこれは、僕のこと覚えてないなー。

 

「クラスメイト。中学んときの。後ろの席だったんだよ? 藤原健治。思い出せない?」

「うあぁぁぁぁ、すいませんすいません、私なんかが前の席でいつも視界を汚してしまっていたんですね! すいませんでした!」

 

土下座した!?

 

「いやいや。ぜんぜん視界汚れてないからね」

「ほ、ほんとでしゅか?」

 

弱弱しく顔を上げる後藤さん。

前髪が長くて表情が見えにくいけど、相変わらず、可愛い。

 

「うん。後藤さんが前の席で、嫌だったことなんて一度もないから」

 

これは事実。

僕は、後藤さんが可愛いって思っていた。

というか、実際顔立ちはすごい美少女だし。

変な奴だって笑うやつもクラスにはいたけど、なんかいつもわたわたしてるところも含めて、僕は好きだった。

ほかの男子が、「後藤って顔は可愛いかもしれねーけどさ、暗いよな。彼女候補じゃねーわー」とか言ってる時、むしろ誇らしかった。

後藤さんの良さを分かってるのは僕だけだって、思えたんだ。

変なファッションしてるのも、なんか時々ぶつぶつ言ってるのも、全部ひっくるめて、他の女の子と全然違うと思っていたから。

なんかこう、同じようなファッション、同じような趣味、同じような仕草で合わせてる子より、ずっと可愛いじゃん。

そんな後藤さんと、高校に入ったらもっと仲良くなりたいな……と思っていたら、地元の高校には来なかった。

顔の広い友達に、近隣の他の高校に行ったのかちょっと聞いてみたけど、わからない。

急に僕の目の前から姿を消してしまった後藤さん。

そんな彼女と、駅前で偶然会えた。

これはむしろ、奇跡と呼んでいいような気がする。

 

「で、こんなところで何してたの?」

 

問いかけると、目をそらし気味に答えてくれた。

 

「えと……電車に、乗ろうと思って」

「あ、いや、それはわかる」

 

思わず突っ込み。

ここにいて電車に乗ろうとしていない人は普通いない。

 

「そ、それじゃ、私はこれで」

 

しゅたっと手を挙げて、そのまま去っていこうとする。

あ、どうしよう。

せっかく会えたのに、またどっかに行ってしまう。

 

「あ、ちょっと、待って」

 

でも、どうやって引き留める?

何か、理由とか話題……。

とか悩んでいたら。

 

「あれ? あれ? あれ!?」

 

後藤さんが、改札口でわたわたしていた。

 

「な、ななななんで、ない!? ない!?」

 

大慌てで顔面蒼白で、ジャージのポケットを探し回っている。

ティッシュとかゴミとかは出てくるけど、それ以外は何も入っていない模様。

 

「お、終わった。ゴミクズ以下の腐敗物です、私は」

 

チーン、と音が鳴りそうなポーズでその場に崩れ去った。

 

「ど、どうしたの? 後藤さん」

「ふ、ふぎゅ、わ…た…し…は…」

 

息も絶え絶えで溶けかけている彼女を引き起こす。

しょ、しょうがないなぁ。

駅前のベンチに座らせて、温かいお茶を買ってあげた。

 

 

 

 

「ご、ご迷惑をおかけしました」

 

ぺこりと後藤さんが頭を下げる。

 

「え、えと……」

「あぁ、さっき自己紹介した時、テンパってたもんね。藤原だよ、藤原」

「あ、ふ、藤原君」

「うん。後藤さん、何があったの?」

「そ、それが、その」

 

少し言いよどんでから、つぶやいた。

 

「買ったはずの切符をなくしてしまったみたいで」

 

あぁ、そういうことか。

今日は日曜日だ。

どこかに遊びに行こうとでもしていたんだろうか。

 

「なるほどね。じゃ、駅員さんに聞いてみよっか。このへんに落ちてなかったか」

「そ、そそそそんな勇気ありません、無理です、仕事中にナニ邪魔してんだってブチギレられます!」

「いや、そんな好戦的な駅員さんいないと思うよ」

「ででででででも」

「しょうがないなー」

 

僕は立ち上がる。

 

「じゃぁ、僕が代わりに訊いてあげるよ」

「え?」

「ほら、一緒に行こう」

「あ、ふ、藤原君……」

 

僕は、後藤さんを連れて駅員さんに尋ねる。

 

「あの、切符、落ちてませんでしたか?」

「うーん、見かけてはいないけど。どこまでの切符?」

「あ、そっか。後藤さん、どこまで買ったの?」

「え、えと……」

 

後藤さんが、目を泳がせつつ、答えた。

 

「し、新大阪、まで」

「「え!?」」

 

僕も駅員さんも、思わずびっくりしてしまった。

 

 

 

 

「新大阪って、どうして?」

 

問いかけると、言いたくなさげに顔を伏せる。

僕は、少し思案した。

新大阪までって、結構な金額だ。

親戚が神戸の方に住んでいるから、新幹線に何度か乗ったことがある。

確か、15000円近くしていたはずだ。

それを落としたともなれば、大きな損失だろう。

後藤さんが落ち込むのも、わかる。

でも。

それ以上に、僕は、気になってしょうがなかった。

後藤さん、なぜ、新大阪に行きたいんだろう?

そんな遠くまで。

何か、理由があるんだろうな。

僕は、後藤さんの秘密に触れたくなった。

 

「あ、あのさ、後藤さん」

 

心臓が跳ねる。

 

「あ、は、はい」

「どうしても、新大阪、行きたいの?」

 

しばらく、無言で僕を見つめる。

そして、確かな表情で、うなづいた。

僕は、財布を取り出した。

親父からもらった古い革の財布を開き、中を確かめる。

そこには……6万円が入っていた。

僕がバイトでためたお金。

実は今日、とあるものが買いたくて、持ってきていたのだ。

 

「…………僕が出してあげるよ」

「え?」

 

後藤さんが目を見開く。

と、すぐに、顔が崩れた。

 

「ど、どどどどどういうことですか? 私なんかに恩を売っても何も意味なんてないはずなのに!? ……はっ! ま、まさかこれは新手の詐欺!? 貸したお金が数日で膨れ上がっていくという……」

「違うちがう」

 

僕は苦笑した。

でも、すぐ真剣な表情に戻して、言った。

 

「ちょうど、バイト代があるんだ。今だったら、これを貸してあげられる。単純に、いま後藤さんを見ていて、貸してあげてもいいって思った」

「藤原君……」

「どうしても、行きたいんでしょ?」

 

こくっ、こくっ、とうなづく後藤さん。

 

「だったらさ、貸したげるよ、本当に。ただし、一つだけ条件があるんだ」

 

僕は、勇気を振り絞った。

 

「い、一緒に行かせてよ。僕も。新大阪に」

 

 

 

 

新幹線の駅のホームは、普通の電車のホームとは少し雰囲気が違う。

電車のホームって「移動」って感じだけど、新幹線は「旅」って感じがする。

少し待っていると、新大阪行きののぞみがやってきた。

少しでも安くするために、自由席の切符を買った。

もし混んでいて一緒に座れなかったらどうしようと思ったけど、中途半端な時間帯(いま14時だ)だからか、空いていた。

 

「あ、あああの、ほんとうに良かったんでしょうか?」

「ん?」

「私なんかにお金を貸してしまって」

「いいよ、別に」

 

座席に座るなり謝りだすので、僕はびしっと言った。

 

「あげるわけじゃなくて貸すだけなんだからさ。それとも後藤さん、返す気ないの?」

「め、めめめっそうもございません! 返します! 命に代えて返させていただきます!」

 

重いなぁ。

まぁ、後藤さんの性格的に、あげると言ったら絶対に精神崩壊起こすだろうから、貸すことにしたんだけどね。

 

「で、でもっ」

「まだ心配事あるの?」

「あ、あの、あんなに大金を持っていたということは、藤原君、なにか用事があったのでは……」

「あぁ、いいんだよ、別に」

「は、はぁ。でも……」

 

うーん、言ったほうがいいのかな。

変に気を使われても困るし。

 

「実はさ、今日、楽器を買うつもりだったんだよ」

「楽器!?」

 

後藤さんが驚いたような声を上げる。

 

「うん。といっても、ギターとかじゃなくて、トランペット。ジャズが好きでね。高校生になってバイト始めたら、安いのでいいから買おうって決めてた。あ、そんなに吹けるわけじゃないよ」

「あ、そ、そうだったんですね」

 

親父の影響で、小学生のころからジャズを聴いていた。

ジャズを聴く友達は学校にいなかった。

だから、そういう意味では、僕もある種のぼっちだった。

後藤さんみたいに特殊な感じではないけど。

後藤さんのことが気になったのは……似たところを感じたからなのかもしれない。

 

「す、吹奏楽でもなく、じゃ、ジャズのトランペット、珍しいですね」

 

後藤さんが話に乗ってきた。

 

「あ、親父がジャズ、好きでね」

「お父さんの影響」

「そっ」

「仲が、いいんですね?」

「ぜんぜん?」

「へ?」

「親父、僕が小6の時に、浮気相手と出て行ってさ。音信不通」

「え」

 

後藤さんが固まった。

 

「あ、別に気を遣わなくていいよ」

「は、はぁ」

「んで、ずっと行方不明だったんだけどさ。この5月に、死んだって」

「おっ、ふっ」

 

後藤さんが変な声を上げた。

僕は思わず笑う。

 

「いや、別にそんなに辛辣な話じゃないから」

「で、でも」

「いいのいいいの、ずっと家にいなかった人だし、もう他人。他人が死んだだけって感じ」

 

でも、なぜか僕は、ジャズを演りたくなった。

一番好きな音の楽器は、ウッドベースだったのに。

無性にトランペットを、心のままに吹きちらかしたくなったんだ。

 

「お葬式の後、なんか急にさ。あ、ジャズやりたいって思って、んで、バイト始めた」

「そ、そそそんな大切なお金を」

「いや、別に今日じゃなくてもよかったから」

「そ、そうなんですか?」

「そっ。たまたま、今日買おうかなと思っただけだから。来月でも、再来月でもいいんだ」

「か、必ず、来月には返しますっ!」

「わ、わかったよ」

 

僕としてはむしろ、返してもらうときに後藤さんとまた会える口実ができたのがうれしいぐらいだ。

 

「あぁぁぁ、今月のライブ代をバイト代から差し引いて、はっ、ギターを質屋に入れたら……」

 

なんかぶつぶつ言っている。

と、気になったので尋ねてみた。

 

「ライブとかギターとか。後藤さん、音楽やるの?」

「はひっ!?」

 

飛び上がりそうに驚く。

いちいち反応が面白い。

 

「え、えと、しょのあの、は、はひっ」

 

肯定なのかな?

 

「そうなんだ。いつから?」

 

中学の時は、バンドとかやってなかったよな、たぶん。

 

「え、えと、高校に入ってからで」

「あ、そうなんだね」

「は、はい」

「ソロ? 弾き語りとか」

「いいいいえ、いちおう、その、バンドです」

 

へぇ。

ちょっと意外だ。

後藤さん、人とバンドを組むのか。

ちょっと、ムカッとした。

僕が知らない間に、後藤さんがバンドを組んでいた。

っていうか、後藤さんと一緒にバンドやってるやつがいるんだ。

 

「ど、どんなバンド?」

「あ、み、見ますか?」

 

後藤さんが見せてくれたアー写は。

女の子4人組。

なんかそれっぽいポーズでジャンプしてる。

後藤さんだけ表情暗いけど。

僕は、ほっと息を吐いた。

なんだ、メンバー全員女の子か。

 

「へぇ、可愛いね」

「か、かわっ!?」

 

後藤さんがまた飛び上がりそうになった。

 

「あ、あぁぁぁぁいえ、勘違いなんてしませんよ、しませんので。可愛いっていうのは、それはその、もうね、喜多さんとか虹夏ちゃんとかリョウさんとか、顔面強い連中がそろってますからはい。私みたいなヘドロを中和してもまだ余りある輝きが……」

 

いや、後藤さんが僕的には一番可愛いんだけど。

まぁ、そこをはっきり言う勇気はさすがに僕にいもないので(照れくさいし)、このままにしとくか。

 

「それにしても、後藤さんも音楽やってたんだね、っていうか、僕より先輩か、もうバンドやって活動してるわけだし」

「せ、せん・ぱいっ!?」

 

あっ。

なんか輝きだした。

 

「で、でへへぇ、そんなそれほどでもぉ」

 

でへ、でへへと鼻の下を伸ばしている。

褒められ弱いんだな、後藤さん。

僕は笑ってしまった。

後藤さんは、ほんと可愛いなぁ。

 

「どんな音楽やってるの? っていうか、普段どんな音楽聞くの?」

「あ、そ、それはですねぇ」

 

僕たちは、音楽の話題でそこそこ盛り上がった。

後藤さん、かなり打ち解けてきてくれている。

単純に、そのことがうれしくて。

僕は、少し前のめり気味にギターを語る後藤さんのしぐさに、頬が火照った。

 

 

 

 

新幹線が名古屋を出るころに、僕は、尋ねた。

 

「ところでさ。後藤さん、大阪には何しに行くの? ユニバ?」

「あ、いえ、そういうわけではなく……」

 

言葉を濁した。

 

「じゃ、なに?」

「えっと、その。まず、目的地は正確には、新大阪ではありません」

 

まぁ、それはそうだろう。

新大阪駅周辺なんてただのビル街だ。

 

「あ、あの、こ、ここっ」

 

携帯で地図を出して指さしたあたりは。

尼崎?

なんとなく、イメージはある。

工業地帯っていうか。

昔、アスベスト問題とかあった場所だよな。

芸人さんとか有名な人の出身地で、お城もあったのかな?

でも、降りたことはない。

漠然としたイメージだけだ。

 

「尼崎に、何か用事があるの?」

「あ、いえ、尼崎というのか、地理はよくわからないのですが。こ、ここの駅で、降りたいです」

 

路線地図を拡大する。

後藤さんが指したのは、もう少し大阪寄りの「福」という奇妙な名前の駅だった。

 

「し、知ってますか?」

「いや、行ったことないな」

「そ、そうですか」

 

さ、さっき、親戚のご実家が関西だとおっしゃっていたから、知っているかと思いました。

後藤さんがつぶやく。

 

「あぁ、といっても、魚崎のあたりで降りてほかの場所にはいかないから」

 

僕は答える。

 

「で、ここには何しに行くの?」

「え、えと……」

 

一呼吸おいて、後藤さんが、言った。

 

「クジラを、見に行きます」

 

 

 

 

クジラ?

クジラって言ったのか?

僕は、あんぐりと口を開いた。

 

「クジラって、あの、海の?」

「は、はい」

「えと、高知とかならわかるけど。ホエールウォッチング」

「あ、あの、知りませんか? 今、大阪湾にクジラが迷い込んでいるの」

「あっ」

 

ようやく、繋がった。

そういえば、ちょっとしたニュースになっていたっけ。

ふつうは鯨なんか入ってこない内海の大阪湾に、クジラが現れたって。

全長8メートルだったか?

結構大きいのが。

 

「それを見たいの?」

「はい」

 

後藤さんが、うなづいた。

 

「へぇー」

 

僕は携帯を取り出す。

該当の記事は、すぐに出てきた。

1月9日に、大阪湾に迷い込んでいるところを発見された。

その翌日は、多くの市民が、クジラを見にやってきている。

いわゆる、野次馬という奴だろう。

天王寺からわざわざ自転車で見に来た学生のインタビューも載っていた。

後藤さん、これと同じことがしたいのか?

と、他の記事を目にすると。

クジラはもう、動いていない。

おそらく死亡。

最新の、そんな記事が目に入った。

 

「あ、あのさ、後藤さん」

 

僕はつぶやいた。

 

「もう死んでるみたいだよ。クジラ」

 

なんか、いたたまれない気持ちになった。

わざわざ、東京から新幹線に乗って、それで死んでる。

後藤さん、新しい記事は読んでなかったのか?

でも、彼女は。

 

「はい。し、知っています」

 

平然と、そう答えた。

 

「え?」

「も、もちろん知っています。あの。し、死んだから、見に来たんです」

 

は?

何言ってるんだ?

死んだから、見に来た。

死んだから、見に来たのか?

 

「わ、私、あの。なんか、その。クジラが生きてるうちは、全然興味なくて。ふーんって思ってて。でも、あの、し、死んだってニュース見たら、その、きゅ、急に。み、見たいなって、思ったんです」

 

あ。

僕は、嘆息した。

そして、全身の血液が、せりあがってくるようなゾクゾク感を感じた。

この女、すごい。

すごいわ。

人とかなり違ってる。

死んだから、見に来た。

女の子の発想じゃない。

 

それはまさに、僕が感じていた後藤さんそのものだった。

ほかの人と、少し違う考え方。

違う感性。

教室の隅っこで、一人ぼっちの、他の誰とも違う後藤さん。

僕だけが、認識してあげられる、後藤さん。

僕は、息をのんだ。

そして、言った。

 

「いいね、それ」

 

後藤さんは、返事をしなかった。

社交辞令と思われただろうか?

だけど、本心だった。

僕は、ゾクゾクしていた。

バンドを始めて、可愛い女の子たちと仲良さそうに写真に納まってしまった後藤さん。

この子の本当の姿って、違うくね?

心の奥底で、そう思っていた。

その思いが、報われたような気がした。

 

 

 

 

新大阪で降り、西九条までJRで移動。

そこからは、阪神本線に乗った。

降り立った駅は、小さかった。

福という意味ありげな名前だけど、目の前にあるのは、スーパーとユニクロ。

新しく開発されたような、無機質な光景だ。

雨が降っていた。

新幹線に乗っている間は気が付かなかったが、大阪で降りたあたりから、雲行きは怪しくなっていた。

周囲にコンビニは見当たらない。

 

「まず、傘買おっか」

「はい」

 

後藤さんがうなづいた。

僕たちは、駅前のスーパーでビニール傘を買う。

そして、歩き出した。

 

「ここから、30分ぐらいです」

 

徒歩で30分。

まぁまぁの距離だ。

雨脚が強くないのが幸いだけれど、時刻はもう夕方に差し掛かっていた。

1月の空は、薄暗くなるのが早い。

僕たちは、速足で歩いた。

ありふれた住宅街を歩き、やがて、堤防に出くわす。

 

「これが淀川かな」

 

琵琶湖からつながるその川は、ここで河口へと接続する。

海の匂いは、しなかった。

磯臭さのかけらもない。

僕たちは、堤防を上った。

河口はまだ先のようだ。

どこにでもあるような堤防の道が、すっと伸びていた。

河岸には、マンションや工場が連なっていた。

とてもこの先で、巨大なクジラが死んでいるようには思えないほどに、静かで平和な光景に見えた。

グーグルマップは、河口まで徒歩15分と示していた。

僕たちは、堤防沿いを歩いた。

雨が降っているせいもあるのだろうか、ほとんど誰ともすれ違わない。

みんな、死んでしまったクジラには興味がないのかもしれない。

なんとなく僕たちは無口になった。

てくてくと、堤防を歩く。

やがて、風景はどんどん殺風景になっていった。

国土交通省管理の水門を超えると、周辺に建物はほとんどなくなり、ただ川と、コンクリートで固められた道だけがあった。

平和で静か、という表現を僕は改めたくなった。

なんだか、地獄へと続くような、奇妙な道のように見えた。

後藤さんは、何も言わなかった。

ただ黙って、歩みを進めていく。

と、向こうから、黒いレインコートに身を包んだ4人組がやってきた。

僕はぎょっとした。

まるで地獄の死者のように見えた彼らは、テレビの撮影クルーだった。

ABCと書かれた腕章をはめ、でかい機材を担いでいた。

死んだクジラを、撮ってきたのだろうか?

僕らと彼らは、会釈もせずにすれ違った。

馬鹿な子供たちが雨の中、クジラを見に来た、とでも思われただろうか?

違う、と僕は口の中でつぶやいた。

僕たちは、そうじゃないんだ。

でも、何がそうじゃないのかわからない。

確かに僕たちは、雨の中、わざわざ死んだクジラを見に来た、馬鹿な子供だ。

でも、そうじゃないんだ。

 

「あ」

 

後藤さんが、立ち止まった。

延々と続くと思った、無機質な堤防が、途切れていた。

目前に、湖のような海がひろがっている。

河口、だった。

いつのまにか足元は、コールタールの黒ではなく、岩を敷き詰めたようなものに変わっていた。

大阪の海は、海らしい雰囲気がちっともしなかった。

確かにこんなところ、クジラの暮らす場所ではないだろう。

 

「っ!」

 

声にならない声をあげて、後藤さんが走り出した。

海ぎりぎりの足場まで、彼女は走っていく。

僕は、慌てて追いかけた。

 

 

 

 

目前に広がる海。

もう半ば夜へと足を踏み入れたそこは、薄暗く、どこか異界のような雰囲気があった。

波は穏やかだった。

クジラの異臭はしない。

でも、僕は肌寒さを感じた。

それが、冬の寒さのせいなのか何なのか、わからない。

 

「クジラ、どこにいるんだろう?」

 

沖合に、認識できそうな大きなものはなかった。

ここじゃないのだろうか?

場所を間違ったか?

いや、でも、撮影クルーとすれ違ったんだ。

ここであっているはずなんだ。

 

「あの。藤原君」

「え?」

 

後藤さんが、指さした。

 

「あれじゃないかな?」

 

指さした先、凪いだ海の中に、黒い点のようなものがあった。

一見岩か何かのように見えるそれは、しかし、生物だった。

生物だったもの、と呼ぶべきだろう。

今はもう、物言わぬ躯となり果てた、巨大なクジラだ。

 

「あの」

「うん」

「クジラの大きさ。本当は15メートルだったみたいなんです」

 

後藤さんが言った。

 

「8メートルじゃなかったんだ」

「はい」

 

僕たちは、その場に立ち尽くした。

さぁっと、雨が降っては、また弱くなった。

僕たちは、何かに魅入られるように。

じっとその、巨大な遺体を見つめ続けた。

 

 

 

 

気が付くと、もう周囲は真っ暗になっていた。

 

「そろそろ……帰りましょうか」

 

後藤さんが、つぶやく。

僕は、うなづいた。

 

 

 

 

帰り道は、なぜか少し楽に感じられた。

僕の中で、不思議な達成感があった。

死んだクジラを見に行くということは、少し気味が悪かったけれど、後藤さんと一緒にその行為を成し遂げた。

ずっと気になっていた後藤さんと、一体感があった。

それに、クジラの遺体なんて、海の遠くにあっただけ。

それは、悪臭もなにも放ってはいなかった。

 

 

 

 

市街地に差し掛かったところで、後藤さんが唐突に口を開いた。

雨脚が強くなっていた。

僕たちは、服が濡れないように気を付けて歩いていた。

 

「あ、あの、今日は、ありがとうございます」

「ぜんぜん、平気だよ。あ、そうだ、後藤さん?」

「は、はい」

「後藤さんは、どうだった? クジラ」

「あっ」

 

問いかけるべきでなかったのかもしれない。

 

「えと。見ていて、答えが、出ました」

「答え?」

「は、はい」

 

後藤さんが、僕をじっと見ていた。

彼女は、笑っていた。

強くなった雨脚が、傘の横から入り込んでいて、彼女の頬も髪も濡れていた。

濡れた細い髪が、いくつも、頬に張り付いていた。

目がくぼんでいた。

まるで疲れ果てたように。

あれ、後藤さん、こんな顔だっけ?と僕は思った。

彼女は、不思議な表情で、笑っていた。

笑み?

たぶん、笑みだったのだろう。

でも、泣いているように見えた。

 

「あの、後藤さん?」

「はい」

「えと、答え、って?」

「………………」

 

何かを、つぶやくように、唇が動く。

僕はその瞬間、耳が聞こえなくなるような気がした。

後藤さんは、傘を持っていないほうの手で、お腹のあたりをさすった。

ジャージの、そのあたりが、ほんの少しだけ、膨らんでいるような気がした。

 

〝あかちゃん〟

 

 

 

 

吹っ切れたのだろうか。

新横浜まで帰る新幹線の座席で、後藤さんは、ぽつぽつと。

これまであったことを教えてくれた。

バンドを始めて、少しだけ人気が出たこと。

ファンと名乗る人たちができたこと。

だんだん、前向きになれたこと。

人と、話すことができるようになったこと。

人の目を見ることができるようになったこと。

自分のことを、好きだと言ってくれる人ができたこと。

その中には、男の人もいたこと。

ずっと年上で、後藤さんのことを、可愛い可愛いと言ってくれたこと。

いつの間にか、その人に、夢中になっていたこと。

その人に言われるがままに、身体を許してしまい、妊娠してしまったこと。

おろせよ、と怒鳴られ、殴られたこと。

後で分かったことだが、女遊びをしては捨てていく男だったこと。

いつの間にか、行方をくらませられたこと。

 

「虹夏ちゃんたちには、まだ、言ってないんです。い、言えないん、です」

 

後藤さんは、つぶやいた。

 

「でも、お腹はどんどん大きくなってきて。もう、隠しきれなくて。怖くて、怖くて」

 

後藤さんは、鼻水をたらし、泣いていた。

 

「どうすればいいか、わからなくて、もう、死のっかな、とか、おなかの子、殺しちゃえないかな、とか」

 

言葉が、溶けて流れていく。

 

「そんな時、ネットのニュースで、クジラを見て。死んだっての、見たとき、衝動的に」

 

ひ、ぐしゅ、と鼻が鳴った。

 

「死んだ大きなものを、見に行きたく、なったんです」

 

僕は、頭の中が、真っ白になっていた。

僕が、軽い気持ちで考えていた、鯨。

それは、後藤さんにとって、全く違う意味を持っていた。

彼女は、特殊でも、特別でもなかった。

誰とも異なってなんかいない。

ただの、弱くて、小さい、女の子だ。

 

「あ、あひっ、あり、っ」

 

ぐしゃぐしゃになった顔で、後藤さんが、僕の手を握る。

 

「あり、がとう」

 

泣きながら、かすかに、笑っている。

 

「ふじ、わらくんの、おかげ、です。わ、わたし、答え、でた」

 

僕は、後藤さんの答えを、聞けなかった。

聞くことなんて、できるわけがなかった。

 

 

 

 

新横浜駅で、僕たちは分かれた。

もう、深夜になっていた。

僕は、後藤さんの連絡先を聞かなかった。

とにかく、早く。

帰りたかった。

 

 

 

 

家に帰ると、大慌てで服を脱いだ。

 

「健治、どうしたの」

 

驚く母親を無視して、風呂に入った。

僕は、懸命に体をこすった。

何度も何度も、体をこすった。

死んだクジラを見た時は、何も感じなかったはずの腐乱臭が、今はなぜか、僕の身体にまとわりついていた。

いくら身体を洗っても、それがしみ込んで、取れないのだ。

僕は、熱いシャワーを頭から浴びた。

熱湯が、頬を伝っていく。

僕は泣いた。

自分が消えてしまいそうになるまで、泣き続けた。

 

 

 

 

 

 

 

(完)

 

 

 

 

 

 

 

 

 




いかがでしたでしょうか。

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