前回のあらすじ
「僕の英雄」
今日は焼肉だー、なんてはしゃいでいたのがついさっき。
実際にこうして焼肉屋さんに来たのはいいけれど、今頭の中は困惑でいっぱいだ。
原因は出会ってからずっと、僕を睨み続けるツインテールの女の子。
この状況を作り上げた張本人、廣井さんは僕の膝に頭を乗せ、気持ちよさそうに眠っている。
なんだこの人。叩き起こしていいかな。とりあえず一度頭をはたく。起きない。
「ちょ、ちょっと、何姐さんの寝顔じっと見てるの! いやらしいわよ!」
変な勘違いをしたのか、彼女は大きな声で叱りつけてきた。
僕がため息を吐いて視線を移すと、しっかり目が合った。今度こそ気絶してくれるかな。
震えて、体が斜めになって、だけど目を見開いて立ち直る。
僕が言っていいことじゃないけど、凄い根性だなと思った。
だけど最初は感心していたこの光景も、今はもう見飽きてしまった。
僕は気持ちと状況の整理のため、どうしてこうなったのかを振り返り始めた。
「打ち上げ、来ないのか?」
「はい。僕が行くとその、ライブの話どころじゃなくなる可能性があるので」
「あー」
皆がお店に向かった後、店長さんは打ち上げに誘ってくれた。だけど僕は行けない。
この格好の僕はなぜか警戒されているみたいだし、変装を解けばそれはそれで大変だ。
魔王の襲来だ。どう反応されるか分からないけど、ライブの余韻は消し飛ぶと思う。
僕の言葉に店長さんは斜め上に視線を飛ばした。気まずそう。
そんな僕達の様子を見て、廣井さんが後ろから僕の両肩を掴んだ。
「大丈夫ですよ先輩。私この子送ってくんで」
「何が大丈夫なんだ?」
「というか僕はひとりと一緒に帰るので、どこかで待ってるつもりですけど」
「えー、じゃあその間にどっかで一緒にご飯食べよ?」
「……」
絶対今よりお酒飲むよね。凄い面倒くさそう。それは嫌だな。
僕の白けた顔を見て、廣井さんが地面に寝っ転がり駄々をこね始めた。
「いいじゃんいいじゃん! お姉さんとご飯食べようよー!!」
「……後藤、悪いけど頼んでもいい?」
「はい、店長さんにはひとりがいつもお世話になってますから」
「これ私の連絡先だ。どうしようもなくなったら呼んでくれ」
「大丈夫です。店長さんは伊地知さん達と楽しんでください」
「本当に悪いな」
「あれ逆じゃない? 私大人だよ?」
大人は路上で駄々をこねないと思う。
ぶーぶー、本当に口でぶーぶー言い始めた廣井さんを連れて、僕はその場を離れた。
店長さんは初めて見るくらい、申し訳なさそうな顔をしていた。
「廣井さん、何か食べたいものとかありますか?」
「うーんとね、とりあえず新宿行こう!」
なんで新宿なんだろう。言葉に出す前に、僕の疑問を感じ取った廣井さんが続けた。
「言ってなかったっけ。私、新宿FOLTってところが本拠地なんだ」
だから新宿の方がいいお店を知ってる、ということらしい。
廣井さん新宿の人だったんだ。それを聞くと、尚更あの日金沢八景にいた理由が分からなくなる。
出会えてよかったとは思うし、このことは考えないようにしよう。
駅まで歩いて、電車に乗って、新宿駅に着いた。
着いたのはいいけど、電車に乗っている数分の間に廣井さんが寝てしまった。
揺すっても声をかけても、頬を叩いても引っ張っても起きない。
このままだと乗り過ごすから、とりあえず背負って降りた。服が酒臭くなりそう。
駅のホームで、乗ってきた電車が走り去るのを見送る。これからどうしよう。
廣井さん寝ちゃったし、このままご飯食べに行くのも大変だ。
ご飯は食べないで家まで運ぼうかな。でも廣井さんの家を僕は知らない。
教えてくれるか分からないけど、聞くだけ聞いてみよう。
「廣井さん、お家どこですか?」
「おにころー」
駄目だ、日本語が通じない。こうなると取れる方針は三つだ。
一つ、その辺に廣井さんを捨てる。いくらなんでも駄目だろう。
二つ、下北沢に戻って店長さんに押し付ける。これは論外。
今店長さんは伊地知さん達と打ち上げをしている。妹達の成功を祝っている途中だ。
同じ妹を愛する身として、その邪魔はしたくない。
じゃあ三つ目だ。廣井さんを背負い直して、僕は携帯を取り出した。
新宿FOLTの場所を検索する。結構駅に近い。よかった。
廣井さんは重く無いけど、酒臭いからあんまり長い間背負っていたくない。
三つ、新宿FOLTに届ける。一番無難だと思う。岩下さんがいればその場で預ける。
いなければそこの店長さんに、預かってもらえそうな人に繋いでもらう。
そんな人がいないなら、しょうがないから僕が起きるまで付き合う。
方針も決まった。僕は地図を見て目的地に向けて歩き出した。
新宿の街を歩く。なんだか妙に視線を感じる。ざわざわと、僕らを見て呟いている。
最初は気にしないでいたけど、とうとう携帯を出して写真を撮る人まで出てきた。
許容範囲を超えたから、追い払うように視線を向ける。全員目を逸らして逃げ去った。
よし、退治完了だ。それにしても、こんな露骨に見られるのはなんでだろう。
僕がある種有名だから、ではないと思う。
今のところ僕の悪名は、東京では下北沢周辺で収まっているはず。
新宿なんてほとんど初めて来た。それに今の僕は変装したままだ。
これはこれで悪い風体らしいけど、あそこまで見られるほどじゃないだろう。
廣井さんを、人を背負ってるからかな。そんなに珍しい光景じゃないと思うけど。
今だって視界の隅に、酔っ払いが肩を組んで歩く姿がある。あれだって似たようなものだ。
じゃあ背負ってる人、廣井さんが目立ってる、とか。
あれほどのベースの腕なら、それ相応の高名を誇っていても不思議じゃない。
だから、いや、でも廣井さんが酔い潰れてるなんてきっといつものこと。
こうして誰かに背負われてる姿なんて、新宿の人からすれば見慣れたもののはずだ。
疑問を抱えながら歩く。暇つぶしも兼ねてるから、答えは出なくてもいい。
ちょうど目的地まで半分くらいに差し掛かったところで、小さな影が僕の前に飛び出して来た。
興奮のあまりツインテールを乱暴に振り回し、目は怒りに吊り上がっている。
「あ、あああ、貴方! きくり姐さんをどこに連れて行く気!?」
その子は音が出そうな勢いで僕を指差し、がなり立てた。なんとなく小型犬を彷彿させる。
姉さん。廣井さんのことだろうか。なんだ、廣井さんも妹いたんだ。
全然似てないけど、そういう姉妹だっている。兄妹はみんな違ってみんないい。
背中の廣井さんに声をかける。妹さんがいるなら、もう任せればいいだろう。
「廣井さん、妹さん来ましたよ」
「私ひとりっこだよ~?」
「あれ?」
それじゃこの子誰? 疑わし気に視線を向けると目が合ってしまった。
ひゅっ、と音の無い悲鳴と同時に、彼女が崩れ落ちそうになる。
不味い。廣井さんを背負っているから、地面に倒れるまでに手が届かない。
「…………っ!」
僕の焦りとは裏腹に、彼女は崩れ落ちそうな体を立て直した。凄い。
気絶しない人は今までもいた。だけど、倒れそうになってから立ち直る人は初めて見た。
思わず拍手をしてしまう。
「何拍手してるのよ!」
怒られてしまった。今気絶しかけたのにこの子元気だな。
彼女の元気な大声で、背中の廣井さんが動き始めた。
眠そうにあくびをしながら前を見て、彼女を視界に入れた。
「……あれ、大槻ちゃんじゃん。おはよー」
「あっ、おはようございます。じゃなくて、姐さんその人から離れてください!」
「その人って、この子?」
「起きたなら降りてください。酒臭いです」
「女の子に酷いこと言うねー」
「……?」
僕が言ったのは廣井さん相手だ。女の子とは一体誰のことだろう。
そんな僕の態度に何故か怒ったようで、廣井さんは臭いを擦りつけようとしてきた。
当然そんなことされたくないから、吹き飛ばない程度に加減をして廣井さんを降ろした。
文句を言いたげだけど、先に僕の疑問に答えてもらおう。
「廣井さん、この子のこと御存じですか?」
「もちろん! 大槻ヨヨコちゃん。私と同じとこが本拠地の、SIDEROSってバンドの子だよ」
その紹介に、大槻さんは仁王立ちしている。片手で髪を払ってどこか自慢げだ。
そっか、廣井さんと同じ場所でバンドをしてるSIDEROSの。
「そうなんですか。僕は後藤です」
「…………………………それだけ!?」
面白いポーズで驚かれた。廣井さんの知り合いってことは音楽関係だろう。
もしかしてその筋では有名だったりするんだろうか。
だとしても、申し訳ないけどまったく知らない。
最近は忙しくて、あまりその手のことを調べられていない。
興味の無さが伝わる僕の返事に、彼女はますます腹を立てたようだ。
がるる、と唸り声が聞こえそうなほど威嚇されている。
ここまでまっすぐ敵意を向けられるのは久しぶりだ。懐かしい気分になる。
彼女がキーキー言ってるのを見て、廣井さんは首を傾げていた。
「もしかして大槻ちゃん、この子のこと気になるの?」
「当然じゃないですか!」
そう彼女が言うと、廣井さんはいつも通りの笑顔で彼女と僕の手を掴んだ。
「じゃ、一緒にご飯行こうか!」
「えっ」
「えっ」
僕達は廣井さんにそのまま引きずられていった。なんで?
そして現在に至る。
ちなみに廣井さんは着いて早々、人の膝で寝始めた。避ける隙もなかった。
なんだこの人。ここまで連れて来た責任を取ってほしい。でも何しても起きない。
一応廣井さんも実は女の人だから、どこまでしていいのか判断がつかない。
諦めて放っておくことにした。寝ゲロだけしないように注意しておこう。
廣井さんを起こそうと試行錯誤していた僕を、大槻さんはきつい目で睨んでいた。
見るからにピリピリとしている。この人も面倒くさそうだ。
二人も面倒くさそうな人がいる。相乗効果で大変なことになりそう。
廣井さんと大槻さんは仲良しみたいだから、このまま押し付けて帰ろう。
「それじゃ僕は帰りますね」
「は? ちょっと待ちなさい。貴方には聞きたいことが山ほどあるのよ」
立ち上がろうとした僕の腕を、彼女は身を乗り出して掴んでいた。
放してほしいな。そう思って目を合わせても、彼女は踏ん張って気絶してくれない。
仕方がないから、僕は席に座り直した。
「で、貴方はどこのバンドなの? その格好からして下北?」
そういえば今の僕は下北マンだった。目隠しキノコに眼鏡だ。
見た目だけでそう見られるってことは、この格好は本当に下北バンドマンの最大公約数なのかも。
「いや、僕はバンドとかはやってないよ」
「その格好で!?」
「この格好は変装だから」
そういえばもう変装する必要はない。僕はかつらと眼鏡を外した。
ネットで抑えられていた地毛が零れ落ちる。長い分量が多い。
それを見て、大槻さんは目を丸くしていた。
「髪、長いのね」
「色々事情があって、今は切れないから」
僕の言葉を、ふうんと彼女は流した。
興味はありそうだけど、意外なことに踏み込んでこなかった。
「それで結局、姐さんとどんな関係なの?」
「ご注文お決まりですかー?」
どう答えようか悩んでいると、店員さんがオーダーを取りにやってくる。
お店に入ってそこそこ経つけど、一度も注文していない。
いい加減何か頼めってことかな。適当にお肉を頼もうとすると、メニューを取り上げられた。
大槻さんが高くメニューを掲げて僕を見下ろしている、つもりらしい。
身長差的に、彼女がただ上を向いているだけみたいになっている。少し間抜けだ。
呆れ混じりの僕の視線と彼女の視線がぶつかる。また気絶しかける。そして立ち直る。
頑丈だなって他人事のように思った。
「焼肉にはね、正しい食べ方があるのよ」
ペラペラとメニューをめくりながら、得意げに語られる。
なんとなくそんな気はしてた。彼女は奉行系の人のようだ。
僕は好き嫌いもないし、注文してくれるなら任せよう。
またペラペラとめくる。また。もう一回。店員さんがじれてきた。
彼女もそれに気づいたのか、急いでメニューをめくって注文を決めた。
「……え、Aセット三人前で」
「正しい食べ方……?」
うるさいわねっ、と嚙みつかれる。もう一度、さっきと同じように視線が交わる。
今度はひるむだけで気絶しない。慣れてきたみたいだ。
僕って慣れたら平気になるものなんだ。初めて知った。
彼女と僕の生態に感心していると、膝の上に動きを感じた。ちょっとくすぐったい。
視線を下ろすと、笑顔の廣井さんと目が合った。
「私、お酒!」
「起きたなら起きてください」
手を引っ張って体を起こさせる。
へらへらと笑いながら座り直す廣井さんに、大槻さんは僕へ向けたものと同じ質問をぶつけた。
「姐さん、こいつとどんな関係なんですか?」
「私とこの子はね、友達だよ!」
「と、友達、ですか?」
「ははは、廣井さん酔い過ぎですよ」
「全否定!?」
廣井さんと会うのは今日で二回目。確かに僕は廣井さんのことは好きだし尊敬もしてる。
ただ、知ってることは凄腕ベーシストで、新宿の人で、お酒に飲まれてる人ってことくらい。
これ友達って言えるのかな。そもそも出来たことがないから、友達の定義が分からない。
「というか、どうすれば友達なんでしょう?」
「えー、そんなの簡単だよ。それはね………………」
「そんなのも分からないの? それは………………」
沈黙が流れる。お肉が焼ける音。換気扇の回る音。食器の当たる音。環境音が空しく響く。
友達とは何か、誰も答えをくれない。目を見ようとしても、二人とも目を逸らす。
他のお客さんの、楽しそうな笑い声がした。余計空気が重くなった。
「お待たせしましたー、Aセット三人前と生大でーす」
こんな重い雰囲気の中、平然と店員さんは配膳しに来た。これがプロ。
「……とりあえず、食べようか」
「……はい」
「……タンから焼きなさい、タンから」
お肉は美味しかった。
「妹の路上ライブを手伝ってもらった、ね」
「なんやかんやで色々あって」
「なんやかんやで色々って、まぁいいわ。貴方、運がいいわね」
食べながら事情を説明、説明になってないけど、話している内に大槻さんは矛を収めた。
そして今までで一番誇らしそうに、廣井さんの話を始めた。
「姐さんはね、あのSICKHACKのベースボーカルなのよ」
「へー、そうなんですか」
「貴方こっちも知らないの!?」
机を思い切り叩いて怒られた。衝撃でたれが零れる。
紙ナプキンでそれを拭きながら、彼女は僕を睨んでいる。
当然途中で何度も目が合うけれど、もうまったく怯まなくなった。
SICKHACK、言われるがまま調べてみると出てきた。
新宿を中心に活動するサイケデリックロックバンド。
どのサイトを見ても、廣井さんを始めとするメンバーの技量や音楽性が高く評価されている。
「へっへっへー、凄いでしょ。もっと尊敬してもいいよー」
「すみません、廣井さんへの敬意は今差し押さえされてて難しいです」
「差し押さえされるものなの?」
それと同じくらい廣井さんの素行が酷評されていた。
ライブ中にお酒を吹く、観客の顔を踏む、歌詞を飛ばす、放送禁止用語を叫ぶ。
納得しか出来なかった。ひとりに変なことを教えそうになったらすぐに止めよう。
「新宿FOLTのチャンネルにライブの動画もあるから、後で見ておきなさい」
私たちのもあるからそれも見なさい、と大槻さんは携帯を僕に突き付けた。
画面に映っているチャンネル名はそのまま新宿FOLT。帰ったら見よう。
その光景を見て、廣井さんが声をあげた。
「あ、そうだ! 大槻ちゃん連絡先交換しなよ!」
「はぁ!? え、姐さん、本気で言ってますか!?」
「だって大槻ちゃん友達いないでしょ? ほらほら貴重な同年代の男の子だよ?」
廣井さんに肩を掴んで揺らされる。酔ってるから力加減を知らないみたいだ。
揺れる視界の中、大槻さんがもじもじしながら携帯を僕に差し出していた。
「しょ、しょうがないわね。貴方がどうしてもって言うなら」
「僕は、どっちでも、いい」
「そこはしてほしいって言いなさいよ!」
半ば意地になっていた大槻さんと僕はロインを交換した。
いつも通りのことだけど、登録名の魔王には今回もドン引きされた。
そして対抗して、何故か新宿の魔王になろうとしていた。意味が分からなかった。
そんな感じでバタバタしながらも、ご飯は食べ終わって今は会計を済ませようとしている。
そこそこいいお値段。それでも三分割すればそこまでじゃない。
僕が財布を取り出していると、廣井さんはそのまま外へ出ようとしていた。
「あれ、廣井さんお会計忘れてますよ」
「あっごめんねー、私今お金ないんだ!」
「えっ、それなのに僕の事誘ったんですか?」
「うん!」
「うんじゃないです。今また尊敬が差し押さえされました」
「なんで!?」
「驚かれたこっちが驚きます」
そろそろ敬語が無くなるかもしれない。呼び捨てになる日も近い。
しょうがないから大槻さんと半分こだ。端数が出て一円割り切れない。
小銭をいくら持っていたか確認していると、眼前にお金が差し出された。
半分に一円足した額だ。大槻さんがドヤっとした顔をしている。
「私の方が多く払ったわよ」
「そうだね。凄いね。ありがとう」
「貴方本当にむかつくわね!!」
大槻さんは最後まで僕に吠えていた。焼肉食べたから余計元気になった気がする。
「そんな感じで、何故か廣井さんと知らない人とご飯食べてた」
「お、お兄ちゃんが、いつの間にか陽キャに……!?」
「陽キャは何回も人を気絶させかけないと思う」
ふらふらの廣井さんを大槻さんに押し、任せて、下北沢へ戻りひとりと合流した。
バンドの打ち上げと言っても高校生のものだ。僕が戻ってくる頃にはちょうど終わっていた。
その帰り道、ひとりと別れていた時のことを話していた。
いつもは僕が話を聞く側だから、こうしているのも新鮮な気分だ。
「それで帰り際、廣井さんにギターもっとやろうよって誘われた」
「えっ、お兄ちゃんもバンド組むの?」
「組まないよ。僕は音楽以外で出来ることをやりたいから」
この間の路上ライブで事故が起きなかったのは奇跡だ。
ひとりがいて、廣井さんがいて、観客の方が皆いい人だった。だから何とかなった。
少しは意識も変わったけど、今も僕は他人が嫌いだ。
この気持ちがある限り、僕の演奏はいつだってテロになりうる。
それに、音楽の道は険しい。全力のひとり程の腕があっても、成功できるか分からない。
人生は長い。何があってもいいように、僕はひとりの保険として生きていくつもりだ。
適当に士業の資格でも取って、この子を養う準備をしておかないと。
ひとりの確定申告をしたいから、税理士なんてどうだろうか。
「ひとりの方は何かあった?」
「……に、虹夏ちゃんに、ギターヒーローだってバレた」
思わず足が止まる。数歩先で、僕が動かないことに気づいたひとりも止まった。
「どんな反応だった? 伊地知さん、なんて言ってた?」
今のひとりの演奏とギターヒーローのそれはまるで違う。
ずっと隠してたのは、比べられて失望されるのが怖かったから。
伊地知さんなら悪い反応はしないはず。そう信じてる。信じたい。
それでも心のどこかで、嫌な気持ちが生じるのを抑えられなかった。
ひとりは僕の問いかけに少しだけ考え込み始める。
そして見たことのない、恥ずかしそうな嬉しそうな、それでいて誇らしそうな笑顔で答えた。
「…………内緒っ」
「姐さん、どうしてあそこまであいつに」
「あの子とっても面白い子でね、楽器弾けるのにバンドやってないんだ」
「それは、別に普通の事じゃ。音楽のやり方なんて人の自由です」
「今は妹ちゃんを支える方が楽しいみたい。その子も凄くいい子だよ。これから絶対伸びる」
「結束バンドの、後藤ひとり……」
「だけどもったいないなー」
「もったいないって、あいつそんなに弾けるんですか?」
「技術は全然荒削りだよ。ただ」
「ただ?」
「あの憎悪、いい音楽になりそうなのになって」
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