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あれから伊地知さんは、どうしてか口を閉ざしてしまった。
代わりに視線を感じる。さっきから黙って僕の顔を見ている。もの言いたげな視線だ。
こういう時の彼女は、僕の中の何かを確かめようとしていることが多い。
「ねね、後藤くん」
話しかけながら彼女は音も無く近寄って来て、触れるか触れない程度の距離で止まった。
そのまま何故か顔を耳元に寄せて囁き始める。普通に話せばいいのに、急にどうしたんだろう。
「二人っきりになっちゃったね」
彼女の言う通り、確かに二人きりだ。今家には僕達以外誰もいない。
父さんは仕事で、母さんはふたりと友達の家へ遊びに出かけている。
皆帰って来るのは暗くなってからだと思うから、しばらくはこのままだ。
「そうだね。ひとりが帰ってくるまでどうする? 何かして遊ぶ?」
「……」
彼女は返事もせずに、黙って僕の目を覗き込んでいた。からかいの気持ちが見え隠れしている。
最初は照れくさかったけど、これも今では慣れてしまった。そのせいで余計な考えまで浮かぶ。
これ、避けてみたらどうなるんだろう。沸き上がる好奇心を僕は抑えきれなかった。
「……」
「む」
避けてみる。眉をひそめた伊地知さんが僕の視線を追った。
「……」
「むむっ」
もう一度、今度は顔ごと背けてみる。彼女は身を乗り出して、その動きに追従した。
「……」
「むむむっ!」
もう一回、今度は身体ごと。立ち上がってまで彼女は追いかけていた。
「……」
「むーっ!」
どうしよう。困った、これ凄く面白い。
ちょっとした出来心でやってみたけど、想像以上だ。楽しい、やめられない。
右を向けば右へ。左を向けば左へ。右左右右左右に見せかけてまた左。伊地知さんを振り回す。
何度か繰り返していると、息も絶え絶えな伊地知さんが、半分睨むようにして聞いてきた。
「……ね、ねぇ後藤くん」
「なに?」
「もしかしなくても、私で遊んでる?」
「楽しいよ」
「もうー!!」
我慢の限界を超えた伊地知さんが僕に襲い掛かってきた。
僕の顔を掴もうと両手を伸ばしてくる。直接動きを抑えて目を合わせるのが狙いだろう。
見られて困ることなんてない。だから合わせてもいい。でも楽しいからもっとやりたい。
「んなっ!?」
なのでとりあえず避けた。伊地知さんの全力が虚しく僕の横を通り抜ける。
信じられないような顔でこっちを見てたから、目を合わせ、ちゃ駄目だった。
横目でその反応を楽しんでから、何食わぬ顔で元の姿勢に戻る。
難なく避けられたのがよほど衝撃だったのか、彼女はわなわなと震えて動かない。
このままにらみ合いを、目が合ってない、いや合わせないためだけど、続けてもつまらない。
もっと伊地知さんに構ってもらいたいから、ちょっと挑発してみよう。これくらいならいいよね?
「……ふっ」
「!?」
伊地知さんの目が更に吊り上がった。もう少しで星歌さんと同じくらいになりそうだ。
そうしてしばらくの間攻防を繰り返し、伊地知さんは体力の限界を迎えつつあった。
江ノ島の時も思ったけど体力が無い。これ、バンドマンとしては結構な弱点じゃないか。
喜多さん以外の三人は、楽器の練習より体力づくりから始めた方がいい気がしてきた。
そんな馬鹿なことを考えるくらい、目の前の伊地知さんは顔が赤く息が荒い。
こうなるよう仕向けたのは僕だけど心配になる。思わず声をかけると思い切り睨まれた。
「大丈夫? 何か飲み物持ってこようか?」
「いい! 捕まえて目合わせるから座ってて!!」
「今目合ってるよ」
「もうそういう問題じゃないの!!」
だいぶムキになっている。珍しい。
余裕ぶって構えていると、とうとう伊地知さんが飛び込むように突撃してきた。
狙ってないとは思うけど、恐らく彼女が僕を捕まえられる唯一の方法だ。
避けるとそのまま床に墜落して痛い思いを、最悪怪我をする。だから受け止めるしかない。
なるべく伊地知さんが痛くならないよう、衝撃を殺しながら受け止めた。
いくら彼女が小柄でも勢いがあるから、当然のように僕は押し倒される。
伊地知さんは疲労と達成感を滲ませながら、そんな僕の上に跨っていた。馬乗りだ。
「……はぁ、はぁ、や、やっと捕まえた」
「お疲れ様、頑張ったね」
「むぅ、なんで全然悔しそうじゃないの?」
「こんな風に遊ぶの初めてで、凄く楽しかったから」
「……そういうこと言うんだ、ずるいなぁ」
伊地知さんはその体勢のまま、両手を伸ばして僕の頬に添えた。
「じっとしててね」
言われなくてもそのつもりだった。だけど彼女の髪が顔にかかってくすぐったい。
それにこのままだと目にも入りそう。失礼を承知の上で払った。
それでもすぐに顔まで戻ってきてしまう。もうちょっと、根の方から払わないと意味がなさそう。
そうして手を伸ばすと温かい、何か柔らかいものに触れた。伊地知さんのほっぺだった。
予期せず触れたものに、彼女は触れられたことに、僕達は揃って固まってしまった。
謝らないと。遊びの延長線上とはいえ、女の子の顔に触れてしまった。
そう考えた、考えているはずなのに、僕の口から出たのはまったく別の言葉だった。
「虹夏さん」
急に名前で呼ばれて、彼女は大きな目をますます丸く、大きく見開いていた。
失敗した。いつか呼ぼうとは思っていたけれど、どうしてこんなタイミングで。
気まずさに目を逸らそうとする僕を咎めるように、彼女は両手に力をこめた。
そしてもっと顔を近づけて、微かな笑みを浮かべながら、からかうように尋ねてくる。
気のせいか、手から伝わる頬の熱が少しずつ熱くなっているように感じた。
「なあに? そんなに私のほっぺ触りたかったの?」
「……ごめんね、すぐ離すから」
「いいよ」
僕の頬に添えていた手を片方離し、そのまま自分の頬へ、頬に触れる僕の手へ重ねる。
離そうとした僕の手を抑えるようだった。実際どうしてか、僕は手を離せなかった。
彼女はまったく力を入れていなかったのに。
「私もこうして触ってるから、お互い様だよ」
お互い様。本当にそうなんだろうか。男女で違いがあるべきだと思うけど。
そんな思考も口から出ない。ただ、そっか、と返すことしか出来なかった。
彼女もそうだよ、と口にするだけで、それ以上の言葉はお互いに出てこなかった。
そのやり取りをしてからしばらく、僕達は黙ってお互いの頬を触り、見つめ合っていた。
この状況は、いったいなんだろう。ほとんど自分で招いたくせに、僕は何も分かっていない。
戸惑う僕の意識を連れ戻すように、虹夏さんは添えた手指で僕の頬を押し始めた。
「……ちょっと硬い」
「男だから、女の子と比べるとね」
お返しとばかりに、ほんの少しだけ力をこめる。温かくて柔らかい、優しい感覚が返って来る。
ひとりともふたりとも違う、初めて触れる他人の感触。違和感を覚えるべきだ。
それなのに、僕は違和感どころか安らぎを覚えている。僕は自分が分からなくなりつつあった。
「そういう虹夏さんは柔らかいね」
「その、女の子だから」
消え入りそうな声で、虹夏さんが囁くように答えてくれた。
髪から覗く耳はすっかり赤くなっていて、とても照れている、恥ずかしがっているのが分かる。
それでも何故か、彼女は目を逸らすことも、手を外すことも、僕の上から降りることもなかった。
僕は今からどうすればいいのか、どうしたいのか。何も答えが出ない中、玄関の開く音がした。
ひとりが帰って来た。偶然も含めて、僕が本当に困った時あの子はいつも助けてくれる。
ちゃんと手洗いうがいでもしてるのか、ひとりはすぐに二階へ上がらず下でどたばたしていた。
今日のひとりはとても間がいい。そのまま戻ってきたら、この状況を見られるところだった。
はっきり言って誤解を招く体勢だ。どんな誤解、いやそんな誤解。駄目だ、僕も混乱している。
とにかく、この隙に体裁を整えないと。このままだとなんやかんやで最終的に僕とひとりが死ぬ。
ひとりに気づいていないのか、今もぼーっと僕を見つめる虹夏さんに声をかけた。
「虹夏さん」
「……なあに?」
「えっと、ひとり帰って来たよ」
「……………うん」
「だからその、そろそろ降りた方がいいんじゃないかなって」
「………………………………………………………あ゛っ!?」
ここまで言ってようやく、虹夏さんは自分の体勢を思い出したようだ。
元々赤かった顔を更に、これ以上はないんじゃないか、というくらいまで真っ赤に染めた。
そして血の流れと同じくらいの勢いで、手を離して立ち上がった。
「あっ」
平静を失っているのに、慌ててそんな風に動けばバランスだって崩す。
立ち上がりきれなかった虹夏さんが、今度は僕に覆いかぶさるようにしてきた。
一度離れた視線がもう一度交わる。さっきよりも更に近い、文字通り目と鼻の先に顔がある。
「あっ、え、や」
言葉を忘れてしまったかのように、虹夏さんは意味のなさない音を放ち続ける。
僕としても、何を言えばいいのか分からない。どういう顔をすればいいのかも分からない。
だからかもしれない。自分でもありえない、馬鹿みたいなことを口にしたのは。
「……もう一回、やる?」
「っ!?」
さっきこれ以上はないくらい、なんて思ったけどそれは間違いだった。
彼女はさらに真っ赤に、そして目をぐるぐると回しながら、今度は無事に立ち上がる。
ふらふらとしながらも、置いてあった自分の荷物を持って廊下へ滑り込んだ。
「あ、え、えっと、わ私帰るね!」
「まだそんなじ」
「今なら家に着く頃にはいい時間だし! お、お姉ちゃんのご飯も作らなきゃだし!」
「なら送」
「お、お邪魔しましたー!!」
階段から転げ落ちるんじゃないか、と心配になるような勢いで虹夏さんは飛び出して行った。
あんな風に駆け出して大丈夫かな。心配だけど、追いかけるともっと酷いことになりそう。
ベランダに出て、玄関から出て来た彼女の様子を窺う。危なそうならここから止めに行こう。
駆け足と早足の中間くらいの速さで歩いていた彼女は、道路の一歩手前で足を止めた。
そして慌ただしく、けれどきちんと右左を確認してから、再びスピードを上げて歩き去っていく。
虹夏さんはいつも通り、車や道路に十分気を付けていた。あれなら余計な心配はいらない。
とりあえず無事に帰れたらロインをくれるよう、連絡だけしておけばいいか。
部屋に戻るといつの間にか、廊下からひとりがひょっこり顔を出していた。
「た、ただいま。虹夏ちゃんが凄い勢いで出てったけど、何かあったの?」
「おかえり。あったというかしたというか。ごめん、説明が難しい」
「???」
あれが言いふらしてはいけないことだってくらい、いくら僕でも分かる。
幸い正直に感想を伝えたことで、ひとりもそれ以上の追及はしてこなかった。
「そういえば、ひとりは何か買えた?」
「えっと、うん。一応」
話を変えるため、実際に興味があったため、ひとりに確認を取る。
疲れ切った様子を見せながらも、無事帰って来たひとりは小さな紙袋を抱えていた。
ちゃんと買い物できたらしい。何を買ってきたにしても立派な成果だった。
「お、お金が無くて、これしか買えなかった……」
「……まあ、学生らしいニューギアでいいんじゃない?」
ひとりが袋から取り出したのは、可愛らしいピンク、赤、黄色、青、黒のピックセット。
お金が無いという言葉には疑問が残るけど、もう何かに使った後なのかもしれない。
明後日学校に行った時、念のため山田さんにも聞いてみよう。第一容疑者だ。
買ってきたピックを早速きれいに並べて、ひとりは写真を撮りだした。
本当にこれでマイニューギアするらしい。SNS本当に始めさせてよかったのかな。
今更だけどちょっと心配になって来た。あんまり依存するようだったら携帯の契約を見直そう。
僕の不安なんて知らない様子で、ひとりはわくわくした顔で写真を撮り続けている。
わくわくというかどろどろしてきた。いいねへの期待に胸を膨らませ過ぎた結果だ。
確実に裏切られるだろうから、慰める準備だけはしておこう。
ぼんやりとひとりの様子を眺めながら、僕はさっきのことを思い出していた。
虹夏さんはいったい何がしたかったんだろう。あの状況は僕のせいだけど、きっかけは彼女だ。
きっかけ、二人っきりと伝えた後に僕の反応を確かめようとしていた。どうして?
僕の中に答えはない。もしくは今の僕では見つけられない。なら外に求めるしかない。
「ひとり、二人っきりだね」
「? うん、お母さんたち遅いね」
試しにひとりに言ってみたけれど、少し不思議そうにするだけだった。
間違いなく虹夏さんが求めた反応じゃない。こうなったら率直に聞こう。
「変な質問なんだけど、ひとりは二人っきりって聞いたらどんな連想する?」
ひとりの顔がみるみるうちに青くなっていった。
「……も、盛り上がらない会話、冷えていく空気、じ、地獄のような空間っ!!」
「ごめん、ありがとう、その辺でもういいよ」
聞き方も聞く人も間違えた。ガタガタと震えるひとりを慰めるように撫でる。
そうしている間にどんどんひとりがもたれかかってきて、ほとんど抱き着くようになった。
文化祭以来、ひとりのスキンシップが昔と同じに戻りつつある。これもまた僕が招いた状況だ。
僕は高校生になる頃、ある考えからひとりと距離を取ろうとしたことがある。
というよりひとりどころか家を離れて、東京で一人暮らしをしようと考えていた。
妹達の猛烈な反対、父さんと母さんの説得、僕の本心。色々あってそれは取りやめた。
ただ、ひとりも何か感じることがあったのか、僕に甘えるのを少し控えるようになった。
寂しく思う気持ちもあったけど、僕がきっかけで、しかも自立にはいいことだ。
それでも本当に辛い時、大変な時、どうしようもない時は頼って甘えてもいい。
気づくと僕達の間には、自然とそんなルールが出来ていた。結構な頻度でその機会はあったけど。
その暗黙の了解を、あの文化祭の日僕は破った。つい抱きしめてしまった。
だからこうしてひとりが甘えてくるのを、僕に抑える権利はない。
それにひとりはあの頃と比べてずっと大人になった。甘え方にも節度があるはず。
どれも言い訳だ。自覚しながらも僕は、抱きしめる手も、撫でる手も止めることが出来なかった。
そうして自分を騙してひとりを甘やかしていると、なんだかもぞもぞとひとりが動き出した。
様子を見るとすんすんと鼻を動かして、何度も僕の胸元の匂いを嗅いでいた。その度に首を捻る。
まさか臭いとか言われるのかな。試しに嗅いでみても、今はひとりのしかしない。
それに自分のものは分かりづらいという。僕は世のお父さんと同じ恐怖を覚えつつあった。
「どうかした?」
「……ううん、なんでもない」
なんでもありそうな様子で、ひとりは顔を上げた。釈然としない、難しい顔をしている。
仮に臭かったらすぐに言ってくるか、慌てふためいた顔をしているはず。そこは一安心だ。
代わりに別の疑問は生じたけれど、こっちに緊急性はなさそうだ。のんびり構えよう。
一安心したところで、自分がえらく喉が渇いていることに気がついた。
虹夏さんで、いや虹夏さんと遊び始めたあたりから何も飲んでいない。
途中途中緊張するポイントがあったせいで、渇き方もひとしおだ。何か取ってこよう。
「何か飲み物取って来るから、一旦放してもらってもいい?」
「あっ」
「ひとりの分も持ってくるよ。飲みたいものある?」
「え、えっと、あっ、私が取って来る!」
液体だったら染み込むくらいに僕へ寄りかかっていたひとりが、急に立ち上がった。
まるで僕に冷蔵庫を開けられたら困るみたいだ。後で開けに行こう。
「お、お待たせ」
戻って来たひとりは僕に背を向け、足の間に入るように座り込んだ。
ひとりの膝の上のお盆には、コップになみなみと注がれたコーラが乗っていた。零しそうで怖い。
それともう一つ、何か薄くて包装されたものをお盆の下に隠し持っていた。お菓子か何かかな。
「こ、コーラでよかった?」
「うん、ありがとう」
持って来てもらってなんだけど、絶妙に飲みにくい。特に置き場所が鬼門だ。
ひとりの膝、つまり体の上。この世で最も安定しない場所と言ってもいい。
言おうかなと思ったけど、僕に体を預けてコーラを飲むひとりはご機嫌に見える。
置かずに一度で飲み干せばいいか。僕はどうしようもなく甘かった。
自分の駄目さ加減を見て見ぬふりをして、気を付けながら僕もコーラを飲んだ。
飲んでいる間、何度かひとりはお盆の下のものを気にしていた。
指先で弄って、ちらちらと僕を見てからまた戻す。
気づいてー、言ってー、と伝えているようにも見えた。
普段ならそれも見えないふりをして、ひとりに頑張って勇気を出してもらっている。
だけど今日はもう、心が甘やかす方に傾いてしまっていた。僕も疲れてるのかもしれない。
「ひとり、お盆の下のってなに?」
「あっ、え、えへ、えっと、これは」
望まれるままに聞いてみると、ひとりはぱあっと嬉しそうな顔をした。可愛い。
こういう顔を見ると、ついつい甘やかしたくなるからずっと控えていたのに。
今日はもう駄目だ、せめて明日以降も引きずらないことだけ頑張ろう。
「ぷ、プレゼント!」
「……プレゼント?」
「が、額縁買ってきたから、プレゼント」
間抜けにもオウム返ししか出来ない僕に、ひとりは説明を続けた。
「サインの色紙額縁に入れようかなって、この間お兄ちゃん言ってたから」
そんなことも言っていた気がする。文化祭後の夜、サインを眺めながらだったかな。
結局どうするか決め切れなくて、サインは今も僕の机の中に大事にしまいこんである。
「覚えててくれたんだ?」
「いや、その、マイニューギアする時に雑貨屋の前通って、それで思い出して」
「ううん、思い出してくれただけでも嬉しいよ。その上用意までしてくれて」
ひとりは少し気まずそうだったけど、覚えてくれていただけでも嬉しいのに、それ以上だ。
あと、これでお金が無いって言ってた理由も分かった。山田さん疑ってごめん。
「開けてみてもいい?」
「ど、どうぞ」
包装紙を丁寧に剥がして畳む。これも大事なプレゼントの一部だ、もちろんとっておく。
言葉の通りちゃんと額縁が出てきた。ずっとひとりが触っていたからか、ほんのり温かい。
それをしげしげと眺める僕のことを、ひとりが喉を鳴らしながら観察していた。
落ち着いた黒い縁に、ピンクの星が散りばめられている額縁。いつもの色合いだ。
昔からひとりがくれるものは、黒を基調とした中にピンクが差し色されていることが多い。
身につけるものから飾るもの、幼稚園の時にくれた似顔絵までピンクが混じっていたっけ。
小さい頃は女の子っぽく感じて、正直苦手に思うこともあった。
それでも毎回毎回渡されている内に、今ではすっかり好きな組み合わせになってしまった。
昔を懐かしんでいる場合でもないか。僕が何も言わないから、ひとりの震度が上がり始めた。
このままだとお盆が吹っ飛ぶ。やるべきことを、いや、やりたいことをしよう。
「ひとり、一旦お盆机に置いて」
言われるがまま立ち上がり、ひとりは抱えていたお盆とコップを机の上に置いた。
そしてまた僕の足の間に戻って来る。今日はここが定住の地らしい。
僕としても都合がいい。沸き上がる気持ちのままに、後ろからひとりを抱きしめた。
「わっ」
「ありがとうひとり。嬉しい、うん、本当に嬉しい」
僕からもやってどうする。そんな自分からの指摘を僕は無視した。今日はもうしょうがない。
回した腕をひとりのお腹の前で組んで結ぶと、そこにひとりも手を重ねて来た。
なんとなく子供の頃を思い出す。小学生の間は、大体いつもこんな格好で過ごしていた。
しばらくそうしていると、ひとりが思い出したように声を上げ、僕を見上げた。
「あ、あとね、お母さんたちにもケーキ買ったよ。ワンホールのやつ。冷蔵庫に入ってる」
「……大きいの買って来たね」
「そっちの方がたくさん食べられるから」
以前バイトの初給料が入った時、似たようなことをひとりは言っていた。
あのお金はノルマに消えてしまったけれど、その時の気持ちもまたひとりは覚えていた。
「私が切ると、凄い形になりそうだから」
「うん」
「お兄ちゃんに切ってもらってもいい?」
「任せて」
ここ最近ひとりの成長がどうとか、僕は偉そうに考えていた。
そんなこと考えなくてもよかった。この子は、僕の知らないところでずっと大人になっていた。
嬉しいような、寂しいような。複雑な気持ちを隠すように、僕はひとりを抱く腕に力を込めた。
余談ですが、ぼっちちゃん曰く兄のイメージカラーは黒だそうです。
次回「距離感の話 姉編」です。多分また二分割です。