どうしてこんなことになったのか。このフレーズを思い浮かべるのも何回目だろう。
自分の無力を嘆く時、世の理不尽さに憤る時、ひとりが何かやらかした時、色々あった。
今日のこれはここ一年で急激に増えつつある時、まるで意味が分からない時だ。
「兄さーん、そろそろお茶にしましょー?」
「ありがとう、喜多さ、郁代。これが終わったら行くから」
「えっとね、実はそろそろじゃなくて、もう淹れちゃったの。だから一緒に来て?」
「分かった、そういうことなら。……というかその、名前平気なの?」
「もう慣れた、というか家族だし平気よ! だから兄さんも早く慣れてね?」
満面の笑みを浮かべる郁代にダメージを受けた様子は無い。慣れたというのは本当なんだろう。
それどころかどこか楽しそうに僕の腕を取り、そのまま部屋の外まで引っ張っていこうとする。
ひとりとふたりがそれを戸の傍で眺めている。瞳に宿る感情は対照的だ。許可したのは君でしょ。
どうしてこんなことになったのか。もう一度同じことを考えながら、昨日のことを思い返した。
大槻先生の特別教室からの帰り道、喜多さんが突然僕達と同じ電車に乗って来た。
記憶が確かなら彼女は逆方向の電車に乗って帰るはず。最初は間違えたのかと思った。
控えめにそれを指摘したひとりに向けて、喜多さんは致死量の光と言葉を放った。
「今週末、ひとりちゃんたちのお家泊まってもいいかしら!?」
「え゛っ」
「さっき大槻さんから教えてもらったことだけど、バンドのためにも曲の理解をもっと深めた方がいいと思うの。それでひとりちゃんには、歌詞を直接解説してもらえればなーって」
喜多さんはいつも真面目で一生懸命で、ついでにこうと決めたら一直線な人だ。
そんな子に明確な課題と目標、解決策を導けばこうもなる。ちょっと考えれば納得は出来た。
慌てふためくひとりとは違い、彼女を止める理由は無い。後藤家はひとりの友達をいつでも歓迎します。
「……あっ! か、歌詞の解説なら、別に家に来なくても、スターリーでも出来ますよ?」
「そうね。でもそれだけじゃ不十分、きっと全然足りないの」
「た、足りない。何がですか?」
「理解度よ! ひとりちゃんの歌詞ってすっごく難しいじゃない? だから歌詞を理解するなら、もっともっとひとりちゃんのことも知った方がいいと思うの。ううん、私が知りたいの!」
キターンキラキラと、笑顔と言葉が飛んできた。直撃したひとりの目と耳が潰れる。
ひとりは片手で目を抑えながら、もう片方で僕の腕に縋るようにもたれかかってくる。
ちょうどいい。ひとりのお願いとは関係なく、そろそろ口を挟もうと思っていた。
断る口実にするつもりはないけれど、いくつか聞いておかないといけないことがある。
「喜多さん、お泊りすることは御家族に伝えた?」
「さっきロイン送りました! 結構友達の家には泊まるので、これで大丈夫です!」
「僕がいることは?」
それがどうしたんですか、と言わんばかりに喜多さんは首を傾げる。
どうしたもこうしたもない。気が抜けた考えだ。油断が過ぎて心配になる。
「異性の友達がいる家ってなると、御両親も心配すると思う」
「あっ、あー、そういう。でも先輩なら大丈夫じゃないですか?」
「て、適当……」
あまりにも雑な返事にひとりが呆れた声を出す。僕も出そうになった。
男っぽさが薄いのは自覚してる。それでも、一応僕だって男だ。年頃の子なら警戒した方がいい。
だけど目の前でへらへら笑っている喜多さんには、警戒心がさっぱり感じられなかった。
「お説教染みたことは言いたくないけど、もっと危機感というか、警戒心持った方がいいよ」
「それ先輩が言うんですか? それに大丈夫ですよ~先輩ほど安全な人いませんから~」
「……僕は多分、この辺で一番危険な生き物だよ?」
「先輩が? ふふふっ、たまにはそういう冗談も言うんですね!」
ものすごくさらっと流された。安心安全認定、喜ばしいはずなのに微妙に釈然としない。
その気持ちが伝わったのか、何故かちょっとだけ自信に溢れた表情を彼女は浮かべた。
「あっもしかして、何かしちゃう気なんですか?」
「何もしないよ。そうじゃなくて、心構えの話」
「むっ」
得意げに歪んでいた口が今度はへの字になった。どこかが気に食わなかったみたいだ。
どこか。まさか、何もしないの部分? だけど男女のどうこうって話じゃないだろう。
友達同士のお泊りなら、お遊びの悪戯くらいあって当然ってことなのかな。よく分からない。
「……じゃあ、何かしようか?」
「何かって何ですか?」
「…………えっと、寝起きドッキリとか」
「ドッキリで何やるんですか?」
「………………時計のアラームを、一時間くらいずらすとか」
「安心安全ですね!!」
断言されてしまった。しかも今度は、どこか見守るような微笑までおまけされた。
なんだろう。これを年下の子にされていると思うと、さっきよりますます釈然としない。
僕が黙ったことで納得したと思ったのか、喜多さんはひとりに狙いを戻して両手を合わせた。
「とにかく勉強のためにも、今日泊めてくれないかしら? お願いひとりちゃん!」
「あっああの、えっと」
改めてのお願いにひとりはなんとか抵抗しようとしていた。だがそれも無駄なことだろう。
ゴリ押しの喜多さんにひとりが勝てたところを見たことが無い。僕も勝てたことは無い。
僕達に出来るのは覚悟を決めることだけ。だからなるべく優しく、ひとりの肩に手を置いた。
「頑張ろう」
「……う、うぅ、そ、そんな」
地獄に落ちたような反応、友達が泊まりに来る時のじゃないな、なんて他人事のように思った。
そうして喜多さんのお泊りが決まったから家に連絡すると、家族みんなが大喜びした。
その喜びがあふれたのか、玄関先でクラッカーまで持ち出していた。僕もやりたかった。
そんな大騒ぎで迎えられたのにも関わらず、彼女はまったく動じていない。それも当然か。
なにせ彼女は陽キャの中の陽キャ。ひとりに言わせてみればクイーンオブザ陽キャ。
この程度のサプライズならきっと、両手の指じゃ足りないくらい経験しているはずだ。
「あっ喜多さん、ちょっと待って。紙ふぶきついちゃってる」
「えっどこですか?」
「襟足のところ。取るからじっとしてて」
「ありがとうございます!」
喜多さんとそんなやり取りをしていると、なぜか父さんと母さんが僕達をじっと見ていた。
しかもちょっと見ないくらいニコニコしながらだ。多分、夏休みに皆が来た日と同じくらい。
家族とは言え、黙ってそうして見られると妙な心地がする。ちょっと怖いから聞いておこう。
「……二人とも、急にどうしたの?」
「なんでもないわよー、ほほほ」
「そうそう、なんでもないなんでもない、ふふふ」
「絶対あるでしょ。何その笑い」
「ふふふー」
「ほほほー」
「せめて喋って?」
「ふふふーほほほー」
重ねて聞いてみても、同じように揃ってふふふ、ほほほと返されるだけ。
途中でふたりも加わったからもう何も分からない。喜多さんもいるし、これ以上はやめておこう。
それでもと、せめて文句を込めた視線を投げかける。笑顔が深まった。何の意味もなかった。
「先輩って、お家だとあんな感じなのね」
「あっはい。あんな感じです」
「はーなんだか意外だわー」
賑やかな夕食が終わり、その後はお風呂。諸々の都合により今日は順番が指定された。
お客さんの喜多さん。ひとり、母さんとふたり、僕、父さん。母さんの鶴の一声だった。
きっとお泊り系作法でそうなるんだろう。喜多さんが遠慮する以外、特に異論は無かった。
お風呂から上がってひとりの部屋へ向かうと、喜多さんがひとりをじっと眺めていた。
見られ続けているひとりは、居心地悪そうにしながらも普段通りギターの練習をしている。
これはどういう状況なんだろう。てっきり喜多さんにひとりが質問攻めされてると思っていた。
「二人とも何してるの?」
「ひとりちゃんを観察してます!」
「あっか、観察されてます」
なんでもひとりの日常生活を観察して、その生態を明らかにするつもりらしい。
しばらくの間喜多さんは、感心した様子でひとりの練習を見ていた。だけど途中で飽きたらしい。
眠たげに欠伸をしそうになってから、僕の視線に気づいて恥ずかしそうに噛み殺した。
「えっと、ひとりちゃんっていつも何時くらいまで練習するんですか?」
「……寝るまで?」
「えっ」
ここ数年は大体ひとりより先に寝てしまうから、正確な時間は分からない。
それでも自己申告によると、遅くとも十二時を超える頃には布団に入っているらしい。
今は九時近くだから、あと三時間くらいはこのままだろう。そう告げると喜多さんは絶句した。
「じゃあ私、このまま動かないひとりちゃんをずっと見てるんですか!?」
「手は動いてるよ。ほら、ギター弾いてる。上手だよ」
「そんなのつまらないです!!」
「喜多さん、ヘッドホン着けてるけど聞こえるから。ひとりにもそれ聞こえるから」
演奏を止め、ヘッドホンを外したひとりが申し訳なさそうに頭を下げた。
「つ、つまらない女ですみません……」
「あっ! ご、ごめんね、その、つい本音が出ただけで他意はないから!!」
「威力上がってるよ」
もはや純粋な暴力だ。胸を打たれたひとりはギターを抱えたまま横になる。
喜多さんは慌てふためいていたけれど、僕は感心していた。傷が思ったよりも浅い。
その証拠に人の形を保っている。そして慰めているとすぐに復活した。丈夫になってきた。
それで喜多さんも安心したらしくほっと一息ついて、今度は僕へ視線を向ける。
「そうだ先輩、ひとりちゃんが練習してる間私と」
「おにーちゃんもう寝る時間だよー!」
彼女がそう言って身を乗り出してきた瞬間、ふたりがツチノコ片手に部屋の戸を全力で開いた。
寝る前なのに元気一杯だ。それなのに布団に入るとすぐ寝てしまうから、子供って不思議。
そんな疑問と癒しと和み、その他諸々を感じつつ、傍に駆け寄るふたりを抱き止めた。
「ふたり、お部屋に入る前はノックしようね」
「はーい、ごめんなさーい」
「ここはひとりの部屋だから、それはお姉ちゃんに」
「おねーちゃんごめんねー?」
「あっうん。お姉ちゃんは全然大丈夫だから」
自分でも口うるさいとは思う。だけどこの手のマナー、習慣は幼い頃から身に着けた方がいい。
幸いにしてひとりもふたりも、いつも僕の注意を素直に聞いてくれている。今日も一安心だ。
ほっとしながら立ち上がり、ふたりと一緒に僕の部屋へ向かおうと戸を開いた。
「それじゃ二人ともおやすみ。あんまり夜更かししないようにね?」
「はーい!」
「はーい」
「はーい!」
「ふたりは今から寝るんだよ?」
ふたりは二人に合わせて明るく返事をしていた。喜多さんがうつったかな。
いいところはどんどん真似して、悪いところは反面教師にして健やかに育ってほしい。
手を引かれて布団に連れ込まれながら、そんなことを思って眠りについた。
そして翌朝。リビングで勉強していると、喜多さんが力無く部屋に入って来た。
「おはよう喜多さん。昨日はどうだった?」
「……結局寝落ちしました」
「……練習で疲れてただろうから、しょうがないよ」
朝食の後、喜多さんはひとりを伴って忙しそうに家中を動き回っていた。
途中聞いたところによると、なんでもひとりについて家族みんなにインタビューしているらしい。
ひとりを眺めていても眠くなるだけだから、周りから掘り下げるよう方針を切り替えたみたいだ。
僕はというと、その様子をのんびり見物しながら勉強なんかして、休日を満喫していた。
僕がいると話しにくいこともあるだろうし、その内僕にも同じように聞いてくるはず。
ひとりについては詳しく、ついでに聞いてくるだろう僕については当たり障りなく。
そんな答えを考えて二人が来るのを待つ。待ってたけれど、いつになっても聞きに来ない。
「じーっ」
正確に言うと来てはいる。喜多さんがソファーの横から顔だけ出して、僕を覗き見ていた。
瞳に宿る興味の光はいつも以上に爛々と輝いている。父さんと母さんは何を言ったんだろう。
聞こうと思って振り向くと素早く隠れてしまう。体勢を戻すと再び視線を感じる。
これはおそらく、昨日のひとりみたいに僕も観察されている。どうして僕を?
ひとりに事情を、いや近くにいない。この分だと一人で部屋まで逃げ帰っている。
母さんは洗濯中、父さんはふたりと楽しく遊んでいる。ならジミヘンに聞くか。
「ジミヘン、何があったの?」
「ワンワン、ワンワンワンッ!」
「そこをなんとか。今度ジャーキー買ってくるから」
「ワンちゃんと会話してる。先輩そういうところもあるのね……!」
ボールで遊んでいたジミヘンを呼んで横に座ってもらい、事情聴取させてもらう。
その様子を喜多さんは相変わらず隠れながら、妙にキタキタした目で観察していた。
こっちはとりあえず放っておこう。ジミヘンが教えてくれるなら何も問題は無い。
「ワンワンッ、ワン!」
「……好き嫌い。えっと、ひとりの?」
「!?」
ジャーキーに釣られたのか、ジミヘンは滑らかに口を動かし始めた。
喜多さんがひっくり返って目の前に転がって来たけれど、今は無視してジミヘンの話に集中する。
当然今なら捕まえられるけど、僕から聞き始めたのに話の途中で席を立つのは失礼だ。
親しき中にも礼儀ありという。家族相手でも、いやだからこそ、そこに甘えすぎちゃいけない。
「ワンワワンッ!」
「あれ、僕のなんだ。大体の物は食べられるって知ってるはずだけど」
「ワンワンワワンッワンワン!!」
「あぁ食べ物の話じゃないんだね。じゃあなんだろ?」
「……くぅーん」
「そこは内緒、というか口止めされてるんだ。なら大丈夫、無理には聞かないから」
「ワンッ!」
「ううん、こちらこそ教えてくれてありがとう」
僕はまだ力不足だ。ジミヘンの言いたいことは三分の一も理解できていないだろう。
どうやら父さんが口を滑らせたのと、母さんが何か余計なことを言ったことだけは分かった。
肝心の内容は分からないけどよしとする。とりあえず喜多さんはおびき出せた。
「それで喜多さん、さっきからどうしたの?」
「……じ、じーっ!」
「続けるんだ」
僕としては別に見られ続けるのは構わない。でも喜多さんにとっては時間の無駄だろう。
今回のお泊りは、彼女がひとりを理解するためにしている。僕を観察していてもしょうがない。
それをそのまま言っても聞いてくれそうにないから、別の角度から僕は切り込んだ。
「喜多さんそういえば、前約束したクレープ屋さんなんだけど」
「……先輩、忘れてなかったんですね」
視線の種類が変わった。もの凄いジト目になった。胸が痛いけど作戦は順調だ。
「まあいいです。それで、いつ行くって話ですか?」
「あそこ閉店したって知ってる?」
「…………ええぇぇぇ!?」
ジト目を大きく見開いて、喜多さんが驚きに声を張り上げた。知らなかったらしい。
想像以上の驚きだ。この分だと、閉店の理由を聞いたら飛び上がってしまうかもしれない。
「なんでも江ノ島で営業してる内に仏の道に目覚めて、今はタイまで修行に行ってるらしいよ」
「そんな馬鹿な話があるんですか!?」
「うん。江ノ島にあるのは神社なのに、目覚めるのは仏教って不思議な話だよね」
「そこじゃないです」
「あぁでも明治になるまでは仏式も混じってたそうだから、そういう意味では問題無いのかな」
「どうでもいいです」
僕の疑問を冷たく切り捨てた彼女は、またソファーに隠れてしまった。
それから拗ねたような、責めるような口調でちくちくと僕を突き刺してくる。本当にごめん。
「むぅ、先輩が中々一緒に行ってくれないから……」
「ごめんね。えっと、そうだ。ならお詫びに、僕に出来ることならなんでもするから」
「……なんでも!? 今、なんでもって言いました!?」
「聞ける範囲でね。公序良俗に反するのは駄目だよ」
なんでもする、無警戒だけど言われる方も結構困る言葉だ。僕もラインが分からなかった。
リョウさんならともかく、錯乱してない喜多さんならそこまで危ないことは言わないはず。
僕はそんな浅い想定をしていた。当然のように彼女はその想像を軽々と越えていく。
「じゃあこのお休みの間、先輩の妹やらせてください!!」
この子は何を言ってるんだろう。
「よく聞こえなかったから、もう一回言ってくれる?」
「先輩の妹になりたいです!!」
「…………ごめん、もう一回だけお願い。あと理由もつけて」
「つまりですね、ひとりちゃんのことを理解するなら、先輩の妹になるのが一番なんです!!」
「本当にごめん。何度言ってもらっても分からない」
もう日が昇ってからしばらく経つけど、まだ寝ぼけてるのかな。意味が分からない。
コーヒーでも淹れてこようかな。それも限りなくどす黒いもの。きっと目が覚めるはず。
喜多さんブラック飲めるといいな、なんて変な願いごとを僕は抱き始めた。
「ひとりちゃんと先輩のご家族からお話聞いて、これしかないって閃きました!!」
「視野が狭くなってるだけだと思う」
聞いた結果がこれって、いったい二人は何を言ったんだ。ますます聞きたくなくなる。
興味は増すけど嫌気も増すという不思議な気持ちになりながら、彼女の話の続きを待つ。
「だって先輩の話をすると絶対ひとりちゃんが、ひとりちゃんの話をすると絶対先輩が出てくるんですよ?」
「大体セットで動いてたからね」
「そう、セットです!! 先輩とセットになれば、ひとりちゃんの気持ちが分かるはずなんです!!!」
テンションが高い。声も大きい。ご近所迷惑になってなければいいけど。これは現実逃避だ。
「という訳で、私は先輩の妹になります!!」
「駄目です」
「秒殺!?」
どうしてそこまで驚いているのか。まさかこれが受け入れられるとでも思っていたのか。
確かに公序良俗には反していないはず。血の繋がりが無い兄妹も世の中にはたくさんいる。
だとしても僕達には約束がある。あの時、そういう呼び方はしないとお互い決めたはずだ。
「結構前、八月くらいにそれは駄目だってことになったよね?」
「ひとりちゃんが嫌がったからですよね。ふっふっふっ、安心してください!」
全くできない。むしろ不安はどんどん募っていく。
「もう、ひとりちゃんから許可はもらいました!!!!」
テレビか何かだったら、ババン、とでも鳴っていそうなほど彼女は胸を張っていた。
そんな変な嘘を吐く理由は無いはず。だけど時々喜多さんは驚くほど変になる。
一応念のためにと部屋まで移動して、ギターの練習をしていたひとりに確認した。
「喜多さんが妹になるの許可したって本当?」
「うん」
特になんとも思って無さそうにひとりは頷いた。あの時のような反発はまるでない。
ちょっとした兄離れかな。寂しくなるけどいつかは起きること、むしろ遅いくらいだ。
胸の寂寥感を達成感で埋めようとしていると、ひとりが両方とも雑にどけてきた。
「いいって言わないと、土日が喜多ちゃんで埋まっちゃうから……」
ひとりは打算的だった。もっと言えば僕は生贄だった。僕の情緒を返して欲しい。
咎めるような僕の視線を受けて、ひとりはそそくさと部屋から逃げて行った。転ばないようにね。
視線を戻すと喜多さんが両手を握り、キターンという音と光を四方八方に飛び散らかしている。
最初に言いだしたのは僕。今逃げ道を潰したのも僕。ならもう、しょうがないか。
「………………まあうん、じゃあ、うん。しょうがないから、うん、じゃあ、いいよ」
「やった! 短い間だけどよろしくね、兄さん?」
嬉しそうに、そしてからかうように上目遣いで喜多さんが呼んでくる。
そんな彼女の瞳は悪戯っぽく輝いていた。そっちがそういうつもりならと、僕も同じように返す。
「こちらこそよろしくね、郁代」
「うっ」
前途多難だ。
名前で呼ばれて悶え苦しんでいた郁代は数秒で蘇った。さん付けじゃなきゃここまで早いのか。
なら普段も呼び捨てならいいのかな。でもそれってちょっと距離感おかしくないかな。
ヤバいと言われたあの日以来、それまで以上にその辺りの感覚に自信が無い。だからやめとこう。
気を取り直して郁代の様子を確認する。ご機嫌そうにキタキタと光っている。
ふと目が合うとにっこり微笑んでくれた。気のせいか、いつもより明るくて柔らかい雰囲気だ。
未だにひとりは帰ってこないし、郁代もにこにこしてるだけ。落ち着かないから話でもしよう。
「それで妹になるって、具体的に何するの?」
「……妹って何なのかしら?」
「そこから?」
何も具体的に考えて無いみたいだ。やっぱりこれただの思いつきなんじゃ。疑念が深まる。
僕の呆れが十分に伝わったのか、郁代は視線をあちらこちらに飛ばした後指を一本立てた。
何か思いついたらしい。どこか得意げな様子で、僕に向けて握った手をマイク代わりに差し出す。
「じゃあ兄さんにとって妹って?」
「……うーん」
「あれ、そこで悩むの? 兄さんなら僕の全てー、とか言うと思ってたわ」
「いざ言葉にしようとすると、なんだか難しくて」
人生、希望、幸福、光、例える言葉ならいくらでもある。それこそ僕の全てでもいい。
でもそのどれもが大げさで、なんというか白々しい。空虚で無意味な羅列に思えてくる。
それでも何か、一言でまとめられるものはないか。少し考えると、無意識に言葉が漏れた。
「……杖」
「えっと?」
「あっごめんね。今のは関係ないことだから」
これは駄目だ。僕の面倒な事情と気持ちを説明しないと、まったく意味が分からない。
そして誰にも教えるつもりはない。妹に縋らないと生きていけないなんて、言えるはずもない。
他に考えよう。そもそも僕は妹達をどう思っているか。これからどうなって欲しいのか。
何よりも大切で、愛していて、幸せになってほしい。突き詰めてまとめるとこれだけだ。
「さっきも言ったけど、言葉にするのは難しいんだ」
「ふむふむ」
「だからそのまま、言葉には出来ないほど大切な存在、かな」
「おー」
何故か感心された。ほとんどいつも言ってることだから、てっきりドン引きされると思ってた。
いったい何が違うんだろう。普通の女の子の感覚は分からない。人生で一二を争う難しい問題だ。
答えの無い問いに悩んでいると、郁代がどこか期待した様子で自分のことを指差していた。
「じゃあじゃあ兄さん、今は私もそれくらい大事ってこと?」
「郁代は仮免妹だから(仮)が付くよ」
「仮免!? (仮)!?」
僕達がそんな漫才を繰り広げていると、階段を上る音が二つ聞こえてきた。
そのまま部屋に入ってくる。ほとぼりが冷めたと思ったのか、ひとりがふたりと戻って来た。
逃走のお詫びのつもりか、人数分の飲み物とお菓子をお盆に乗せて持っている。
そんなひとりに郁代は同じ質問をぶつける。びっくりしてひっくり返さなければいいけど。
「ひとりちゃんにとって妹って何かしら?」
「えっ、い、生き方?」
「なんか深いわね……ふたりちゃんにとっては?」
「妹? ふたりのことだよ!!」
「この子強いわ……」
ひとりもふたりも勢いで答えているから参考になるかは怪しい。そもそも何の参考なのか。
妹になる、ならないなんて馬鹿みたいなことは考えたことが無いから、僕も何も分からない。
思考に暗雲が立ち込める中、ふたりがひとりの足を無意味に叩きながら聞いてくる。
「おにーちゃんたち何してるの? 遊んでるならふたりも混ぜて!」
名目上バンドとして、ボーカルとしてより高みに行くための活動中ではある。
ただどんな遊びよりもよほどふざけている状況だと思う。妹になるってなんなの?
誰も止めないから遊んでるとふたりは思ったみたいで、遠慮なくひとりの足を抱いて引っ張る。
それで倒れそうになるひとりにきゃっきゃっと喜ぶふたりへ、郁代がにじり寄った。
「そうだふたりちゃん、私先輩の妹になりたいんだけど、妹って何すればいいのかしら?」
「喜多ちゃん、おにーちゃんの妹になりたいの?」
「うん。ひとりちゃんの気持ちを知るために、先輩の妹になりたいの!」
「???」
傍から聞いていても意味の分からない会話だ。現にふたりも小首をかしげている。
それにも郁代はおかまいなしだ。ふたりの手を握って光り輝きながら教えを乞いていた。
「だからふたりちゃん、妹のやり方教えてくれるかしら?」
「えー喜多ちゃんわからないのー?」
「私一人っ子だったし、そういう人もいなかったから全然なのよ」
「うーんと、いいよ! 喜多ちゃんなら特別に教えてあげる!」
「ありがとう!」
可愛らしいドヤ顔で大仰に頷くと、ふたりはとてとてと僕の前に歩いてくる。
何か実践するのかな。じっと動くのを待っていると、僕の胡坐の上に座って抱き着いて来た。
「おにーちゃん!」
「なーに?」
「えへへっ、なんでもなーい!」
可愛い。心のままに頭を撫でて耳をくすぐると、楽しそうに体を震わせた。
すると仕返しとばかりに僕の脇に手を伸ばしてくる。くすぐったいというよりこそばゆい。
抵抗のために抱き上げて、そのままくるりと一周する。きゃーという黄色い声が耳に届く。
結構気に入ったみたいで頬を上気させながら、ふたりは満面の笑みで郁代の方へ振り向いた。
「こうやればいいの!! あっおにーちゃん今のもう一回やって、もう一回!」
「もう一回だけね。あと気持ち悪くなったら言うように」
「はーい!」
「こ、これが真の妹パワー……!?」
「あっあの、私も妹です、一応、本物の」
ひとりのアピールを郁代はスルーした。
そうして何回か遊んでいる内に満足したらしく、ふたりは手を振りながら部屋を出て行った。
とんとんとんと階段を降りる音はリズミカルだ。少し心配したけど目は回ってないみたい。
無事降り切ったことを確認してから、目をぐるぐるさせて混乱している郁代へ注意を向けた。
「よ、よーし! じゃあ、私も行きます。兄さん、手を広げて!」
「広げません。思春期の兄妹はそんなべたべたしないよ」
「先輩がそれ言うんですか!?!?」
よほど衝撃的だったのか、先輩後輩関係に戻っていた。そんなに驚くことなのかな。
僕も十六年近く兄をやっている。その中で兄としてのモラルは日々磨いてきたつもりだ。
妹とはいえ年頃の、思春期の女の子には無暗に触れるべきじゃない。語るまでもない一般常識だ。
じゃあなんでひとりちゃんはいいの? 言葉にせずとも郁代からそんな強い疑念を感じる。
「ひとりはまだ思春期来てないから」
「えっ私来てないの?」
「えっ来てたの?」
思わず確認してしまう。ひとりの思春期っぽいところ、どこかあったかな。反抗期、ない。
血縁のある異性を避ける。父さんとも仲いいし、僕とは大体一緒にいる。その上くっついてくる。
異性に興味関心を抱くようになる。人のことは言えないけれど、欠片も持ってなさそうだ。
心身の成長に伴う精神の不安定化。生まれてからずっと不安定だから判別がつかない。
その他精神的な変化。最近急成長中だけど、変化は特にしていない。以上を踏まえると。
「やっぱり来てないよ」
「……そ、そう言われると、まだ来てない気がしてきた」
「もっと自信を持って!? ひとりちゃんそろそろ高二よ!?」
体も心も成長には個人差がある。遅い早いはあっても、いい悪いはきっとない。
そんな表面的な言葉で思考を誤魔化す。正直僕も怪しいからひとりのことは言えない。
反抗期、血縁のある異性を避ける、異性への興味関心。僕も覚えがない。自信もない。
「とにかく、僕と郁代は一つ違いです。もっと節度ある兄妹をしましょう」
「あっ分かった!」
僕の提案を郁代はまるっきり無視した。明るい表情で両手を合わせている。
全然話を聞いてないのに、いったい何が分かったんだろう。多分妄想か何かだと思う。
郁代はにやにやとした笑みを浮かべながら、からかうように僕の肘を指でつつく。くすぐったい。
「お泊りの話の時も思ったけどー、もしかしてー、兄さんの方が意識しちゃってるのかしら~?」
「……? ………?? ………………???」
「純粋な疑問!?」
あまりにも的外れなことを言われてしまい、つい全力で考え込んでしまう。意識とは。
真剣に悩む僕を見て郁代が愕然としていた。自信とアイデンティティが崩壊したような顔だ。
このまま続けると偉いことになりそうだから、強引にでもまとめて話を逸らしておこう。
「ふたりはああ言ってたけど、甘えるだけが兄妹じゃないよ。もっと別の方法を考えよう」
「……あっあの、お兄ちゃん」
郁代が萎れているのをいいことに話していると、今度はひとりが僕の肘をつついていた。
不思議に思ってひとりを見ると、指を細かく落ち着きなく動かしている。この動きは、廊下かな。
ひとりの指示に従って廊下の方を向く。戸から顔を半分だけ出した母さんと父さんが立っていた。
「こ、後輩の女の子に、兄さんって呼ばせて妹をさせている……!?」
「そんな、女の子の友達が出来たと思ったら、いきなりこんな倒錯的なプレイに走るなんて……!?」
きっと恐ろしく変な誤解をされている。二人のあの絶望的な表情を見ればよく分かる。
作詞に悩んで部屋で踊り狂っていた、あのパリピひとりを見た時と同じような顔をしていた。
これだと僕からの説明じゃ納得してもらえないだろう。色んな意味で喜多さんじゃないと駄目だ。
「喜多さん、悪いけど説明お願い」
「…………やだなぁ、妹を名字で呼ぶなんて変よ。ね、兄さん?」
「……郁代?」
「なんですかー兄さーん?」
昨日今日で一番の、意地悪そうな微笑だった。ニヤニヤ以上の表現が見当たらない。
それを見て母さんが崩れ落ちるのを父さんが支えた。もう大事故、大惨事だ。どうしようもない。
結局この誤解を解くのに、それから一時間以上かかった。あと郁代は正座させた。
次回「妹体験記 下」です。
おまけ
反抗期 微妙に母親には当たりが強い
血の繋がった云々 同上
異性への関心 むっつりの時のあれ+裏設定
心身の不安定化 御察し
その他精神的変化 一話からここまでの変化
総評 来てる