前回のあらすじ
「お兄ちゃんはアホ」
定期テストは地獄だ。年に数回あるこの時期、毎回僕は寝不足で死にかける。
僕のテスト勉強で、じゃない。そんなものどうでもいい。
ひとりの勉強を見るためだ。あの子に赤点を取らせないため、毎回死線をくぐっている。
そんな地獄も今日でとうとう終わった。
今学期は色んなことがあったからか、いつもより、いつもよりずっと大変だった。
最悪、いくつか追試が簡単そうなやつを諦めようと思った。でも、なんとか勝てたと思う。
横を歩くひとりを見る。不定形だ。何か理解できないものが、頭から飛び立っていく。
知識か理性か、それとも魂か。今の僕では把握できない。生きてるからいいや。
知識はまた詰め込めばいいし、理性も魂もその内帰ってくるだろう。
もう疲れた。明日は土曜日だ。やらなきゃいけないことはたくさんある。
考えなければならないことも、山ほどある。でも今日はいい。疲れた。寝たい。
ふらふらと、ひとりと並んで歩く。いつも以上に、道行く人に僕達は避けられていた。
そろそろ駅に着くかなというとき、携帯が鳴った。誰からだろう。
のろのろとした動きで手に取る。母さんからのお使い指令なら、見ておかないと。
液晶に映った文字に僕は凍り付き、立ち止まった。
ずるずると移動していたひとりが、僕を置き去りにしているのに気付いた。
なけなしの体力を振り絞り、僕の元へ戻ってくる。そして寄り添うように止まった。
こんな状態でも、僕を心配してくれているようだ。優しい子に育ってくれた。
「ありがとう、大丈夫だよ」
頭らしきところを撫でると、ふるふると震えた。照れているらしい。
こんな状態でもこの子は可愛い。
ひとりに大丈夫と言ったけど、本当のところは大丈夫じゃない。
恐ろしいメッセージが僕に届いた。差出人は喜多さんだ。そこにはこう書かれていた。
『明日、二人でカラオケ行きませんか?』
情けない話だと思うけど、僕は喜多さんが恐ろしい。
僕には、彼女が何を考えているのか分からないからだ。
あの日、ひとりがアー写を撮った日に遭遇した時、僕はとても動揺していた。
無事、今では無事だったか怪しいが、ピンチを切り抜けて、帰りには安心していた。
だからあの時、気づくべきことに気がつかなかった。
喜多さんは僕に多くのことを聞かなかった。まずこれがおかしい。
彼女は僕が女子の格好、一応女子の格好をしていたのを見ている。
そして推測だけど、校外の人間だというのも知っていると思う。
僕はかなり目立つ方だから、友達の多い彼女ならすぐに気づくだろう。
そんな怪しい男と出くわしたのに、何も聞かず、何故か頼りにされた。不可解だ。
もっと攻撃的な反応をしていいはずなのに、彼女は一貫して無警戒だった。
喜多さんはいい子だ。あの階段の一件で恩を感じてくれたのかもしれない。
だとしても、お礼とかお詫びとか、そういったものはあの買い物で清算されたはずだ。
今みたいに連絡を取り合う関係になるのはおかしい。
ましてこのメッセージ。カラオケに、遊びに誘われるのはありえない。
知らない、分からない、理解できない。だから、知る必要がある。
彼女が何を知っているのか。何を求めているのか。
彼女は結束バンドのメンバーで、ひとりの友達だ。
僕がこうして彼女に、ある意味弱みを握られている状況は望ましくない。
だからこそ、今日僕ははっきりさせるつもりだ。
「そういう訳でひとり、僕が死んでもなんとか生きて」
「えっ、お、お兄ちゃん死んじゃうの?」
「かもしれない」
次の日、僕は出かける準備をしていた。
喜多さんの指定した時間はお昼ごろだったけど、場所が東京だ。遠い。
家からだと早く出ていかないと間に合わない。遅刻してしまう。
「ちょっと人に会いに、東京の方へ行くから」
「人に会いに。……えっ人に会いに!?」
ひとりらしくない大声だった。そんなに驚く?
逆の立場になった時を想像する。うん、そんなに驚く。納得。
さっきまで土曜日を満喫した、とろけ切った顔をしていたひとりが顔を青くしている。
せっかくのお休みなのに心配させてごめんね。これは何を想像しているんだろう。
「は、はは、果し合い?」
「……ある意味?」
ある意味そうだ。一対一の真剣勝負。向こうの気持ちは知らないけど、僕はそのつもりだ。
僕の返答に、ひとりはごくりと唾を飲みこんだ。いつになく真剣な顔をしている。
「お兄ちゃん、が、がん、ううん。生きて帰ってきて」
「ひとり。……大丈夫、お兄ちゃんは絶対帰ってくるよ」
ひとりの手を握り、約束する。そうだ、僕はまだ死ねない。
この子がお嫁に行くまで、行く、行けるのかな? ……うん、これはちょっと違うな。
この子が将来、武道館に立つのを見守るためにも、今日は絶対生きて帰ってくるんだ。
負けるな僕。頑張れ僕。明日のひとりは僕の根性にかかっている。
「この子たち、本当に大丈夫かしら……?」
そんな僕達の寸劇を、母さんが呆れながら見ていた。
寸劇後、別れを済ませた僕は集合場所へ向かった。
人が多い。テスト明けの時期だからか、特に同世代が多く見られる。
見回してみても、人人人。喜多さんがもう来てるかどうかなんて分からない。
これなら見つけるより、見つけてもらう方が早い。
僕はいつも通り前を見て、その中を歩き始めた。途端に人混みが割れる。
我ながら便利だ。僕を見ると大抵の人が避けるから、人混みを歩くのに苦労したことはない。
適当なところで止まって、周囲を見る。目を逸らされた。
相変わらずの人混みだけど、僕の周りだけ誰もいない。ぽっかり空いている。
よし、これなら喜多さんも見つけやすいだろう。作戦成功だ。
満足げにしていると、メッセージが届いた。喜多さんからだ。
カラオケ店のURLと地図が貼られている。それだけだった。なんだろうこれ。
疑問に思っていると、もう一文追加で飛んできた。
『目立ちすぎです』
「先輩、私でもあの中話しかけるのは無理です」
地図に従ってお店の前に行くと喜多さんがいた。今日もギターを持っている。
むすっとした顔で、開口一番こう言われた。
喜多さんの言う通りだ。あの状況の中、僕に話しかけるのは相当難易度が高い。
ひとりにやってもらったら、二秒で消滅するだろう。
「ごめんね。待ち合わせするのって初めてで、話しかける側のこと考えてなかった」
「……気をつけてくださいね!」
謝ると一瞬で許してくれた。結束バンドの人達は皆心が広い。
ひとりが入れたのがこのバンドで本当に良かった、じゃない。
いつものように結束バンドの人達へ感謝を表明してもしょうがない。
喜多さんに、今日の、今までの目的を聞かなきゃ。
「喜多さん、今日はカラオケって言ってたけど」
「はい! とりあえず、中入りませんか?」
「あっうん」
「喜多さん、今日のことだけど」
「先輩、フリータイムでいいですよね」
「えっうん」
「えっと」
「先輩はどの機種がいいとかありますか?」
「よく知らないから、喜多さんの好きなもので」
「先輩何歌います? 私、先に入れてもいいですか?」
「あっはい。どうぞ」
喜多さんの真意を聞いてやるぞ、と思ったはずだった。
気がついたら入室していた。これが、陽キャの圧倒的コミュ力。僕は戦慄した。
彼女の強さを、まだまったく理解出来ていなかったようだ。
今も自然に歌いたい曲を入力している。つけ入る隙が無い。
喜多さんのあまりの戦闘力に僕が震えていると、曲が流れ始めた。
確かこれは、春頃に流行った曲だ。ドラマか映画か、何かのエンディングだった。
歌詞は喪失の重みを前面に押し出しているけど、激しく明るい曲調でコーティングしてある。
ギターヒーローとしての演奏を動画サイトにあげた覚えがある。
ひとり好みの曲だったから、撮影も捗った。
イントロが終わり、喜多さんが歌い始める。上手だ。
音程もリズムも、一度も外していない。
なんなら、こっちにウインクする余裕もある。なんでウインク?
全身から歌うのが楽しいというのが伝わってくる。
いいことなんだけど、この歌詞でそれをやられるとほんの少し背筋が寒くなる。
そんな調子で一曲歌い終えた。点数が出てくる。96点。高得点だ。
確かに上手だった。流石現役ギターボーカル。思わず拍手してしまう。
感心してモニターを眺める僕を、喜多さんは肩に力を入れたまま見ていた。
「その、どうでした?」
「凄い上手だった」
拍手しちゃうくらい、と言って叩いていた手を挙げる。
すると、ようやく安心したように彼女は力を抜いた。
点数画面が終わり、モニターにはCMが流れる。
喜多さんは次の曲を入れてなかった。もちろん僕も入れてない。
タブレットは机の上に置かれたまま、誰も手に取ろうとしない。
彼女はマイクを弄りながら目を遊ばせている。
言いたいけど、言いにくいことがあるらしい。
ちょうどいい。このタイミングで確認させてもらおう。
「喜多さん、今日は突然のお誘いだったけど」
「その、実は理由があって」
何かしらの目的がちゃんとあったらしい。ちょっと安心した。
ただカラオケに行きたかったから、なんて言われたらかえって怖い。
彼女の返答を待っていると、意を決したように口を開いた。
「ボイトレに、付き合ってほしいんです」
ボイトレ、ボイストレーニング。歌の練習。喜多さんは結束バンドのギターボーカル担当だ。
練習したい。上手くなりたいというのはよく分かる。
そのための努力なら、僕も喜んで、かはどうかは怪しいけど、手伝うつもりだ。
ただ、どうして僕に声をかけたんだろう。
「付き合うよ。付き合うけど、どうして僕?」
「先輩しか頼れる人がいなくて」
「メンバーの人達は?」
伊地知さんが歌について詳しいかどうかは知らない。もしかしたら苦手なのかも。
だけど山田さんはコーラスも担当しているとひとりに聞いた。綺麗な声とも言っていた。
ひとり、ひとりは、うん。可愛い歌声だと思う。僕は好き。無限に聞ける。
「一人、詳しいと思う先輩はいるんですが、音信不通で」
「音信不通」
「あっでも、テスト後はいつもそんな感じだから、心配はいらないそうです」
推定山田さんが音信不通。昨日はちゃんとテスト受けに来てたけど。
最後に見た山田さんの姿を思い出す。合格ハチマキを巻き、ずっとペンを握っていた。
嘘みたいに瞳を輝かせながら、目指せ東大と何度も呟いていた。病んでる。
いつ失踪してもおかしくない状態だった。あのままどこかへ消えたらしい。
喜多さんに山田さんが大丈夫、と伝えたのは伊地知さんだろう。
彼女が言うんだから間違いない。その内山田さんは発見される。きっと。
「結束バンドの皆以外で、音楽に詳しそうな人って先輩以外知らなくて」
そういうことらしい。未だにあの日失敗した、知識マウント作戦が足を引く。
あれのせいで、喜多さんの中で僕はすっかり音楽の識者になっているようだ。
歌。歌の練習に付き合う。ギターと違って、歌については本当に知識だけだ。
ひとりは昔、ギターだけでなくボーカルもやりたがっていた。
ボーカルはバンドのフロントマンだ。承認欲求の塊の妹は、もちろん憧れていた。
ただ、ギターヒーローとして認められる内に、ギターへどんどんのめり込み、
いつしかボーカルについては何も言わなくなっていた。
今もひとりがボーカルをしたいのかは分からない。
分からないけど、いつでもひとりがまた目指せるように知識だけは蓄えてある。
それを使えば、喜多さんの練習に付き合うくらいは出来るだろう。
「そういうことなら、練習はいくらでも付き合うよ」
「本当ですか! ありがとうございます!」
「だけど、歌に関してはちょっと知識があるだけなんだ。それでよければ」
「ぜひ!」
こうして喜多さんの練習に付き合うことになった。
ん? あれ、ちょっと待って。今日の目的はともかく、今までのこと全然確認出来てない。
喜多さんの思惑とかまったく聞けてない。また謎が増えただけだ。
僕の名前も知らないはずだよね。いくらなんでもそんな人にお願いする?
だけど、謎のオーラを出し、やる気満々の彼女に聞ける勇気は僕になかった。
僕は弱かった。
それから、声量とか表現方法について一緒に練習した。
歌には自信がないから、とにかく基礎と変な癖をつけないことを意識した。
喜多さんは、僕の拙い練習にも根気よく付き合ってくれた。
にわか知識を披露するのは、正直どこか恥ずかしくて後ろめたい。
それでも喜多さんを不安にさせないために、その気持ちは隠した。
結構な時間練習して、今は休憩中。喜多さんには喉を休めてもらっている。
のんびりとしていると、喜多さんが話しかけてきた。
さっきまで紅茶を持っていたその手には、ギターが握られている。
「先輩、ギターの練習はしないんですか?」
「……ギターは、ほら、教える人が二人いるとね。混乱するかもだから」
効率を考えるなら、確かに喉を休めている間にギターの練習をした方がいい。
だけど喜多さんにはひとりが教えている。
ひとりも彼女もそう言っていたから、本当のことだろう。
喜多さんに言ったこともそうだし、そもそもひとりの方が教えるのも上手い。
あの子は躓きやすいところ全てで躓いて、その全てを自力で乗り越えた。
だからこそ、あらゆる場面で的確なアドバイスが出来る。
何より、ひとりはそういった時に相手に寄り添える。僕は他人に出来るか自信がない。
僕に断られて、喜多さんは残念そうな顔をした。
それも一瞬だった。すぐにまた、いつものように光を放ち、僕にギターを向けてきた。
「じゃあ、先輩のギター聞かせてください!」
「いや、それは」
ギターを弾いてほしい。いつか言われるかもとは思っていた。
ひとりの兄である以上、妹の足元にも及ばないけど、一応僕も弾ける。
弾けても、他人の前で僕は弾いていいとは思えない。何か言い訳を。
「あっ、楽譜かスコアが無いと弾け」
「ここにあります!」
ジャン、と目の前に差し出された。あのバンド、と題名が書かれている。
見覚えがある、というか、これは結束バンドのオリジナルソングだ。
ひとりにこの間自慢された。そして演奏もしてくれた。一回だけ歌ってくれた。
心臓が止まりそうになるほど可愛かった。試験期間中の数少ない癒しだった。
本番前の未発表曲。アマチュアとはいえ情報流出だ。断る口実にそこを突こうか。
喜多さんにはそんな意識ないだろうから、言えば止めてくれるかもしれない。
一緒に情報流出の大変さを語れば、気まずくなって今日の、これからの練習もなくなるかも。
そうすると、喜多さん落ち込むかな、傷つくかな。ならこれは止めた方が。
いや、別に喜多さんがどうなっても僕には関係ないはず。ない。そう、ない。
言った方がいい。うん、いい。さあ言おう、今すぐ言おう。
ちらっと彼女を見る。キターン。幻覚が見えた。これは無理だ、断れない。
だけどこれは、彼女と距離を置くちょうどいい機会かもしれない。
僕の演奏は凶器だ。聞けば引かれるだろう。
僕の演奏は凶器、そのままの意味だ。僕の演奏を聴いた他人は大体意識を失う。
自分でもまた気絶かと思う。本当にそうなんだからしょうがない。
中学生の頃、ひとりが路上ライブに興味を示したことがあった。
路上でやる以上多種多様な人、危ない人とも接する可能性がある。
今より過保護だった当時の僕は、安全性を確認するために一人で路上ライブを試した。
結果として通りすがりの人も含め全員気絶した。一大事件だ。当然通報、連行された。
幸い、けが人も死人も出なかったし、故意でもない。
というか、なんでそうなったのか誰にも分からないから、注意だけで終わった。
迎えに来た父さんも担当のお巡りさんも困惑して、むしろ同情してくれた。
ただ、僕だけはなんとなく原因を理解している。目が合うと気絶するのと同じ理由だ。
僕が他人をどうしようもなく嫌いで、身勝手な怒りを抱いているからだ。
普段は頑張って隠しているから、家族も気づいてないと思う。
他人も気持ちも意識しないようにしてるから、他人に無関心くらいに思われてるはず。
それでも演奏となると話が違う。音楽は心の声だ。
心の奥底にある思いもさらけ出してしまう。相手の心に届けてしまう。
目が合うだけで怯えられるような嫌悪や怒り。それを直に届けるんだから、気絶もするだろう。
意識をして抑えれば、無感動な演奏にはなるけどいくらかは隠せる。
それでも夢中になると、ましてこんな不慣れな曲なら絶対に途中で漏れ出てしまう。
「あんまり、期待しないでね?」
「いえ!」
それはどっちのいえ? 怖いから聞かない。
楽譜を受け取って読む。ひとりのものとは違う。リズムギター用だ。
ボーカルかつ初心者の喜多さんを思ってか、ある程度簡単にしてある気がする。
ひとりがこっちのパートも何回か弾いてくれたから、何となくは分かる。
これなら、まあ、いける、かな? 多分、弾けはする、はず。
楽譜の確認を終えて、喜多さんからギターを借り受ける。
手ならしで軽く音を鳴らす。よく手入れがされている。いいギターだ。
考えてみれば、こういう曲を弾くのも久しぶりだ。
ギター自体はたまにふたりにお願いされて、ミニヨンズとかは弾いていた。
そのおかげか、手はちゃんと動く。よし、もうどうにでもなれ。
演奏を終えた時、喜多さんが生きていることを祈ろう。
「……たくさん失敗した」
なんとか弾き終えた。正直な感想だ。
数えきれないくらいミスをした。思ってた以上に下手になってる。
この程度であんな偉そうなアドバイスをしてたなんて、恥ずかしくて顔から火が出そう。
いや、僕の演奏の出来はどうでもいい。喜多さんの容態が第一だ。
意識を楽譜とギターから彼女へ移す。予想に反して、彼女はピンピンしていた。
よかった。目が合っても気絶しないように、演奏でも大丈夫だったみたいだ。
不思議だ。喜多さんは他人なのに、僕から悪意を感じなかったのだろうか。
「その、どうだった?」
気になることは聞かないと。
恐る恐る尋ねると、喜多さんは変わらず笑顔で答えてくれた。
まず喜多さんは演奏を褒めてくれた。凄い褒めてくれる。褒め上手。いい気持ち。
機会があれば、その調子でひとりのことも褒めてあげてほしい。
だけど、今僕が聞きたいのはそれじゃない。もっと感覚的な、こう、印象とかだ。
僕の求めに、喜多さんはいつもの、いつも以上の光量の笑顔をしてくれた。
「やっぱり、先輩も楽しそうに弾きますね!」
あれー?
そこからは、喜多さんに悪いけど気もそぞろだった。
別れ際、またお願いしますと言われたのは聞き間違いだったかな?
聞き間違いじゃないんだろうな。ロインに次の予定日が届いている。
結局何も喜多さんに確認出来なかったし、今日も僕は彼女に完敗した。
「ひとり、ちょっとギター聴いてくれる?」
だけど今それは重要なことじゃない。もっと確認すべきことがある。
帰って早々、僕はひとりに声をかけた。
僕のギターを、自分を隠せているか確認してもらうためだ。
「……いっ、いつも通りだよ」
僕の演奏を聴いて、ひとりは微妙な顔でそう言った。
何も心の込もっていない演奏。そう感じたんだろう。
言うべきか迷う顔も、言えずに飲み込んで出た言葉も、いつも通りだ。
ひとりに見抜かれてない以上、ちゃんと偽装出来ている。
そのことに安心しながら、どうして喜多さんが気絶しなかったのか。
どうして喜多さんは楽しそうと感じたのか、僕にはまったく分からなかった。
次回のあらすじ
「捕獲」