朝日杯フューチュリティステークス。
中学1年の競バ界で最強を決めるレース。
グラスにとっては初のG1レースでもあり、全国から集まる猛者を相手に真剣勝負をする貴重な機会でもある。が、目の前に座る当のグラスワンダーは呑気にコーヒーに舌鼓をうっていた。
「抹茶が無いのは許せませんねー。これでは茶を喫むに非ず、です」
「文句言うな。最近の喫茶店は普通抹茶なんて置いてないからな」
俺達は宝塚の阪神競バ場の中にある喫茶店でコーヒーを飲んでいた。
早く着きすぎてしまったためにこうやって時間を潰しているわけだが、関係者用の入り口から控室に入ろうと思えば入れる。ただ、グラスが控室で一人でいてもやることが無いからと、時間まで喫茶店で待つことを提案したのだ。
俺からすれば対戦相手の資料の読み込みや映像の確認など、いくらでもやることがあると思うが……。事実、目の前に座る栗毛のウマ娘は早々にコーヒーのカップを脇に避け、ウマホでレース映像を見いっている。
これじゃあ控室で待ってても同じだと思うがな……。
俺は一人釈然としない気持ちになりながら、対戦相手の資料に目を通していた。
もうすぐ年の瀬だと言うのに、辺りは多くの人で溢れかえっている。皆これから始まる新人ウマ娘の激闘を心待ちにしているのだろう。ちらほらとトレセン学園で見たことがあるウマ娘やトレーナーも目についた。
わざわざ東京からご苦労なことで……。
「ねえ、あれグラスワンダーさんじゃない?」
「本当だ!なんでこんなところにいるんだろ?出走するんだよね……?」
周りからヒソヒソとグラスを噂する声が聞こえてくる。
いくらまだまだ知名度が低いと言っても、これから出走する選手が喫茶店でくつろいでいればそれはバレるだろう。
だが当の本人は意に介さず、黙々とウマホを凝視している。
……まあ耳の動きで聞いてるのは分かるんだけどな……。
「ウワサ、されてますね」
突如、グラスはウマホから顔を上げ、呑気に耳の動きを目で追っていた俺に話しかけた。その顔はなにやら自慢気にニヤリと笑みを浮かべた表情をしている。
「……そりゃな。出走表で顔がもろバレなんだから気づくだろ」
何かグラスらしくないと思いながらそう返した。こいつはこんな目立ちたがり屋ではないはずだと思ってたんだが……。
すると彼女は目をつぶって口角を上げたままゆっくりとかぶりを振る。『そうじゃありませんよ』という彼女の柔らかな声色が聞こえた気がした。
「トレーナーさんのことですよ。ほら」
視線だけで促された方に顔を動かさずに注意だけ向ける。
「ていうか、あの向かいに座ってる人トレーナーさん?イケメンじゃない?」
「いいな~。美男美女のペアかあ。年の差カップルって感じ」
どうやら話題になっているのはグラスワンダーだけではないらしい。俺は内心下らないと思いながら、なぜ今日に限ってそんな噂になっているのか不思議だった。
「……似合ってますよ。その髪型」
そう言ってグラスワンダーは俺の頭に視線を移す。
その視線で俺は今日に限って髪をオールバックにしていることを思い出していた。
「ああ、そういえばそうだったな……」
俺はいつもなら癖っ毛が絡みつくであろう額に自分の手を当てた。冬の冷気で冷えたおでこが手の体温で暖まるのが分かる。
「いつもその髪型にしてくれればいいのに……」
「バ鹿言え、これは記者会見用の髪型だ。俺の癖っ毛は手入れするのも大変なんだよ。ギリこれで恥ずかしくない格好を保ってるってだけだ」
普段、特段何かしているわけじゃないが、それを棚に上げて特別感を出してみる。本当は一度、寝癖まみれのモジャモジャの頭でG1優勝の記者会見を受けたら苦情が来たのか理事長からくそみそに文句言われたからだ。それ以来、記者会見を受けそうな大きなレースの時にはこのスタイルが定着してしまっていた。
「ということは、記者会見受けるような順位を私がとれると思ってるということですね」
「当たり前だろ。トレーナーが担当ウマ娘を信じてやれずにどうするんだ」
グラスは顔を赤らめながら嬉しいような悔しいような複雑な表情で視線をコーヒーに落とした。
「……それに、グラスの実力ならこのレースでも勝てる。俺が保証してやる。エルコンドルパサーよりも誰よりもお前は速い」
そう言うと彼女はぱあっと花が開くように笑顔を浮かべたかと思うと、すぐに咳払いしていつものにこやかな笑みで礼を述べた。
「んん……。ありがとうございます。この大一番のレースに出場させて頂けたのもトレーナーさんのお陰ですし、感謝してもしきれません。必ず、G1初勝利を貴方に届けさせて頂きます」
楚々とした振る舞いでそう答えるグラスだったが、その顔の赤みは清楚とはほど遠かった。
「……そろそろ行くか」
俺は伝票をとって席から立ち上がる。彼女は冷めきったであろうコーヒーを一口口に含んでから顔を隠すようにおもむろに席を立った。
「これはこれは、カブラギトレーナー殿ではありませんか」
ようやくグラスワンダーの控室を見つけ、中に入れされようとしたところで俺は男に声をかけられた。
見ると、三十代後半ぐらいの筋肉質の男が俺達を睨みながら廊下の中央に立っていた。真冬にも関わらず、半袖のシャツと袖無しのスーツに身を包み、露になった太い腕は電光を受けて黒光りしていた。
「……誰だ?あんた」
見たことがある顔であったが、名前を思い出せない。
つい正直な感想を言うと、日に焼けた男の顔がさっと怒りの表情になり、こちらに歩み寄ろうと一歩足を出した。
「あ……、エルのトレーナーさん、ですよね?」
俺の後ろで成り行きを見ていたであろうグラスが口を挟む。その声は、普段聞いたことがないような、警戒するような怯えているようなそんな声色だった。
「どうもグラスワンダーさん。金元といいます。今日はお手柔らかにお願いしますよ。うちのエルは君のように体が壊れるほど厳しいトレーニングはしてないからね」
にこりと不気味な作り笑いを張り付けると、誰でも分かるような猫なで声でそう言った。そして、俺の方に向き直ってさらに口を開く。
「まだトレーナーをやっているのか。厚顔無恥とはお前のことだな。グラスワンダーのような才能溢れるウマ娘が可哀想だとは思わんのか?」
「言いたいことはそれだけかよ。金元さん?そういうのはターフの上で語るもんじゃねえの?」
後ろで突っかかろうとしているグラスを手で制しながらそう答える。グラスに捕まれた腕にギリギリと彼女の指が食い込んでいくのが痛みとともに分かった。
「ふん!才能あるウマ娘を見抜く力だけでやってきた他力本願の無能が!せいぜいその至宝を駄目にしないことだな」
そう捨て台詞を吐くと、金元は俺達の脇を通ってメインホールに向かおうとした。
「嫌になったらいつでも俺のところに来なさい。エルも君と練習したがっていたよ」
「エルと練習できないのは……!」
俺は咄嗟にグラスの口をふさいで男が去っていくのを見送る。グラスは俺の腕の中でもがいているが、ウマ娘の力ならいくらでも振り払えるはずだから本気でしているわけではないだろう。
「ぷはぁ!何で止めるんですか!トレーナーさん!あそこまで言われて悔しくないんですか!?」
「あんなもん一々相手してたってしょうがねえよ。特にウマ娘のお前が口挟む問題じゃねえ」
「それでも……!」
「それに、言ったろ?『そういうのはターフの上で語るもんだ』っな」
グラスワンダーの肩を掴んで彼女の吸い込まれるような青い瞳を見つめる。
激情に駆られたその双瞳は、しばらくそうしていると徐々に落ち着きを取り戻していった。
「そう……ですね。トレーナーさんが無能ではなにこと、ターフの上で証明してきます」
「そのいきだ!冷静さを欠くなよ?」
「ええ、お守りもありますし」
そう言うと、グラスはポケットからくしゃくしゃのタバコを取り出してその匂いを堪能した。
「少し匂いが薄くなりましたけど……」
「そんなもん無くても、俺はここにいるだろ?」
「ふふ……。そうですね。でもこれはこれで、マルボロの匂いも癖になっちゃったみたいです」
そう笑いながら彼女はまたポケットにそれをしまい直した。
そろそろ返して欲しいんだが……。
そんな思いは露知らず、もう自分のもののようにしまうウマ娘を見やるが、それもそれでいいかと半ば諦めの境地に至っていた。
「それでは、グラスワンダー、勝って参ります」
笑顔でそう答える担当バは、着実に成長していることを教えてくれた。
あの名前で思い出した。かつて俺の担当教え子を引き継がせて預けた奴だ。
俺はメインホールに戻る道中、エルコンドルパサーのトレーナーについて考えていた。
口は悪いがトレーナーとしての実力は高い。年は一歳上だが俺の後輩に当たる人物だった。
年が近かったからか、昔は良く相談にのったもんだがな……。何か恨みでも買ったか?まあいい。目の前のレースに集中するのが今やるべきことだ。
元来そういう他人からの評価に無頓着な俺はすぐに気持ちを切り替えてメインホールへと急いだ。
すると、前から二人の人が控室に向かって歩いてくる。一人はやや長身の男。180はないだろうが、細身でジンベエのような紺色の和服の上に白いコートを羽織っている。頭にはオモチャのようなベージュの小さいシルクハットを右にずらすように乗っけていた。正直どうやって乗っているのか分からない。
もう一人は背の低い女。肩にかからない程度のショートカットで、白いシャツの上に黒いノースリーブのスーツを着ていた。手には大量の資料らしき紙束を胸に抱いている。
男の方はひっきりなしに隣の女に喋りかけながら楽しそうに歩いている。対照的に女の方は真剣な表情で前だけを見て歩いていた。
ウマ娘とその担当だろうと思い、すれ違おうとした時、女の露になったている右横顔に人耳がついているのが分かった。
「すいませんが、こっから先は出走選手の控室なんで。一般の方は立ち入りできませんよ」
そのまま奥に行こうとした二人の背中に声をかける。我ながらお節介だと思った。
「おや?おやおや?もしかして誰かのトレーナーさんかな?」
すると男の方が近づいて楽しげに声をかけてきた。俺の方が一回り以上小柄なので見上げる格好になる。その顔はどこかで見たことがある顔だった。
「こら!失礼ですよシンザン。ご忠告ありがとうございます。ですが、我々も出走者とそのトレーナーですのでご心配には及びません。行きますよシンザン」
そう言って彼女はのっぽの男を連れていこうとした。しかし、俺の疑問は解消されていない。
「ちょっと待ってくれ。出走者って、どこにウマ娘がいるんだ?あんたらヒトだろ?」
そう言うと、男の方はニヤリと不敵な笑みを浮かべ、振り向こうとした体をこちらに向き直して仰々しく頭に乗った小さい帽子を取り、こちらに一礼した。
良く見ると、その頭にはウマ娘特有のウマ耳がニョキりと生えピコピコと動いている。
「これはこれは、誤解させてしまったようで申し訳ない。ボクは『シンザン』。これでもれっきとしたウマ娘ですよ」
そうだ。どこかで見たと思ったら、出走者の中にあった顔写真と同じ顔だ。
その顔は少しウェーブのかかった黒いショートヘアーに中性的な顔立ちをしていた。背の高さとほとんど目立たない胸元も相まって、ウマ娘というよりは優男と言う方がしっくりきた。
中1の女でこのデカさかよ……。
内心、数少ない自尊心を傷付けられたような気がして絶句する。
「すいません。よく誤解されるんです。申し遅れました。私はシンザンの担当トレーナー、桐生院と申します。本日はよろしくお願いいたします」
今度は小柄な女の方が頭を下げる。正直、こちらがウマ娘だと言われた方がまだ納得できた。
「桐生院ってあの名門のか?」
「ええ、まあ……。家紋をひけらかすようなお恥ずかしい格好になってしまいましたが、私自身は今年トレーナーになったばかりの新参者ですので、お手柔らかにお願いいたします」
俺でさえ知っている名トレーナーを輩出し続けている名家である。気恥ずかしそうに俯いてみせるが、その顔には名家としての自負が備わっているようにも感じられた。
「何言ってんの!葵ちゃんはボクの最高のパートナーよ!もっと自信もってさ、今回の……何だっけ?夕日杯だっけ?このG1もサクッと勝っちゃうからさ、まあ大船に乗ったつもりで待っててよ!」
「朝日杯です!ああもう恥ずかしい……」
楽しげに話す男のようなウマ娘。ここに出走できる以上それなりの実力はあるのだろうが……。
「あまりG1を無礼るなよ。俺の担当バが今日の朝日杯を取る」
一瞬、シンザンの茶色の瞳がギラリと獲物を狩る肉食獣のように光った。
「へえ……。面白そうですね。ちなみにボクを負かしてくれるそのウマ娘の名前は?」
「グラスワンダー」
そう言うと、シンザンは静かに、覚えておきます。と言って控室に向かって歩いていった。
桐生院はしきりにこちらに謝りながら奴の背中を追っていく。
俺は何か得体の知れない怪物に目をつけられたかのような恐怖を抱いていた……。
続々とパドックに入場するウマ娘達。
夏場のメイクデビューから実力をアピールし、認められた選りすぐりのマイラー。
この舞台に立てるだけでも彼女らはその実力を証明している。
だが、それだけではクラシック戦線には不十分である。
この頂点の戦いでさらに勝てる者こそが、G1を制すウマ娘になっていく。
ここはまだスタートライン。だからこそ失敗は許されない。
「隣、よろしいですか?」
ウマ娘達を見やる俺に声をかけたのは、先程挨拶した桐生院だった。
「どうぞ」
俺は隣に置いていた荷物をどけて席を空けてやる。どかしながら、トレーナー用の観戦席はまだ空いてるはずだがな、と内心訝しんだ。
「グラスワンダーさん、のトレーナーさんでしたよね」
「ああ、そう言えば名前を言ってませんでしたね。カブラギと言います」
「やっぱり!あのマルゼンスキーさんをお育てになった……」
ピクリと俺の眉間に皺が寄る。他人の口から懐かしい名前を聞いたが、感傷に浸る余裕は無かった。
「……俺は何もしてませんよ。彼女は最初から異次元に強かった。それだけです」
それどころか……。
口から出そうになった後悔の念だったが、隣に座っているのが初対面で、まだ大学も卒業したばかりであろう、初々しい新人トレーナーである事実がそれを阻んだ。
「謙遜ですね……と言えばきっと丸く収まるのでしょう。でも、貴方の気持ち、少し分かるかもしれません」
俺は彼女が何を言わんとしているのか分からず、パドックを写していた視線を桐生院の方に向けた。
彼女はじっと俺の方を見てさらに言葉を繋げる。
「……あまりにも強すぎるウマ娘。練習相手にも苦労し、トレーナーなど必要なのかと時には自分の存在意義すら疑いたくなるような絶対的な力」
それは……。
「新人の私には手に余るなんて言葉ですら生ぬるくて、こんな贅沢な悩みを相談する人もいなくて、私はずっと孤独でした」
こいつは…………何が言いたい……?
俺の心臓が早鐘を打ち出す。嫌な汗が頬を伝い、少し息苦しさが感じられた。
「貴方なら分かりますよね?このやり場のない苦悩を」
あんた……。
「あんた……一体……」
「ほら、出てきましたよ。グラスワンダーさん」
桐生院の指差す方を見ると、地下道から栗毛のウマ娘が顔を出し、パドックへ向かってゆっくりと歩いていた。両手を叉手の形にして臍の上で組み、背筋を伸ばして凛とした佇まいで歩くその姿はまるで高貴な令嬢のようにも見えた。
グラスの登場とともに、今日一番の歓声が場内を沸かす。
「やはり一番人気ですね。1400m走で六バ身の大差は衝撃でしたから」
京成杯のことだろう。確かにあんな圧勝劇はなかなか拝めるもんじゃない。だが……。
「メイクデビューは最下位だったんですがね」
「それは蹄鉄が抜けたから、ですよね?」
そこまで調べているのか……。
俺は内心感心すると同時に警戒心も生まれた。
一回り以上年下のこの娘は嘗めてかかれば痛い目に会う。心の中でそう警告音が鳴り響いた。
だが、ということは彼女のウマ娘も……。
俺は先程の、一見すると優男のような長身のウマ娘を思い浮かべた。
『シンザン』。勝ち鞍はメイクデビュー戦のみ。それも二位とアタマ差しかなかった。
確かに映像で見たレースでの走りは得体の知れない違和感があったが、客観的に警戒するような材料も無いから検証のしようもなかった。
まさかあのウマ娘がマルゼンスキーに匹敵するような走りをするとでも言うのだろうか……。
俺はパドックに居並ぶウマ娘達の中からその長身のウマ娘を自然と探していた。
「ああ!いない!」
隣の女トレーナーが叫ぶのと、シンザンがパドックに呼び出されるアナウンスが響いたのがほぼ同時だった。
「いやあごめんごめん。つい控室が快適でうたた寝しちゃってさ!」
そう言いながら颯爽と現れるウマ娘。白いコートを靡かせながら、真冬には似合わない半袖のジンベエの下から観客席に向かって手を振っている。
観客席からは珍しく黄色い声援が木霊した。
「あんのバカ……!」
「ウマ娘なのに女性から人気があるんですね」
1レースしか走っていないのにこの舞台に立てた人気の理由がなんとなく分かった。
頭を抱える桐生院トレーナーが俺の言葉で視線を横にやる。すると彼女はニコリと笑顔を作ると俺に向き直ってこう語った。
「あの娘は人気だけ、じゃないですよ?」
したり顔で微笑むその目は侮れない異様な雰囲気を孕んでいるように見えた。
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「いやあごめんごめん。つい控室が快適でうたた寝しちゃってさ!」
パドックに勢いよく踊りこんできたのは、長身で一見すると男の人にも見えるウマ娘でした。
「なんかエルよりヤバい奴が来ましたネー」
たまたま隣になったエルコンドルパサーが手で口を隠しながらヒソヒソと私に耳打ちをします。
自覚はあったんですね、と若干呆れながら黄色い声援を浴びて入場するウマ娘を見ていました。
「よろしく!いいレースにしよう!怪我しないようにね!」
「よろしく!君可愛いね!レース終わったらお茶でもどう?」
これから戦う選手一人一人に、半ば無理矢理握手をしながら彼女(?)はパドックを周り出した。
10センチ以上は確実にある身長差で迫られると威圧感がありそうだが、その人懐っこい笑顔を撒き散らして明るく挨拶している姿はそんな印象を全く与えない。
「よろしく!お互い頑張ろう!」
「ブエノー!エルコンドルパサーといいマース!世界に羽ばたく一歩目のレースです!絶対負けませんよー!」
何故かエルと長身のウマ娘は意気投合したようにがっちりと両手で握手を交わしながら挨拶を交わしていました。
「ハハハ!君面白いね!それに、そのマスク外したらすごい可愛いんじゃない?ちょっとここで外してみてよ」
「ケッ!?いや、これは……エルをエルコンドルパサーたらしめてるマスクデス!これを脱いだらエルじゃなくなってしまうのでそれはお断りしマス!」
そう言ってそっぽを向くエルでしたが、可愛いと言われ慣れていないのでしょう、頬は赤みを帯びて少し照れくさそうでした。
「ますます面白いね!いつか絶対そのマスク脱がせて可愛い素顔を拝んであげるから、覚悟しといてよ!」
ケッ!?とまた奇声を上げて赤面するエル。
そんなことにはお構い無く、今度は私の方に歩み寄って来ました。
「さてさて最後は……」
何を言われるのかと内心ドキドキしながら彼女が来るのを待ちます。
次の瞬間、目が合ったかと思うと同時に、彼女の動きがピタリと止まり、今まで満面の笑みをたたえていたその顔は目を見開いて驚きの表情を作りました。
「…………け……」
「け?」
「結婚して下さい!!」
「……はい?」
呆然とする私を尻目に私の目の前で彼女は膝まずき、深々と頭を垂れて両手を差し出してきました。
「ケーーーーーーーーー!!?グラスが求婚されてマスー!」
エルのすっとんきょうな声で我に返った私でしたが、返事をする前に彼女がまくし立てます。
「『はい』ってことはいいってこと?やったあ!相思相愛だね!これが運命ってやつか!」
「いえ、これは了承したという意味ではなく……」
「ああそっかそっか、流石に段階を飛ばし過ぎたよね。ごめんごめん」
やっと落ち着いて話が出来るかと思ったのもつかの間。
「まずはご両親にご挨拶しなきゃだよね!ああそれから、結婚式場はどうしようか?住むとしたら一軒家がいい?マンションがいい?新婚旅行はヴェネチアにでも行こうか?」
掛かりっぱなしの彼女は私を完全に置いてけぼりにして大逃げ状態です。追い付く気もありませんが……。
「……あの、少々落ち着いてはいかがですか?私達まだ出会ったばかりですし、ウマ娘同士ですし、そんなことを急に言われましても……」
「ああそうだ、まだ君の名前も聞いてないや。これから一緒に生活するのに名前も知らないんじゃ不便だよね。ボクはシンザン。末永くよろしくお願いします!」
「末永くよろしくお願いされません」
(あ、これちょっとキレてるデース)
端で見ていたエルが危険を察して少し引き気味に小声でそう呟いた。
「私はグラスワンダーと申します。シンザンさん、好意を抱いて下さるのはありがたいですが、初対面の相手に少々失礼が過ぎるんじゃないですか?」
するとシンザンさんは一人合点したような顔をし、先程とは違って落ち着いた口調で言葉をかけました。
「……そうか、君がグラスワンダー……。さっき君のトレーナーさんから聞いたよ。ボクを負かしてくれるってね」
「くおぉらああぁぁ!!シンザン!他の娘に迷惑かけるんじゃありませーん!!」
突如、観客席から女の人の怒声が響きます。見ると、かんかんに怒った若い女性とその隣で一部始終を眺めている私のトレーナーさんがいました。
あの女の人がシンザンさんのトレーナーさん?……なんで私のトレーナーさんといるの?
そう思う間もなく、シンザンさんはさらに私に話かけます。
「ごめん。邪魔が入っちゃった。じゃあさ、せめてこの勝負でボクが勝ったらお付き合いさせてよ。それぐらいいいよね?」
「そんな……困ります……」
「じゃあそういうことで!いいレースにしよう!」
彼女は私の話も聞かず、自分の立ち位置に急いで戻っていきます。
私は風に靡く彼女の白いコートをただ眺めるだけしか出来ませんでした。
「グラスも隅に置けないデスねー。よ!この色女!」
それはそうと、エルは後でキツいストレッチが必要のようですね~。
一人、また一人とゲートへと入っていく。
青空のキャンバスに申し訳程度に添えられた雲が日陰を作り、私の額を冷やした。
吐く息は白く、ウォーミングアップをしたはずの体から徐々に体温を奪われていくのが分かる。
「練習で並走は出来ませんでしたけど、グラスの強さはよく分かってるつもりデス。手加減無し、デスよ!」
「……そちらこそ、手を抜いたりしたら一生恨みますよ」
「はは……。怖いデース」
そう言うと、エルは私の隣の枠に収まり、スタート体勢になった。
続けて私もゲートの枠に入る。同時に心の中で今日の出走者の名前を呟いていた。
負けない。誰にも──!
あの日誓った想いを胸に、スタート体勢に入りました。
ガシャン!
ゲートが開く音。
もう出遅れることはありません。皆の走りを伺いながら集団に紛れます。
集団中央のやや外より。皆が目視出来る有利な位置を確保します。エルコンドルパサーは集団の先頭辺り。風が強めとあって、最先頭には出ず、上手く風避けを使っています。
勉強はからっきし出来ないのに、こういうことには頭を使いますね。
霜が降りるほどではないにしても、幾分水分を含んだ芝はほんの僅かに蹄鉄を滑らせます。
ほぼ平坦の直線を走りながら先頭との距離を測る。集団との差は六バ身程か。やはり国内最高峰のレースだけあり、ペース自体もかなり速い。
それでもまだ、この娘達は足を溜めてるのでしょうね……。
今までのレースとは違うレベルの高さに思わず身震いする。
これがG1……。私が全霊で挑むに値する崇高なるレース……!
はやる気持ちを押さえながら体力を消耗しないよう接触をなるべく避けるが、私の有利な位置を奪わんと内側から体をねじ込ませにきているのが分かった。
ガッ!という音とともに肘に肉がぶつかる衝撃と痛みが伝わる。
思わず外によろけそうになるのを必死に堪えた。それでも接触しにきたウマ娘は諦めず、再度私の方に体を寄せる。
私は体重もパワーもこの18人の中では無い方であることを自覚していました。無理にここで張り合っても私の方が消耗してしまう。
私は今の位置をキープすることを諦め、少し前に出ながら外に逃げるように走りを速めました。
突如、ゴウという風を巻き込むような音とともに、私の後ろから大きな影が迫ってきました。
「やあ!グラスワンダーさんって結構後ろ目なんだね。体力温存型かな?」
見ると、私のさらに外側を白いコートを脱ぎ捨て、脚の側面から切れた紺色のジンベエを靡かせながらシンザンが並走していました。
「な──!?」
「驚かせちゃった?集団に紛れてたから探しちゃったよ」
驚愕する私を尻目に彼女は難なく並走しながら私に話かけます。
「流石に速いね。全体的に。でも君もまだまだ余裕って感じ」
それは私の台詞です。一体どこに話しかけながら息も乱さず走れる力が湧いているのでしょうか。
「……こんなところにいていいんですか?私の記憶が正しければ、貴方はかなり前目の先行型だったはず……」
「お!ボクのレース見てくれてたの?嬉しいなあ」
そんな会話している間に直線は終わり、もう第三コーナーの入り口にまで迫っていました。
「もちろんこれから前に行くけど、この程度のレベルだったらどこから仕掛けても楽勝かな」
「……随分、嘗めた口をききますね」
第三コーナーに入り、右回りの緩いカーブとともに集団ごと傾斜していく。
「あ、ごめんね。別に傷付けるつもりはなかったんだ。それでも事実は変わらない。残念だけど」
そう言ってほくそ笑むその顔は、自分が勝利するのは自然の摂理だと言わんばかりの不遜過ぎる自信に満ち溢れていた。
「じゃあゴールで待ってるよ!最初のデートは遊園地がいいな!」
そう捨て台詞を吐きながら彼女はその豪脚でもって加速した。
まだカーブの途中だというのに、大外からの不利をものともせず、シンザンは一気にターフを駆け抜けていく。それも集団を横目に時折誰かに声をかけながら、まるで朝のランニングを楽しむかのように悠々とその長身を前へと運んでいった。
──こんな屈辱、受け入れてなるものですか!
強い。確かに彼女は強い。今の加速を見ただけでも分かる。ですが、まだレースは中盤。何も決まってはいない……。
貴女のその傲慢、叩き折って差上げます!
レースは緩く長い第四コーナーを抜け、最後の直線へと差し掛かろうとしていた。
シンザンは先頭の背後にピタリと張り付き、風避けに張り付かれた先頭のウマ娘がわざとスピードを落としたこともあって、その差は二バ身ほどに縮まっていた。エルは集団の先頭に踊り出、先頭を伺う。その前にはシンザンも含め、四人のウマ娘が走っていた。
私は集団の外前に構え抜け出す準備をしました。
ここから緩い下り坂。加速するには最適です。
計算通りの展開に笑みがこぼれそうになるが、条件は皆同じ。気を引き締め、最後の直線に向けてスパートをかけようとしました。
「……っ!」
集団の内から外への圧力が強くなります。
皆直線に向け、位置取り争いが熾烈になる。
加速しようとした私の目の前を、左によれてきた一人のウマ娘が防いできました。
──瞬間、外側の左足に力をこめる。
遠心力と、姿勢を低くして踏み込む力で今まで経験したことがない圧が私の左足にのしかかった。
深く沈んだ左脚をバネのように伸ばし、思い切り内側に体ごとねじ込みながら前へと推進する。
「ああああぁぁぁぁ!!」
私はよれてきたウマ娘とその右の内側にいたウマ娘の狭い縫い目をめがけて体をダイブさせた。
右のウマ娘の左腕に前傾になった私の肩が当たるが、逆にそのことで私は崩れた体勢を立て直すことができた。
そして細身の私は無理矢理彼女らの狭い隙間をぶち抜いて集団から抜け出すと同時に最後の直線に入っていく。
前にはエルコンドルパサー、そのすぐ隣にもう一人、そして一バ身半ほど離れて先頭のシンザンとそのすぐ後ろにさっきまで先頭を走っていたウマ娘がいた。いつの間にか先頭はシンザンになっている。
左足が悲鳴をあげる。
口から絶えず漏れる白い息を置き去りにして私は最後のスパートに向けて脚に力をこめた。
最後の200。それまでに先頭に立つ!
直線に入った時点で残り400m。
私は下がりそうになる太ももを上げ、ストライドを意識して広く保ちながら坂を下っていった。
一人、また一人と抜かしていき、エルの背後にまで迫る。先頭を走るシンザンも明らかにキレが無かった。
1600m。
人間のトラック競技でも800mが一番過酷な種目だと言われているが、この距離もウマ娘にとって、ほぼ全コース九割以上の力で走らなければならないハードな距離だ。ほとんど全力疾走であるが故に、駆け引きの選択肢は極端に狭まり、個の純粋な力そのものが際立つ。
だが、それだけでは勝てない。
私はエルの外を狙いながら追いかける。
距離を見定め、ギリギリのタイミングで抜け出すためだ。
心臓がドンドンと音をたてながら内側から胸を叩いている。
真冬に流す汗が湯気になり、乾いた空へ舞い上がる。
肺が爆発するように伸縮し、酸素を求めて悲鳴をあげる。
視界が狭窄し、私の視界には前を走る二人しか写っていない。
意識が飛びそうになるが、足を踏み込む度に訪れる左足の激痛がそれを阻止した。恐らく左足の爪が過荷重で剥がれている。
脚はまるで金属で出来ているように重く、前へ運ばれることを拒んでくる。
全身が軋む──!
脳が止まれと命令する──!
関係ない……。
前へ──!!
足に力を込め地面を蹴る。
完全に失速したシンザンを私とエルがあっさりと抜き去り、エルコンドルパサーの隣に並ばんとした。
あと少し!あとちょっと!
足音とともに荒い息が隣から漏れ、喘いでいる聞き慣れた声が聞こえた。
一瞬チラリと横目で見る。
それは並んで走る怪鳥の蒼い瞳を射すくめた。
エルコンドルパサーはかん高い咆哮をあげ、懸命に加速を試みる。しかし、姿勢は上を向き、限界が近いことを物語っていた。
エル、おさらばです……!
私はさらに前傾になり、この後の勾配に向けてさらに加速した。
ハナ、アタマ、クビとじわじわ差を広げ、目標としていた残り200mで強引に体をエルの前へ捩じ込んだ。
先頭をとると、私はそのまま最後の上り坂へ突っ込んでいった。
脚は持つ……!ギリギリ持つ!この坂を登れば……!
どうしても残り200mで先頭に立ちたかった理由。それが阪神競馬場最後のこの坂。斜度1.5%の登り坂。急勾配というわけではないが、決して緩くもない。
問題は斜度ではなく、最後の最後、ゴール手前の200mにこの坂があること。
上り坂では抜きにくい。差そうと思ったら平地での何倍もの労力が必要になる。
だからこそ、差しを得意とする私は必ずこれより手前で先頭に立たなければいけなかった。エルもきっとそれは分かっていた。分かっていたからこそ、あそこまで必死に食らいつこうとしていたのだ。
そして上り坂の効果はそれだけではない。疲労がピークになる最後の直線の上り坂は得てして肉体以上に精神を削られる。それがこの坂を目標に先頭をキープしていたいと思えばなおさらだ。
だが、私のライバルはその任務を達成出来なかった──
私の背中にいるはずの親友の息切れは足音とともに少しずつ遠くなっていく。もはや彼女は心が完全に折れてしまっていた。
──残り50!
遠のいていくエルの気配を感じ、全身が悲鳴をあげるなか、私は勝利を確信しかけた──
「凄いね!これがG1レースか!」
目を疑った……。
私の横に並んでいたのは、先程後方に沈んでいったはずのシンザンだった。
なんで…………。
そう思う間もなく、彼女は私の隣で加速する。この最後の上り坂でだ!
「今までで一番楽しいレースだったよ!こんなにヒリついた勝負は無かった!」
彼女はこの終盤で尚も声をかけながら走る。頬までかかるウェーブのかかった黒鹿毛を振り乱し、汗まみれの笑顔で私を見ているのが分かった。
「君達は強い!今まで戦ってきた誰よりもね!それでも……」
「──最後に勝つのはこのボクだ」
そう言い放った彼女は私を抜いて加速した。
私との差はアタマ差以下だったが、絶望的に思えるほどの圧倒的な差に思えた。
何故?どうして彼女がここに?後方に落ちたのはフェイク?終盤まで力を溜めてた?こんな坂でこんな差しが出来るの?彼女はまだ余力を?ゴールまで何メートル?足は持つの?
足りない酸素の中で頭に浮かぶ疑問で混乱しかけた私は不意に彼の言葉を思い出した。
『お前は考えすぎ』
『お前は走れば勝てる』
走れば勝てる……。
そうですよね。トレーナーさん!
「勝てえええぇぇぇ!グラスワンダアアァァ!!」
後方に沈んだ親友が背中を鼓舞する……!
私は最後の力を振り絞って足に力を込めた。前傾になり、回転数を上げて芝を力強く踏み込んだ。
もう何も考えない!
勝つ!
皆のために、エルのために、トレーナーさんのために!!
それ以外いらない!!
もう足の感覚が無い。足を動かしているはずなのに、腰から下に着いているのか分からない棒きれのような錯覚に陥る。
もう左足の痛みも感じない。
耳も聞こえない。
視界もほとんど見えない。
自分が息をしているのか、心臓が動いているのかすら分からない。
私の世界は僅かに前を走る長身のウマ娘と、その数十メートル先にあるゴールラインだけだった。
「がああああああぁぁぁぁ!!」
清楚とは程遠い雄叫びをあげ、無我夢中でターフを蹴った。
もはや目を瞑り、倒れんばかりの前傾になって加速した。
彼女との差は僅か。
ゴールまで数メートル。
もういい。走れなくなっても──
その危険な考えが頭を過った瞬間、前傾になりすぎた私は倒れこむようにゴールラインの上にダイブした。
体が浮遊し、時間が極限まで圧縮された世界で私が目にしたもの。
目を見開いて驚くシンザンの顔と、その向こうに立ち上がって叫んでいる私のトレーナーだった。
「ゴオオオォォォォォル!!朝日杯を制したのは────」
ターフの上に転がり、遠のく意識の中で空に響いたその結果は、私の耳にはついぞ届かなかった──