前回のあらすじ
「勇者ぼっち誕生」
「私、ひとりちゃんを支えられるようになるね」
喜多さんのその声で目が覚めた。肌に伝うシーツの感触。ほのかに感じる消毒液の匂い。
気絶した僕達はどうやら保健室に運ばれたらしい。救急車を呼ぶほどじゃなかったようだ。
起き上がる前に手足の指先を動かしてみる、両方とも力が入る。大丈夫そうだ。
「お兄ちゃん!」
「先輩! 大丈夫ですか!?」
「おはよう。平気だよ」
起き上がると、ひとりと喜多さんが心配そうにしていた。
返事もそこそこに僕はベッドの縁に座り直し、ひとりへ向けて腕を開いた。
「ひとり、おいで」
「えっあっうん」
そして呼びかけて、とりあえずひとりを抱きしめた。
「!?」
喜多さんが驚愕だかドン引きだかしてるけど気にしない。今の僕は気絶明けだ。
だから急に頭のおかしいことをしてもしょうがない。意味不明の言い訳を自分で並び立てる。
目をひん剥く彼女は放っておいて、僕は腕の中のひとりに問いかけた。
「ひとりは大丈夫? 痛いところとか無い?」
「お、お兄ちゃんが受け止めてくれたから、平気」
「よかった。でも今度からはやる前に相談してほしいな」
「……うん、ごめんなさい」
話しながらさりげなく、ひとりの頭を撫でて触診する。たんこぶも切り傷も出来ていない。
抱きしめた腕を調整して反応を見るけど、特に何ともない。言葉の通り怪我はないらしい。
ひとりが無事でよかった。じゃあ次、ライブの方はどうなったんだろう。
「そういえば喜多さん、あの後ライブはどうなったの?」
「え、その体勢のまま聞くんですか!?」
「うん」
「曇りなき目!!」
ツッコミながらも喜多さんは、僕達が気絶した後のことを教えてくれた。
当たり前の話だけど、あの後結束バンドのライブは中断となった。
残念だけど、リードギターが二重の意味で壊れてしまったから当然だろう。
ついでに廣井さんが本気で寝てしまったから、店長さんが担いで退場したそうだ。お疲れ様です。
その後は予定より遅れたけど、無事に他のバンドもライブが出来たらしい。
よかった、僕達のせいで彼らの頑張りを無にしてしまうところだった。
というか何故か、あのダイブと気絶で会場は更に盛り上がったそうだ。ロックって分からない。
「あの、お兄ちゃん」
ロックについて哲学的思考に陥りつつあった僕を、ひとりが連れ戻してくれた。
回した腕で僕の背中を叩いた後、顔を見上げながらおずおずと尋ねてくる。
「どうだった?」
どうだった。何がどうだった? そう迷ったのも一瞬で、答えは簡単だ。
今日のライブの感想だ。怪我と現状の確認でそこまで頭が回っていなかった。
いつもいの一番に言っていたのに、ずっと触れなかったから心配になったのかな。
なんて言おう。頑張ったねとか、よく諦めなかったねとか、偉いねとか。
兄として妹に言いたいことはたくさんある。だけど、今言うべきことは違うはず。
今求められているのはバンドマンの、ギタリストのひとりへの言葉だ。
「凄く格好良かった」
だから、これ以上はいらない。兄としてじゃない、一人のファンとしての思いだ。
ステージに立って演奏する姿は、何があっても諦めなかったひとりは、とても格好良かった。
そう伝えると、目と鼻の先でひとりは恥ずかしそうに、嬉しそうに微笑んでくれた。今は可愛い。
「喜多さん」
彼女にも感想を伝えないと。そう思って呼びかけると、何故か目を閉じて腕を開いていた。
なんだあれ。何かのポーズ? まるで何かを待ってるような、迎えるような。
いやまさか、そんなはずないとは思うけど、僕が彼女にも抱き着くと勘違いしてるとか。
少し観察しても喜多さんは微動だにしない。完全に待ちの姿勢だ。どうしよう、困った。
「ひとり、どうしよう」
「えっえっ、わ、私に聞くの?」
「行くのもよくないけど、行かないのも不味い気がする」
「な、ならもう、好きにするしかないんじゃ」
行くと何かが終わる予感がするし、行かないのも喜多さんに恥をかかせてしまう。
迷いすぎて若干彼女の顔が赤くなってきた。勘違いに気づいたのかもしれない。
そのタイミングでようやく一つ思いついた。作戦のため、まだ胸の中のひとりを反転させる。
「ごめんねひとり」
「えっ、わっ!?」
「ん!? あ、あれ? ひとりちゃん?」
そのまま背中を押して、喜多さんの腕の中にひとりを飛び込ませた。
ひとりも喜多さんも、急にお互いの顔が目の前に現れて困惑しているようだった。
絶対に無いとは思っていたけど、嫌がってはなさそうだ。作戦その一成功だ。
「失礼します」
「!?」
そして作戦その二、僕と喜多さんの間にひとりを挟んでみる。
直接するのは色々問題があるけれど、これならギリギリいけるかも。
「ぐふっ」
いけなかった。友達との抱擁は、密着はまだ刺激が強かったらしい。
僕と喜多さんに挟まれてひとりは死んだ。死んでも緩衝材になってくれていた。出来た妹だった。
突然の抱擁に突然の死。喜多さんは目を白黒とさせていたけれど、それだけだった。
「ひ、ひとりちゃん、また気絶しちゃいましたけど……」
「そうだね。でも、かえってちょうどいいか」
「ちょうどいい、ですか?」
「ひとりの前だと言えないけど、喜多さんにどうしても伝えたいことがあって」
「……言えないこと?」
「大切なことなんだ。でもあの子の前だとちょっとね」
僕の言葉に喜多さんは何故か生唾を飲み込んで、あたふたと髪を弄り始めた。
「あっ、ど、どど、どうぞ」
そして何故かひとりのようになっていた。ギターはいいけど、生態は真似しない方がいいよ。
喜多さんが何を考えているか分からないけど、このままじっとしていてもしょうがない。
ひとり越しとはいえ抱きしめた状態だ。長々とするのもよくない。早く言ってしまおう。
「喜多さん、今日はありがとう」
「え、えっと?」
「あの時ひとりを助けてくれて。ギターソロに挑戦してくれて」
「あ、あー、そういう」
今度は何故か、喜多さんは自分の頬を引っ張っていた。訳が分からない。痛くするよ。
その痛みで冷静になったようで、彼女はどこか落ち着いた様子で語りだした。
「だけど、あれは私のわがままみたいなものですから」
「わがまま?」
「はい。格好いいひとりちゃんを、私が見たかったんです」
「……そっか、じゃあ半分だけ取り下げるね」
喜多さんは不思議そうな顔をして、ただ首を傾げるだけだった。
もう半分の心当たりがないんだろう。だけどそっちの方が本命だ。
「そう、半分。もう半分は、ここからがひとりには聞かせられないところ」
さっきひとりのことを褒めたのに、これから話すことを聞けば拗ねてしまうかも。
拗ねるのはいい方で、下手をすればいじけてしまう可能性もある。だから聞かせられない。
「今日は喜多さんが一番格好良かったよ」
「……ひとりちゃんじゃなくて、ですか?」
頷いて返事をすると、喜多さんは僕がひとりを抱きしめた時よりも驚いていた。
僕がこんなことを言うなんて想像もしてなかったのだろう。
自分で言うのもなんだけど、僕が家族より他人を高く置くなんて。
半年前の僕に話しても一笑されるくらいありえないこと、僕自身信じられない思いだ。
「歌も演奏も凄く上手くなってた。あれからたくさん練習したんだね」
どっちも最後に聞いたのはいつだったか。
歌はひとりとのことを打ち明けた時、ギターはそれこそ夏休みのライブだったはず。
それからは文化祭の準備で忙しくて機会がなかった。だから僕の驚きもひとしおだった。
「特にあのギターソロは感動したよ」
「あれは無我夢中で、それにたくさん失敗もしちゃいましたし、私まだまだです」
「技術はその内追いつくよ。でも気持ちは、勇気は違うと思う」
「……そうでしょうか?」
「あそこでひとりを見て、皆を信じて、勇気を出せたこと。あれは喜多さんにしか出来なかった」
ひとりを助けたいという優しさ、ひとりなら打開するという信頼、そのために踏み出せたこと。
そのどれもが眩しくて、格好良くて、僕は彼女のことがまた好きになった。
この気持ちはどう伝えればいいんだろう。
スキンシップは駄目だ。今だって僕としてはギリギリの行為。これ以上は友達のラインを超える。
じゃあ言葉にするしかない。でもただ単純に褒める、好きだと伝えるのもなんだか芸がない。
少し考えて、寝起きにとてもいいものを耳にしたことを思い出した。僕も参考にしよう。
「今日は素敵なものを見せてくれてありがとう、郁代さん」
「……」
「あれ郁代さん、もしもし郁代さん? 郁代さん、郁代さーん?」
郁代さんがひとりを名前で呼んでいたのを真似させてもらった。
名前呼び。これもまた一つの親愛表現だ。他人をちゃんと名前で呼ぶのって初めて。
呼び方を変えただけなのに、距離が近づいた気がしてそわそわする。不思議な感じだ。
僕なりに勇気を出したけど、郁代さんは何も反応してくれない。止まったままだ。
もしかして、また何か不味いことをしてしまったのかな。どこだろう。
僕が悩み始めると同時に、急停止していた彼女が強烈な震えと共に何かを発し始めた。
「さ、さささんづけはだめよしわしわがもっとしわしわにしわしわしわしわ」
壊れちゃった。
「おーいぼっちちゃん、後藤くん、起きたー?」
「お腹空いた。早く起きないと打ち上げ置いて行くよ」
増えた死体をどうしようか悩んでいると、保健室の扉が開いた。
あまりにも僕達が遅いから、二人ともしびれを切らしたらしい。助かった。
「おはよう二人とも。ライブお疲れ様」
「おは…………なんで後藤くん以外気絶してるの? なんかした?」
「何もしてないのに壊れた」
「なんかした人が言うやつ!」
経緯を話すと伊地知さんが説明してくれた。曰く、喜多さんは名前で呼ばれるのが苦手らしい。
しわしわネームだからだそうだ。郁代、綺麗でいい名前だと思うのに。
さん付けでしわしわ限界突破したから気絶したんじゃないか、というのが伊地知さんの見解だ。
しわしわ限界突破ってなんだろう。何も分からないけど、名前呼びは一旦諦めることにした。
「というか、喜多ちゃんのこと名前で呼んだんだ」
「うん。そうやって指摘されると、なんか恥ずかしいね」
たかが違う呼び方を試しただけ。それだけなのに、不思議な気恥ずかしさがある。
それを見抜いたのか伊地知さんは、僕を試すように自分のことを指差し聞いてきた。
「私は?」
「伊地知さん」
「そうじゃなくて」
誤魔化してみたけどまったく通用しなかった。伊地知さんは手ごわい。
もちろん彼女が言いたいことは分かっている。私は名前で呼ばないの、ってことだろう。
呼びたいけれど、今日は疲れた。急ぐことでもないからもっと余裕がある時にしたい。
「……今日はもう勇気が無いから、また次の機会にお願いします」
「ふーん、ほーん、へー」
僕の返事を伊地知さんはにやにやと受け取った。猫っぽい耳やら目やらの幻覚が見える。
これなら名前で呼んでも大丈夫そうだよかった嬉しい、とでも思い込んでおこう。
それ以外特になんとも思ってない。本当だよ。本当。
「じゃあ楽しみにしとくね!」
そう明るく言ってから、彼女は気絶組の面倒を見始めた。
何か僕も手伝おう。そう思って動こうとすると、突然腕を引かれる。
振り返ると山田さんが物欲しそうにしていた。お腹の音がうるさい。
「陛下お腹空いた。何かちょうだい」
「のど飴しか持ってないよ」
「ありがとう」
ポケットに入っていた唯一のお菓子を取り出すと、その瞬間に奪われた。
まだあげるとも言っていないけど、山田さんがご満悦だし別にいいか。
その飴をころころと口の中で転がして、彼女はとてもご機嫌そうだった。
「今日の後藤兄妹は中々ロックで面白かった」
「その言い方演奏じゃなくて、ひとりのダイブのことだよね。あれを褒められても」
「それもだけど、陛下のもだよ」
「僕の気絶もロックなの?」
「そっちじゃなくて、廣井さんから奪ったやつ」
その言葉でぴしりと体が固まったのが、自分でも分かった。
今日廣井さんから強奪したのは、あの時あの場所の、あのお酒しかない。
「もしかして、見てた?」
「バッチリ」
ステージ上でやりなよ、と言いたくなるくらい見事なウインクとサムズアップだった。
今日の山田さんは周りをよく見ている、なんて思っていたけれど、余計なものまで目にしていた。
飲酒は結局未遂だったけど、皆に知られると余計な心配をかけてしまうかもしれない。
それに振り返ると、凄い空回りと思い上がりで恥ずかしい。山田さんには黙っててもらわないと。
「……内緒にしてね」
「ふっ、とうとう陛下の弱みを手に入れた。これから私の下剋上が始まる」
「今度から弁当作るのやめようかな」
「ははーっ、申し訳ございませんでしたー」
「うむ、許して遣わす…………ふふっ」
久しぶりの様式美だ。変なやり取りではあるけれど慣れてしまった。
そのことがなんだかおかしくて、自分で言っててつい笑ってしまった。
山田さんはどうしてか目を見開いていたけれど、その後は同じように笑ってくれた。
そうして伊地知さんがひとりと喜多さんを復活させるまで、二人して微かに笑い合っていた。
慣れのおかげか介護のおかげか、それほど時間もかからずに二人とも復活した。
これから皆は打ち上げだ。見送ろうとした時に、僕は大事なお願いを思い出した。
「打ち上げ前で悪いけど、皆に一つお願いしてもいいかな」
なんだろうと顔を見合わせてから、皆こちらを向いてくる。聞いてくれるようだ。
山田さんだけ対価を求めて手を伸ばしてきたけど、伊地知さんに叩き落とされていた。
これなら僕も口に出せる。今日最後の勇気を頑張ってひねり出した。
「今日のライブでファンになったから、皆のサインが欲しい、です」
「ファンかー、なんだか照れるなー……………あれ、ちょっと待って」
最初は嬉しそうにしていた伊地知さんが、段々と怪訝な顔になっていく。
腕を組んで考え込んだ後、驚きと疑念を全面に押し出して声をあげた。
「え、じゃあ今まではファンじゃなかったの?」
「うん」
「素直!」
僕の返事に伊地知さんだけじゃなく、喜多さんも山田さんも不服そうにしていた。
喜多さんなんかチクチクと僕の脇腹を攻撃してくる。痛くないけどくすぐったい。
「えー先輩、それは薄情じゃありませんか?」
「…………逆に聞くけど、今までファンになる要素ってあった?」
「薄情を重ねて来た」
三人に、よく見るとひとりもだから四人全員に軽く睨まれる。
そうなる気持ちはよく分かるけど、僕の言い分も聞いて欲しかった。
はっきり言って、今までバンドとして皆のファンになる理由はほぼ無かった。
「だって僕が見たライブって、夏休みのあれだけだよ」
「うっ」
「言いにくいけど、あれでファンになるのは難しいよ。なるとしてもひとりのだよね」
「お、おっしゃる通りです」
「他に見てるのは普段の漫才くらいだから、ファンになってもお笑いとしてかな」
「今日言葉のナイフ鋭くない?」
今日は緊張したり捨て鉢になったり、挙句の果てに気絶までしてしまった。
そのせいで普段よりもブレーキが緩んでいるような気がする。
よくないことだ。僕は調子に乗りやすい方だから、もっと気を引き締めないと。
「まあいいや。とにかくサインサイン、何に書けばいい?」
「あっ私色紙持ってます」
「用意いいねー。あっ後藤くんが今日欲しがるって予想してたとか?」
「あっ求められたらいつでも書けるように、毎日持ち歩いてます」
「ぼっちちゃん……」
初めて作詞をした時にサインを作ってから、ひとりの鞄には常に色紙が入っている。
もちろんその時にひとりのサインはもらった。僕がサインをもらった第一号だ。
ちなみに父さんは二号、泣いて悔しがっていた。でもあげない。あれは僕のだ。
「ふむ、では私から書かせてもらおう」
ひとりが伊地知さんに渡そうとした色紙を、山田さんが横から手に取った。
同時にサインペンも手にして、当然のような顔をして色紙にペンを走らせる。
とても慣れた手つきだった。ひとりのように、彼女も密かに練習しているのかもしれない。
「……あっ! なんで真ん中に書くの!?」
「結束バンドの中心は私だから当然。陛下も嬉しいよね?」
「ひとりのがよかった」
「がーん」
書いてもらってしまったものはしょうがない。
空いているところに皆にも書いてもらった。急な話だったけど、皆サインは考えていたようだ。
最後に喜多さんが書き込んで四人揃った。喜んで受け取ろうとすると、山田さんが口を挟む。
「待った郁代、転売対策に宛名も書いて」
「リョウじゃあるまいし、そんなことする訳ないでしょ」
「失礼な、私だってしないよ」
「じゃあ喜多ちゃんのベースって、今どこにあるの?」
「………………ベースを愛する人のところ、かな」
「リョウ先輩……?」
山田さんのすっとぼけた返事に喜多さんは愕然としていた。悲しい事件があったらしい。
その影響かは知らないけれど、宛名を書く彼女の手はすっかり止まってしまった。
「き、喜多ちゃん、どうしたんですか?」
「………………………………………後藤先輩の名前って陛下と魔王、どっちでしたっけ?」
「えっ」
空気が凍った。
「き、喜多ちゃん……?」
ひとりにすら信じられないようなものを見る目を向けられ、喜多さんは大いに動揺している。
それでもなんとか僕達を納得させようと、頑張って言葉を並べ始めた。
「だ、だって、リョウ先輩、先輩のこと陛下って呼んでますし、先輩魔王って呼ばれてますし!」
「陛下はあだ名だよ。私が名付けた」
「うわドヤ顔。あー魔王が先だし、あれもあだ名というか異名というか、とにかく違うよ」
比較出来ないほど名前よりも魔王の方が呼ばれている。そっちの方が通りはいい。
それはそれとして喜多さんの発言が冗談じゃないことが分かり、微妙な空気が流れた。
なお山田さんだけは感心し始めた。相変わらず不思議な感性だった。
「ここに来て薄情ナンバー1を狙ってきたか。さすがナチュラル鬼畜郁代、侮れない」
「ナチュラル鬼畜郁代!?」
言い訳も受け取られず鬼畜の烙印まで押された喜多さんが、耐えかねたように主張した。
「だってしょうがないじゃないですか! 私、後藤先輩に自己紹介してもらってません!」
「…………そういえば、そうだね」
喜多さんは恨めし気だ。教えてもらってないのに、と目が語っている。
でも僕から言わせてもらえば、ずっと自己紹介する隙も無かった。あの頃の喜多さんは怖かった。
「名乗っても無いのにぐいぐい来るから、正直怖かった」
「えー、後藤くんでも怖いとかあるの?」
「名前は聞かないのにロインは聞いてくるし、そのままカラオケにも呼び出されるし」
「えっ、喜多ちゃん怖っ」
「いやそんな大げさな」
「えっ、郁代怖っ」
「リョウ先輩!?」
驚愕に震える喜多さんに目もくれず、山田さんがちらちらとひとりに視線を送っていた。
なるほど、フリだ。ひとりもちゃんと理解したようで、何回か唾を飲んだ後で叫んだ。
「あっ、えっええっ、きききき、喜多ちゃん怖っ!!」
「ひとりちゃんの反応の方が怖いわ」
そんな茶番を挟んで一息つくと、今度は僕が皆に注目され始めた。
期待やらなにやら、とにかく何か好意的な目、肯定的な目で自己紹介を求められている。
今までは想像もしていなかった状況だ。想像出来ないことで嬉しいことが起きるようになった。
これからはきっとこんなことも増えていく。そう考えると胸が嬉しさで一杯になる。
「じゃあ改めまして、僕の名前は」
そんな気持ちを抱きながら、僕は生まれて初めて望まれて自己紹介をした。
お父さんに土下座しよう。
大変だったけど楽しかった文化祭ライブと、その打ち上げを終えて私は決意した。
だ、だって、お父さんから借りてた、あんなに大事にしてたギター壊しちゃった。
ことあるごとにあのギターを抱えて自慢話をよくしてた。あれはお父さんにとっての青春だ。
何度も聞かされて凄く鬱陶しかったけど、それはそれ、これはこれ。ちゃんと謝らないと。
「お兄ちゃん、一緒に土下座して」
「ギターのことなら、父さん気にしてないと思うよ」
一人での土下座は寂しいから、お兄ちゃんにもお願いした。私は何を言ってるんだろう。
自分でも意味不明なお願いだったけど、お兄ちゃんは全部分かってるみたいだった。
気もそぞろにしながらも、袖を摘まむ私を慰めるように頭を撫でてくれた。
「むしろガンガン壊せ―、くらいは言うんじゃない?」
「そうかな、怒ってないかな」
「平気平気。喜んで破壊用のギターカタログとか出してくるよ、きっと」
「えぇ……いくらなんでもそれはないよ」
そう言ってお兄ちゃんは私を励ましてくれるけれど、視線はこっちに無い。
ずっと手に持った物を楽しそうに眺めている。見るからにご機嫌なのが伝わる。
こうして私が話しかけているのに見てくれないのは凄い珍しい、というか初めてかもしれない。
珍しいなと思っただけで、それ以外は別に何も感じてない。本当に。本当。
「……サイン、そんなに嬉しかった?」
「うん。あっ、今度これ用の額縁買ってこないと」
お兄ちゃんが実用品以外を欲しがる。これもまた凄く珍しい。
殺風景な部屋からも分かるように、お兄ちゃんは趣味で何かを買ったりはしない。それなのに。
密かに驚いて、それに気づかないお兄ちゃんへ更に驚いていると、ふたりが部屋に入ってきた。
「おにーちゃん何見てるの?」
「サインだよ。今日結束バンドの皆に貰ったんだ」
嬉しそうに言うお兄ちゃんに、ふたりも興味を引かれたみたい。
お兄ちゃんの元へ歩いて膝の間に座り込んだ。そしてお兄ちゃんが持つサインを覗き込む。
最初は綺麗だー、と喜んでいたふたりだけど、何か変なものを見つけたらしい。
むむむと眉をひそめている。私のサインがダサいとか言われなければいいなぁ。
「んー? でもおにーちゃん、これおねーちゃんのだよ?」
私の? 意味が分からなくてお兄ちゃんを見ると、お兄ちゃんも私を見ていた。
二人して首を傾げる。そんな私たちを見て、ふたりがサインの一か所を指差す。
「だってここ、ごとうひとりくんへって書いてある」
「……ふたり、漢字読めるの?」
「読めるよ! これがごとうで、こっちがひとり、だよね!」
「凄い、ふたりは頭がいいね。将来は学者さんかな」
「えっへん!」
鼻を高くして胸を張るふたりに、まったく嘘の様子は見えない。
えっ、本当に読めるの? そんな、私があのくらいの時にはひらがなも怪しかったのに。
ま、不味い。このままではあと数年もしたらふたりに学力で抜かれる……!
お姉ちゃん因数分解も出来ないのって煽られる……! 実際苦手だから何も言えない!
「はい、おねーちゃんどうぞ! もうなくしちゃ駄目だよ!」
未来のふたりに怯えていると、今のふたりが私の膝に座っていた。
まま、まさか、既に因数分解を!? 馬鹿な妄想に一瞬気を取られる。そんな訳ない。
ふたりが差し出していたのは、お兄ちゃんがもらったサインだった。
「はっ、あ、ありがとうふたり。だけどこれはお兄ちゃんのだよ」
「ここにひとりって書いてあるよ? おねーちゃんの名前でしょ」
忘れちゃったの、とでも言わんばかりにふたりがサインを私の顔に押し付ける。
よ、読めない。この至近距離じゃそもそも読めない。真っ暗で線しか見えない。
のしかかるふたりをお兄ちゃんがどけてくれて、ようやくふたりの言ってることが分かった。
お兄ちゃんの名前を読み間違えていた。紛らわしいからしょうがないと思う。
「これお兄ちゃんの名前だよ。ひとりとも読むけど、お姉ちゃんの名前はひらがなで書くから」
「漢字って難しい……」
ふたりに勝った。いや園児に勝ってどうするの。負けたらもっとどうするの。
葛藤する私を気にせず、気に出来るのお兄ちゃんくらいだけど、ふたりは別の漢字を指差した。
「じゃあおねーちゃん、こっちはなんて読むの?」
「これは、おうえんだよ」
「おねーちゃん漢字読めるんだ!?」
「私高校生だよ!?」
ふたりは舌を出して冗談だよーなんて言っている。あざとい。将来が怖い。
「ひとり、そのまま全部読んであげたら?」
妹の将来をあらゆる意味で恐れていると、お兄ちゃんから提案があった。
サインは普通の書き方より読みづらいから、ふたりに教えてあげなさいってこと?
その考えはちょっと意地悪なお兄ちゃんの顔で、どこかへ飛んで消え去った。
「お姉ちゃんがちゃんと漢字を読めるって、証明しておかないと」
「お兄ちゃん?」
冗談だよ、とお兄ちゃんはいたずらっぽく笑っている。お兄ちゃんもあざとい。将来が怖い。
いやお兄ちゃんの将来を心配してる場合じゃない。私の方がずっと怖い。
気を取り直してふたりの持つ色紙に指を置き、皆のサインを確認した。
「これが虹夏ちゃん」
「かわいいー!」
「こっちが喜多ちゃん」
「きれいー!」
「それで、リョウ先輩のがここ」
「じみー!」
「ほ、本人に言っちゃ駄目だよ?」
前リョウ先輩が家に来た時も、ふたりはベースが地味だと言い放って怒りを買っていた。
優しいけど大人げないところがあるから、小さい子とは相性そんなによくないのかも。
あんまりないと思うけど、お兄ちゃん抜きで二人が会う時は私が頑張らないと。
「おねーちゃんのは?」
「…………こ、これ」
決意に満ちた私の気持ちは、ふたりのきらきらした疑問の眼差しで再び荒れ始めた。
ふたりは私に容赦が無い。そして時々、いや基本的に舐めている。
だからもし私のサインが気に入らなければどんな反応をするか、想像もしたくない!
「かわいいね! ふたり一番好きだよ!」
幸い今回は好評だった。よかった。ボロクソに言われたら立ち直れないところだった。
「ふたり、これは?」
「むぅ、もう読めるよ!」
「じゃあお兄ちゃんに読んで教えてくれる?」
一通り皆のサインを読み終わったところで、お兄ちゃんが横から宛名を指差した。
復習とかそういうのじゃない。ただお兄ちゃんが読んでもらいたいだけだと思う。
「おねーちゃん、せーので読もうね!」
「えっ、私も?」
「うん! はい、サイン持って!」
良くも悪くも、ふたりにお願いされて私が断れるはずもない。
お兄ちゃんも期待の眼差しをしている。そんな風に見られると私もやぶさかじゃない。
だからふたりの掛け声に合わせて、一緒にサインの宛名を読みあげた。
『後藤
私たちが読むのを、お兄ちゃんはニコニコと笑みを浮かべながら聞いていた。
その笑顔が、このサインが、宛名が、もうお兄ちゃんがぼっちじゃない証のような気がして。
それがたまらなく嬉しくて、私もつい笑顔になってしまった。
ご愛読いただきありがとうございました。