鳴き声ではなく、確かに泣き声だったと思う。
日が昇ったばかりの早朝、プクリンが泣きながらアオキを叩き起こして助けを求めてきた。
明らかな異常事態にすぐにアオキの目は覚めて、寝巻きのままプクリンを追って自室を出る。
リビングに向かえばイエッサンがサイコパワーを使って空中に水の入ったペットボトルやらグラスに入れた氷やらを浮かばせてから慌てた様子で階段のある廊下へ向かっていくのが見えた。
騒然とした様子にアオキの手持ちたちも動揺しているのか、リビングにやってきたアオキの元に寄ってきては不安そうな鳴き声を上げる。
彼らを宥めてリビングで待機するよう指示してから、プクリンに先導されるがまま2階へ向かった。
2階にあるヤシオの部屋へ入ると部屋の真ん中にある膨らんだ布団が目に入る。
枕元には氷を入れた袋をさらに布で包んでいるイエッサンがいた。アオキはそのそばに黙って膝をついて、様子を見る。
すると思っていた通り、布団の中には赤らんだ顔のまま荒い呼吸を繰り返す弟子の姿があった。
触らずともわかっていたが、額に触れると体温にしては熱い温度が感じられる。
発熱。単純な話、風邪を引いたようだ。
心当たりはある。
季節の変わり目。まして慣れないパルデアの気候だ。
それに慣れない他人の家に来てからそれなりに時間が経ち、ようやく少しずつ慣れてきた頃だったから、ちょっとばかり気が抜けたのかもしれない。
色々なものが重なって体調を崩した。
恐らくそんなところだろう。
「イエッサン、ヤシオの首元に氷嚢を当ててやってください。自分は体温計とか薬を取ってきます」
アオキとてそれなりに一人暮らしをしてきたわけなので、体調を崩した時用の準備はしている。一人暮らしでの体調不良は助けを求める相手がいなくて、場合によっては洒落にならないこともあるからだ。
ヤシオの額から手を離す。掌に移っていた高い体温が、手を離した途端に冷めていく。
ヤシオは唐突に身動ぎして、布団の外に手を出し、それから掠れた声で呟いた。
「プクリン、プクリン……」
「プリ」
「あたまいたぃ……」
「プルリ」
呼ばれたプクリンはすぐにヤシオのそばに来てその手を握り、もう片方の手で頭を優しく撫でる。それから彼のそばに寄り添うように寝転がると、母が子にするように小さく子守唄を歌ってやっていた。
愛しい子が痛みを忘れて眠れますように、と。
その様子を静かに見つめてから、アオキは音を立てないよう静かに部屋を出て階段を降りる。
リビングで待っているようにと言った指示に従いながらも上の様子が気になっていたのだろう、アオキの手持ちたちはリビングから廊下へ繋がる扉の前にぎゅっと集まっていた。彼らへ声をかける。
「ヤシオが風邪を引いてしまったみたいです……待ちなさいオドリドリ、応援は大丈夫ですから。チルタリスも歌は大丈夫です、寝かせておいてあげましょう。ウォーグルも、上に行こうとしているの見えてます。戻りなさい」
不安がる手持ちたちに心配いらないと伝えつつ宥めていれば、その間にパフュートンが体温計を見つけて持ってきてくれる。
それを受け取ってからキッチンへ向かい、引き出しに入れていた風邪薬を手に取る。
しかし飲ませるにはその前に何かを胃に入れさせる必要があることを思い出した。
その時、キッチンにイエッサンがやってきた。
彼女へ、今はヤシオを寝かせておいて、次に起きた時に体温を測り、軽く何かを食べさせてから薬を飲ませたいことを伝える。
そうすれば彼女は微笑んでうなづいた。
あまり寝ている人のそばに何人もいても良くないだろうと思い、「たまに様子を見に行きますが、もしヤシオが起きたら自分を呼んでください」とだけ言って、ヤシオが寝ている間のことは彼の手持ちに任せることにした。
イエッサンは笑って自身の胸を軽く叩く。
それから製氷器に水を入れてから、冷凍庫から再度氷を取り出して2階へ戻って行った。
アオキはリビングに戻って立ち尽くす。妙に静かに感じる朝だ。
ソファに腰掛ければ、その隣にムクホークが腰掛けてアオキの膝に嘴を置いて見上げてくる。
その体を撫でてやれば掌に感じる温もり。
それが今は無性にありがたかった。
時計を見る。普段ならようやく自分が起きてくるくらいの時間だった。
何をしたら良いのかわからず、けれど寝直す理由もなくて、ただ座ったままぼうっとする。
自分の膝の上によっこらしょと乗ってきたカラミンゴに嘴を蹴られたムクホークが怒っているので撫でて仲裁する。
なんとなくテレビをつけたが流れる音がうるさく感じられて、軽く番組表を見たくらいですぐに消した。
いつもなら家を出ている時間を過ぎた頃に、仕事を休むことを職場に連絡する。
トレーナーとしての仕事も営業としての仕事も、急ぎ対応する必要があるものや今日でなくてはならない業務が無くてよかった。
冷蔵庫の中の冷や飯で適当に卵雑炊を作る。
目分量だが味見した限り少なくとも食べられるレベルのものになっている。それを自分の朝飯にして、残りは起きてきたヤシオが食べられそうなら温め直そうと思った。
一度様子を見に行こうと階段に少し上がったところで、降りてこようとするイエッサンと鉢合わせる。
こちらに気がついたイエッサンが笑ってヤシオの部屋に戻っていくから、彼が起きたのだろうと思った。いいタイミングだ。
部屋に入ると、ヤシオは上半身を起き上がらせたまま、膝の上に乗せたプクリンにぎゅうと抱きついて、プクリンの頭に顎を乗せたまま空中をぼーっと眺めていた。
相変わらず赤らんだ顔のままで、早朝に見た時と変わらず熱は下がっていなさそうだ。
アオキは布団のそばに座ると、ヤシオに声をかけた。
「おはようございます」
するとヤシオはアオキの方へ顔を向けてから「……ます」とぼんやりと答えた。ポヤポヤしているな、と思った。
ヤシオへ体温計を差し出すと、彼はそれをじっと見てからアオキの顔を見つめる。
「なに」
「熱を測りましょうか」
「ん、なんで……?」
「熱くないですか?」
「さむい……」
「なので測りましょう」
「そっか……」
弱々しい手が体温計を受け取る。
プクリンとくっつきながらじっと体温計が鳴るのを待つヤシオは、ふとアオキを見てからこてんと首を傾げた。
「……いま、なんじ?」
「えっと、9時半くらいです」
「……ああ。…………え?」
彼は瞬きを数回繰り返してから、ハッと目を覚ましたような顔で慌て出した。しまった、とアオキは思った。
「アンタ!仕事!遅刻!」
「だ、」
「今日!平日!木曜!」
「あの、だいじょ、」
「プリリー!」
慌てて起き上がろうとするヤシオをプクリンが慌てて止める。
その時、体温計が測定を終えたことを知らせる音を鳴らした。その音に気がついて一瞬生まれた沈黙の合間にアオキは口を開く。
「ヤシオ、大丈夫です。今日は休みなんです」
「え?」
「昨日言いませんでしたか?少し前の休出の代休があって、早めに消化しろと人事から言われて仕方なく今日取ったんです」
「きゅーしゅつ……」
「休日出勤です。休みの日に仕事をしたから、別の日に休みを取れと急かされたという話です」
「……聞いてない」
「言ってなかったかもしれません」
アオキは嘘をついた。
大した嘘ではないが、多分墓場まで持っていく。
ぼおっとした顔で見つめて合う2人に焦れてか、プクリンがヤシオの服に手を突っ込んで体温計を取り出す。ヤシオはくすぐったそうに身を捩った。プクリンから体温計を受け取ったアオキは表示を見て呟く。
「8度5分……」
ちゃんと風邪だ。
病院へ連れて行くことも検討するレベルの風邪だ。
「風邪ですね」
「そうなの」
「ソーナンス……」
「え?」
「なんでもないです」
今いらんこと言ったな、と自省した。
それから何もなかったみたいな顔で話を続ける。
「今日は家で安静にしましょう。薬を飲んで寝て、もしそれでも熱が下がらなかったら病院に行かないとですが」
「びょーいん」
「嫌いですか」
「あんまり……」
「最終手段です」
「ん」
「朝飯は食えそうですか。雑炊があるんですが」
「……アンタが作ったんか」
「はい。一応一人暮らし歴は長いので食べれるものにはなってます」
「食べてみてえ」
「持ってきます」
「いや、降りる」
「大丈夫ですか」
「うん、今ちょっと熱いから布団から出たい」
本当は嫌がっても布団の中にいさせて汗をかかせたほうがいいのだろうが、むずがるようにそう言うから少し甘やかすような心地でそれを良しとした。
飯を食べさせて、薬を飲ませたらまた寝かすのだから今だけはいいだろう。
布団から抜け出そうとするヤシオの背中に、イエッサンが厚手のカーディガンを掛ける。
彼は「ありがと」と言ってから、イエッサンを引き寄せてその角にさらりとキスをした。
何故かアオキが動揺して、咄嗟にプクリンを見てしまった。
いいんですかアレ。
さっきまであなたを抱いて寝てた男が他の女にキスしてますが。
そういう気持ちで視線を送ると、目が合ったプクリンはアオキの視線にキョトンとした顔をする。
それからヤシオの手を取ると歩行を手伝うように一緒に階段を降りていった。
アオキは思わずイエッサンを見る。彼女もまた特に気にすることなく、布団を整えている。
……あれ?これ、関係を邪推している自分が悪いのか?
何とも言えない気持ちになりながらアオキも下階へ向かった。
鍋の中の卵雑炊を温め直しながら、雑炊と粥の違いってなんだろうとアオキはぼんやり思った。思っただけで特に調べる気はないので、ずっとなんだろうと思っているだけだった。
プクリンはリビングに行き、アオキの手持ちたちと話をしていた。多分、情報共有だろう。
ソファの上に立つプクリンの話を、周囲にいる手持ちたちが粛々と聞いている様子は演説みたいで少し面白かった。堂々としたものである。
ヤシオはダイニングテーブルに腰掛けたまま、アオキを待っている。
アオキは温め直した雑炊をスープ皿に入れてテーブルに置いた。それから念の為に言っておく。
「無理して食べないでください」
「でもオレ腹減ってるし」
「いえ、不味かったら無理せず捨ててくださいという意味です」
「なんだそりゃ」
ヤシオはちょっと笑って、それから「いただきます」と手を合わせた。匙で掬って、湯気の立つそれを少し冷ますために息を吹きかける。
それから、一口。はふはふと熱そうにしながらゆっくりと咀嚼して、嚥下する。ふ、と息をついてから、つぶやくように言った。
「……すげえうまい」
もしその声音と表情が嘘なら、もう永遠に彼の本心はわからないだろうな、とアオキは思った。
安堵の息をついてから、彼の前の席に腰掛ける。
「よかったです……。最近うまい飯に慣れてしまったので、自分の料理じゃどうにも劣る」
「なんかいいもん食ってんの?」
「……はい、あなたと同じものを食べてます」
「…………」
意味を理解したらしいヤシオが照れた顔をして、それから口を噤んで雑炊を食べ進める。とりあえず食欲があるようでよかった。
「雑炊になんか、……味噌入れてる?」
「はい、実家がそうだったので」
「今度教えて。オレも作りたい」
「……目分量なので教えるほどでもないんですが、まあ、はい」
釈迦に説法という言葉が浮かんだ。それと妙な擽ったさも同時に感じる。
自分が料理を褒めた時にヤシオがキレるほど照れていた時の気持ちがわかるような気がした。
「照れますね」
「……真顔で言うなよ」
「でも、嬉しいです」
「ん、わかるわ。自分が作った飯で美味いって喜んでもらえんの、結構好き」
「料理人に向いてるんじゃないですか」
「どうだろうな、料理人って逆に人が喜んでるところ見え辛いんじゃねえのかな」
「ああ、厨房からだと客は見え辛そうですしね」
「わかんねえけどさ」
今度ハイダイやカエデに聞いてみよう、とアオキは思った。
と、その時、テーブルの上にこれまで姿が見えなかったワッカネズミが現れた。
外へ出ていたのか、2匹は草や土に少し汚れていて、けれどそれを気にすることなく、それぞれが持っていたきのみをヤシオのそばに置いた。
ラムの実とオレンの実だった。
ヤシオはスプーンを置くと、ワッカネズミを見つめた。
「オレにくれんの?」
「アア」
「アア」
「探してきてくれたんだ?」
「ア!」
「ア!」
ヤシオは2匹の頭を撫でてから2匹に視線を合わせる。
「ありがとな、すげえ嬉しい。……でも何も言わないでおまえらだけで外行かないで。オレのために外行ってなんかあったらやだよ」
「ア……」
「ア……」
「うん、木の実は大事に食べるよ。でも今はどこにも行かないで。オレと一緒にいてよ……」
「ア……!」
「ア……!」
ヤシオのどこか甘えるような声音にワッカネズミたちは顔を赤くしながらヤシオのカーディガンのポケットに潜り込んだ。
ポケット越しに2匹を撫でながらヤシオは「ありがと、だいすきだよ」と言う。
一連の流れを見たアオキは思わず口にした。
「……そうやってプクリンやイエッサンも落としたんですね」
「おと……え?なに?手持ちには別にこれくらい言うだろ……」
「自分はそんなには……」
「いや言えよ」
「ごもっともなんですが……」
普段気丈な人が弱った時に甘えてくると世話焼きな者ほどコロッといってしまうとはよく聞くが、それを初めて間近で見た。
感心していたら訝しげな顔をされたので、話題を変える。
「木の実、どうしますか」
「うん、食べるわ。せっかくだし」
「洗って皮を剥きます。……ワッカネズミも、いいですか?」
「アオキさんが食べやすくしてくれるって。盗るわけじゃねえよ」
「ア!」
「ア!」
「大丈夫だって。アオキさんありがと」
「わかりました」
「あ、アンタにも大好きって言ってやろうか?……あはは、なーんてな!」
「大丈夫です、なんらかの処罰を受けそうなので」
「なんで?どういう思考?」
オレンもラムも甘味が少なく基本人間が生で食べるものではない。だが、そう大きくないサイズなことと、ワッカネズミの好意だとわかっていることからヤシオは食べることを選んだ。
アオキは木の実を軽く洗ってから、包丁で皮を剥き、一口サイズよりやや小さめに切り分ける。
「……むしろ、体調不良に気が付かなくてすみません」
木の実を皿に置いて、一本爪楊枝を刺してからヤシオに出す。
そうしながらアオキが言うと、ヤシオはちょっとムッとしてから「なんでアンタが謝んだよ」と言った。
「他人の体調なんかそうそうわかるかよ」
「いえ、でも昨晩キッチンで会った時に少しふらついていたので」
「…………」
黙り込むヤシオを前に、アオキは昨晩のことを思い出していた。
姉との電話を終えて、水を飲もうとキッチンへ行ったら同じことをしようとしていたヤシオと鉢合わせたのだ。
その時から彼の体が妙に揺れていたから、どうかしたかと聞いたのだが、何でもないと言われたのもあってスルーしてしまっていた。
「何でもない」というヤシオの言葉に、直前の姉との昔話を思い出して少し虚をつかれたところはあったが、今思えばすでに体調不良の兆候は出ていたのだろう。見逃していた。
「昨晩、アンタとここで会ってたの夢かと思ってたわ……」
不意にポツリとヤシオが呟く。
「いえ、降りてきてましたよ。喉が渇いた、と」
「そっか……なんかいろいろ夢見てごっちゃになってるっぽい……」
「ああ、体調悪い時は変な夢見やすいですから」
ヤシオは木の実を口にした。咀嚼と嚥下。
それからワッカネズミに「すげえうまいよ」と伝える。ポケットの中から2匹の喜ぶような鳴き声が聞こえた。
雑炊も木の実も少量だったからか、ヤシオはすべて完食する。それから風邪薬を飲んだ。
それから再度、プクリンに手を取られながら2階に上がる。アオキも
「とりあえず今日はゆっくり寝てください。熱いでしょうが布団をしっかり被って汗をかくように」
「ん、わかった」
「昼近くになったらまた様子を見にきます。プクリンたちもあまり気を張りすぎないように」
「ププリ」
「きゅ」
「「アア」」
外に出かけて汚れたワッカネズミを布で拭きながらイエッサンは微笑み、プクリンは当然のようにヤシオに添い寝をしている。
アオキが部屋を出ようとした時、ふと布団にくるまったヤシオが問いかけてきた。
「アオキさん」
「はい」
「アンタ、なんで今日休み取ったの」
「……休日出勤の代休で……」
「そうなんだけど、そうじゃなくて、だって今日木曜じゃん。休み取るなら金曜とかにして連休にしたほうがいいんじゃねえの」
アオキは振り返って、墓場まで持っていくと決めた時から考えていた言葉を口にする。
「……平日ってよく午後にテレビで古い映画を流すんです」
「ああ、あるよな」
「子供の頃に見て、好きだった映画が今日流れるんです。せっかくだと思って、だから休みました」
「……なんてやつ?」
「『ミツハニーのささやき』」
次回、実在の映画『ミツバチのささやき』の内容に触れます。