そのため、ジュニア期に夏合宿がない、本格化の概念がないなど、現在確認できる一次設定と違うところが散見されますがご容赦下さい。
あの傘、今でも大事に持ってますよ?
「いやあ、素晴らしい走りだったよ!グラスワンダー!」
頬を伝って滴る汗がくすぐったかった。
4月とは思えない大きな入道雲。心とは裏腹にどこまでも澄みわたる青い空が私を諌める。
「それは……ありがとうございます~」
天を仰いだ表情を悟られまいと、半ば無理矢理笑顔を作ってそれに応じる。絞り出したその言葉が少し震えていたのは、いまだ整わない呼吸のせいだろう。
「是非私に担当させてくれないか!?次こそ君を一番にゴールさせてみせるよ!」
『次こそ』……ですか……。
「嬉しいお申し出ありがとうございます。ですが……」
「いいえ!グラスワンダーさんはわたくしが担当致します!貴方の足なら重賞、いえG1だって夢じゃありませんわ!わたくしと共に栄光を勝ち取りましょう!!」
「いいや!俺に付いてこい!どこまでも果てない夢を追いかけさせてやる!!」
多くの人が私を囲い、次々とスカウトの申し出が舞い込む。心なしか一着を取ったウマ娘よりも勧誘トレーナーの数が多い気がした。
「皆さまご足労頂きありがとうございます。ですが、今の私には皆さまのお申し出を引き受けられる準備が整っておりません。大変申し訳ございませんが、今日のところはお引き取りを」
私は正直に今の気持ちを伝えた。
でも仮に一着を取っていたとしても彼らの申し出を受けることはなかったでしょう。
鼻をつくタバコのヤニの臭さ。
服に染み付いて離れないのであろう酒の匂い。
じゃらじゃらと見せびらかすように胸に着けた勲章の数々。
……下品ですね。
こんなこと本当は心の中でも思ってはいけないのだと分かってる。それでも、ウマ娘の優れた嗅覚が彼らの私生活をあぶり出してしまう。
いえ、彼らがプライベートで何をやっていようと構わない。それは当然のことです。自分の功績を誇示しようと思うのも自然なこと。
――ただ、私とは合わない。
お酒を嗜むのは悪いとは言えませんが、服に染み込むほど飲まれるのはいかがなものでしょう?アルコールに弱い子がいれば、その鋭い嗅覚で以て体調を崩してしまうかもしれません。香水もまた然り。ヒトには無害でも時々頭がくらくらするくらいのキツい香水を撒き散らしている方もおられます。タバコなど論外。アスリートたるウマ娘にとっては、軽微とはいえ、その副流煙でもたらされる肉体的劣化は受け入れられません。
トレーナーとなったからにはただひたすらにウマ娘のために。
そのような想いで真摯に取り組んでくれる。そんなトレーナーを望むのは贅沢でしょうか?
なおもしつこく食い下がってくるトレーナー達を丁重にお断りし、人垣から出ようとした。
「……もったいないな……」
やっと聞こえるぐらいの小さな、しかしよく通る低い声が私の耳がとらえた。
その方向を見ると、四十代ぐらいでしようか。くたびれた白いシャツによれたネクタイ。薄いネズミ色のパンツを履いた男の人がスカウトもせず遠巻きにこちらを見つめていました。
両腕の袖を捲り、上着のスーツは指に引っかけて肩にかけています。髪はボサボサ、というよりもじゃもじゃに近く、ところどころピンと跳ねた髪先が頭から突き出しているし、髭も手入れしていないのか中途半端に伸びて顎の周りを覆っていました。
…………不潔!
正直、印象は最悪でした。人を見た目で判断してはいけないというのは分かりますが、ここまでくると最早エチケット不足ではないかと疑いたくなります。
そしてすぐに興味を失った私は自主トレをしようと、なおも群がるトレーナー達をかわして更衣室に急ぎました。
「勝負に『次』はねえ」
私はすぐに振り向き、彼がいるであろうその場所に目を泳がせました。
しかしその視線の先には、つい先ほど一着を逃した芝のターフが私を不思議そうに見つめ返してくるだけでした……。
~~~~~~~~~~~~~
「……もったいねえ」
思わず声が漏れる。
走るウマ娘走るウマ娘悉く未完成な走りを披露している。
当たり前だ。今日やっているレースは新入生初めての選抜レースなのだから。
トレセン学園に入学できる以上、彼女ら地元では敵なしのランナーだっただろう。それでもここで勝つのは至難。勝負は必ず勝者と敗者に分ける。ある者はあまりの壁の厚さに絶望し、ある者は今まで培ってきた自信が井の中のものだということに気付かされる。
勝負は常に残酷だ。それも特にこの最初の選抜レースは。
フォームが悪い。位置取りが悪い。スタミナ管理が悪い。加速が悪い。仕掛けが悪い。
職業柄だろうか。どうしても良いところではなく、悪いところを見てしまう。
それでも今年は当たり年だろう。三つの選抜レースを見たが、それぞれに一際光る逸材がいずれも混じっていた。
エルコンドルパサー。セイウンスカイ。キングヘイロー。こいつらはきっとG1級のウマ娘になる。
目の前でエルコンドルパサーが一着でゴールした。
特徴という特徴が挙げられないほどあまりにも均整のとれた体躯。走り方はまだまだだが、基礎的なトレーニングだけを施しても手間もかからずあっという間に走るウマ娘になるだろう。もしかしたらダートでも走れるかもしれない。
「ま、面白くはなさそうだが……」
育てがいが無さすぎて逆に食指が動かない。
まあ、どっちにしろスカウトする気は最初からなかったが。
「優勝!快勝!エル圧勝ゥ!!皆さん!見ていてくれまシタか!?これが世界に羽ばたく怪鳥!エェルコンドルパサーの走りデース!!」
エルコンドルパサーはマスクの下に満面の笑みをたたえながら、一位をとってなお自らトレーナー達にアピールしている。
中身はなかなか特徴的な奴だな。
そんなことを思いながら次の選抜レースに向けての出走準備が出来つつあるのを眺めた。
これが最後か……。
そう思いながら胸元に着けた蹄鉄型のトレーナーバッヂをいじる。
――未練はないか?
自分に言い聞かせながらウマ娘達のゲート入場を見つめた。
正直、未練が無いと言えば嘘になる。それでも後悔はしていない。最後に未来あるウマ娘達の走りを見れたことがせめてもの救いか。
――願わくは彼女がどれだけの選手になったか見ておきたかった。
「さあ、各ウマ娘達が一斉にスタートです!!」
実況の声が場内に響く。
ゲートの開く音とともに地鳴りのような振動が響いた。
ウマ娘たちがターフを蹴りあげる度にその振動が地面を伝って届いてくる。
ヒトとは比べ物にならないエネルギーの強さはいつでも俺の心を高鳴らせた。
これが最後。よく見ておけ。
――燃えるような青い光がターフをかけ抜けていった。
栗色の長い髪をなびかせ、彼女は駆け抜ける。
その目に宿した青い炎。
絶対に負けない、負けられないという強い意志がその瞳に満ち満ちていた。
一瞬で分かった。
申し訳ないと思わせるほど周りのウマ娘とは別格の走り。
――――怪物……。
瞬間、脳裏をよぎる過去の記憶。
絶対的王者。
栗毛をたなびかせながら走る、何者も寄せ付けない圧倒的支配者。
まるで…………。
「さあ!第三コーナーを周り、第四コーナーに差し掛かった!ここから抜け出すのはどのウマ娘か!!」
行け!ここだ!!
思わず心の中で叫ぶ。
彼女の脚質は差しか先行だろうか。
バ郡に紛れる彼女の足が一層強くターフを蹴る。
重心が低くなり、前のめりに体が傾いた。
周りのウマ娘は対応出来ない。彼女が作ったハイペースなレース運びの中で体力が削られているのが容易に分かった。
外側から一人、二人と着実にかわして順位を上げていく。
仕掛けのタイミングも完璧に近い。
「最後の直線に入る!飛び込んできたのはグラスワンダー!」
また一人悠々とかわし、残るは先頭のみ。
残り200m。もう差し返す距離も体力もないだろう。このまま掲示板直前で抜き去って一着。
俺のみならず、会場にいた誰もがそう思ったはずだった。
「……!くっ……!」
突如グラスワンダーの体は外側によれ、バランスを崩した。
いや、正確にはその直前、抜かそうとした先頭のウマ娘の足がもつれたように見えた。そのウマ娘はもつれた拍子にグラスワンダーのいる外側に体が傾いたのだ。
おそらくそれを避けようとして、最後の最後でグラスワンダーは外側にバランスを崩したのだ。
「今、ウマ娘たちがゴールイン!グラスワンダー、差し切ったと思われましたが惜しくも二着!一着は……」
結局最後まで逃げ切った先頭のウマ娘は、掲示板を過ぎたとたんにターフに崩れ落ちる。肺が壊れるのではないかと思うほどに、仰向けに倒れた彼女の胸は上下運動を繰り返していた。
一方、グラスワンダーは直立したまま天を仰いでいる。
ここから見ることは無理なはずなのに、彼女の端正な顔が苦々しい苦悶の表情に崩れていることが俺にはありありと見てとれた。
「いやあ、素晴らしい走りだったよ!グラスワンダー!」
一人のトレーナーが彼女の元に駆けつけながらそう発した。
グラスワンダーはそのトレーナーに向き、口元を押さえながらにこやかに応える。
「それは……ありがとうございます~」
何でだよ……!
内心苛立つ自分を押さえられなかった。
グラスワンダーは群がるトレーナーに息を整えながら笑顔で応対する。まるで負けたことなど無かったかのように。
お前の心中はそんな穏やかなもんじゃないだろ!
口元から漏れそうになる言葉をぎゅっと塞ぐ。
これほどイライラしている自分に俺自身が驚かされた。
少し落ち着こうと自分の足元を見やり、それからゆっくりとターフに視線を戻す。
よく見ると、一着を取ったウマ娘よりもグラスワンダーの方が明らかに勧誘トレーナーが多かった。
――そうだ。これは選抜レースなんだ。
選抜レースの一番の目的は優秀なトレーナーに自分の実力をアピールすること。通常のレースとは違い一着を目指すのはそのための手段でしかない。
現に、実際には二着でも明らかに一着をとれたであろうグラスワンダーの方にトレーナーは集っている。
そもそもグラスワンダーが悔しがってるというのは俺の想像でしかない。もしかしたら、多くのトレーナーに勧誘されて、彼女にとっては思惑通りに事が運んでいるのかもしれない。事実、グラスワンダーの表情は朗らかな笑顔を崩さない。
――しかし、もしそうなら……。
「……もったいないな……」
堪えていた思いがぽつりと言葉になって漏れる。
一瞬、群衆に囲まれたグラスワンダーと目があった気がした。
いや、もう俺はここを去るのだ。関係ない。俺には関係のないことだ。真実がどうであれ。
冷静さを取り戻し、今のグラスワンダーの表情を見ていると、苦悶の顔を作った想像や絶対に負けないと思わせる突き刺すような青い瞳の記憶もなんだか薄ら寒く感じてしまった。
もし本当に彼女が悔しいと感じず、次で勝てばいいと思っているなら一流のランナーには残念ながらなれないだろう。
…………もったいねえ。
「勝負に『次』はねえ」
誰に言うでもなく、足を運びながら澄んだ空に向かって毒づいた。
春特有の強い風が丘を駆け、頬を撫でる。
ビルの合間に沈み行く太陽の光が俺の瞳を射ぬいた。
眼下にはトラックを走るウマ娘が一人。
暗くなりだした芝の上をなおも疾駆する。
オーバーワークだな……。
担当トレーナーは止めないのか?いや、自主トレか。
ぼんやりと彼女を眺めながらお節介にもそんなことを思った。この癖が抜けるのはいつになるだろうか。いや、そもそもそんなことを思う状況に出くわさないだろう。これから先ずっと……。
栗色の長髪を靡かせながらターフの上を走る姿に、どうしても記憶に残るあの姿を重ねてしまう。
――彼女は許してくれるだろうか。
この期に及んで未だにあのウマ娘を頼ろうとしている自分に自嘲した。
……成長してねえのか?俺……。
やっぱりトレーナー失格だな……。
いよいよ日が沈み、門限の時間が近づく。
照明の光がトラックに一人しかいないウマ娘を空しく照らしていた。
……もう行くか。
引かれる後ろ髪を断ち切ろうと重い腰を持ち上げた。
「カブラギさんじゃないですか?」
声をかけられ振り向くと、学園理事長の秘書である駿川たづなさんが俺の側に立っていた。
仕事帰りなのか、黒い鞄を右手に提げている。服も普段見ている緑に統一されたそれではなく、私服であることが一目で分かった。
「今お帰りですか。お疲れ様です。……たづなさんにも色々世話になりました。また会うことがあれば……」
「本当にお辞めになるんですか?」
俺の言葉を遮り、怪訝そうな顔で見つめ返された。
この言葉を聞くのは何度目だろう。理事長とたづなさんには幾度となく引き留められた。
その度に固辞し続けたが、後悔はしてなかった。その時は。
――だが……。
「……決めたことです」
止めてくれ!今は……。
自分に言い聞かせるように言葉を絞り出す。
これ以上何か口にすると自分の意思とは違うセリフが出てきそうで怖かった。
「ですが、貴方程の優秀なトレーナーが居なくなるのは学園としても大きな痛手です。今日だって理事長も『あの男は気が変わったか?』としきりに気にしておられました。今一度再考してもらえないかと私としてもやきもきしてるんですよ。トレーナーさん、今ならまだ間に合います。どうか考え直して下さい」
優秀……?
「……俺は優秀なんかじゃないですよ。良い成績を修められたのも過去の話です。それもウマ娘が強かったから。最近じゃ三年も持たずに契約は打ち切られるし、第一、俺は学園で問題を起こした。未だにここに居られるのが不思議なくらいのね。それはたづなさんも分かってますよね?」
「ですが、あの事件は……!!」
言いかけたたづなさんを手で制す。
親指でトラックを指し、まだウマ娘が残っていることを伝えた。
苦虫を噛み潰したような表情でたづなさんはターフを睨み付ける。
この人のこんな表情を見るのは初めてだな。と何故か冷静に彼女を眺めていた。
「……そういうことなので、どうかご理解下さい」
「待って下さい!今少しお話を……!」
突如ポツ、ポツと雫が地面を叩き出した。
引き留めるたづなさんを遮るように、サーと音を立てて雨が降りだす。
昼間に見た入道雲を思い出しながら、これは大雨になるな、とぼんやりと考えた。
「いけない!傘、傘!」
たづなさんが持っていた鞄をまさぐり、折り畳み式の傘を取り出す。
俺はターフの隅に設けられた物置兼シャワー室に向かうため、丘を降りていった。
コンクリートで出来たその物置小屋の一室には、かつて野球部が使っていたであろうバットやらグラウンド整備のトンボ等が散乱していた。
その部屋の扉の前にある籠の中。古びたバットが二本突っ込まれている他に、黒い男物の傘が一本、同じように置かれていた。
随分と埃を被った傘を手に取り、勢いよく広げる。
ハラハラと舞う埃にむせながら俺は何度か地面に向かってバサバサと開閉を繰り返した。
粗方埃が取れたことを確認しながら、さした傘を持って彼女に近づいていく。
「……ん」
後ろから突如差し出された傘に彼女は驚いた様子で振り向いた。
耳をピンと立て、見開いた目にはつい先程見た青い瞳がまん丸にライトに照らされている。昼間は気付かなかったが、おでこに当たる前髪が丸く白くなっており、周りの栗色の髪を引き立たせていた。
一歩後ずさったせいで、彼女の肩が濡れる。
「……え……?……あの…………」
彼女の透き通った柔らかい声が戸惑いをもって俺を迎えた。
「やる」
困惑するグラスワンダーを尻目に俺は彼女の胸の前に傘の柄を突き出す。
雨を弾く傘の音がやけにうるさかった。
「…………ありがとう……ございます」
差し出した傘と俺の顔を交互に見ながら、おずおずと傘の柄を握る。
「……返さなくていいから」
「カブラギさん!まだお話は終わってないですよ!」
丘の上から俺を見つけたであろうたづなさんが声をあげて下ってくる。
俺は踵を返すとその場を去ろうとし、一瞬立ち止まった。
「……担当トレーナーに言っとけ。自主トレも時間があれば見てくれるようにってな」
それだけ言って俺は雨の中、たづなさんとは反対側の丘を駆け上がろうとした。
「私に担当トレーナーはいません」
……は?
「……は?」
思わず俺は振り返る。
傘の合間から見えた瞳は、ターフで見た時とおなじに強い意志を孕んで真っ直ぐこちらの顔を覗き込んでいた。
~~~~~~~~~~~~~~~
「本当にお辞めになるんですか?」
丘の上から女の人の声が聞こえてきた。
別に盗み聞きしてたわけじゃない。ただ、誰もいないグラウンドに女の人の高い声が良く響いただけだった。
どこかで聞いたことある。誰だったかな?
まだ入学間もなく、知り合いも少ないなかから記憶を引っ張り出すが思い当たらない。
話している相手は男の人だろうか。低いボソボソとした声が耳に入るが内容までは分からない。
……いけない!集中集中!
長時間走り続けたせいだろうか、気がそぞろになりかけた自分を叱咤してターフを駆ける。
流し気味に芝を走るが、地面に足を付ける度に膝に鈍い痛みが伝わった。息が上がり、脚の関節が熱を帯びているのが分かる。
明らかにオーバーワークだ。
分かってる。
それでも私は足を止められなかった。
悔しい……!
いえ、それ以上に情けなかった……。
何故あそこで勝ちを譲ってしまったのか……。
あの時私が避けずに直進していればきっと勝てた。
私の体は普通より細い方。だからなるべく他の子と競らない走りを身に付けていった。その癖が出たのでしょうか……。
――ううん。それは違う。
私は明確に避けた。あの子を守るために。
あんなフラフラで走っていた子にぶつかられたところで、いくら私でも転ぶようなことはなかったでしょう。逆に先頭を走っていた子の方が転んでいた。そして、あるいはそれで怪我をしていたかもしれない。
甘い!つくづく甘い……!!
そんな理由で彼女に勝ちを譲ったの?
彼女だってレースをする以上、怪我をすることだって覚悟してたはず。
こんなものは情けでもなんでもない!彼女の走りを侮辱する行為だわ!
挙げ句一着は取れず、強情な私は勧誘してきたトレーナーさんを身勝手な理由で全て断るという無礼を働いた。
つくづく……面倒くさい女……。
それでもこれが私、グラスワンダーなの。
分かってても止められない。
――これが私の生き方。
いよいよ足が動かなくなってきた。
私は走ることを諦め、ターフの上に立ち止まる。上気した体から夜気が体温を冷ましていく。
いつまでも整わない息も、吹き出すばかりで一向に蒸発しない汗も気持ち悪かった。
「ですが、あの事件は……!!」
丘の上から先程の女性の声が木霊した。
……思い出した。トレ選学園理事長の秘書さん。名前は確か駿川たづなさん。
入学式での記憶をたどる。はきはきとした声量で丁寧に司会進行をしていた姿が思い浮かんだ。破天荒そうな理事長よりもすごく安定感のある、安心できる女性である印象が強かった。
そんな彼女が声を荒げて話してるなんて、ちょっと想像が湧かない。少し気になって耳だけをそちらに向けてそばだてた。
盗み聞きをしようとした私を叱るように、耳の先端に水がピチャリと音を立てて弾けた。
驚いて上を見上げる。
ポツポツと大粒の雫が火照った頬を叩いてきた。
それはすぐにザーと音を立て激しい雨に変わっていった。
……傘、持ってきてないや。
全身に回る疲労の中で頭の方も酸素が足りてないらしい。
私は雨を防ぐでも屋根のある所に避難するでもなく、ただボーっとターフの上で突っ立っていた。
「……ん」
突如背後から見知らぬ腕が伸びてきた。
思わず後ろを向いて身を縮める。
そこには選抜レースの時に一瞬だけ見た顔があった。
相変わらずボサボサの髪と無精髭を生やしている。目はまぶたが半分閉じていて気だるそうな雰囲気を出しているが、良く見ると鼻筋が通っていて意外と整った顔をしていた。
「……え……?……あの…………」
間抜けな声が私の口から飛び出した。何が起こったのか分からず、呆然と彼の顔を見やる。
「やる」
そう言って、彼は私のジャージに向かってさらに右手を突き出した。ふくよかとは言えない私の胸にちょっと当たった気がする。
私は彼の顔と伸ばした腕を交互に見て、その手に傘の柄が握られていることに今さらながら気が付いた。
「…………ありがとう……ございます」
それでもいまいち状況が飲み込めず、差し出された傘を握りながらその言葉を出すのがやっとだった。
「……返さなくていいから」
「カブラギさん!まだお話は終わってないですよ!」
たづなさんの声が背後から響いた。
その声を聞くと、彼は弾かれたように傘が作る安全地帯から飛び出し、丘を駆けようとした。
「……担当トレーナーに言っとけ。自主トレも時間があれば見てくれるようにってな」
「私に担当トレーナーはいません」
何故こんなことを口走ったのだろう。
状況に頭が追い付けず混乱していたのかもしれない。
丘を駆け出そうとした彼はピタリと足を止め、ゆっくりとこちらに振り向いた。
強く降る雨が彼の苦々しく歪んだ顔を叩いている。
「……は?」
今度は彼の方が間抜けな声を出した。それがかえって私に冷静さを取り戻させていった。
「……お前……あれだけ大勢トレーナーがスカウトしてただろ。それ全部断ったのか?」
「はい。申し訳ありませんが全て……」
完全に足を止め、私と向き直った彼に私は想いをぶつけていた。
「皆ありがたいお申し出でしたが、選抜レースで二着になったことに自分自身納得出来ておりません。勝手であることは重々承知しておりますが、次の選抜レースで一着になるまでは、どなたのお申し出も受けないことを決意致しました」
一瞬目を見開き驚いた表情を見せた後、怒りに満ちた歪んだものに彼の顔は変わっていった。
「……お前……!……お前分かっているのか!?次の選抜レースは二ヶ月後だぞ!実力のあるウマ娘は優秀なトレーナーをさっさと見つけて、その二ヶ月でお前との差を広げるんだ!しかも……お前、断っただと!?あいつらにだってプライドがある!優秀なトレーナーと自負する奴らは尚更だ!それを……誰の担当にもなってないなんて知られてみろ!お前はそいつらの体面を潰したことになるんだ!もうお前には見向きもしなくなるぞ!」
つい一月前まで小学生だった私がどんな大事をしでかしたのか理解していないと言いたいのかもしれない。
「勿論、全て覚悟の上です」
私は彼の怒り、というより最早焦りに似た顔をじっと見据えてそう答えた。
「……では逆に問いますが、貴方はどのようなお立場でそのようなことを仰られるのでしょうか?私の担当トレーナーになるおつもりですか?勝てるか分からない二ヶ月後の選抜レースを待って?残念ながら例えそうだとしても私の意見は変えませんよ」
自分でも失礼なもの言いだと自覚しながら私はそう応えた。
本当は図星を指摘されたことじゃなくて、『お前』『お前』と馴れ馴れしく呼ばれることに何故か若干苛立ちを覚えたからだった。
どうせ何か言い返すだろうと身構えていたが、彼は急に黙りこくって苦虫を噛み潰したような表情で私から顔を背けてしまった。
「そうですよ!この方は貴女の担当トレーナーになります!」
バシャバシャと雨で抜かるんだ芝生の上を走る音が背後から聞こえてきた。
薄いピンク色のカーディガンを羽織り、白いつばのついた帽子を被った女性が私をすごい速さで抜き去った。そう思う間もなく、次の瞬間には彼と肩を並べると手にした傘と共に私の方に向き直った。
その顔はやはり見たことがある、駿川たづなさんのそれだった。
「おい!あん……たづなさん!勘弁してくれ!俺はもう……」
「お辞めになられるんですか?」
彼は何かを言いかけた口をあんぐりと開けたまま固まった。
続けて私は畳み掛ける。
「盗み聞きするつもりはありませんでしたが、不躾ながら耳に入ってきてしまいました。ですが、今一度お聞きしてもよろしいですか?学園をお辞めになるつもりの方がどんな立場で私に意見を仰られるのでしょう?貴方のその言葉に責任は取れるのですか?」
ここまで言う必要なんてあった?
どうしてこんなに苛立っているのか、自分自身見当が付かなかった。
彼はくそ!くそ!と悪態をついてボサボサの髪をかきむしる。
「トレーナーさん、いい大人が学生さんにここまで言われて引き下がるんですか?トレーナー生活の晩節を汚すことになりますよ」
どうやらたづなさんも何らかの事情でトレーナーさんには辞めてもらいたくないらしい。しきりになだめるような体を装いながら口では彼を煽りだした。
「……ああ!くそ!……くそ!分かったよ!ただし二ヶ月だ!二ヶ月後の選抜レース!それに優勝したら考えてやる!お前が素直に引き受けるかは別だがな!」
そう捨て台詞を吐いて彼は踵を返した。
「……ストライドをもう六分の一歩広くしろ。そしたらもっと速くなる」
振り向きもせず、その言葉を残して降りしきる雨の中を走っていった。
私とたづなさんは傘を片手に彼の背中をただ見送ることしか出来なかった。
――そういえば、あの人からは嫌な臭いがしなかったな……。
強くなる雨が私達の傘をバタバタとしきりに叩いていた。