ヤシオがジムチャレンジを始めて数週間、その道程は順調に進んでいる。
宝探しでもない時期にアカデミー所属ではない年若い少年が次々とジムを撃破していっていることは、ポケモンリーグ内でも噂になっているらしく色々と話を聞くようになった。
「ああ、あの黒いキャップの子ですか〜。初めてのジムチャレンジって言ってましたけど、ポケモン勝負自体は経験があったみたいでしたね〜。負けちゃいました〜。あ、でもその後に本気でバトルして欲しいって言われたので戦りましたよ〜。結果?うふふ〜、ちょっとやりすぎちゃいましたね〜」
「む、あのエキセントリックな少年……エキセントリック少年ボウイのことか。よく覚えているぞ。まだ荒削りなところはあるが、見どころのある試合運びをする思春期だった。勝負の後に家にいる草ポケモンのために植物を育てたいと言っていたので相談に乗ったが、それがどうかしたか?」
「覚えてるよー!あのプクリンの子だろー?生放送って知って大慌てで帽子のツバを下げて照れてる姿……!シュッとしてるクールそうな男の子のボールから出てくる可愛い系ポケモンたち……!ギャップ萌えで地味にバズってたみたいでさあ、同接がシビルドン登りだったよ〜!」
「ウオ、あの親切な少年のことならよく覚えてるとも!オイラが段ボールをひっくり返して転がしちまった野菜を一緒に拾ってくれたんだい!ポケモン勝負もこっちの勢いに呑まれることなく捌いていたなあ。しかし、なにか急用でもあったのか、勝負が終わったら慌てて帰ってしまったんだい……」
ちょうど今日、ヤシオが順調に4つ目のバッジを手にしたということはリーグで勤務しているアオキの耳にも入ってきた。
その騒ぎは、話題の少年がアオキの親戚の子だと知るわけもない他の四天王も「宝探しでもない時期の挑戦者は珍しいですね」「ポピーもきになりますの!」「順調やしひょっとしたらリーグにも来るんとちゃう?」と話題に挙げるほどだった。
「アオキのジムの方にはまだ来てないのですか?」
「そうですね。まだジムでは会ってないです」
「おじちゃんもたのしみですか?」
「……仕事ですから。来たら相手するだけです」
「なはは、アオキさんらしい反応やね」
どうせ来る。ジムにも、リーグにも。
あの子が自分自身のペースで駒を進めるのを、こちらはただ待っていればいい。
それはそれとして、ヤシオが4つ目のバッジを手にしたと聞いたアオキはその日の帰りに少し寄り道をして『ムクロジ』でケーキを買って帰った。
普段はそんなに師匠らしいことをしているわけでもないのだ。この地方のジムを半分も攻略したのだから、たまには存分に褒めてやるべきだろう。
日も落ちた頃、アオキはチャンプルタウンの自宅へ戻り、いつものように鍵を開けて玄関に入る。
「ただいま帰りました」
そう声をかけるが返事がない。
それだけではなく、もう日も暮れたのにリビングの方に明かりがついている様子もない。……留守だろうか?
キッチンの様子を見に行こうと、一歩足を踏み出した瞬間、2階に繋がる階段から慌てた様子で今日留守番をしていたウォーグルが降りて来た。降りて来たという、最早転がり落ちて来たと言ってもいいくらいの慌てようだった。
「ウォーグル?どうしたんですか」
「キュイ、キューイ!キューイ!」
悲痛に聞こえるほどの鳴き声を上げた手持ちの姿に、アオキも異常事態があったらしいことを察して、彼を肩に掴まらせてから階段を上がる。
階段を上がってすぐヤシオの部屋へお邪魔する。
そこには今日留守番をしていたアオキの手持ちたちがすでに集まっていて、押し入れの前にはヤシオの手持ちたちがいた。
手持ちがここにいるということは家には帰っているはずだろうに、ヤシオが見つからない。
アオキがやって来たことに気がつくと、ポケモンたちはみな思い思いに鳴き声を上げてアオキに何かを訴える。そして最終的にどうしたらいいのかわからないという顔で閉じた押し入れを見つめた。
アオキはケーキの箱を手に持ったまま部屋の中に入ると、プクリンのそばに寄った。
何があったのかを目で問いかけるが、こちらを見上げるプクリンはしかし何が何やらわかっていないような困った顔をしているばかりだ。
ラッキーに至っては困惑してしまってイエッサンに支えられなければ立っていられなそうなくらい動揺しきってしまっている。
何があったのかはわからないが、ポケモンたちはみんな押し入れを見つめている。
どうやら彼は押し入れの中にいるようだ。
アオキは近くの机にケーキ箱を置くと、ぴたりと閉じた押し入れの引き戸に向かって声をかけた。
「……ヤシオ、ただいま帰りました」
「…………」
「…………」
「………………おかえり」
何があったかを急に聞いたら答えてくれないかもしれないが、ただいまと言ったらおかえりと返してくれるだろうなと思ったら本当に応えてくれた。根が素直……と改めて思う。
「今日もお疲れ様でした。リーグのほうでもあなたの噂を聞きますよ。優秀なトレーナーが現れた、と」
「……知るかそんなこと」
お、珍しく反抗期モードだ。
出会った当初ならともかく、最近では滅多に見せない反抗期モードにアオキは少し驚く。
「4つ目のバッジを手に入れたそうですね。おめでとうございます」
「なんもめでたくない。オレもうトレーナーやめる。バトルしない」
「……なにがあったんですか」
「………………」
ヤシオは答えない。鼻を啜る音が、引き戸の向こうから聞こえる。泣いているようだ。
ジム戦には勝ったらしいし、別に辛勝だったというわけでもなかったそうだから、ポケモン勝負の内容や結果で辞めたくなったわけではないだろう。
「ヤシオ」
「もういい、ほっといて。弟子なら他に見つけてよ」
「話を聞かせてください。困っていることがあるなら相談に乗りますから」
「…………うるさい、もう遅いんだよ……」
もうほとんど泣きじゃくっているような声音に、ポケモンたちが動揺する。特にヤシオの手持ちが酷く戸惑い、不安げにしているようだ。
プクリンもイエッサンもラッキーも……と、その時、アオキはふとあることに気がついた。
ワッカネズミがいない。
「……ワッカネズミに何かあったんですか」
アオキがそう問い掛ければ、押し入れの中の泣き声が大きくなる。
……まさか……と思っていると、押し入れの戸が細く開いて、そこからワッカネズミの2匹がそっと顔を出した。
2匹は特に怪我をしている様子もなく、元気そうだ。アオキも思わずホッとする。
ワッカネズミは顔を見せるとすぐに引っ込んで中に戻ってしまった。おそらく泣いているヤシオのそばについてやっているのだろう。
「……ヤシオ」
「…………」
「それは師匠の自分にも話せないことですか」
「…………」
「……自分はあなたにとってそんなに頼りないですか」
狡い言い方をしている自覚はあった。
けれど、この鍵さえ付いていないこの押し入れの戸はヤシオ本人に開けてもらわなくてはならない。アオキがこちらから開けたってそんなのは無意味なのだ。
だから、ただ静かに待つ。
耳鳴りさえ聞こえるほどの沈黙に耐える。
暗い夜がさらに暗くなり、灯りをつけていない部屋では視界がぼんやりとしている。ただ、待った。
「…………」
「…………」
「……アオキさん」
「はい」
「……オレ、ワッカネズミにひどいことしちゃった」
「なにが、あったんですか」
そう問えば、押し入れの扉が開く。
ゆっくりと、躊躇いながらも開かれた押し入れの上段にはやはり泣きじゃくるヤシオがいて、そして彼の頭の上にはいつものようにワッカネズミたちが……。
1、2、3。
ヤシオの頭の上にいる小さくて白い影を数える。
……1、2、3。
比較的大きいのが2匹と、小さいのが1匹。
増えている。1匹。確実に増えている。
アオキが気がついたことに気がついたヤシオは、ひぐひぐと喉を鳴らして泣きながら言った。
「……オレ、今日の朝も、こいつら、……っ、撫でたりして、世話してたんだよ……ぐすっ……なのに、お腹に赤ちゃんいるの全然気づかなくてぇ……バトルに出しちゃった……どうしよう……攻撃も受けさせちゃったあ……」
そう言い切った瞬間にもうダムが決壊したようにビャーっと泣き出したヤシオに、慌て出したのは頭の上のワッカネズミ……ともい、イッカネズミだ。
頭の上で小さいネズミを抱っこしながらてんやわんや。ヤシオの髪を毛繕いして宥めようとしたり、肩に降りて頬を撫でたりしている。
「ああ……ヤシオ、あの……それは、その……」
「勝負終わって気がついたら赤ちゃん増えてた!手持ちの子が妊婦さんになってたのも気付かないとかトレーナー失格じゃん!やめる!オレもうトレーナーやめる!トレーナーの資格ない!もうバトルしない!トレーナーカードも捨てる!」
「ヤシオ、落ち着いて……」
「エーーン!」
「あああ…………」
泣き喚く子供を宥めた経験などあるはずもないアオキもまた、ネズミたちと共にてんやわんやした。
アオキのてんやわんやがポケモンたちにも伝わって、更にてんやわんや。もうみんなパニック状態だった。
アオキはとりあえずヤシオの背中に手を当てて「大丈夫です。大丈夫ですから落ち着いて……」と、ひゃっくりをするたびに震える背中を何度も摩ってやった。
ヤシオは泣いて泣いて散々泣いて、ようやく落ち着いたのか、泣き止んだヤシオは目を腫らしたまま、ひっくひっくと喉を鳴らす。アオキは変わらず背中を撫でながら、ゆっくりと声をかける。
「……大丈夫です、ヤシオ。驚くかもしれませんが、落ち着いて聞いてください」
「………ん」
「ワッカネズミのことなんですが、あれは進化です」
「…………は?」
「イッカネズミに進化したんです」
「は?んなわけないだろアンタはお母さんが子供産んだらそれを進化っていうのかよ適当なこと言うな生物学って知ってるか」
「気持ちはよくわかるんですが、そういう生態なんです……」
「……え?……あ、え、コイルがレアコイルになるみたいなってこと?」
「そう……かもしれないですし、そうじゃないかもしれんのです」
「……なんて?」
「あの小さい子はもしかしたらどこかでパートナーと逸れてしまった小柄なワッカネズミなのかもしれませんし、成長によって体が分裂するポケモンなのかもしれませんし、本当に子供を授かったのかもしれません。よくわからんのですが、ワッカネズミ……というか、イッカネズミはそういうポケモンなんです」
「……え?」
「ただ、少なくとも自分はあなたが手持ちの子の変化に気が付かないようなトレーナーだとは思いません。ポケモンですし、少なくとも胎生動物ではないんじゃないかと……」
「……たいせい?」
「卵ではなく、お母さんのお腹の中から生まれることです」
「でも、卵も見てない……」
「でしょう?だから、生まれたのではなく、進化なんです」
ヤシオは目元を真っ赤にしたまま、呆気に取られたような顔でアオキを見つめる。
そのタイミングで部屋の電気がついた。視線を向けると、ノココッチが体を起き上がらせて壁のスイッチを押してくれたのが見えた。
急に明るくなった視界に目を細める。
ふとヤシオの頭の上にいたイッカネズミが降りて来て、押し入れの上段にぺたんと座り込んでいる彼の腿の上に乗っかった。
3匹をヤシオはじっと見る。
3匹もまたヤシオを見つめる。
見つめ合って、それから大きい2匹が大きな口を開いた。
「ア!」
「ア!」
それに続くように小さな1匹も口を開く。
「ァ!」
それを見て、ヤシオは呟いた。
「……お前らって、家族なの?」
「アー?」
「アー?」
「ァー?」
3匹とも首を傾げる。
ヤシオもまた首を傾げて、問いを続ける。
「……でも、一緒にいたいんだ?」
「ア!」
「ア!」
「ァ!」
「……オレとも一緒にいてくれんの?」
「アー!」
「アー!」
「ァー!」
3匹はぴょんぴょんと跳ねて、それからヤシオの体にすりすりと擦り付いた。
ヤシオは少しびっくりしたような顔をして、それからふにゃりと相好を崩す。それから、小さな1匹へ掌を差し出した。小さい1匹はその掌へ飛び乗る。
「ん、よろしくな、ちび」
「ァ!」
「んへへ……」
1人と1匹の交流に、おそらく親役だろう2匹が感動の顔をしている。お互いを抱き締め合いながら、ぴょこぴょこ跳ねていた。
部屋にいるポケモンたちもヤシオが笑みを見せたことで安心したらしい。空気が和らぐのを感じた。
その瞬間、ぎゅるるるると腹の音が鳴る。
ヤシオの腹だった。
「……ケーキあるんですが、食べますか」
「……ん」
ヤシオが若干照れたような顔で押し入れから出てくる。
アオキはケーキの箱を持って、部屋の床に座り込む。つられてヤシオも座る。アオキが箱を開けたのを見て、ヤシオはギョッとした。
「え」
「ケーキってのは手掴みで食うのが一番うまいんですよ」
「い、いいのかよ……」
「いいんです。あとケーキなんですが、全部うまいので適当に多めに買ってきました」
「多いな……」
当然のように10種類ほどのケーキが詰まっている箱を覗き込んでヤシオは呟いた。「好きなものをどうぞ」とアオキが言えば、ヤシオはじっと眺めてから苺のショートケーキを手に取る。
アオキも箱の中へ手を入れて、洒落た名前は忘れたが色々なフルーツが乗っかったケーキを手に取る。フィルムを剥がして、二等辺三角形の一番鋭角なほうから、大口を開けて食べる。
そうすれば、ヤシオも恐る恐る慣れない手でフィルムを剥がして食べ始めた。
「うま」
「でしょう?」
「でも行儀悪いな」
「行儀悪く食う日も必要なんですよ」
「そうなの?」
「そうです」
「そっか」
床に座り込んで、夕食も食べずにケーキを手掴みで食べる……なんて、青少年に悪いことを教えている。
しかし深夜のラーメンにしろ、配達ピザへの追いチーズにしろ、小さな罪悪感は飯を旨くするちょっとしたスパイスなのだ。
散々泣いたからか、腹が減っているらしいヤシオは2つ目のケーキへ手を出す。……食えているのなら大丈夫だ、とアオキはその様子に安堵する。
「しかし、イッカネズミが3匹家族というのも珍しいですね」
「そうなんだ?」
「はい、一般的には4匹家族なんですが……」
と言いつつ、アオキはヤシオの黒髪に糸くずがついているのが見えて、彼の髪へ手を伸ばす。
そうして特に他意無く彼の髪に触れた瞬間、ヤシオとアオキの間にイッカネズミが割り込むように入って来た。
「アア!!!」
「アア!!!」
イッカネズミの大きい2匹は、小さい1匹とさらにその後ろにいるヤシオを守るようにアオキの前に立つと、口を大きく開けて威嚇してきた。
…………アオキは思うところがあって、ヤシオから手を引く。
すると2匹は威嚇をやめた。
小さい1匹に手を伸ばす。
大口を開けて威嚇された。
手を引く。
2匹は威嚇をやめた。
もう一度ヤシオの髪を撫でる。
大口を開けて威嚇された。
「……アオキさん、さっきからなにしてんの?」
「……なるほど……4匹家族でしたか……」
「え?」
大きい2匹と、小さい1匹の3匹家族だと思っていたが、それは違う。
大きい2匹と、小さい1匹と、ヤシオの4匹家族なのだ。
このネズミたちは当たり前のように自分たちのイッカにヤシオをカウントしている。しかも、自分たちの守るべき子供としてのカウントだ。
ヤシオをイッカにした時点で、彼らの自認としてはもうイッカネズミに進化していたのかもしれない。
……え、怖。
アオキも流石に思った。