クリスマスを通り過ぎればあとはもう年末まで一直線だ。
実際大掃除をしたり、家族とおせちを作ったり、確定申告の準備をしている内に昨年は終わった。
今日は一月一日、正月。そんなめでたい日の朝から、僕はひとりにしがみつかれていた。
「お、お兄ちゃん、一緒に行こ? 行かないと、私も行きません!」
「僕は行けない。喜多さん待ってるよ。一度約束したなら行かないと」
「う、うぅ、お、お兄ちゃんがあんなこと言うから」
「それはごめん。でも理由言わないと、ひとりも納得してくれないでしょ?」
「し、したけどしてません!」
下北沢の神社へ初詣に、喜多さんと一緒に行く行かない。僕達はそれで揉めていた。
昨晩深夜、あけましておめでとうのメッセージと共に、初詣のお誘いが喜多さんから届いた。
朝気づいてひとりに話すと、どうやら僕達二人に送っていたらしい。
迷いながらも行きますと返事をしたひとりだったけど、僕の話を聞いて顔を青くしていた。
「さっきも言ったけど、東京の神社に行けば、喜多さんの友達に遭遇する可能性が高いから」
「ならこの辺、この辺の神社に、喜多ちゃんに来てもらえば」
「それはそれで僕の元同級生を気絶させることになるよね。新年からそれはちょっと」
そんなことをすれば、こんな日から働いている救急隊の方々へ大きな迷惑をかけることになる。
ただでさえ忙しい方々なのに、僕のせいで手を煩わせるのはあまりにも申し訳ない。
僕の意思が固いことが分かったひとりは説得を諦め、僕の前に回り込んで身をかがめた。
「……どうしたのひとり?」
「こ、こうなったら、私がお兄ちゃんを運んで持ってく!」
「おぉ」
いつもとは逆パターンだ。出来るかどうかはともかく、その判断に至るなんて。
妹の成長に感動しながら、物は試しと僕は脱力し、ひとりに身を任せてみた。
「ぬ、ふん、のぅ、ごふっ、とぁっ」
女の子が出していいのか迷う声を漏らしながら、ひとりは懸命に力を入れていた。
それでも僕を一ミリも持ち上げることは出来ていない。浮かぶ気配すらない。
やがてひとりは諦めて部屋の隅に体育座りして、ぼうっと天井を見上げるだけになってしまった。
「……私は非力なゾウリムシです」
この具合だと約束の時間までにひとりが復活出来るか分からない。どうしようか。
あれ、でもこれ口実に使えないかな。ひとりが駄目そうだから僕も行けない。よくない考えだ。
それでも楽しみにしてる喜多さんには悪いけど、僕もひとりも正月くらいは家にいたい。
やるだけやってみよう。聞くだけ聞いてみよう。僕は思いつきを試すため、携帯を取り出した。
『ひとりが壁と同化し始めたから、今日は行けないかも。ごめんね』
数秒もしない内に返信が来た。見るのが怖い。
『江ノ島 約束 利息』
いつもスタンプやら自撮りやらなにやら、煌びやかなメッセージを喜多さんは送ってくれる。
そんな彼女からこんなものを届けられると、いくら僕でも若干の恐怖を覚える。
残念ながら僕にもひとりにも、彼女にロックオンされた時点で他に選択肢なんてなかった。
『ひとりと伺わせていただきます』
そうメッセージを打ってから着替えて、体育座りをしているひとりを抱える。
向かうは下北沢。新年の朝から僕は喜多さんに敗北していた。最後に勝ったのはいつだろう。
東京都世田谷区下北沢の某神社、ここが喜多さんと約束した集合場所だ。
さすがに二時間も経てばひとりもすっかり人間に戻っていて、二本足で歩いている。
ぐだぐだしていたせいか、喜多さんが真面目だからか、僕達より早く彼女は来ていた。
「お待たせ喜多さん。あけましておめでとうございます」
「あっあけまして、おめでとうございます」
「私もさっき来たところです! 二人とも、あけましておめでとうございます!」
あの恐怖のメッセージなんてなかったかのように、喜多さんは今日も輝く笑顔だ。
初日の出よりよほど光っていて、なんだかめでたさすら感じてしまう。拝もうかな。
隣のひとりを見ると既に拝んでいた。行動が早い。なら僕も続かせてもらおう。
「ひ、ひとりちゃん、先輩? 拝むの気が早すぎませんか?」
「だ、大丈夫です、合ってます。今喜多ちゃんを拝んでます」
「私を!? えっちょ、ま、まさか先輩もですか!?」
「うん。喜多さんってなんか赤っぽいし、御利益ありそうだから」
「そんな雑な理由で!?」
ついでに言うと今日の喜多さんは白いコートだ。紅白感があって更にめでたさが増している。
「もう! そんなことしてないで、早くお参り行きましょうよ!」
「はーい」
「あっはーい」
そうして喜多さん先生に率いられ、僕達は神社の中へ足を踏み入れた。
参拝へ行く途中、喜多さんは迷いなく手水を取りに行き、その後はちゃんと参道を通っていた。
完璧な作法だった。僕がどうこう言う隙も、必要もまるでなかった。
「そろそろ私たちの番ですよ。お賽銭準備しておきましょう」
「あっはい。えっと、小銭は」
「はい五円玉。落とさないように気を付けてね」
「うん。ありがとう」
参拝についても綺麗なものだった。いつもの明るさとは違う、上品で丁寧な二礼二拍手一礼。
前々から感じていたけれど、実は喜多さんもいい所の子なのかもしれない。
ひとりが十二個目くらいのお願いをしているのを見ながら、そんな風に思った。
「よし! それじゃ次はおみくじです!!」
「はーい」
「あっはーい」
もうなすがままだ。二人揃って手を引かれるままおみくじの列まで移動する。
大人しく列に並んでいる途中喜多さんがひとりへ、楽しそうに注意を呼び掛けた。
「ひとりちゃん、引いても開けるのは待っててね。皆で一斉に見て、わーってやりたいから」
「あっはい。ちょ、ちょっとワクワクしますね」
「でしょ? ふっふっふー、ひとりちゃん大凶だったらどうするー?」
「あっえっ…………せ、責任を取って、腹を切ります」
「切腹!?」
「ひとりの運勢が悪くても、皆のが悪くなる訳じゃないから心配しなくてもいいよ」
「あっそういう。……まだまだひとりちゃん検定二級は遠いですね」
「喜多さんなら大丈夫。いつでも質問は受け付けてるからね」
「はい! よろしくお願いします、先生!!」
「……あっあの、もう正気に戻ったので、本人の前でそういうのは」
そんな茶番が終わる頃には、三人ともおみくじを引き終わっていた。
落ち着いて読むために人混みから逸れて、横道の木の下へと移動する。
そして喜多さんの、せーの、という言葉に合わせ、僕達はおみくじを一斉に開いた。
「やった、私大吉です! 二人は」
「あっ大凶です」
「僕も」
「えっ」
はしゃぐ喜多さんを尻目に、僕とひとりはいつも通り大凶を引いた。何回連続かは忘れた。
並ぶ大凶のおみくじを見て、一瞬大慌てした喜多さんだったけど、僕達の様子を見て落ち着いた。
僕はともかく、ひとりですら平然としているからだ。
「……大凶引いたのに、二人とも全然気にしてませんね」
「あっあんまりおみくじ信じてないので」
「僕も」
「えー、落ち込んで欲しくはないですけど、えー」
今度は唇を尖らせてしまった。今日も喜多さんの表情は忙しくて、見ていて楽しい。
だけどひとりはそう思ってないみたいで、焦って視線を彷徨わせた後何か話し始めた。
「あっあの、実は去年も私たち大凶引いたんですけど」
「逆に運いいわね」
「それで二人とも、待ち人来たらずってずっと書かれてて」
ちらりとひとりが僕を見上げた。続きを言って欲しいらしい。でもスルーだ。
この話はこれからが一番大事なところだから、そのままひとりに話してもらいたい。
そう思って背中に触れると、僕を軽く睨んだ後、照れ臭そうにしながら続けてくれた。
「で、でも、その、去年私たちには、喜多ちゃんも、虹夏ちゃんもリョウ先輩も来てくれたから」
「ひとりちゃん……!!」
きらきら、いやギラギラとした輝きとともに、喜多さんがひとりの両手を握りしめる。
過去最高に眩しかったけれど、ひとりも目を守りながらはにかみ喜んでいるように見えた。
喜多さんが携帯を取り出し、カメラを向けてくるまでは。
「ひとりちゃん、今のもう一回言ってくれない!? 次はちゃんと録画するから!!」
「えっ」
「録画したのをね、今度伊地知先輩とリョウ先輩に見せてあげたいの!!」
「えっえっ」
「きっと二人とも喜ぶわ~! もしかしたら感動しちゃって泣いちゃうかも!!」
「えっえっえっ」
「あっ私たちってことは、先輩もそう思ってくれてるってことですよね!!!」
「思ってるけど、ひとりに言ってもらったことを後悔し始めてるところ」
「またまた~先輩も恥ずかしがり屋ですね!!!!」
虹夏さん早く帰ってきてくれないかな。
暴走する喜多さんを相手にするには、僕達兄妹ではあまりにも無力だ。
そんな僕達が彼女を止めるのに、結局それから十分くらいかかった。
なんとか落ち着いて、落ち着かせて、僕達は境内のベンチに腰を下ろしていた。
入口近くで配っていた甘酒を手に参拝中の人を眺めていると、喜多さんが間延びした声を上げた。
「先輩たち今日来れないの残念だったわねー」
「あっはい。えっと、虹夏ちゃんは親戚のお家に帰省してるんでしたっけ?」
「そうそう。それでリョウ先輩はお婆ちゃんが危篤なんですって! 大丈夫かしら~」
「十三回目だから大丈夫じゃない? それだけ行けば通い慣れてるよ」
その時ふと視線を感じた。この感じは知らない人から複数、含まれた感情は恐らく好奇心。
視線の方向からするとひとりは見えていない。つまり向けられているのは僕と喜多さんの二人。
そこに恐怖はない、つまり僕を知ってる人じゃない。視線がぶれない、つまり偶然じゃない。
となると、喜多さんの知り合いに見つかってしまった、と考えるのが一番自然だ。
それなら振り向かない方がいい。近づいてくる前に、喜多さんに言って確認してもらおう。
「喜多さん、向こうにいる人達って知り合い?」
「えっ? ……あっはい、クラスメイトです! みんなー、あけましておめでとー!!」
「え゛っ」
ひとりが凄い声を出した。僕も正直驚いた。ノータイムで声をかけるとは思わなかった。
喜多さんに呼ばれたからか、視線の主達がぞろぞろと近づいてくるのが分かった。
相変わらず好奇心を強く感じる。こうなるとひとりにも喜多さんにも悪いけど、そろそろ潮時だ。
「喜多に、後藤さんだっけ? あけおめー。揃って初詣?」
「うん。もうお参りもおみくじも済ませちゃった。さっつーたちは?」
「ウチらはこれから。そうだ、この後カラオケ大会開くんだけど来る?」
そう誘いの言葉を投げかけて、その子はひとりと喜多さんの返事を待っていた。
予想に反して彼女はひとりのことも知っていて、しかも友好的だ。少し感動した。
「どうしましょうか先輩~ってあれいない!?」
「あっ、お、お兄ちゃん、ほんとに逃げちゃった…………」
「逃げた!? この一瞬で!? ど、どうやって!?」
「あっお兄ちゃんはかくれんぼが得意なんです」
「いや限度があるでしょ!?」
「一度も見つかったことがないので、ふたりの友達からは幽霊のお兄ちゃんって呼ばれてます」
「魔王といい幽霊といい、先輩酷いあだ名ばっかりね……」
「あっちなみに私は暗すぎて、幽霊のお姉ちゃんって呼ばれてます……」
「聞きたくなかった!!」
二人揃って幽霊兄妹呼ばわりされているのは、悲しいことに事実だ。
間違っても気絶させるわけにはいかないから、会わないようにしていたらそうなっていた。
ひとりは特に何もしていない。むしろ優しくしようとしていた。子供は残酷だった。
「それじゃあ仕方ないから先輩は諦めて、ひとりちゃんはどうする?」
「うえっ!?」
「カラオケ行く? 知らない子多いけど大丈夫かしら?」
心配そうな声を出しているけれど、喜多さんは期待を、キターンを抑えきれていない。
喜多さんの輝き(初日の出版)を正面から受けたひとりに、またもや選択肢なんてなかった。
「うぇ、うぇ~い! し、新年カラオケ大会やや、やっちゃいましょうか~!!」
「いいねー、ノリノリじゃん。あっ言い忘れてたけど、ビリは罰ゲームだからね」
「え゛っ」
「大丈夫よひとりちゃん! 私がなんかこういい感じにしてみせるわ!!」
喜多さんのひとり理解度は、夏とは比べ物にならないほどに上昇している。
だから引きずられていくひとりを、僕は木の上から安心して見送ることが出来た。
という訳で今日も時間が出来てしまった。ひとりを置いて先に帰ることは出来ない。
カラオケや罰ゲームでペラペラになったあの子を、家まで背負って帰る任務があるからだ。
それまでどうやって時間を潰そう。今日は財布と携帯くらいしか持っていない。
正月だから開いている施設は少ないし、だからこそ多くの人がそこに集まってしまう。
少しだけ考えて図書館を探すことに決めた。この時期なら受験生くらいしかいないはず。
彼らは僕がいようといまいと、元々机とテキストにしか目を向けていない人達だ。
だから一番パニックが起こる確率は低い。そうして立てた計画は、鳥居をくぐった瞬間瓦解した。
「ねぇー? このお酒全然アルコールの味しないよー?」
「そりゃ米麴で作った甘酒ですから。というかお姉ちゃんそれ何杯目?」
「十杯目だよ。なのに全然酔えないからさー」
「……誰かー、この人追い出すの手伝ってー」
「そんなー」
もの悲しい悲鳴と共に、僕の目の前にべちゃりと何かが倒れ込んで来た。
それは死にかけの虫か何かのように震えた後、ガバっと勢いよく顔を上げて辺りを見回す。
通りすがりの小さい子供達がそれを見て泣き始めた。泣けることなら僕も泣きたい。
お正月からこんなところで、こんな状態のこの人を見たくなかった。
「あっおはよー、じゃなくてあけおめー。こんなとこで会うなんて奇遇だね」
「………………あけまして、おめでとうございます、廣井さん」
この体勢を前に果たしておめでとうなんて言っていいのか。僕は疑問を止められなかった。
失礼だけど寝そべる廣井さんを観察してしまう。いつも以上にボロボロの服装と風体。
新年なのにみすぼらしい。悲しくなってきた僕の視線を勘違いした彼女は、にへらと頬を緩めた。
「なーにーそんなお姉さんの顔見てー。美人だなーとか思ってる? いやー照れるなー」
「同じ赤なのに、どうして廣井さんの顔にはめでたさがないんだろうなーって考えてました」
「……ヤケ酒だー! 付き合えー!!」
この廣井さんを放置するのは心配だし、一緒にいると時間が早く進むからちょうどよかった。
両手を挙げて憤る彼女に手を差し伸べて立たせた後、服についた土ぼこりを叩いて落とす。
手触りからして恐らく三日くらいは洗濯していない。悲しみがより一層深くなっていく。
「へっへっへー、ありがとうね!」
「どういたしまして。さっき倒れてましたけど、痛いところはありませんか?」
「頭!」
「実は僕も痛くなってきました」
こうして廣井さんが同行することになったから、図書館には行けなくなってしまった。
代わりに僕の魔王的なものが薄まったおかげで、適当なお店には入れるようになった。
入れるようにはなったけど、酔っ払いを連れて行くのって営業妨害にならないんだろうか。
「ヤケ酒は止めますけど、廣井さんはどこか行きたいところってありますか?」
「お酒飲みたいから居酒屋! あっでもお金持ってないや」
「じゃあ駄目ですね。他にはどこか」
考え始めたその時、腐敗臭を感じた。洗ってない犬より酷い、ドブのような臭いだ。
どこからその臭いが来たかなんて、僕からはとても口に出来ない。胸が痛くなる。辛い。
「……」
「あっまた私のこと見つめてるー。そんなに見たいの? 素直じゃないなー」
「………………………急に銭湯に行きたくなったので、よければ付き合ってもらえませんか?」
「むむっ、もしかして、お姉さんの湯上り姿見たいの? 男の子だねぇ」
「………………………………………………………………………そうですね。もうそれでいいです」
「ひ、悲嘆と慈愛に満ちた視線……!?」
廣井さんは恩人だ。恩人には人間の尊厳を守ってもらいたい。そんな感傷が僕にもあった。
だから出来るだけ早足でかつ誰の目にも止まらないよう、開店している一番近い銭湯へ向かう。
調べるとスーパー銭湯だった。複合施設、今の状況としてはちょうどいい。
着いたらすぐに入店。廣井さんが何か言う前に入場券を買い、タオルと館内着をレンタルする。
そしてそれらを彼女に押し付けた。僕の勢いに目を白黒とさせる彼女へ更に続けた。
「お風呂に入った後でいいので、中にある洗濯機で今着てる物は洗濯してください」
「えーそんなお金ないよー?」
「小銭渡しときます。足りなければ後で言ってください」
「もう百円あればお酒買えるのになぁ。ちらっちらっ」
はっきり言って、今の僕に余裕はない。冗談にも満たない戯言に付き合う気力は無い。
それを理解してもらうため、今日も僕は非礼を承知で言葉を叩きつけた。怒ってはいない、多分。
「廣井」
「うっす」
僕はこういう銭湯だとかプールだとか、いわゆる水系統の施設にはあまり行ったことが無い。
人を殺す可能性が高いからだ。転べば死ぬし、溺れれば死ぬ。気楽に行くには危険すぎる。
それでも正月にしては空いていたから、なんとか今日は無事に過ごせた。死者ゼロ人だ。
お風呂上り一息ついて、休憩スペースの隅の方でフルーツ牛乳を飲んでいると、肩を突かれた。
ひとりのような控えめな触り方だ。あの子はここにいない。なら店員さんだろうか。
注意深く、間違っても気絶なんてさせないようゆっくり振り返ると、予想外の人がそこにいた。
「あ、あがりましたー、なんて」
廣井さんだ。髪を下ろしていて、浴衣のような館内着に身を包み、所在なさげに立っている。
いつもとは何もかもが違うから、一瞬知らない人かと思ってしまった。今も目を疑っている。
そうしてじろじろ無遠慮に全身を観察していると、彼女はもじもじしながら聞いてきた。
「な、なに、そんなにじっと見て。ど、どこか変?」
「変というか、もしかして廣井さん、今素面ですか?」
「…………うん」
こくりと、小さく廣井さんが頷いた。いつもの大袈裟な動きと比べると、十分の一くらいだ。
そして顔を上げた後もこちらを見ずに、斜め下の木目を数えるように彼女は続けた。
「なんかね、甘酒って二日酔いとかにいいらしくて。私さっきたくさん飲んだから、それで」
「…………」
「あっう、疑ってる? ほら、このページに書いてあるよ、嘘じゃないよ」
「いえ、素面の廣井さんに会うの初めてなので、少し驚いてました」
「……そうだっけ?」
首を傾げる角度も控えめだ。重力に負けていない。なんだこの感想は。今僕は動揺している。
いったん落ち着こう。この人は廣井さんだ、知らない人じゃない。友達で大切な人だ。
だから警戒も動揺も必要ない。いつも通り、安心して話しても大丈夫なはずだ。
「そういえば廣井さん、さっきまで着ていた服は」
「あっうん。言われた通り洗濯機に入れてきたよ」
「ありがとうございます。すみません、さっきは強く言ってしまって」
「お金だって出してもらってるのに、そんなこと。あっ、今度ちゃんと返すね」
自主的にお金を返そうとしている。もしかしたら、この人は廣井さんじゃないかもしれない。
違う、そうじゃない。それはさっき確認したことだ。戻ってどうする。何を考えている。
思考を戻すため、指を擦り合わせて気まずそうな廣井さんのため、僕は横の床を軽く叩いた。
「立ってるのも疲れるでしょうし、廣井さんも座ったらどうですか?」
「そ、それじゃあ、失礼します」
僕の勧めに彼女は、いそいそと僕から二人分離れて座った。凄い距離感を覚える。
「……なんか、遠いですね」
「そ、そう? いつもこんなもんじゃない?」
「いつもの廣井さんなら、膝枕、いや僕の上に座って来てもおかしくないです」
「うっ」
そう指摘すると、彼女は苦し気に胸を抑えた後、今度は両手で頬を押さえた。
その頬はうっすらと赤く染まっている。これはまさか、あの廣井さんが、恥を覚えている?
「その、いつもごめんね。あちこち触ったり、だ、抱き着いたりして」
「もう慣れたから平気です。でも危ないから、あまりやらない方がいいと思います」
「……はい、気を付けます」
縮こまってかすれた返事をする彼女は、本当に反省しているように見えた。
それでもじもじとまた余計に距離を取られそうだったから、僕の方から近づいた。
いつもよりは少しだけ遠い、半人分くらいのところに腰を下ろす。
「……えっと、君は近くない?」
「こんな遠いと逆に落ち着かなくて。すみません、嫌でしたか?」
「別にいいけどさ、君こそ気を付けた方がいいんじゃない、こういうの」
「よく言われます。でも廣井さんなら大丈夫だと思ってるので」
「ずるい言い方だなぁ」
そう言うと彼女は体育座りをして、自分の膝に顔を埋めてしまった。
それからしばらく沈黙を守った後、覗き込むように僕を見て、静かに問いかけてくる。
「………………ね、幻滅した?」
「何にですか?」
「その、素面の私に。こんな暗くて、弱そうで」
「しません」
なんとなくだけど、自分を卑下する言葉が続きそうだったから無理やり打ち切った。
そんなこと聞きたくないし、言わせたくもない。廣井さん本人であってもそれはさせない。
あっけにとられる彼女へ、ついでだから素面についても感想も伝えることにした。
「穏やかで優しそうで、いつもの廣井さんより僕は好きです」
「………………うーん、それはそれでなんだか傷つくなぁ」
「別にいつもの廣井さんを貶しているつもりは無いんですが、難しいですね」
「そうだぞー、乙女心は難しいんだぞー」
「乙女?」
「あっ酷い!」
言葉とは裏腹に、笑いながら廣井さんが叩いてくる。威力も触れるようなものだ。
「あれはあれで賑やかで楽しそうで、嫌いじゃないです」
「嫌いじゃない止まりなんだ」
「ええと、それにこういう柔らかい部分を見せてもらえると、信頼されている気分になれるので」
「あっ誤魔化したー。初めて会った時より、なんだかちょっと悪い子になったね」
そう言ってから控えめに、彼女はくすくすと小さく笑い声を零していた。
なんだろう、もの凄くやりづらい。柔らかくて繊細で、どこか絡みつくような感覚がある。
あまり会ったことの無い、周りにいたことのないタイプの人だ。いや廣井さんなんだけど。
「あのね、一人君」
「すみません、ちょっと調子に乗りました」
「君もね、もっと見せてもいいんだよ?」
予想外の提案だった。もっと見せてもいい。柔らかいところ、弱いところを。誰に、どうして?
意味が分からなくて言葉に詰まる。そんなことする理由も意味も、暇も権利も僕にはない。
それに誰にも教えるつもりのなかった秘密は、もう廣井さんにはバレてしまっている。
「廣井さんには見せてるつもりです。一番の隠しごとだって、もう知られてます」
「全然だよ。それに、私にじゃなくてさ」
その先を彼女は口にしなかった。しなかったけど、誰のことを言っているのか分かってしまう。
いや、違う。ヒントなんて何も無い以上、これは理解じゃなくてただの願望だ。浅ましいな。
彼女に、自分に感じた苛立ちを抑える。それでも出せた言葉はどこか不貞腐れたものだった。
「……廣井さんも星歌さんも、お節介ですよね」
「君にだけは言われたくないなー」
それを言われるとぐうの音も出ない。今こうしてここにいること自体が相当なお節介だ。
だとしても僕はやらない、やれない、やる訳にはいかない。これ以上迷惑をかけたくない。
現状は奇跡だ。この先を望めば欲でわがままになる。それは許されない。
「とにかくそんなこと出来ません。押し付けるのは、それこそお節介だけで十分です」
「困った子だねー。大槻ちゃん以上に問題児かも」
「心外です。訂正してください」
「大槻ちゃん相手だと、君ちょっとキャラ変わるよね」
同等ならともかく、大槻さん以上となると認められない。
そんな微妙な気持ちを汲み取ったのか取ってないのか、おかしそうに廣井さんは笑みを零した。
「あーあ、あと何年かしたら、一緒にお酒も飲めるんだけどなぁ」
「幸せスパイラルですか? あれは人として出来ません」
「そこまでやろうとは言ってないよ。お酒飲んで、それでちょっとした愚痴と言えるといいねって」
昔父さんが言っていたような気がする。飲み会とはすなわち愚痴会だと。
お酒を飲んで、代わりに愚痴を吐き出して、次の日から頑張っていくためのものだと。
まだまだ先のことだけど、いつか僕もそんなことが出来るようになるんだろうか。
「お酒飲めるようになったら、今まで以上に絡まれそうですね」
「……いや?」
「大変そうだなとは思うけど、それ以上に楽しみです」
「ほんとかなー? 酔っ払いの相手面倒だなーとか思ってない?」
「思ってません。もし思っていたら、とっくに廣井さんとは縁を切ってます」
「あ、あははー、悲しい説得力」
「繰り返しになりますけど、廣井さんとお酒を飲めるようになるのは楽しみです」
いい機会だから言っておこう。素面の今ならもしかしたら届くかもしれない。
「だから廣井さんもそれまで、ううん、ずっと元気でいてくださいね」
「……ん」
さっきの僕と同じくらい曖昧な返事だった。それでも聞いてくれただけいい。
一仕事終えた気になって、残っていたフルーツ牛乳を口に含む。真面目に話すと喉が渇く。
その時廣井さんから視線を感じた。じっと僕の顔を眺めている。それもそうだ、当然の反応だ。
「すみません気づかなくて、廣井さんも何か飲み物欲しいですよね」
「あっいいよ別に。さっき甘酒たくさん飲んだし、お金無いし」
「誘ったのは僕なのでそれくらい出します。買いに行きましょう」
座り込む廣井さんに手を差し伸べて、そのまま売店まで一緒に歩く。
多分だけどここの品ぞろえはいい方だ。冷蔵庫にはたくさんのお酒が並んでいる。
きっと廣井さんが好きなものもある。変に真剣な表情の彼女に飲みたいものを聞いた。
「それで、どのお酒がいいですか?」
「……今日は、コーヒー牛乳にしとこうかな」
「えっ」
「何その意外そうな声。あんなこと言われたら、いくら私でも一本分くらいは頑張るよ」
拗ねたような声を出しながら、廣井さんは缶ビールを通り過ぎてコーヒー牛乳を籠に入れた。
本当にお酒じゃなくてもいいらしい。新年の奇跡に感動した僕は売店を見回した。
「嬉しくなってきたのでもう一つ何か奢ります。何がいいですか?」
「……じゃ、じゃあお酒を、なーんて」
「水でも飲んでてください」
「じょじょ、冗談だって。そんな怖い顔しないでよ」
「僕も冗談です」
いつもよりずっと控えめに絡まれながら会計を済ませる。レジの人には訝しげに見られた。
無遠慮だけど無理もない。血縁関係もなさそうな男女、それも大人と子供の組み合わせ。
片方は酷くおどおどしていて、もう片方は表情一つ動かない無愛想。危ない気配がする。
でも今更の話だ。彼女を連れて歩く時点で、そんな視線を向けられることは覚悟している。
それにこの程度なら。休憩所まで戻って来てから、後ろを歩いていた彼女の顔をじっと見る。
「きゅ、急にどうしたの? 私の顔、なんかついてる?」
「廣井さんの顔がついてます。今日も見られてよかったなって思ってました」
「……本当、悪い子になってきたね」
今日はとてもいいものが見れた。この程度の苦労や気疲れなんて安い買い物。
それからは喜多さんからのSOSがあるまで、二人でのんびりと牛乳を飲んでいた。
次回「バンドは家族 表」です。