生々しくはないと思うのですが、嘔吐の描写と、嘔吐の処理の描写があります。
また、作者は体調不良や精神不調の表現としての嘔吐がめちゃくちゃ好きなので今後予告なく出てくるかもしれません。
(でも苦手な人いたらコメントとかで教えてください。注意文つけるようにします)
金曜の夜、日を跨ぐ頃。
眠りに就こうと布団の中に入ったところで、玄関から大きな物音が聞こえた。
ヤシオは(アオキさん帰ってきたんかな)と思いつつ、そのまま目を瞑って眠ろうとしたのだが、一度玄関で物音がした後、それ以降リビングへ向かう足音が一切聞こえなかったのが気になる。
念のためと思って布団から這い出たヤシオは付いてきてくれたイエッサンと共に、寝息を立てている他の子を起こさないようにゆっくりと階段を降りていく。
で、玄関先でぶっ倒れている恩人を見つけた。
「アオキさーん?生きてっかー?」
「…………ぃ……」
「こんなに静かなのに何言ってんのか全然聞こえねえ」
いつものスーツ姿で、靴も履きっぱなし。廊下の壁に顔を向けた体勢で横になって転がっていた。
そばに片膝をついて覗き込む。
すると、多分ヤシオ同様に様子を見にきたのであろうパフュートンがアオキに捕まった上、やわこい腹に顔を埋められているのが見えた。
されるがまま、抵抗のないパフュートンと目が合う。
「せ、先輩……!」
「クウ……」
パフュートンに嫌がっている様子はないが、だからといってこんな硬い廊下にアオキと共に放置しておくわけにもいかない。
軽く肩を叩いてアオキの意識を覚醒させる。
「アオキさん、お疲れ。大丈夫か?」
「…………す………」
「なんて?」
もぞもぞと動いたかと思うと、仰向けになろうとするアオキをヤシオは慌てて止めた。万が一嘔吐でもしたら気管に詰まって洒落にならないことになる。
腕から抜け出したパフュートンの手助けもあって、なんとか横たわっていたアオキの体を起こして廊下に座らせる。
脚を玄関に出したまま座り込んでぼうっとしているその体を、背中に当てた片手で支える。
「アオキさん、靴脱がすぞ」
「………ぃ……」
「ジャケット脱げる?」
「……………す」
「ネクタイ外すから」
「………ぁ……」
「大丈夫?気持ち悪くねえ?」
「……ぅぇす…………ゔ……」
「ダメそう」
少し笑ってから、体を支える役目をパフュートンに任せて立ち上がる。
イエッサンにキッチンからタンブラーとペットボトルの水を持ってくるよう頼んでから、廊下の途中にあるトイレの電気をつけて扉を全開にした。暗い夜に、人工的な光が眩し過ぎるくらいだ。
ほとんど引き摺るみたいに彼をトイレまで連れて行ってやる。
その時、ヤシオはふと微かな懐かしさに胸が痛んだ。
……少なからず幸福であったと知っている。
戻らない日々がやむを得ない罅を残す。
「……ヤシオ?」
その時、比較的はっきりとした声音で名前を呼ばれて、ヤシオの意識が現在に戻る。
「お、アオキさん、気がついた?」
「……すみません……いらん世話を……」
「いーって。大丈夫?」
「…………」
「おっけ、吐けそうなら吐こうな」
便器の前に座り込んで俯く彼の背中をゆっくり摩る。
アオキの指の先は微かに痙攣していて、顔を覗き込むと唇が青白い。
飲んだことはないけれど、そういう姿を見るたびになんで大人は酒を飲むんだろうといつも思う。
「飲み会楽しかった?」
気持ちの悪さを紛らわせるかと思い、アオキへ問いかける。
そうすれば彼は床の一点を見つめたまま呻くように言った。
「びっ、……くりするくらい、叱られました……」
「んはは、なんでだよ」
「……どうであれ、一度、懐に入れた、ものを、いつか……放り出す前提で、向き合うのは、やめろ、と」
「んん?難しい話してんねえ、大人は……」
「いえ……簡単で、単純な、話です。人と人とが、向き合うとは、そういうこと、でしょう……」
「そっか、そうだね」
「そう、そうであってほしい、と、っお゛え………」
「あああ……」
便座に手をついて苦しそうに声を出したアオキの背にヤシオは手を置く。
心配そうにそばに来て見上げるパフュートンへ、大丈夫だとばかりにアオキはその背を撫でた。が、その指先が痙攣していてむしろ不安げな顔をされる。
「アオキさん、水飲める?」
「はい……いえ、……ちょっと、だめ、そうです。かお、あげるだけで、きもちわるくて……」
「しんどいか、ちょっと首元緩めるからな」
「はい……」
「じゃあ、一回吐くか。そっちの方が楽になるよな」
「はい……え?」
「口ん中に指入れるから、噛むなよな」
「え?まっ、」
「無理しないでいいから」
胃が痙攣する感覚を、アオキは久しぶりに感じた。
嘔吐きと共に背中がびくりと跳ねる。目の前が真っ白に飛ぶ一瞬。体の中身はマグマが沸いているように熱いのに体の表層は凍りついたみたいに冷たくて手が指先が震える。
一方通行のはずの道を逆流するぬるま湯みたいな粘ついた液体。ゴボゴボと溺れるみたいな音。嗚咽、生理的な涙、咳き込む。溝みたいな口の中。鼻に付く酸の臭い。汚してしまった、他人の手。
「大丈夫?まだ吐いたほうがいい?」
「も……い ゛、です……」
「そっか、アオキさんこれ水。一回口ん中濯ごう」
ヤシオはアオキの手元に水の入ったタンブラーを近づける。
それを受け取ろうとしたのに、アオキの手は震えていてうまく掴めずに倒してしまう。溢れた水に濡れる床。頭が痛む。
「っ……すみません……」
「気にすんな、大丈夫だって」
「いえ、本当に申し訳ないです……すみません……」
子供に酔っ払いの世話をさせて、ましてこんなものを見せてしまったことが本当に申し訳なくてアオキは繰り返し謝る。
それにヤシオは小さく笑って、いつも通りの声音で言った。
「なんで謝んの。オレ謝って欲しいなんてアンタらに一度も言ったことないだろ」
ふと、その言葉に、違和感。
アオキは思わず顔を上げてヤシオを見つめる。向けられている心配そうな視線に、気のせいか、と流しかける。
……しかし残る違和感。
何にそれを感じたのか、自分でもわからないのだけれど。
「アオキさん、大丈夫か?」
「はい、だいぶ楽になりました」
「ん、ならよかったわ」
「なんだか、人の介抱に慣れてますね……」
ふと呟くようにそんなことを口にすれば、少年は少し表情を緩めて微笑んだ。
それなのに、微かに空気がささくれ立つ様な感覚。
「……ん。母さんが、再婚する前は、こう、酒を飲むことが多い仕事してたから」
「ああ、なるほど……」
「…………」
「そのおかげで今自分は助かってます……久しぶりに吐きました……」
「……口ん中不味いだろ、濯げって」
覚束無い手を助けられながら今度こそ掴んだタンブラーで、口の中に水を含んでから軽く濯いで吐き出した。それを数回繰り返して、そこでようやく喉の渇きに気がつく。
空になったタンブラーは何も言わずとも注がれて、今度は中の水を飲み干した。
まだ脳がぐらつく様な感覚はあるが、かなり正気に戻ってきたと思う。
便器の蓋を閉めて流しながらヤシオは問いかけてきた。
「立てそう?」
「はい、だいぶ落ち着きました」
「風呂は今日諦めろよ。さっさと寝ろ」
「はい……」
「仰向けで寝んな。吐いたら死ぬ」
「はい……」
イエッサンとパフュートンに付き添われながらアオキは自室へ入る。
玄関に放られたままになっていたジャケットやネクタイや鞄を拾って、ヤシオがその後をついて来てくれた。
部屋に入った途端ヤシオに「立つな、座れ」と言われたので素直にベッドに腰掛ける。
ジャケットをハンガーに掛けるヤシオの背中を見ていた。
それを終えた彼はアオキに向かってこんなことを言った。
唐突に、本当に唐突に。
「……アオキさんって、
ヤシオは振り返って、珍しく硬い表情でアオキを見た。
本当のことを言うと彼のその質問の意図はよくわかっていたのだけれど、アオキはまだ酔っているふりをして惚けた。
「……作るメシが全部旨いこととか……お化けが苦手なこととか……あと、結構、字が綺麗ですよね……」
そう言いながら、なんでもない顔で足元にいたパフュートンを抱き上げて膝に乗せる。
こんな誤魔化しなど、エスパータイプのイエッサンにはバレていたのかもしれない。でもきっと彼女はそれを伝えないだろう。
ヤシオはじっと探る様にアオキを見てから、呟くように口にする。
「……アンタって、なんで……」
ヤシオは何かを言いかけて、すぐに「なんでもない」と素っ気無く言った。ちっともなんでもなくない声だったけれど、そう言うしかない時があることくらいわかっている。
「おやすみ」
ヤシオはそう言って部屋を出ようとする。その背中へ向けて伝えた。
「おやすみなさい。それから、何から何までありがとうございました」
「…………ん」
出ていく彼がどんな顔をしていたのかは見えなかった。
イエッサンが戸惑いの滲む表情でアオキを一度見て、それからすぐにヤシオを追って部屋を出ていく。閉じられた部屋の扉。その向こうで段々と足音が遠ざかっていく。
背中から倒れる様にしてベッドに横たわる。自己嫌悪。
去っていく足音を聞きながら、アオキは何も気がついていない顔をして対話から逃げたことが本当に良い選択だったのかを考える。
本当は知っている。聞いている。
何故彼がここに来ることになったのか、決定的な事件のことも。
ただ、自分には彼の傷に触れる覚悟がない。当たり前だ。それは部外者たる自分には重過ぎる。義兄弟だとか師弟だとか言っても、所詮は赤の他人だ。今のまま、上辺だけの心地いい関係を継続することの何が悪いのだろう。
けれど彼が本当はなんでもないわけじゃないことくらいわかっている。
それでも耐えることで現在を継続をし続けようとする気持ちだって理解できる。
黙って何もかもを受容していればやり過ごせる。
一時的な痛みはあれど、いつか周りも諦めてくれる。
それが普通の状態になれる。
……痛みを鈍化させることが、普通?
違う、そんなわけがない。
いつまでも耐えられるわけじゃない。
そんなもの、いつか崩れる。
だから彼が
「……ああ、だめだ、思考が纏まらん」
微かに整髪剤が残った髪を自分の手で乱す。
思考の中で自己矛盾ばかりを繰り返してしまう。
そんなアオキへもう寝ろとばかりにパフュートンが優しく体当たりをしてくる。その度に心地の良い香りがふわっと部屋に広がって、眠気を誘う。
着替えて、寝よう。アルコールが入った頭で正常な判断などできるわけもない。まして、夜。深夜の思考なんて碌なことにならない。
アオキは溜息を吐いてから、着ていたシャツを乱雑に脱いだ。