投稿日を前回書き忘れたので今日投稿します。
前回のあらすじ
妹に書類を偽造された。
「そういや言ってなかったな、私は伊地知星歌。ここの店長だ」
伊地知さんのお姉さん、店長さんが自己紹介をしてくれていた。
だけど失礼なことに、僕はひとりのことをじっとりと見ていた。
なし崩し的に店内に連れ込まれ、履歴書まで勝手に出された。説明が欲しい。
ひとりも分かってるみたいで、僕の方をまったく見ようともしなかった。
普段避けるタイプの店長さんにしっかり向かい合っている。こんな時じゃなければ褒めるのに。
僕たちの様子を特に気にせず、店長さんは難しそうな顔で僕たちの履歴書を見ていた。
というかひとり、いつの間に僕の分作ったの? そんな隙あったかな。
「……虹夏からは新しい子は一人、って聞いてたんだが」
「いえ、僕はこの子を送り届けに来ただけなので」
新しい子はこの子だけです、と答えると店長さんは顔一杯に?マークを浮かべていた。
履歴書二枚出されたのにこんなことを言われればこうもなる。僕もそうなってる。
ただ一人、答えを知ってる妹は今も目を逸らして黙っていた。
「は? じゃこれなに?」
「……妹が勝手に」
「マジかよ」
ロックじゃん、となんだか面白そうに店長さんは呟いた。
え、これロックなの? ロックってなんなの? 犯罪なの?
ロックはともかく、なんでこんなことをしたのかはひとりにしか分からない。
答えを求めてひとりをもう一度見つめる。今度は店長さんも見ていた。
二人分の視線にもじもじしていたひとりだったけど、やがてぽつりと答えた。
「ば、バイトは怖いけど、お兄ちゃんがいればなんとかなると思って」
「へぇ、頼りにされてんじゃん、お兄ちゃん」
「うぐっ」
凄いニヤニヤしてる、滅茶苦茶からかわれてる気がする。
家族以外にされるのはなんだか新鮮だ。あとひとりに頼りにされてるのも嬉しい。
「妹に頼られてるんだし、君も働いたら?」
「いえ、僕が働くと多分ここ潰れます」
「えっ、何それ怖っ」
ドン引きされた。でも本当にそうなると思う。
お客さんの精神力にもよるけど、スタッフと目が合う度に気絶しかけるライブハウスってなんだ。
どっちかというとお化け屋敷とかの類になるんじゃ。お化け屋敷『星空』が誕生してしまう。
「だっ、大丈夫、私もそんな自信がちょっとあるから」
「なにこの兄妹、雇うの止めようかな……」
ひとりがフォローしてくれたけど、店長さんには逆効果だった。
僕はいいけどこの子は雇ってほしい。本人はまだ気づいてないけど、ここを断られると後がない。
あと僕がここで働けない理由はそれだけじゃない。もう一つの方も大きい。
「や、ひとり。それに前も言ったけど、伊地知さんに会うと不味いんだって」
「ん? あぁ、虹夏と同じ学校なのか。何が不味いんだ?」
履歴書から顔を上げ、店長さんは僕を見た。
「それは」
音がした。階段を降りる音。二人分の足音。
軽やかなそれは浮かれた調子でやってくる。まさか伊地知さんたち?
想定よりずっと早い。このままだとまずい。
状況を確認する。外には逃げられない。入口は一つだけだった。
隠れる場所。カウンターの中、駄目だ、僕は関係者じゃない。
トイレ、遠くて間に合わない。天井、人類には無理。
慌てて辺りを見回す僕を、ひとりはぎゅっと両手を握って見ている。
頑張って、と言いたげだった。無責任に応援しないひとりは偉いなぁ。
店長さんはまだニヤニヤしていた。誰よりもこの状況を楽しんでいた。
そして時が来る。時間切れだ。もたもたしている間に選択肢は消える。
入り口前で足音が止まり、扉の軋む音がした。もう駄目だ、開いてしまう。
瞬間、僕の脳裏に電流が流れた。一つ思いついた。あまりにも分の悪い賭けだ。
それでもこれからのひとりのためだ、挑むしかない、ここが僕の勝負どころ。
決意と共に、僕は鞄からあるものを取り出した。
「…………えぇ」
「やっほー、ぼっちちゃん! 今日はちゃんと中入れたんだね」
「ぼっち、よく来た」
「えっあっはい」
「ぼっちちゃん、お姉ちゃんと何してたの?」
「……軽い面接だよ。一応な。あと店では店長と呼べ」
「はーい」
伊地知さんだ。声と名前で確信してたけどやっぱりそうだった。
あとりょうさんって、山田さんのことだったんだ。どうしよう、二人ともクラスメイトだ。
ますます僕のことを知られるわけにいかなくなった。思わず手に力が入る。
「早速だけど、お仕事始めよう! まずは清掃から!」
「お、おー」
「おー」
「あー、その前に虹夏。裏案内してあげて」
「裏?」
「荷物、その辺に置いとくと邪魔だろ」
「あっそっかー、ありがとお姉ちゃん!」
「おい、だからここでは店長と」
「こっちだよ、ぼっちちゃん! リョウも来て」
「あっはい」
「……行ったか。もういいぞ」
店長さんが伊地知さん達を遠ざけてくれたみたいだ。
その隙に手に持っていた黒い布を下した。後藤流隠れ身の術。
なんかいけた。苦し紛れだったけど通用してしまった。
「えぇ……なんなのお前。忍者か?」
「昔父に教わってて」
「後藤家は忍者の家なのか……?」
考えてみると父さんは自称窓際族だ。だけど家でお金に困ったことはない気がする。
ひとりの配信機材だって、おねだりすれば最初の頃は買ってくれていた。
会社でずっと寝てるような人が、どうやってそんなに稼いでるんだろう。
いやそんなまさか、本当に父さんは忍者だった……?
「で、ここまで避けるってなに、あの子と揉めてんの?」
「そういうわけではなくて」
流石にあんなことまでして避けるなんて思わなかったみたいだ。
さっきまでのからかい混じりではなく、少し真剣な表情で店長さんが尋ねる。
いい機会だ。僕の事情を話して早く帰ろう。
「伊地知さんとはクラスメイトです。僕はクラスで恐ろしく浮いてるので、
ひとりの兄が僕だと知られると気まずくなると思います」
「じゃあ、虹夏とは別に?」
「はい。むしろとてもいい人だと思います」
「ふーん」
バンドにバイトに友達。
僕が手伝ってあげられなかった多くのことを、彼女はひとりにしてくれている。
僕にとって彼女はもう大恩人だった。恐らく一生頭が上がらない。
「まぁいいか。んじゃばれない内にさっさと帰んな」
「はい、今日はすみませんでした」
納得したかどうかは分からないけど、店長さんは許してくれた。
その言葉に甘えて僕は席を立つ。いつ皆がこっちに戻ってくるかわからない。
荷物を手に取り、入口に向かった。
「終わった」
跳躍。ドア前の階段から飛び降り、死角に隠れる。
あれ、あれれ。皆裏の方へ行ったんじゃ。なんで山田さんが外から来るの?
入口を防がれている。これじゃ帰れない。
「……リョウ、お前あの子の案内してたんじゃないのか?」
「虹夏がしてるから」
そういえばさっき山田さんは返事してなかった。
あの状態だとあんまり動きが見えなくて気づかなかった。
「じゃあぼっちちゃん、始めようか!」
「あっはい」
伊地知さんたちも戻って来てしまった。
これで挟み撃ちの形になった。もう隠れる隙もない。場所もない。
どうしよう、終わった。見つかる。ごめん、ひとり。
どうすればいいか分からず、身動きの取れない僕に店長さんが近づき囁く。
「じっとしてろ」
そういうと僕に何かを被せた。視界が黒に染まる。
頭から手足の先まで何かにすっぽりと覆われている。
なんだこれ。触ると紙特有の滑らかさと、独特の分厚さを感じる。
ダンボールだこれ。
「あれ、お姉ちゃん何してるの、ってこれまだ取ってあるの?」
「……記念品だろ?」
「えー、これはちょっとなぁ」
「あっ私の完熟マンゴー……」
「いやぼっちちゃんのではないよ?」
完熟マンゴー。確かに染みついたマンゴーの匂いがする。
そうかこれが完熟マンゴー。今の僕は完熟マンゴーなのか。
ひとりの言ってたことが完全に理解できた。
「あとで使うから、これはここに置いといて」
「お姉ちゃんなんでもそう言うけど、結局いつも使わないじゃん」
「いいから、店長命令だ」
「はーい」
何故かはわからないけど、店長さんがさっきから凄い庇ってくれる。優しい。
他人にこんな好意的なことされるのは初めてだから、困惑してしまう。どうして。
優しさにはどう反応すればいいんだろう。何を返せばいいんだろう。
「あと少ししたらお客さん入り始めるから、それに紛れて帰りなよ」
伊地知さんが僕から離れると、店長さんが声を潜めて伝える。
ここに来たのが四時半くらいで、チケット販売は五時からと入口には書かれていた。
暗くて時計が今は見えないけど、もう五時近くのはずだ。
そんな待たずに脱出の機会は来るだろう。
「あ、ぼっちちゃんの履歴書だ」
「ぼっちが正面向いてる。初めて見た」
「初めて目が合った気がするね。写真だけど」
「勝手に見るな。個人情報だぞ」
「あっと、ごめんねぼっちちゃん。でも置きっぱなしのお姉ちゃんが悪いんだよ?」
「今片付けようと思ってたんだよ」
ひとりの履歴書があるということは、僕のも同じ場所に放置されている。
依然として大ピンチだ。見られた瞬間僕だとバレてしまう。
「んん? あれ、もう一枚あるよ」
「後藤……ぼっち、二枚書いてきたの?」
「えっあっはい」
違うでしょ。君のは僕が作ったでしょ。
昨晩履歴書買い忘れたから行けないって言い始めたから、一緒にパソコンで作ったでしょ。
あっ、そのデータを元にして僕のも作ったのか。あんまり直さなくてもいいし。すっきりした。
「あー後藤、後藤と言えば、虹夏、なんかこの間言ってなかったか?」
「え?」
「いや、クラスメイトがどうとかこうとか」
店長さんがまた誤魔化そうとしてくれた。
でもこれは多分僕への好意とかじゃないと思う。ちょっと探りを入れようとしてるのかな。
僕は見るからに怪しい変な奴だ。妹のクラスメイトだなんて言ってるし心配になるよね。
それにしてもこの人誤魔化し方下手だな。嘘とか苦手なのかな。
店長さんの疑問に答えたのは伊地知さんじゃなくて山田さんだった。
「多分、魔王のことだと思う」
「は? 魔王?」
「あっ、あー、後藤くんのことかな」
「ま、魔王……」
「ぼっちちゃんのことじゃないよ、別の後藤くんの話だから」
「あっはい」
今の僕は完熟マンゴーだからまったく周りが見えない。
それでも今ひとりがどんな顔をしているかわかる。
お兄ちゃん、高校でもそんな風に呼ばれてるんだ、って顔してる、絶対。
ひとりは生まれてこの方、あだ名で呼ばれたことがなくて悲しみを背負っていた。
逆に僕は、小中高通じてとあるあだ名で呼ばれて悲しみを背負っていた。
それが魔王だ。いや現代社会だよ? なんでそんなファンタジー?
きっかけは小学校一年生の入学式の日。
ほぼ幼稚園生の一年生は先生の言うことなんて聞かず、自由に暴れていた。
僕はそんな暴れっぷりについていけず、隅の方でいつも本を読んでいた。
そんな僕が気に食わなかったのか、ガキ大将だったらしい子が絡んできて本を取り上げた。
今思うと、あれはあの子なりの誘いだったのかもしれない。
本なんて読んでないで一緒に遊ぼうぜ、みたいな。
でも当時の僕はそんなことに気付かなかった。
だから本を取り返そうとして、なんやかんやであの子が気絶した。
暴力とかは振るってないはず。ちょっと胸倉掴んで睨み合ったくらいだったと思う。
思い返すと柄が悪い。魔王かどうかはともかく、怖がられても無理はない。
こうして入学一日目にやらかして、僕は小学生を始めて早々遠巻きにされた。
そしてその後も順調に被害者を増やし、一年経つ頃には魔王として学校中で語られていた。
遠く離れた下北沢でもそう呼ばれているのは、まあ、うん、三つ子の魂百までというか。
身に染みた魔王感は拭えなかったというか。僕は今日も恐怖の存在だ。
「魔王って、お前。なんだそのダサいの」
「いや、あれは確かに魔王。有識者の私にはわかる」
「リョウはなんの有識者なの?」
店長さんは微妙な反応をしていた。急に魔王だなんだって言われてもそうなるよね。
魔王だなんてヘンテコな呼び方をされる人がもし他にもいるのなら僕も見てみたい。
対照的に山田さんはなんだか楽しそうな声色だった。えっなんで?
そのまま彼女は魔王について解説を始めた。仕事しなくていいの?
曰く、睨むだけで人を気絶させた。
曰く、一瞬で人ごみを割り、通り道を作った。
曰く、毎日のように人を担いで連れ去り、どこかへ売りさばいている。
曰く、小中で地元を支配したから今度は下北沢を征服しようとしている。
残念なことにどれも身に覚えがある。
人と話すと気絶されるのは日常茶飯事だ。昨日今日と彼女達も見ているはず。
電車とかも僕が乗るとそこだけスペースが空く。周りには迷惑だろうけど、これは便利。
人を連れ去ってる、というのはひとりのことだろう。
高校生になってから青春ダメージが増えたのか、四月の放課後は大体再起不能だった。
あまりにも高頻度だから、途中から街中でもお構いなしでそのまま持って帰っていた。
最後のは、自己紹介のやつかな。ひとりと一緒に一晩かけて考えたんだけど大失敗した。
思い出したくもないけど、なんかそんなこと言ったような気がする。
振り返ってみると、大体僕の素行が原因だ。変な笑いが出そうになる。
そしてまったく見えないのに店長さんの視線を感じる。痛い。
「詳しいねリョウ」
「うん、下校で一番ロックな存在だから」
知らなかった、僕はロックだったのか。
もう音楽はやってないのに、いつの間にかロックになってたらしい。
「えっと、あっじゃあ、リョウさん話かけたりは」
ひとりが自分から声をかけてる。これを見れただけで今日ここに来た甲斐があった。
しかもこれはきっと、僕が学校で山田さんに話しかけられるように誘導しようとしてる。
ひとり、いつの間にこんな高等テクニックを。今日も妹は優しさに溢れている。
「しない。近づいていいロックといけないロックがある」
「あっはい、そ、そうですか、へへ」
「またダメージ受けてる」
駄目だった。あと僕は危険物だったらしい。
話しかけられても気絶するだけなのに。いやこれかなり危険物だ。納得。
ひとりが僕のために負傷していると、店長さんが三人に声をかけた。
「というかお前ら仕事しろ。そろそろお客さん来るぞ」
「やっば、ぼっちちゃんに全然説明できてない」
「あっじゃあ、きょ今日はこの辺で。お疲れ様でした」
「そこ、帰ろうとしないー! 今日はドリンクだけでも教えるから」
「あっはい。よ、よろしくお願いします……」
これがトニックで、これがビール、それでこれがコーヒー。
時間がないからか早く、それでいてテンポよく説明をする伊地知さん。
ただそれだとひとりは覚えられない。慌てて目を回すだけだ。
どうするひとり。あとやっぱりこの間の練習全然役に立ちそうにないね、ごめん。
「カクテルは~」
「そのギターどこから出したの!?」
新曲だ。歌にして覚えようって作戦みたい。
いい曲。焦燥感と劣等感との中に、ちっぽけだけど確かなやる気と決意を感じる。
秒で怒られ止められたけど。いくらライブハウスでもバイト中にギターは駄目みたい。
「お客さん来たけど入れていい?」
「もうそんな時間!? こ、こうなったらぼっちちゃん、ぶっつけ本番だよ!!」
「ええ!? も、もももも、もうですか」
山田さんが声をかけると、二人はもっと慌て始めた。
ジタバタドタバタしている。そのあんまりな様子に店長さんがため息を吐いた。
「……今日は私が受付やるから、リョウもサポートしてあげて」
「いいの、お姉ちゃん?」
「いいから言ってんの」
「ありがとう、お姉ちゃん!」
「ほら、今の内だ」
完熟マンゴーが外される。やっと人間に戻れた。
ずっと真っ暗だったけど、ライブハウスが元々薄暗いこともあって目もすぐ慣れる。
一応警戒しながら入口の方へ向かう。大丈夫みたいだ。
「今日は大変な迷惑をおかけして申し訳ございません」
「ほんとだよ。なんでバイトの子一人迎えるのにこんなことしてんだ」
入口、カウンターの死角で店長さんに頭を下げる。
疲れたーと肩を回す彼女に返す言葉もない。こういう時どうすればいいんだろう。
ここまで誰かに親切にしてもらったことはないから、どうしても分からないことがある。
「あの、どうして僕をこんなに助けてくれたんですか?」
分からない。助けてもらえる心あたりなんてない。優しくされる覚えはない。
特に、どうして僕に対してそんなことをするのか。放っておけばよかったのに。
「あー、なんかそういう流れだったし」
隠れたがってるやつを突き出すのも違うだろ、と店長さんは言う。
それと、と髪先を弄りながら、ちょっとだけ照れくさそうに続けた。
「まぁ、同じ妹を持つよしみってところかな」
僕は何も言えず、もう一度深く頭を下げてからスターリーを後にした。
ひとりのバイトが終わるまで今日もどこかで時間を潰さないと。
スターリー近くで待っていると、バイトを終えたひとりが歩いてきた。
家で言っていたバイト終了時刻を少し過ぎたくらいの時間だ。
途中で脱落することもなく、最後まで仕事を全うできたらしい。
だからか達成感に顔を赤くしてかニヨニヨしている。可愛い。
そして僕に気づいたようで走り寄ってきた。とても可愛い。
「お疲れ様、ひとり」
「お兄ちゃん、待っててくれたの?」
「うん、夜の下北を妹一人で帰らせるのは心配だよ」
それに、と続ける。
「履歴書のこと、ゆっくり聞かせてほしいから」
「あ゛」
餅みたいだった顔が石のように固まる。
ひょっとしなくても忘れてたなこの子。
初バイトで大変だったのは分かるけど、自分の犯した罪は償ってもらわないと。
「電車は長いよ~、いっぱい話せるよ~」
「お、お兄ちゃん。わ、私今日頑張ったよ?」
「そうだよね。初めてのバイトを逃げずにちゃんと出来た。凄い成長してるよ」
「えへへ」
「でも、いいことはいいこと、悪いことは悪いことだって昔教えたよね」
「うっ、で、でも、お兄ちゃ」
くしゅん、と可愛らしいくしゃみをひとりがした。
一度で止まらず何回か続ける。あれ?
顔が赤い。興奮で赤くしていると思ってたけど、今僕は妹に説教の準備をしていた。
だからもういつもみたいに青くなってる方が自然だ。なのに赤い。
「ちょっとおでこ触るね」
右手を自分に、左手をひとりの額に当てる。結構熱い。
熱だ。37℃は確実に超えている。
「風邪かな。ひとり、くしゃみ以外辛いところある?」
「えっ、ちょっと体がだるくて、頭が痛くて、ぼうっとするくらい?」
「どこを取っても風邪だよ」
とりあえず制服の上着をひとりに着せる。
身長差があるからぶかぶかだけど着ないよりはマシだ。
風邪か。こんなタイミングで引くなんて運が悪い。
いや逆か。なるべくバイトに行きたくないひとりとしてはいいことなのか。
氷風呂とか作ろうとしてまで休もうとしてたし。
「運がいいのか悪いのか分からないね」
「……」
するするとひとりは視線をずらした。あれ?
目が合わない。回り込む。逸らされる。回り込む。逸らされる。体調悪いのに素早い。
だけど甘い。フェイントを入れて視線の先に割り込む。捉えた。
「……昨日、何かした?」
「…………」
図星だ。顔に書いてある。絶対何かした。
熱いお風呂に入れて、ドライヤーもかけてあげて、ほこほこの状態で布団に入れたのに。
まさかひとりに裏をかかれるなんて。こんな形で成長を感じたくなかった。
今後のことも考えてこのまま問い詰めたいけど、今のひとりは具合が悪い。
電車のこともあるし帰ってからでいいだろう。なんなら治ってからでもいい。
「さ、ひとり乗って」
ひとりに背中を差し出す。おんぶだ。
この年になってまでとは思うけど、意識の有無を問わず散々してきたから今更だろう。
無言のままおずおずとひとりが乗った。そのまま歩き出す。
「でも本当に頑張ったね。正直、途中で助けに呼ばれると思ってた」
駅に向かう途中、背中のひとりに語りかける。
助けに呼ばれても応援くらいしか出来なかったとは思うけど。
最悪、完熟マンゴーとして潜入くらいはしたかもしれない。
「で、でも、勝手にお兄ちゃんの履歴書出したし、風邪も」
「さっきも言ったでしょ」
ずれ落ちてきたひとりを背負いなおす。
しがみつく力が弱い。思ったよりひどい風邪もしれない。
「いいことはいいことだって」
「うん」
それっきり暫く沈黙が流れた。時折ひとりがするくしゃみと咳だけが聞こえる。
駅にそろそろ近づくかなという頃にひとりがぽつりと口にした。
「……ごめんなさい。昨日風邪引こうとしてました」
「うん」
それは知ってる。先を促した。
「ゆ、湯たんぽに氷水入れて、布団の中に隠してた」
流石の僕でも妹の布団は触らない。ひとりもよく分かってる。絶好の隠し場所だ。
なんでこんな時だけ発想が柔らかいんだろう。ため息が漏れる。
「治ったら説教三倍ね」
「はいぃ」
ひとりの小さな小さな声が、下北沢の街中へ消えていった。
「あっ、あと店長さんがいつでも働きに来いって」
「行けたら行くって伝えておいて」
「そういえばPAさん。私たち来た時隠れてましたけど、忍者ごっこでもしてたんですか?」
「? 私今日はずっと裏で仕事してましたよ」
「えっ」
「えっ」
「……じゃ、じゃあ、あれは誰、いや何?」
「何やってんの。そろそろ帰るよ」
「あ、お姉ちゃん! わ、私たち来た時、壁に隠れてた人いたよね!?」
「…………さぁ、何の話? ぼっちちゃんと私しかいなかっただろ」
「」
しばらく閉店後のお店が怖くなりました。
感想、評価よろしくお願いします。
次回はおまけです。おまけなので21日(土)に投稿します。
次回本編のあらすじ
「女装」