日輪円舞 作:こくとー
九龍城。城と呼ばれているが、その実態は大規模なバラックによるスラム街だ。
とんでもない人口密度と、互いに寄り掛かる様にして強度を補う建物が幾つも建てられた事で立体迷路の様な有様。
「南北、それから東西それぞれにメイン通路があって、そこから幾つもの通路の支線に分かれる構造さ。加えて、築年数が古い場所ほど土地が窪んでいく。気付けば土の壁に阻まれた、なんて事にならないように」
「分かりました。任務対象は、見つけた瞬間戦闘開始で良いですかね?」
「ああ。早い者勝ち」
ひらりとクァンシが手を振って、彼らは分かれて九龍城へと足を踏み入れていく。
外界に通じる場所は別として、その内部は薄暗い。空を見上げれば、別の建物の屋根が覆い被さるか、或いはコードの束が折り重なって殆ど見ることが出来ず。仮に見えても、息苦しさを覚える事だろう。
何より、
(見られてる)
身なりの良い十歳の子供が歩き回れば、嫌でも目立つ。
一応、背中にはリュックと共に刀を背負っているが、見た目のせいでいまいち抑止力には成りえない。
ただ誤解が広まってはいるが、九龍城内部はスラムではあるがそれでも一定のルールの様なものが存在してもいた。
一つは、高さ。十四階建て以上の建物は建築できない。これは、近くの空港から離着陸する飛行機の妨げとなってしまうから。
もう一つが、この九龍城を仕切る者達の顔を立てる事。
九龍城内部には、あらゆる設備が揃っている。
商店、美容院、学校、歯医者、肉処理業者、製麺所、起業家、娼館等々。劣悪な環境に加えて、衛生基準、防火基準、労働基準、その他諸々あらゆる基準が存在しない中で本当に多くの職を持つ人々がいた。
ローファーの裏で黴臭い泥水を踏み、エニシは眉根を寄せる。
日中であろうとも夜のように暗い。これはイコール風通しも悪いという事に繋がる。
籠った空気は、様々なニオイが入り混じって鼻腔へと侵攻してくるのだ。ぶっちゃけ、臭う。
加えて、視覚情報も中々に暴力的。
(暗い……それに、クスリも……)
メイン通路から幾つも伸びる路地の一つ。
暗く、先を見通す事に苦労するような通路には切れかけの蛍光灯が取り付けられ、その近くでは虚ろな目で虚空を食む、やせこけた男や、酷く薄着で段ボールを敷いて眠る女性の姿などが見受けられた。
九龍城には、アヘン窟があった。それだけではなく、麻薬の取引なども横行しており、尚且つその手の余所者は暗黙の了解として無視される。
犯罪の温床と見られるからこそ、この周辺の住民も近寄ろうとはしない場所。
だからこそ、悪魔の隠れ蓑として見るならばこれ以上にうってつけの場所は無い。
聞き込みが出来ない事を考えれば、後は勘で進むほかない。最悪、クァンシの方が先に見つける事を考えながらエニシは、一応の拠点を求めて歩き出す。
九龍城は、その構造上通路のみならず、室内も漆黒である場合がある。
日の光はおろか、そもそも窓すらない場合、あっても機能していない場合等々。とにかく室内が暗い。加えて、インフラ設備が整備されておらず上下水道にも難があった。
その一方で、前述のとおり住人たちの結束は強く、そう易々と余所者が腰を据えられるような場所は無い。物理的にも。
その点で言えば、クァンシたちはマシだ。彼女らは
やはりここは短期決戦。日本を離れて数日だが、時間をこれ以上かけるのも宜しくはないという事で、エニシは再度気合いを入れ直していた。
「…………うん?」
とりあえず、一度上に上がろうと階段へと足をかけたエニシは不意に視界の端に何かが蠢いた事を認めて、視線を向けた。
先の通り、九龍城内部は薄暗い、というか暗い。しかし、彼は夜目が利いた。僅かな光源があれば、それほど周囲を見通す事にも苦労しない。
ほとんど反射的に、エニシは腕を振るっていた。放たれるのは、袖口に仕込んだ棒手裏剣。
黒い軌跡が伸びて、壁へと突き立つ。
「……手がかり、見つかりましたね」
棒手裏剣の回収ついでに近づけば、眼球はさらさらと黒い粒子へと崩れながら消えていく。
血が出なかった。悪魔にも血が流れている事から、エニシは先ほどの眼球が悪魔、或いは魔人の能力の延長線のものであると当たりを付けていた。
ザラザラと黒い粒子は風も無いのに一つの流れとなって暗闇の奥へと流れていく。
「…………」
背負っている刀の鞘先を掴んで引っ張り下ろしたエニシは、そのまま鞘紐が巻かれた辺りを左手で掴み、直ぐにでも抜刀できるように鯉口を切った。
誘いこんでいるのか、それとも知能が無いタイプなのか。少なくとも、今この状況では判断が付かない。
油断なく、慢心なく、暗闇へと一歩を踏み出していく。
*
「クァンシ様、動かなくてもいいんですか?」
ポニーテールの女性、ピンツィの言葉にクァンシは顔を上げる。
五人は、九龍城内部へと足を踏み入れてすぐに娼館の一部屋へと転がり込んでいた。
「良いのさ。あのボウヤに任せておけばいい」
「まあ、確かにあのボウヤは強いみたいですけど……」
「強いなんてものじゃないさ。アレに勝てる存在は、人間にも悪魔にも早々居ないよ」
煙草をふかして、クァンシは左目を細める。
一発必中の棒手裏剣、超接近戦での短刀術。加えて、旅の間は一度も抜かなかった背中の刀。彼女の見立てでは体術に関しても相当な力量。
これで、十歳。末恐ろしい、なんて言葉では足りない。
「日本か……」
その昔、クァンシも日本に居た事がある。というか、元々は公安の所属で、岸辺との繋がりもそこから来ている。
彼女が何を思って公安を抜け、中国でフリーのデビルハンターをしているのか。それは、彼女しか分からない。
ただ、デビルハンターの仕事は公私問わずに過酷だ。それでも、後者の方がまだマシであるかもしれない。
なまじ強いからこそ、多くを見送ってきた。
しかし、あの子供を見ていると思うのだ。
同時に、何を馬鹿な、と嗤う自分も居る事を知りながら。
そこで思考を打ち切ったクァンシは、魔人達を愛でる事を再開する。
そもそも、ここ数日で色々と
事が動いたのは、デビルハンター一同が九龍城内部へと侵入を果たして、数時間後の事。
*
高度数千メートル。そこを一機の、飛行機が飛んでいた。
黒鉄の機体、その後方の垂直尾翼の辺りに描かれているのは、“
胴体に設けられたハッチが開き、そこから外気に晒されるのは、小柄な姿。
頭部はフルフェイスのヘルメットに包まれている為に伺えず、身に纏うのは黒い襤褸切れの様な外套。
ハッチから吹き込んでくる風に煽られたのか、それとも自分の意思で前へ出たのか、小柄過ぎるその体は僅かに揺れて前へと飛び出していく。
先の通り、高度数千メートルだ。そんな場所から、パラシュートも無しに自由落下を敢行すればその先に待つのはミンチよりも酷い有様だけ。
にもかかわらず、落下する誰かは頭を下にして真っすぐに地面を目指していた。
はためく外套。その首元が大きく揺れて、白く細く頼りない首筋が露となる。
地面が近づいてくる。正確には、異様に建造物が密集したエリアが迫ってくる。
残り距離が千を切った所で、落下する誰かは徐に風の抵抗の中で右手を己の首筋に向けて伸ばした。
風ではためく外套の下、首にはチョーカーの様なものが確認できる。その右側に何やらリングがあり、そこに右手の指を掛けたのだ。
それは、安全ピンだった。人体に付いている事はまずあり得ない付属品。
引き抜かれ、その頭部が大きく弾け飛ぶ。
首から上で煙が上がり、その煙も吹き荒れる風によって一瞬のうちに霧散。煙の下に現れた存在もまた露となった。
爆弾頭。頭部の大きさが反映された流線型の様な異形頭。
加えて、襤褸切れの様な外套の下にはダイナマイトを幾つも幾つも束ねた前掛けの様なものが現れており、ソレが風に揺れていた。
変身した影響か落下の速度が増した。
宛ら、見た目そのままの空襲爆撃。
弾着と共に、その体は大きく爆発。城塞の一部を吹き飛ばし、連鎖的に凭れかかる様にして支え合っていた一部建物も巻き込んで崩落していった。
第三勢力の介入。それは、中国よりも更に北の大国。
世界の軍事バランスを握ると同時に、国単位での機密を多く抱える。
今回の参入は、中国から流れた武器のルートを抑えるため。そしてあわよくば、その大本の確保。
ソビエト連邦の参戦によって、事態は混沌へと転がり落ちていく。