精神不調に伴う嘔吐やパニックの表現があります。ご注意ください。
描写ゆえに食事前・食事中の閲覧は控えた方が良いかもしれません……。
ヤシオがマイペースにジムチャレンジを進めて、6つ目のバッジを手に入れて少しした頃。
アオキの他地方への出張が決まった。
出張といっても、1泊2日の短いものだ。
実際の拘束時間は数時間程度で、あとはほぼ自由時間のようなもの。
たまにある、ものすごく割りがいい出張だ。
「手持ちも全員連れて行くので、その間は家で好きに過ごしていてください」
「おう、わかった。気をつけて行ってこいよ」
明日の朝に出て、明後日の夕方にはパルデアに戻る。
一晩不在にするだけのことだ。ヤシオは生活力もあるし、彼の手持ちもいるから特に問題はないだろう。
外食しちまうか!とプクリンの手を取ってリビングでぐるぐる回っているヤシオを見ながら、アオキは小さく息をついた。
そして翌朝、出張の割に少ない荷物で出かけるアオキは、ヤシオとその手持ちたちに見送られて家を出た。
「では、いってきます」
「ん、いってらー」
そして玄関扉がバタンと閉じた瞬間、ヤシオは両腕を上げて手持ちたちとワー!とリビングに走って、カーペットにスライディングした。手持ちの面々も真似してカーペットに滑り込む。
アオキが不在の間は家事もジムチャレンジも休んで、のんびり過ごすつもりだ。
「飯は全部出前とか外食で済ましちまおうな!」
「プリ!プルリ!」
「夜更かしもするし、朝寝坊もする!」
「んっきゅ!んっきゅ!」
「暇な時に水回りの掃除しようとか思ってたけど……」
「ア……」
「ア……」
「ァ……」
「ま!いっか!」
「ハッピー!」
リビングのローテーブルに小型ラジオを置いてBGM程度の音量で適当なチャンネルを流す。
カーペットでイエッサンとゴロゴロしたり、ラジオの曲に合わせてプクリンと歌ったり、ハピナスと踊ったり、イッカネズミと遊んだりした。
それからカーペットに俯せに寝転んで、組んだ腕に顎を乗せながら、レースカーテン、その先のガラス窓越しに庭を眺める。
よく晴れた午前の光が深緑に降り注いでいて綺麗だ。
眺めながら膝を曲げて足先をパタパタさせる。パタパタパタパタパタパタ…………しかし、のんびりするのにも飽きてきた。
暇だし何かしたいなと思ったが、思いつくのは料理とか家事とかそんなものばかり。
「何もしなくていいって暇だな……」
「ァ?」
「…………オレってもしかして趣味ねえのかもな」
「ァー」
「ちび、今日何食べてえ?」
「ァ!ァァ!」
「ピーナッツバターグレープゼリーヨーグルトかあ……好きだなあ……」
オレ、ヨーグルトにはマーマレード派なんだよ……。
呟いたヤシオにイッカネズミの小さな1匹は抗議するように彼の髪を引っ張った。
「いった!なんだよ!」
「ァァァー!」
「否定してない!好みの話じゃん!」
「ァァ!!」
「言い方あ!!」
「ァァッ!!」
「ねえ!2匹!ちびがヤなこと言うんだけど!」
「ァァァ!」
「ア!」
「ァ……」
「ア!!」
「なんでオレまで怒られんの!?」
「ァーァ!」
「なんか一言多くないこいつ!?」
「ア!」
「ア!」
最終的に喧嘩両成敗でヤシオもちびもイエッサンに怒られた。
「……お久しぶりです」
「はい、お久しぶりです、アオキさん」
その人に会うのは数年ぶりで、以前会った時が初対面だった。
以前会った時にまともに会話したのは挨拶の数分程度で、碌に顔も覚えていないはずだったのに、待ち合わせた喫茶店に入り、店内を見渡してすぐにその人だとわかった。
漠然とした雰囲気というものだろうか、それが見慣れた彼によく似ていたからだ。
「最後に会ったのは、姉の結婚式の時でしょうか……」
「そうですね、その節はありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。今も姉が世話になっています」
姉の義母であり、ヤシオの実母である女性はテーブルの向かい側で微笑んだ。
彼女のその微笑みが見慣れた弟子のものに似ていて、アオキはそこに水より濃い血を見る。
ガラル地方はシュートシティの喫茶店だった。
アオキは出張先であるガラルに来たついでに、ヤシオの母親と話をすることを決めた。人様の子を預かっているために定期的に連絡は入れていたが── そうしないと姉が煩いので──、この出張のタイミングであえて時間を作って会う時間を作った。
アオキは面倒ごとは嫌いだが、しかし営業として働いている経験から対面で会話をすることの利点もまたよく理解していたからだ。
出張で何度かシュートシティに訪れたことのあるアオキは敢えてこの喫茶店を選んだ。
シュートシティはヤシオの現在の実家がある街であるし、レトロな雰囲気の漂うこの喫茶店はそう客数が多くない上にテーブル間の距離が広いことを以前仕事で利用した際に知っていた。
つまるところ、プライベートな話をするにはうってつけの場所だ。
向かい合い、互いに珈琲を注文する。
他人でありながら他人ではない人間と会話しなくてはならない時の、微かにストレスのかかる緊張感。何から話すべきかと考えるよりも先に、彼女はアオキに向かって頭を下げた。
「改めてになりますが、この度は親の私が至らぬばかりに、無関係のアオキさんにまでご迷惑をおかけしてしまい申し訳ありません」
下げられた頭と、喉を締め付けたような声音。
……今となってはヤシオがいる生活が普通になりつつあるが、そういえばそうだ。
アオキはほぼ無関係の立場でこの件に巻き込まれていたのだった。
それを思い出したアオキはヤシオによく似た黒髪を見つめながら口を開く。
「いえ、お気になさらないでください……というより、正直なところ自分に謝られても困ります……」
「…………それは……はい、そう、ですよね」
「責めているわけではないんです。……正直言ってヤシオ、くんが来てから生活の質が上がっていて自分としてはむしろ得をしているような立場なので、謝られても実感が無いというか……」
「……はい?」
「……えーっと、彼が作る飯はなんでも旨いです」
キョトンとした顔がヤシオによく似ているな、と思った。
ぽかんと小さく開いた口に気がつきながら、アオキは続けた。
「預かっているとはいえ、自分は平日仕事で家を空けています。その間、彼は家事をしたり自分の手持ちの世話をしてくれたりと……本当に助かってます」
そこまで言ってからアオキは人の息子をハウスキーパーのように扱き使っている事実を伝えてしまったことに気がついた。普通にダメな発言では?
やっちまったな……と思いながら、ヤシオの母親の方を見れば、彼女はアオキの言葉が予想外だったのか目を丸くしたままこちらを見つめていた。それから彼女は苦笑する。
「そう……そうですか。あの子、どこでも変わらないのね……」
「ガラルのほうでもそうでしたか」
「ええ、特に再婚する前は私が仕事で家を空けることが多かったので、よく息子が家事をしてくれていました」
彼女は懐かしむように目尻を下げた。それからアオキに微笑みかける。
「……パルデアであの子がどんな様子か、教えていただけませんか?」
「自分で良ければ、はい」
アオキはぽつぽつと日々の中での彼の姿を彼女に伝えた。
出会った当初の印象から、一緒に暮らし始めた頃の話と、現在の様子。パルデアで新しく仲間にしたポケモンの話や、ジムチャレンジをしていること、休日に一緒に出かけたこと、季節の変わり目に風邪を引いたこと、彼が作ってくれて旨かった料理の話……。
不思議と話すことは絶えることなく浮かんでくる。
彼女が嬉しそうに聞いてくれることもあって、アオキは自分事ながら珍しくよく喋っていると思った。
アオキが流石に話し過ぎただろうかと思い始めた頃、目の前の彼女は嬉しそうに笑いながら口を開いた。
「ヤシオは本当にあなたに懐いているんですね」
「……そうであればいいと思っています。パルデアで彼は自分以外に頼る当てがないでしょうから……」
そう言ったアオキに彼女は微かに信頼の表情を見せた上で、目を細めて言った。
「……失礼な発言かもしれませんが、本音を言うととても驚いて……というより、不思議に感じています。どうして新しい家族はダメだったのにあなたには心を開いたのか、と……」
戸惑いが滲む瞳で彼女は正直にそう口にした。
……ヤシオが新しい家族というものに慣れることができなかった、という話をアオキは彼を預かる前から話には聞いていた。
そして新しい環境へのストレスを感じたまま長期間を過ごした結果、家族団欒である夕食の場でパニックを起こしてしまった、と。
具体的に何があったのか、詳しいことはわからない。あえて知ろうともしなかったのも事実だ。
ただ、何故新しい家族とは上手くいかなかったのに、アオキとうまくやれたのかについてならとっくに見当がついていた。
「……自分はヤシオが来る前はここまで長期間子供と交流したことはありませんでした。つまるところ、人間の子供についてはよくわからんのです」
そう唐突に言ったアオキを彼女は静かに、言葉を待つように見つめた。無言ながら話の続きを促されてアオキは口を開く。
「ポケモントレーナーとしての経験をもとに話すんですが、一般的に、人の手で卵から孵されたポケモンはその後野生の群れで生きていくことができないんです」
「……それは聞いたことがあります」
「自分はヤシオの状況はそれと似たものだと考えています。彼は貴女の手で育てられました。つまりは、親子や母子というものはよく理解しています。それが彼にとっての当たり前の家族の形ですから」
「そう、かもしれません……」
「その代わりに世間一般的に想像される家族というものを知らんのだと思います。両親がいて、兄弟がいて、場合によっては祖父母などといった近親者が複数名存在する、そういう形の家族というコミュニティを理解していないんでしょう」
アオキがそう言えば、彼女は少なからず訝しげな顔をした。
「……一般的な家族というものがわからないから、父親や兄とどう接して良いのかわからなかった、ということでしょうか?」
「逆に言えば、自分はヤシオにとって家族ではない他人だから、上手くやれたのでしょう。ごく端的に言えばそういう理由と思います」
「なんとなく、納得はできますが……でも、それで、あんなになるものでしょうか……」
「……あんなに、とは?」
彼女の言葉に引っかかるものがありアオキがそう問いかける。
すると目の前の彼女は真剣な顔つきで、しかし眉間に皺を寄せてどこか息苦しそうに口を開いた。
「……アオキさんにはヤシオを預かっていただく前に、少しお話をしたと思います。その、あの子が夕食中にパニックを起こしてしまった、という話を……」
「はい、」
「あの時にみんなでどんな話をしていたかというのは覚えていないんです。ただ、家族でテーブルを囲んで話をしていた時に夫の冗談にみんなが笑って、笑ってた時に、同じように笑っていたはずのヤシオが急に、」
静まり返った食卓で、みんながオレを見ていた。
視線、視線、視線、視線。
さっきまでのみんなの笑い声が鼓膜に残っている。オレはそれに合わせて笑いながら、笑った顔を必死に作りながら、母さんが作ってくれたグラタンに今まで食べていたものをすべてぶち撒けていた。
綺麗で温かくて美味しそうな香りがしていた料理に、ぐちゃぐちゃでめちゃくちゃで嫌な臭いのするトッピングが追加されて気持ち悪かった。
「あはっ、あは、あ、は、あぉ、ぉおえ゛ぇ……」
喉を逆流する固体の感覚。まだ胃の中で分解される前のそれらがテーブルの上にぐちゃぐちゃと戻る。止まらない吐き気を必死に抑えようとしながらけれどそれがもう堪えられないところまで来ていることを知っていた。
鼻につく酸の臭い。喉を通るぬるま湯みたいな温度。喉が締まる。息が上手くできない。ドロドロとした感触。口を押さえようとした指の隙間から全部落ちる。生温い。汚い。気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
みんなが見ているのがわかった。見ている。視線が、視線が、さっきまでの笑い声が全部消えて、オレのせいで、みんな楽しそうだったのに、全部がめちゃくちゃになってんだって、オレがめちゃくちゃにしたんだって気がついた。
戻さないといけない。時間を、なんでもなかったから、大丈夫だから、続けて、いいから、オレのことは放っておいて。
もど、もどさないと、まきもどして。なにもなかったことにしないと、なにも、まきもどす、戻す、もどす、巻き戻して、自分が出したもの、全部口の中に、戻して、入れて、戻して、直して、何も無かったみたいにする。だから、大丈夫だから、全部食べるから、母さんの料理、おいしいから「ヤシオくん!」
お姉さんがオレの手を掴んで、止めさせる、けど、やめて、汚しちゃうから、オレが、汚いから、落ち着いてっていわれる、けど、大丈夫、オレは落ち着いてる、なにも大丈夫なのに。ちゃんとやれるから、ちゃんとかぞくに、うまく、できるはずだから。そうじゃないと、かあさんがかわいそうだ。
「っ、あ、ヴぅゥぐギィぃぃ……」
逆流する感覚。ぼたぼたと落ちる汗か涙かわからないもの。体の中身を全部ミキサーにかけたみたいな気持ち悪さ。体が強張る。石になったみたいに、耐える。呻く、唸るみたいな呻き声と全力で走った後みたいな発汗。大丈夫だよ、大丈夫だからね、と抱きしめて、オレを必死に落ち着かせようとしてくれたお姉さん。もしも、まだ、いつか、オレに姉さんがいたら、この人みたいな人がいいって思った。ガクガクと四肢が引き攣る。呼吸がうまくできない。視界が壊れた液晶みたいに黄色とか緑とかピンクとかビリビリと目を壊す。崩れる、決壊していく、から、オレはオレを抱きしめてくれたこの人の体にさえ嘔吐してしまう。気色の悪い音と共に酸の臭いが、たぶん、きっと、りそうてきだった、家族のけしきをよごした。大丈夫、大丈夫ってオレの背中を撫でる人が、目の前にいるのに、オレはここじゃないどこかに必死に祈るみたいに助けを求めていた。やだ、やだ、こわい、たすけて、プクリン、プクリン……
「プープクプ?」
ふと気がつくとオレはソファに座っていた。
隣にはプクリンがいて、いつも通りの笑顔でオレを見ている。それだけでひどく安心した。プクリンがオレに手を伸ばすから、いつもみたいにぎゅっとプクリンを抱き締めてドクドクと跳ねる心臓の音が落ち着くのを待った。
「プクプ?」
「ん、大丈夫」
それからオレは立ち上がって、なんとなくダイニングキッチンに向かう。
するとそこにはアオキさんがいた。テーブルのいつもの椅子に腰掛けて、黙って座っている。アオキさんはオレを見るといつも通りの無表情で口を開いた。
「…………腹が、減りました」
オレはうなづいて、コンロの上にあった鍋に火をかける。蓋を開けなくてもそこにカレーがあるとわかっていたし、炊飯器の中には米がある。戸棚を開いて、カレー皿を用意して、米とカレーをよそって、アオキさんの前に出す。
「いただきます」
「おう」
その人が無心でカレーを食べているのを、オレは反対側の椅子に座ってじっと眺めていた。
自分が作った料理を誰かが食べてくれるのが好きだ。
料理を始めたきっかけは仕事で忙しい母さんの負担を減らしたかったから。オレが料理を作ってみせれば母さんはすごく喜んでくれた。それが嬉しくて、なにより料理をするのが楽しくなって続けていたけれど、やがてそれが母さんを追い詰めていっていたことにも気がついていた。
「いつもごめんね、ヤシオ。無理して家事なんてしなくていいんだよ」
「……ヤシオに家のことばかりさせちゃってごめんね」
「お母さんなのに、料理も作ってやれなくてごめんね」
なんで謝るの。オレ謝って欲しいなんて言ったことないよ。
もっと上手になったら喜んでくれるかなって、その時は思っていたけど、今ならわかる。
多分、母さんには母さんの中で理想の母親像があるんだって。きっとその理想の母親は子供のために仕事をして、料理もして、家事までしている人なんだろう。だからオレが家のこととか料理とかしてるのは、母さんにとっては本当はしんどかったんだろうなあ。上手くやれない自分を責められてるみたいに感じてたのかもしれない。そんなことないのに。
理想の母親像。理想の家族像。誰が決めたのか知らないけど、そういうものがあって、でもオレにはよくわからない。
オレの中に理想の母さんなんてないから。
いつも通りの、仕事を頑張っていて、いつも笑顔で、優しくて、疲れててもそれをオレに見せないようにしている母さんが好きだよ。そういうことをちゃんと伝えておけばよかったんだろうなあ。
新しくできた父さんや兄さんが良い人なのはよくわかっている。気を遣ってオレ1人の部屋を用意してくれたし、一緒に出かけようと誘ってくれたり、オレだけじゃなくてプクリンやイエッサンとも仲良くしようとしてくれた。
でもオレが上手くやれなかった。その人たちにとっての理想の息子とか、理想の弟ってなにかわからなかった。何が自分に求められているのかわからなくて、普通の息子とか弟ってなにかわからなくて、何をしたら良いのかわからなくて、自分の一挙一動がすべて間違っている気がした。父さんも兄さんも誰も何も悪くないのに上手くやれない自分が嫌になっていく。勝手に追い詰められて、勝手に崩れ落ちて、勝手に家族をめちゃくちゃにしちゃった。
……うん、でもさ、本当のことを言うとオレは普通でよかったんだ。
母さんがいて、オレがいて、プクリンとイエッサンがいる、そういう生活がオレにとっての普通だったから。
でも母さんにとってそれは普通じゃなかったんだね。
母さんも普通が良かったんだよね。
……わかるよ、ごめんね、本当にごめん。
「ヤシオ」
ふと、目の前でスプーンを握っているアオキに名前を呼ばれた。
オレはもうその時にはこれが自分が見ている夢だとわかっていた。
だから、目の前の人に笑って問いかける。
「……アオキさん、カレーうまい?」
そう言えば、彼は微かに目尻を下げてから口を開いた。
「旨いです」
恥ずかしくて嫌がってるフリしちゃってたけど、オレさ、アンタがそうやって普通に褒めてくれんの、嬉しかったんだよなあ。夢だと知っているから、口が緩む。
「オレ、アンタのところに来れてよかったよ」
「そうですか」
「……アオキさんはなんでオレのこと受け入れてくれたの」
アオキさんは答えなかった。当たり前だ、これはオレの夢の中だから、オレが知らない答えは出せない。
「アオキさんは、オレといて……しんどくない?」
わかっていて、問いかけを続けた。オレが知らない答え。もしもアオキさんが答えてくれたとしたら、それはオレがあの人にそう言って欲しいと願っているからだろう。
「ヤシオ」
「ん」
「自分はあなたといて楽しいです」
「そう」
「はい」
「そっか」
本当にそうだったらいいなあ、と思った。
「プミュ………プリュ………プム……」
プクリンの可愛らしい寝言でヤシオは目を覚ました。
アオキの家のリビングのカーペットの上で、転がっていていつのまにか眠ってしまっていたらしい。すぐ隣で寝ていたプクリンがころんと寝返りを打ってヤシオにお腹を見せる。
体を起こして辺りを見渡せば、プクリンもハピナスもイッカネズミもみんなカーペットの上で眠っていた。
窓から差し込む日は暖かく、流れる時間は穏やかで、平和なその光景に思わず笑みが溢れる。
……何か夢を見ていた気がする。
夢はたった数秒前の微睡みの中の出来事だったのに今はもう忘却の彼方にいってしまった。少し思い出そうとしたけれど、戻ってくるものは何もなかったから夢への執着を手放して、1匹だけ起きていた彼女へ声をかける。
「イエッサン」
「きゅ」
イエッサンは出前のチラシをカーペットに並べて、それを眺めていた。ふと時計を見れば時間は昼の12時を過ぎたところ。ヤシオは這うようにしてイエッサンのそばに行くと、彼女の隣に座って問いかけた。
「昼、何食べようか」
「んきゅ〜きゅ」
「ん、そうだな、迷うな」
ピザやバーガーや寿司や中華、蕎麦。様々なチラシを眺める。その時ふと、本当になんとなく、そう思って、口にした。
「イエッサン、オレのこと助けてくれた?」
どうしてそう思ったのか、何に対してそう思ったのか、わからないけれど、唐突にそう思い至って問いかける。
けれど、イエッサンは否定も肯定もせずにっこりと笑ってみせるだけだった。
その時、目を覚ましたプクリンがヤシオのそばにやってきて、甘えるように寄りかかってくる。
その寝ぼけ眼にヤシオは「プクリン、寝言言ってたろ」と笑って彼女を撫でた。
ヤシオが夕食の場でパニックを起こして吐いてしまったという話を、アオキは以前からざっくりとは聞いていた。
詳しく聞けば、ストレスによる嘔吐と、自分がそれをしたということにパニックを起こして、半狂乱で自身が吐いたものを胃の中に戻そうとしたり過呼吸になったりして、最終的に軽度の痙攣を起こすまでになってしまった、と。
その後、落ち着かせたヤシオの身体を綺麗にさせて、部屋で彼を休ませたが、家族が気がついた時には書き置きを残して手持ちと共に家を出て行ってしまったのだという。アオキとしてはさもありなんとしか言いようがない。
自分の元に預けられたのだから、余程のことがあったのだろうと思っていたが、まあ、確かにヤシオにも、ヤシオの家族にもなかなかの傷を残しそうな出来事だった。
確かにここまでとなると、それまで通りガラルの家で家族と過ごさせるということはできないだろう。その家という環境にいるだけでヤシオにはストレスになるし、フラッシュバックしかねないからだ。どこか遠く、ガラルから離れたところで穏やかに過ごさせよう、となるのにも理解はできる。
……しかし自分が以前、泥酔して帰ってきた挙句ヤシオの前で嘔吐した時は、下手したら彼のトラウマスイッチをオンにしていたんだな……と気がついてアオキは流石に反省する心地があった。
「……ヤシオが今後ガラルに戻るべきか、パルデアに居続けるべきかについてはまだ話せる段階ではないと思います」
若干冷や汗をかきながらもアオキはヤシオの母に向かってそう言った。
彼女は深く息を吐いてからアオキを真っ直ぐに見つめて「そうですね」とうなづいた。
「ヤシオは……きっと私が帰ってきて欲しいと言えば、自分の気持ちを押し隠して、無理をしてでも戻ってきてくれるでしょう。でも、そんなことを望みたいわけではないんです。あの子が心穏やかに過ごせるのが一番ですから」
「自分も同意見です。ヤシオがどうしたいのか、それに尽きると思います」
今のところ、2人が話せるのはそこまでだった。それ以上の話をするのならば、ヤシオがここにいる必要がある。彼の意見を無視して進められる話ではないから。
「アオキさん、本当にありがとうございます」
彼女はそう言って改めて頭を下げた。アオキも「いえ、こちらこそ」と言って軽く頭を下げる。大人なんて案外無力だと再度思い知る。
支払いをして、店を出る。去り際にヤシオの母にアオキは問われた。
「アオキさんは、あの子といてつらいと感じたことはありませんか?」
その問いかけからして、きっと彼女はヤシオといてつらいと感じたことがあったのだろう。その理由はアオキにはわからない。けれど、それを理由に彼女からヤシオへの愛情を疑うこともしない。
愛情だけで成立する関係なんて、親子や家族であってもあり得ないから。
アオキは彼女の少し引け目のあるような瞳を見つめながら答えた。
「……いえ、自分はヤシオといて楽しいですよ」
嘘をつく理由も意味もなかったから、アオキは本当の気持ちを答えた。
それによって、目の前の人は傷つくのかもしれないとしても。
彼女はアオキが想像していた通り、一瞬痛みを感じたような表情を見せてから……安堵したように笑顔を見せた。
「すみません、変な質問をしてしまいましたね。どうか忘れてください」
「……いえ、お気になさらず」
「今日はありがとうございました。それでは、また。お仕事頑張ってください」
「ありがとうございます……では、さようなら……」
そうやって、背を向けて別れた。
いくらか離れてから、疲労の混じった溜息を吐く。ほぼ初対面の人間相手に真面目な話をしなくてはいけないなんて、疲れるに決まっている。
「……腹が減った」
そう呟いて、アオキは腹を膨らませられる店を探してシュートシティをゆっくりと歩き出した。