前回のあらすじ
「魔王二人と妖怪を率いる五歳児」
Q 後藤家両親に聞いた、兄妹の似ているところは?
A 暴走癖 独り相撲が得意 極端から極端へ走る ほか
「一曲目、忘れてやらない、でした!」
一曲目の演奏が終わり、喜多さんがそう宣言すると歓声が沸き上がる。
夏休みの時とは比較にならないほど、ライブ会場は想像以上の盛り上がりを見せていた。
そして皆もあの時と比べてずっと上手く、ずっと安定して演奏出来ていた。
特に喜多さんの上達が著しい。ギターもかなり安定しているし、歌にも気持ちが乗っている。
手拍子で観客を盛り上げ、ウインクを振り撒く余裕すらある。今日の彼女は絶好調だ。
伊地知さんも落ち着いているし、山田さんも周りをよく見て合わせている。
そしてひとりもライブにしてはよく弾けている。何より、とても楽しそうだ。
これなら皆大丈夫、今日のライブは安心して楽しめそうでよかった。
そう思っているはずなのに、何か違和感が、どこか引っかかるものがある。
答えを求めて廣井さんの方を向くと、彼女も何かを考え込んでいた。
「……廣井さん、気のせいじゃなければ」
「ぼっちちゃんのチューニング、全然安定してないね」
彼女までそう感じたのなら、この感覚は絶対に間違いじゃない。
そしてひとりがそれに気づかないはずが、直そうとしないはずがない。
つまり技術で修正出来ないこと、おそらく機材トラブル、ギターの不調だ。
チューニングの異常、弦かペグか。いずれにせよ修理は難しい。
文化祭ライブの持ち時間は十五分。一曲四分と仮定すると、三曲やるから間は一分程度。
ペグはもちろん、弦の張替すら時間が足りない。あと二曲、だましだまし乗り切るほかない。
「そろそろ二曲目行きます! 結束バンドで『星座になれたら』!」
そうして廣井さんと現状把握をしている間に、二曲目が始まろうとしていた。
星座になれたら。曲名を聞いてひとまず安心できた。この曲なら大丈夫だ。
以前完成した時にひとりが聴かせてくれた。なんとなく譜面も覚えている。
例え弦が一二本使えなくても、なんとか弾ききれる、誤魔化しきれるはず。
そのはずなのに、ひとりは浮かない表情を、不安を顔に張り付けていた。
嫌な予感がする。あの子はいったい何を考えているんだろう。何が不安なんだろう。
弦が全て同時に切れるとか、非現実的で後ろ向きな想像でもしてるのかな。
その答えはサビに入り、とうとう弦が切れてしまった時に分かった。
一弦が切れたひとりはその場にしゃがみ込み、二弦の調整をしようとする。
だけどそれも上手くいかないようだ。どうやらペグも壊れてしまっているらしい。
それを見て廣井さんが、らしくない焦った声をあげた。
「二弦のペグも、あれじゃソロなんて出来ないぞ……!?」
「……ソロ?」
廣井さんが零した言葉を、僕は間抜けにもオウム返しする。
ソロ。聞き間違いであってほしかった。けれど彼女はいつもと違う真剣な眼差しをしていた。
「サビの後の、ぼっちちゃんのギターソロのことだよ。もしかして知らなかったの?」
「サプライズだから楽しみにしてねって、内緒にされてて。……それじゃ」
無意識のうちに、舞台上のひとりへと視線が向かう。
今まで見た中で一番酷い表情をしていた。怯えと恐れ、不安や後悔、そして自責と絶望。
見ていられなくなるほど重い、暗い感情が逆巻いている。そしてそれは僕にも生まれ始めていた。
ここで機材トラブルなんて起きるのか。音楽までひとりを、ひとりの努力を裏切るのか。
ひとりの頑張りは、努力は、いつだって報われなかった。いつだって裏切られてきた。
勉強はあの子を裏切った。どれだけ勉強しても、テストにそれは反映されなかった。
運動はあの子を裏切った。たくさん練習を重ねても、体は追いついてきてくれなかった。
それでも音楽は、音楽だけはひとりの頑張りに応えてくれた。応え続けると思っていた。
それなのにここで、こんな大事なところで裏切るのか。
違う、これは余計な思考だ。捨てろ。今考えるべきはそれじゃない。問題の解決策だ。
問題、ギターが壊れて演奏出来ない、ギターソロを乗り越えられないこと。
どうすればいい。ギターが駄目、一番簡単なのはギターを交換すること。
代えは持って来ていない、交換の当て、他の演者、軽音部、交渉時間、技術、不可能だ。
次、ギターの修理。弦を張り直す、弦はある、ペグが壊れてる、時間も無い、無理だ。
じゃあ他に、何か、何かないのか。出てこない。違う、出ないじゃない、出せ。
何のためにいる。発想を変えろ。問題はなんだ、本当にギターが壊れていることか。
問題は、障害の本質は音が出ないことだ。そこを見失うな、もう一度よく考えろ。
音。弦。チューニング。考えてもいたずらに同じ単語が回るだけ。内から答えは出せない。
だから発想を求めて周囲を一度観察する。ひとり、皆、廣井さん、客。人人人。
他人ばかり。無駄な苛立ちが募る。それが漏れてたのか、廣井さんが心配そうに声をかけてくる。
「ねぇ、ちょっと大丈夫?」
それで、一つ思いついた。
「……廣井さん、お酒出してください」
「急にどう」
「お願いします。早くしてください」
「いやなんで」
説明する時間も惜しい。説明すれば、きっと説得もしなきゃいけなくなる。
最悪廣井さんを気絶させて無理やり奪う。どうせこれから問題を起こす。一つ増えても関係ない。
そう考えて、何も抑えず我慢せず、乱暴にただ要望だけを口にした。
「いいから、出せ」
勢い任せの言葉は功をなして、廣井さんは一度大きく震えた後、黙ってお酒を渡してくれた。
瓶みたいと店長さんが言ってた通り、出てきたのはカップのお酒。一段階目はクリアだ。
二段階目、大きさを測る。以前試した時より大きいけれど、ひとりならなんとか出来ると信じる。
そして三段階目、どうやって中身を失くすか。
その辺に捨てる。多くの目がある。大騒ぎになって、すぐに先生が飛んでくる。ライブは中止だ。
外に捨てる。そんな時間は無い。行って帰って、その時にはすべてが終わっている。
廣井さんに飲んでもらう。ライブ前考えた通り、その場で嘔吐するだろう。どうしようもない。
そもそも他に空き瓶が転がっていないか、周囲を確認しても影一つ無い。
だから、実質選択肢は一つだけだ。僕が飲むしかない。どんな結果になってもだ。
恐らく、これを飲めば僕は退学になる。
他校での未成年飲酒。下北沢高校は厳しい校則だし、僕は生徒指導にも目をつけられている。
目撃者はこんなにもいる。ライブを動画に撮っている人もたくさんいる。証拠には事欠かない。
お酒を口にして無事に済む可能性はほぼない。だけど、だとしても、飲むべきだ。
今思いつく方法はこれしかない。出来るのは僕しかいない。だから、僕はやらないといけない。
そう思っているはずなのに、手が止まる、躊躇してしまう。
退学になれば、僕が下北沢に行く理由はなくなる。ひとりの付き添いも、もういらないだろう。
今のあの子は一人で学校にも、バイトにも行ける。何より結束バンドの皆が付いている。
お役御免だ。僕がいなくても、心配しなくても、絶対になんとかやっていける。
だからそうなれば、僕が皆と会うことはなくなる。
ただでさえ僕は評判が最悪なのに、飲酒で退学なんて実績も今度はついてくる。
そんな人と関わっていいことなんて何一つ無い。悪いことばかりだ。負担になるだけ。
だから退学になったら、僕はもう皆と会うつもりは無い。
迷いが出てくる。僕がこんなことやらなくても、なんとかなるんじゃないか。
未練が出てくる。せっかく友達が出来たのに、全て投げ捨てないといけないのか。
僕の弱さが僕を止めようと、言い訳や逃げ道を延々と囁いてくる。余計なノイズだ。
このまま何もせず、ライブが失敗に終わったらどうなるか考えてみろ。
失敗した文化祭ライブを、今もお通夜のような会場を思い出すと、以前山田さんが言っていた。
あれは選曲が原因だったそうだ。言ってみれば、彼女の趣味と周りがすれ違っただけだ。
でも今は? 自分の機材トラブルが原因で、そんな空気を生みだしたら、皆に味わわせたら?
ひとりはどう思うだろう。どれだけ傷を負うだろう。二度と立ち直れないかもしれない。
皆だってどうなるか。山田さんのようにトラウマになってしまうかもしれない。
最悪、これがきっかけで何か亀裂が生まれてしまうかもしれない。
一度大きく深呼吸する。未練や迷いもまとめて吐き出すように、大きく、大きくする。
僕がどうなろうとやらない理由はない。数字で見ても一対四。心で見ればそれ以上だ。
守れるものと比べて失うものなんて軽いもの、所詮僕の感傷でしかない。
理由を並べて、震えも心も無視して蓋を開ける。あとはこれを一気に飲むだけだ。
自分の背中を蹴り飛ばすために、最後にもう一度だけ舞台を見上げる。ひとりと目が合った。
暗く淀み、混乱し絶望している。それでも、まだあの子は諦めていなかった。それで決心した。
未練なんて起きないように、何も考えずにお酒を飲むことだけを意識する。
周りはもう見ていなかった。だから僕は、横から伸びる手にまったく気がつかなかった。
「ごめん父さん、母さん」
「謝るくらいならするな」
何を言われたのか認識する前に、頭に衝撃が走りお酒が奪われる。叩かれた。
急な痛みと声に、反射的に振り返る。いないはずの店長さんがそこに立っていた。
驚きに目を白黒とさせ、この期に及んで言葉も出ない僕へ彼女は問いかける。
「これ、飲めばいいのか?」
「……え」
「違うのか?」
「あっはい、空き瓶が必要で」
僕の返事に彼女はそうかとだけ呟いて、そのままお酒を一気に呷った。
白い喉をこくこくと鳴らして、勢いよく流し込んでいく。
予想もしてなかった救いの手、でも駄目だ、これじゃ間に合わない。
もうすぐサビが終わる。ギターソロが来る。全部終わる時が、すぐに来る。
「そんなに心配しなくても大丈夫そうだよ」
ずっと黙っていた廣井さんが、何も見えていないような適当なことを言う。
こんな状況で、なんでこんなお気楽な言葉を。反感を覚えて、何かを言おうとして。
その時、ギターの音色が響いた。
ギター、ソロ? ひとりじゃない。あの子は今弾けない。なら、もう一人しかいない。
喜多さんが、どこかで見たような姿勢と弾き方で、ギターを奏でていた。
この譜面も僕は知らない。元々なかったはずだ。ならこれも今日のために追加されたもの?
いや、違う。ひとりの表情が、喜多さんの演奏がそうじゃないことを教えてくれた。
これはアドリブ。喜多さんが、伊地知さんが山田さんが、ひとりを助けるために音を繋いでいる。
呆然と眺めるだけの僕に喜多さんは一瞬だけ視線をくれた。
励ますように、勇気づけるように笑ってくれた。
その笑みは緊張と不安で歪んでいて、今まで一番下手だった。でも一番格好いい笑顔だった。
何も見えていないのは廣井さんじゃない、僕の方だった。
喜多さんの勇気も、伊地知さんと山田さんの信頼も、僕は何一つ見ていなかった。
僕は、僕達は、もうぼっちじゃないことを忘れていた。
「ほら」
その間に店長さんはお酒を飲み干していて、空になった瓶を僕の胸に押し付けた。
お礼を言おうとして彼女の方を向くと、一発強めにデコピンされる。痛い。
デコピンした後、より強く僕に瓶を押し付けて一言だけ彼女は告げた。
「後で説教だからな」
そうだ、今はお礼も謝罪も抗議も全て後回しだ。今はこれをひとりに届けるのが最優先。
一礼だけして、頭を上げると同時に舞台の傍へ駆け寄る。そしてあの子の名前を呼んだ。
「ひとりっ!!」
名前を呼ばれたひとりの瞳にはもう絶望なんてない。ただ強い意志だけが浮かんでいた。
喜多さんの、皆の思いは伝わっている。ひとりへの期待、友情、信頼、全て伝わっている。
だから何も心配せずに瓶を滑らせた。ちょうど目の前で止まったそれをひとりは拾う。
言葉はいらない。これが何か、何をすればいいか、言わなくても分かってくれる。
拾った瓶をギターに合わせ、たった一度弾く。それだけでひとりは全ての音階を把握した。
常人には出来ない桁外れの神業だ。そのまま予定していたギターソロへと移行する。
「あのギター、何やってるんだ?」
「よく分からないけど、スゲー」
ひとりのボトルネック奏法に観客がざわつき始める。
あれがどれほど恐ろしいことをしているのか、正確に把握している人はほぼいないはず。
それでもその姿が、音が、演奏が、観客達を圧倒していた。
「まさかとは思ったが、マジでボトルネック奏法かよ」
「あれならチューニングなんて関係ないですからね!」
「だとしても、こんな土壇場でやるか普通?」
「あの子なら出来ます」
根拠は思い出の中に、僕達の人生に数えきれないくらい転がっている。
ひとりはギターの練習をする中で、歯ギターやら背ギターやら、特殊な弾き方も練習してきた。
ボトルネック奏法もその内の一つだ。フレットを使わずに無限の音を出す弾き方。曲芸の類だ。
にもかかわらず、ひとりはこれまでと遜色ない、いやそれ以上の演奏をしている。
冗談半分でも練習しておいてよかった。芸は身を助けるって本当なんだ。
やがてギターソロも終わり、曲はラスサビへと移っていく。
かつてない危機を乗り越え、天井を見上げるひとりにはただ達成感だけが満ちていた。
その姿を見て、ようやく安心して、急に足腰から力が抜けた。おかしいな、立てない。
「お、おいっ、大丈夫か?」
「すみません、なんか、力が入らなくて」
「見事に腰抜けてるねー」
情けないことに、安心し過ぎて腰が抜けてしまったらしい。
膝から崩れ落ちそうになる僕を、咄嗟に店長さんと廣井さんが支えてくれた。
助けてもらってなんだけど二人ともお酒臭い。それなのに、不思議と嫌な感じはしなかった。
僕はもう、音楽がひとりを裏切ったかどうかなんてどうでもよくなっていた。
あの子は努力して、頑張って、裏切らない大切なものをとっくに手に入れていた。
舞台上のそれを、星々を見上げて、ひとりが培ってきたものを僕は噛み締めていた。
「……バンドって、いいですね」
「今更かよ」
二人ともおかしそうに笑ってくれた。
二曲目が終わって、伊地知さんがMCを始めた。喜多さんと違って相変わらずぎこちない。
ちゃんと聞くべき、黙っているべきだけど、僕はどうしても今話したいことがあった。
「廣井さん、誘ってくれたこと、あれのことなんですけど」
「考えてくれた?」
さっきの僕の言葉もあってか、廣井さんは嬉しそうに反応する。だけど、今からそれを裏切る。
「僕はやりません。やりたくありません」
「………………へぇ、なんで?」
廣井さんの目が鋭くなる。嘘を許さない、見透かすようなあの目だ。
構わない。元々嘘なんて吐くつもりはない、全部本心だけで話すつもりだった。
「……廣井さんが言ってた通り、僕は人が、他人が嫌いです」
僕の言葉に、支えてくれている店長さんがぎょっとしていた。
急に変な話をしてごめんなさい。でも多分、今じゃないと話せないんです。
「噂や偏見で勝手に決めつける人が嫌いです」
誰も彼も話したことも無いのに魔王だなんだと、好き勝手に噂して面白がっている。
そのくせ関わろうとすれば気絶するか逃げるから、文字通りお話にもならない。
誰も僕を知らない下北沢へ来てもそれは変わらなかった。僕はここでも魔王だった。
原因が僕にあるのは分かっている。それでもそれは、僕が僕を、他人を諦めるのには十分だった。
「結束バンドの皆のことも嫌いだと、どうでもいいと思ってました」
伊地知さんのことは、よく見る背景くらいにしか捉えていなかった。
喜多さんのことは、通りすがりの物くらいにしか思っていなかった。
山田さんに至っては大嫌いだった。今思うと、あれは嫉妬と八つ当たりだ。
「だけど好きになりました。一緒にいるのが楽しくなりました」
いつの間にか他人なのに大切になっていた。一緒にいたいと思えるようになっていた。
そう感じる自分が信じられなくて、路上ライブの日までずっと、無意識の内に否定していた。
信じられない、これも違うな、僕は怖かったんだ。好きになるのが、好かれてると思うのが。
「友達っていいなって思えるようになりました」
家族以外の優しさを、楽しさを、好きって気持ちを、皆が教えてくれた。
そしてそれをもっと感じたいと、もっと誰かと友達になりたいと思うようになった。
「僕は誰かを好きになりたいです」
今も僕は他人が嫌いだ。嫌いだけど、好きになりたい。
「好きになって、友達を作りたいです」
嫌いなのに、好きになって仲良くなりたい。友達になりたい。
これは矛盾だ。そんなことは分かっている。それでも。
「だからあれは、あのギターは弾きたくありません」
「……そっか」
廣井さんが言ったあれは、あの音は、僕が他人を嫌っている証のようなもの。
それを堂々とひけらかすのは、他人が嫌いだと広言するのと同じだ。
そんなことをしていては、いつまでも僕は誰かが嫌いで、誰からも好かれないだろう。
今まではそれでもよかった。だけど僕は欲深くなってしまった。
「ごめんなさい。あんなに誘ってくれたのに」
「謝らなくていいよ。だって音楽なんだよ? なら楽しく出来なきゃダメでしょ」
廣井さんはそう優しく言ってくれるけれど、僕は寂しさを抑えきれなかった。
彼女はお酒以上に音楽を愛していると思う。今まで絡んでてくれたのは、あの音が理由だろう。
鬱陶しい時もよくあったけれど、いざなくなると思うと喪失感が大きい。
「何か勘違いしてそうだから言っておくけど」
「?」
そんな僕へ彼女は加減無しにデコピンを放った。くらうのは今日二回目だ。
痛くなかったけど、突然の攻撃に驚く僕を廣井さんは指さす。なんとなく不服そうな顔だ。
「ギターだけじゃなくて、君のことも私は好きだからね!」
「……はい、ありがとうございます」
今日の、いや今日も僕は何も分かってないな。下げた頭をがしがしと乱暴に撫でられる。
甘んじて受けていると、いつの間にか撫でる腕が一本増えていた。
こっちも雑な手つきだけど、どこか少し手慣れているような感じがする。
「……店長さんもやるんですか?」
「別にいいだろ。あんな話黙って聞いてやってたんだから、お前も少し黙ってろ」
そう言われてしまうと何も言えない。今日は店長さんに助けられっぱなしだ。
今も勝手に身の上話を聞かせてしまったし、言われた通り黙っていよう。
そうやってしばらく、二人から乱暴な優しさを受け取っていた。
「じゃあ後藤さん! せっかくだから何か言って!」
「あっ」
そんな不思議な時間も喜多さんの一言で終わりを告げた。
急に話を振られたひとりが、弦が切れた時くらい顔を真っ青にして震えている。
あれは駄目だ。今日はもう何も無いと思っていたけれど、最後に一つ仕事が出来てしまった。
「すみません店長さん、廣井さん。もう一個だけお願いしてもいいですか?」
「ここまで来たらなんでも言え」
「いいよ!」
今日は変なお願いばかりしている。そしてどれも聞いてもらっている。
廣井さんにすらしばらく頭が上がらない。困ってしまうけど、どこか嬉しい。
「合図をしたら、この方向に僕を投げ飛ばしてください」
今回のも相当変だ。二人とも首を傾げていたけどまた聞いてもらえた。
だから僕も安心してひとりの様子だけ観察できる。顔色を、表情をよく見る。
焦って、悩んで、思い出して、そして決心する。きっとこのタイミングだ。
「今です」
「おらっ」
「へいっ」
二人に投げ出された僕がよろめきながら歩きだすのと同時に、ひとりがステージから跳んだ。
やると思った。まったく話せないけど、それでも会場は盛り上げたいという欲が出たんだろう。
廣井さんのライブでも参考にしたんだろうけど、観客に備えが無ければただのボディプレスだ。
誰も受け止めるはずがない。このままではただの飛び降り自殺と変わらない。
それも僕がいなければの話だ。ライブ中は結局何も出来なかったから、これくらいしないと。
入らない力で何とか位置を調節して、ひとりの落下ポイントまでたどり着く。
大人二人の力が良かったのか間に合った。無事に落ちてくるひとりを抱き止められた。
入らないなりに工夫して、膝、腰、腕、全身を使って衝撃を和らげる。
消化しきれなかった分は、受け身の要領で一二回地面を転がってなんとかした。
腕の中のひとりを確認する。目をぐるぐると回して気絶しているけれど、それだけだ。
怪我も無い。自分のも含めて頭は守れたから、特に心配もいらないだろう。
一安心して立ち上がろうとして、まったく手足に力が入らないことに気がついた。
あれ、おかしいな。腰が抜けてた足はともかく、手は動くはずなのに。
それどころか視界まで、思考までかすみ始めた。どういうことだろう。なんだこれ。
どんどん意識が薄くなっていく。そこでやっと気がついた。これ気絶だ。僕気絶しかけてる。
なるほどこれが気絶。他人には数え切れないほどさせてきたけど、自分がするのは初めてだ。
どうして急に。緊張と安心の連続で脳が混乱でもしたのか。今更どうしようもないか。
にしても気絶ってこんな感じなんだ。ふわふわする。なんだかおかしい、笑える。不味いなこれ。
「ご、後藤さん、先輩、大丈夫ですか!?」
「すごーい、おねーちゃんがおにーちゃん倒した!」
「まさか、魔王を討つ勇者がぼっちだったとは。この私の目をもってしても見抜けなかった」
「言ってる場合か節穴ァ!!」
「おー見て見てー、二人ともいい寝顔ー。あっ私も寝ちゃおー。おやすみー!」
「てめー永眠させてやろうか!? んなことより担架、誰か担架持ってこい!!」
今までは周りになかった、そんな賑やかな会話を耳にしながら僕の意識は落ちていった。
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最終回のあらすじ
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