きっと貴方のことが好き   作:圧倒的雑魚臭

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卑怯者二人

 

 

 

 

 

 前へ──!

 

 

 

 

 

 

 

(……ンダー!)

 

 

 

 

 

 

 

 ……まだ終わってない!

 勝負はまだ……ついてない……!

 

 

 

 

 

 

 

(……ラス……ダー!)

 

 

 

 

 

 

 『あの人』が呼んでる……。

 行かなきゃ……!

 

 

 

 

 

 

「グラスワンダー!!」

 

 

 

 ゴールラインへ──!!

 

 

「ハア……!ハア……!」

 

 肺に冷たい空気が流れこむ。

 瞬間、怒声のような歓声が耳をつんざく。芝の青い臭いとボヤける視界の中で、聞き慣れた声が私の名前を呼んでいた。

 

「グラスワンダー!俺だ!分かるか?」

 

 視界の焦点が徐々に正常に戻っていく。幾重にも見えた像は重なり合いながらそのディテールを表していった。

 冬物の灰色のスーツはクリーニングに出したばかりだったであろう、彼には珍しく皺一つ無いものでしたが、所々泥や芝の葉がくっついていてそのアンバランスさがなんだか彼らしいなと思わせました。

 丁寧にワックスでかきあげた癖っ毛も少し乱れて額にかかっています。

 いつもは仏頂面のその顔は、眉間に皺を寄せて心配そうに私を覗き込んでいました。

 

「グラスのバカ!心配したデスよー!」

 

 突如、視界いっぱいにマスク姿の親友の顔が迫ってきました。私の胸に顔を埋めてきた彼女でしたが、同時に全身に走る激痛が私の顔をしかめさせます。しかしそれも一瞬のこと。エルはすぐに引き剥がされてしまいます。

 

「脳震とうを起こしてるかもしれないから動かすな!そのまま押さえててくれシンザン」

 

 太陽の光を浴びたまま寝転んでいるであろう私は頭の中がぐちゃぐちゃになって状況の整理が追い付きませんでした。

 

「グラス。目は見えてるか?俺が分かるか?」

 

「……トレーナー、さん。私、レースの途中……。ゴール……しなきゃ……」

 

 そう、私は最後の最後、シンザンとの競り合いをしていた。していたはずだ。それが何故こんな芝生で倒れこんでいるのでしょう?抜かしたはずのエルもいるし、視界には写らないけどシンザンさんもいるみたい。レースは……どうなったの?

 

「勝った……!2cm差だ。お前は勝ったぞ!グラス!初のG1勝利だ!」

 

 眉間に皺を寄せながら、ぎこちない笑顔でそう答える彼でしたが、私は実感が湧かずにぼんやりと青い空を眺めました。

 

 勝利……?私が……?

 最後、どうなったの?

 ……体、動かない。

 全身、痛い……。

 なんでトレーナーさんがターフに?

 

 嬉しさよりも先に多くの疑問が脳を駆け巡り、覚醒してきた意識が混乱しかけます。

 

「担架用意出来ました!選手を運ぶのでどいて下さい!」

 

 突然、見知らぬ医療スタッフと思われる方たちが私を取り囲み、かがんだかと思うと私の体を持ち上げて麻布の上に静かに置きました。

 

「トレーナーさん?……トレーナーさん!?」

 

 私は大勢の知らない人に囲まれ、不安のあまりトレーナーさんを探して声をあげてしまいました。とても大和撫子などと呼べるような振る舞いではありませんでしたが、体も思うように動かぬ上、状況も把握出来ないまま私は混乱していました。

 

「大丈夫だ。俺も一緒についていく」

 

 担架が持ち上げられると同時に、探していた顔を見つけて安堵したのもつかの間、でかい黒い影が彼を押しのけ私に近づいてきました。

 

「……羽が見えた……」

 

 逆光で影になったその顔を、目を細めてよく見るとそれは最後まで競り合った長身のウマ娘でした。

 彼は恭しく右耳に被った小さなシルクハットを脱ぎ、先程のおちゃらけた雰囲気からは想像できない真剣な面持ちで言葉を紡ぎました。

 

「負けたよ……。……生まれて初めて……」

 

 その声は心底悔しそうに、絞り出すように私の耳に届きました。ギリリと歯ぎしりの音が私の心臓に食い込むように語りかけ、その噛んだ唇にはうっすらと赤い染みが浮かんでいました。

 

「けど……」

 

 彼は言葉を詰まらせると、パッとさっきの人懐っこい笑顔を浮かべて嬉しそうに私に話しかけました。

 

「ますます気に入った!グラスワンダー、是が非でも君をボクのものにしたい。今日は引くけど、また必ず戦うことになる。その時は負けない。そして君のハートもボクのものにしてみせる」

 

 そういうと、彼女は動かない私の右手をとって包み込むように優しい仕草で握手してくれました。

 

 ……ああ、この娘も真剣なんだ……。

 

 ふざけたウマ娘だと思っていましたが、レースに対するひたむきさは本物だと確信しました。それと同時に彼女の無邪気過ぎる言動も、今ならなんだか許せるような気になってしまい、自然と笑みがこぼれていました。

 

「ありがとう。君と会えて、君と戦えて今日は本当によかった。ウイニングライブは心配しないで。ボクはセンターで踊る練習しかしてないからさ、その分完璧だよ」

 

 そう言ってウインクする彼女はすっかりパドックに遅刻してきた先程のシンザンでした。

 

「ケーー!離れるデース!グラスに変な虫がついちゃいマース!」

 

「はは!焼きもち焼くのは仕方ないけど、ボクらもウイニングライブの準備しなきゃ。マスクの君も主役なんだから急がないと」

 

 そんなことを言い合いながら二人は私の視界から消えていきます。同時にスタッフさんの合図で動き出した担架は彼女らとは別の方向に私を運んで行きました。

 

 その途中、私の頭にゴツゴツとした男の人の手がそっと添えられました。

 

「よくやった。レースレコードだ。あのマルゼンスキーと同じタイムだよ」

 

 思わず見上げた彼の顔は、なんだか懐かしむような心持ちが含んだ複雑な表情をしていました。

 

 私は彼の顔を見ると途端に安心感に包まれ、嗅ぎ慣れたトレーナーさんの匂いと、頭に乗った温かいぬくもりを感じながら再び意識を手放していきました。

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

「なんだあの末脚は!?」

 

 思わず立ち上がって声をあらげる。

 目の前のターフでは一度抜かしたはずの長身のウマ娘が先頭のグラスワンダーに追いすがる光景が広がっていた。

 

「あれがあの娘の真骨頂。彼女は最後の最後、先頭に狙いを定めてギリギリで勝利する。とてつもない豪脚がそれを可能にする。六バ身差で勝つことはないですが、彼女の獲物を逃さないそのセンスは天性のものです」

 

 グラスワンダーの後方からみるみるうちに差を詰めていくその姿は、まるで草食動物に襲いかかる獰猛な肉食動物のようだった。

 

 残り50m。まるで計算され尽くされたかのような完璧なタイミングでグラスワンダーの隣に並んだ。

 

「お会いしましたから分かると思いますが、彼女は一々シミュレーションとか計算したりとかそんな頭脳プレーをするタイプじゃありません。今回の大一番のレースでもコースのマップとごろか対戦する選手のデータ、果ては何メートル走るのかさえ直前まで知りませんでしたから」

 

 残り数メートル。シンザンはグラスとの差を僅かに保ちつつそのままゴールラインへとなだれ込んでいく。

 

「それでも彼女は負けません。どんな状況だろうと最後にゴールラインを誰より先に切っていれば勝つ、という単純な真理だけを具現化した存在そのものなのです」

 

 ──負ける……。

 

 これでもかというぐらいに全力を出して追いすがるグラス。シンザンは残していた体力をフルに発揮し、嘲笑うかのようにほとんどハナ差でゴールラインを割る。

 黄色い歓声が場内を満たし、大きく手を振りながらウイニングランをする黒鹿毛のウマ娘を尻目に、放心状態でターフにへたりこむ俺の担当バ。それを気遣うように後からゴールしたエルコンドルパサーが彼女の元に駆け寄る。

 

 そんな情景が俺の脳裏を駆け巡り、一瞬俺はその事実を受け入れそうになった。

 

 

 

 まだ終わってない──!

 

 

 

「ぶっちぎれええぇぇぇ!!グラスワンダー!!」

 

 観客席とターフを隔てる柵の手すりにつかまり、俺は怒号のような声援を彼女に送る。

 元々前のめりに走っていた栗毛のウマ娘はさらに前傾になり、長身のウマ娘との差を縮めたように感じた。

 

 ──俺が信じてやれないでどうする!

 

 そうだ。あいつはいつだって俺の想像をこえてきた。

 学園を辞めようとしていた俺みたいな半端者をトレーナーに選び、たった一度のゲート難の賭けに勝ち、未勝利戦でコースレコードを叩き出した。

 

 そしてお前は見せてくれた。アレを──

 

「見せろ!お前のその翼を!!」

 

「ツバサ?」

 

 ゴール直前、ほとんど並んだ二人だったが、グラスワンダーは極端な前傾から彼女はその体をゴールラインの上に投げ出した。

 

 観客席からでも分かった。

 宙に舞う彼女の視線が俺と交錯した。

 

 同時にそのままグラスが空に飛んでいくような錯覚さえ覚えた。

 

 彼女のその背中には、いつか見たあの翼が、吸い込まれそうなその瞳と同じ色で青く浮き出ていた。

 

 ドン!という鈍い音と同時にグラスはターフの上に投げ出され、数度転がった後、仰向けになって動かなくなった。

 

「翼……が…………」

 

 俺の隣に座る女トレーナーは唖然としてその始終を見いっていた。

 

 先程まで歓声に溢れた場内がゴールと同時にしんと静まりかえる。

 唾を飲み込むのも憚られるような静閑な場内をアナウンスが切り裂いた。

 

「ゴオオオォォォォォル!!朝日杯を制したのは────」

 

 俺は弾かれるように飛び出した。掲示板も見ず、次々とゴールしていくウマ娘にも目もくれず、俺はターフの上でぴくりとも動かない栗毛からのウマ娘に向かって疾走した──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まずは多くの強豪を押さえ、熾烈な争いを制してくれたグラスワンダーにお礼を言いたいです」

 

 激しく瞬くフラッシュの光が俺の目に飛び込んでくる。

 ウイニングライブが終わった後に、当の主役が不在のまま俺だけが担当トレーナーとして取材を受けていた。

 

「グラスワンダー選手の容態はいかがでしょうか?」

 

「全身打撲と左足の爪が剥がれていますが命に別状は無いとのことです。ただ、いつも通りのコンディションに戻すには時間がかかるとも言われました」

 

「最後のゴールラインに飛び込んだのはトレーナーの指示ですか?」

 

 ……は?

 

「いいえ。どのような状況だろうと自分の身を危険に晒すような行為は指示致しません」

 

 いつもの無遠慮なマスコミの質問にイライラを募らせながら回答していく。

 さらに何回かの質問に回答し、いよいよ最後にしようと思った時、手を挙げた取材陣の中に見知った顔を確認して思わずその人物を指名していた。

 

「月刊トゥインクルの乙名史です。今回、グラスワンダー選手のタイムがレースタイレコードであり、カブラギトレーナーがかつて担当していたマルゼンスキー選手と同タイムだったことに対して何か感想を頂けますか?」

 

 ……やはり来たか……。

 

 そう思いながら俺は淡々と質疑に答えた。

 

「タイレコードを出したことは素直に嬉しいですし、グラスワンダーにはよくやってくれたという労いと感謝の念がありますが、それだけです。特にマルゼンスキーと比較してどうこうということはありません」

 

 グラスワンダーはグラスワンダーだから……。

 

 俺は心の中でそう付け加え、比べてしまいそうになる自分の気持ちに蓋をした。

 

「ではマルゼンスキー選手が叶えられなかったクラシック三冠をリベンジとしてグラスワンダー選手に勝ってほしいという願望は無いのでしょうか?」

 

 俺は乙名史の続けざまの質問には答えず、以上で記者会見を終了させて頂きます。とお辞儀をしてその場を後にした。

 

 グラスワンダーはマルゼンスキーじゃない!

 

 自分に言い聞かせるように心の奥で叫びながら、俺はかつての自分から逃げるようにその場から立ち去った。

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

「どうだ調子は?」

 

 病室に入ってくるなり、彼はいつもの調子でそう聞いてきました。

 

 私はテレビに釘付けになっていたその顔を上げ、彼の方に向き直ります。

 

 ネズミ色のロングコートを脱ぎながら備え付けられているパイプ椅子に腰かけました。いつもの癖っ毛をかきながら、私の顔を覗き込みます。今まで綺麗に剃っていた髭は手入れをしていないのか、ところどころ顎から黒い線が飛び出ていました。白いシャツもしわしわで、黒いスーツは節々でほつれています。

 

 出会った時もそうでしたけど、彼は緊張感が無くなるとだらしなくなってしまうみたいです。

 逆に言えば、私といれば多少はマシな格好をしてくれるということ。それは気を遣ってくれているということでもあり、私に対して完全にリラックスできる相手でもないということでしょう。

 

 私は嬉しいような悔しいような複雑な気分になりながら声をかけました。

 

「ええ、悪くないですよ。毎日寒い中、面会に来て頂いてありがとうございます。今日は特にお早いんですね。朝食は召し上がられたのですか?」

 

 彼は質問には答えず、先程まで私が見ていたテレビ画面の方に視線を移しました。

 病室の窓から降り注ぐ日の光で彼のキリリとしまった眉が黒く浮かび上がります。真一文字に締めた唇は彼のテレビを見る姿勢の真剣さを物語ます。

 彼のその横顔に見とれているとテレビから競バの放送が流れてきました。

 

「先週の朝日杯フューチュリティステークスではとんでもない激闘が繰り広げられていました。三位のエルコンドルパサー。彼女もラスト200mまでは本当にいい走りをしてくれたのですが、最後に力尽きて一歩及ばず。といったところでした」

 

 映像には坂の手前、ラスト200mで私とエルが競り合っているシーンがスローで再生されていました。そしてそのまま上り坂でずるずると後退していく親友の映像は敵だったとはいえ、あまり見たくない悲痛なものでした。

 

「そして最後はシンザンとグラスワンダーの一騎討ち。本当にどこから出てきたんだというような末脚で坂を駆け上がるシンザンを見ましたらね、これはいよいよ凄いウマ娘が出てきたもんだと思いましたよ」

 

 嬉々として話す小太りの解説者は映像を確認しながらしたり顔で彼女の凄さを説明し出します。恐らくこの後の放送を盛り上げる狙いもあるのでしょう。

 

「それでも、結局勝ち星を拾ったのはグラスワンダーでしたね」

 

 女性のアナウンサーが、彼の時間がかかりそうな説明をキリの良いところですかさず優勝者の話題に切り替えました。

 

「ええ。彼女も素晴らしい末脚でした。恐らく、彼女は最大の敵としてエルコンドルパサーを想定していたんじゃないでしょうか。一旦後方に下がったシンザンには目もくれず、エルコンドルパサーを坂の手前で差しきってますからね。その後に迫ったシンザンに対しては有効な手立てがなく、一瞬混乱しているようにも見受けられました」

 

 この人は良く見ていますね。と感心しながら解説を聞きます。

 チラリと横目で盗み見た私のトレーナーさんは少し悔しそうに唇を噛んでいました。

 

「それでも彼女が勝てたというのは、一体何が要因なのでしょうか?」

 

「客観的にこれだ!という要因は挙げられないんですが、個人的には最後のメンタルじゃないですかね。彼女のシンザンに追い抜かれてからの最後の50mは鬼気迫るものが感じられましたから」

 

「確かにシンザン選手は、こう言ってはなんですが、自信家でレースを楽しむような素振りがあるという話を聞いたことがあります。しかし、対するグラスワンダー選手も大人しく、激情を露にしないおしとやかな性格であるというようなことも聞きました。そんな彼女がレースでは気持ちが勝っていたということでしょうか?」

 

「普段はどうだか知らないですけどね、グラスワンダーはそらとんでもない負けず嫌いだと思いますよ。最後のゴールラインの飛び込みもトレーナーの指示じゃないかと批判してる人もいるみたいですけどね、あれは彼女の気持ちが全面に出た結果だと思いますね。事実、あれをしなければ数cm差で負けていましたから。どうしても勝ちたい!勝ってやる!という気持ちがあのダイブに繋がったんじゃないですかね」

 

 気づけばテレビを見るトレーナーさんの口元が緩んでいるのが分かります。

 私はちょっと悔しくなって彼をからかうつもりで声をかけました。

 

「……もう、トレーナーさんまでそんな風に思ってるんですか?」

 

 彼は何のことかと私の顔を覗き込みましたが、

 

「いや、その通りだろ?」

 

 とあっけらかんと返してきます。

 

 私は怒るよりもおかしくなって、思わずふふふ……。と口を抑えて笑ってしまいました。体を動かす度に痛みが走りますが、今の痛みは心地よい刺激でした。

 

「……まったく、トレーナーさんったら……」

 

 私も何一つ間違っていないので反論は出来ません。

 それよりも、トレーナーさんは私のことをちゃんと理解してくれているという嬉しさで私の心臓がドキドキと高鳴ります。

 でも時々思うんです。この胸の高鳴りは本当に嬉しいからだけなのかと……。これ以上考えるとなんだか禁忌に触れてしまいそうで、時間がある入院中でも怖くてそれ以上には毎回踏み込めません。

 今回もそう。彼の横顔はいたずらに私の動悸を速めるだけで何も答えを与えてはくれませんでした。

 

「またこの激闘に加え、グラスワンダー選手が十数年ぶりにレースレコード記録に並ぶラップタイムを出したことでも話題に上がりました。しかも、グラスワンダー選手以前にそのタイムをだしたのが、現在グラスワンダー選手を担当しているトレーナーがかつて同じく担当していたマルゼンスキー選手であることもその注目の高さに拍車をかけています。世間では同じ栗毛、同じく外国バ、担当トレーナーが同一人物ということで、『マルゼンスキーの再来』、『怪物二世』などと言われています。そのような評価をどう捉えますか?」

 

 急にトレーナーさんの顔が険しくなります。

 

「……余計なことを言いやがる」

 

 彼は明らかに不機嫌な物言いで吐き捨てると、リモコンを手に取りチャンネルを変えようとしました。

 

「私も……聞きたいです。いえ、他人の口からではなく、トレーナーさんの口から直接」

 

 私はリモコンを掴んだ彼の手に自分の手をそっと重ねるとそう切り出しました。彼の男らしい私より二回りほどでかい手は、華奢な手を添えると同時にピタリと動きを止めてしまいました。

 

 ドクドクと心臓が暴れだすのが分かります。

 

「マルゼンスキーさんはどんなウマ娘でした?」

 

 少し震えた声色が私が緊張していることを雄弁に物語ります。それはもちろん、手と手を重ね合わせたことではなく……、いえ、そうであって欲しかったのですが、これは今まで語ることのなかった彼の過去に私が切り込んだからです。

 

 ずっと気になっていた彼の過去。

 あの記者会見で、かつてマルゼンスキーを担当していたと知った私は多少なりショックを受けていました。あの名バを担当していたということを彼の口からではなく、赤の他人から知らされたという事実に。

 

 何故彼は何も言ってくれないのか。

 私はそこまで信頼に足らない相棒だというのか……。

 この一週間、病室で彼の顔を見るたびに抑えがたい苛立ちを覚えていきました。そして同時に、そんな自分に嫌悪を抱き、それを表に出さぬよう常に自制してきたつもりです。

 

 ですがまたテレビからという助け船があったにしろ、その話題から逃げるようなトレーナーさんは私の担当トレーナーであって欲しくはないという思いのほうが上回りました。

 

 彼はいつもの眠たそうな仏頂面で私を見つめてきますが、彼も緊張しているのが繋いだ手から伝わってきます。

 

 彼は諦めたようにハア……。と一つ溜め息をつくと、マルゼンスキー先輩についてとつとつと話してくれました。

 

「……マルゼンスキーは、俺が初めて担当したウマ娘だ」

 

 遠くを見るように窓の外を眺める彼の瞳は、昔を懐かしむように太陽に照らされてキラキラと輝いて見えました。

 

「マルゼンスキー先輩の偉業は私でも存じております。初めて担当されたのにあのような偉大なウマ娘を育てあげたというのは、やはりトレーナーさんの腕も一流だったということですね」

 

「やめてくれ!」

 

 私は褒めたつもりだったのですが、彼は心底嫌そうに声を荒げてそっぽを向いてしまいました。私の手の下にあった彼のそれもリモコンごと彼の元に返っていきます。

 

「俺は……あいつに何もしてやれなかった……」

 

 意味が分からず、彼の苦渋の表情を眺めていると、続けてとうとうと初めて担当した怪物について話し始めます。

 

「あいつは最初から強かった。出会った時から化け物だったよ……」

 

 絞り出すように漏れ出たその言葉は、本当に悔しさに溢れた感情を孕んでいました。

 

「そんな怪物をどんなベテラントレーナーも相手にせず、新人の俺にお鉢が回ってきたのは何故だか分かるか?」

 

 私は彼の悲しみ、悔しさ、不甲斐なさ、様々な負の感情をないまぜにした苦しそうな顔を見ると、本当に聞いて正解だったのかと、私の判断を後悔してしまう気がしました。

 

 私はゆっくりと頭を振り、分からない意を示します。

 

「……あいつは八大レースに出られなかったからだ。外国バというだけの理由で……」

 

 一瞬、二人の間に静寂が訪れます。

 テレビから漏れる姦しい音が私達の沈痛な空気を一層際立たせました。

 

「……私も、外国バです」

 

「分かってるよ。外国バが八大レースにも出走出来るようになったのはマルゼンスキーが引退してすぐだった。今じゃ当たり前のように皆走っているが、あの時代はその当たり前が出来なかったんだ」

 

 一つ区切りを入れて深々と溜め息をする彼は、自分は何も出来なかったという無力感に苛まされているように見受けられました。

 

「……それでもあいつは腐らずにレースに出続けた。後は知っての通り、結局最後まで無敗のまま怪我で現役を引退した。……それだけだ」

 

「……それだけの実力がありながら……。なんとかならなかったのですか?」

 

「したさ。あらゆる努力をした。中央競バのお偉方にさんざん頭を下げた。『賞金なんかいらない。着順に入れられなくてもいい。最外枠でいいからなんとかダービーだけでも出走させてくれ!』って泣きついた。けど…………」

 

 そこまで言うと、トレーナーさんは手で口を覆い、項垂れるように言葉を詰まらせました。

 

「……すいません。嫌な事を思い出させてしまって……」

 

 暫しの静寂。

 どこを見ても白一色の病室の壁は、まるで私達から五感を奪ってしまったかのように感じました。

 虚しく響くテレビCMが新商品のスポーツドリンクを勧めても、その音さえ色を失った世界が拭き取っていってしまいそうな気がしました。

 

「……いや、謝るのは俺の方だ。お前には今まで何も話してやれなかったんだから。すまない」

 

 彼の初めて見る沈痛な面持ちが私の精神を削っていきます。

 

 彼にとって、いまだ引きずるほどマルゼンスキーさんの存在が大きいと……。

 

 なんて酷い女!

 私はこの期に及んで会ったこともない過去のウマ娘に嫉妬している……。

 今は彼を気遣うべき。彼の苦しみを和らげてあげるべき。そんなこと分かってる。

 でも胸の内から沸いてくるのはドス黒くて嫌な感情。そんな自分が嫌で、さらに醜悪な想いが膨張していくのが分かる。

 

 ……負の連鎖──

 

 私は彼を直視することが出来なくなって白いシーツの上に視線を逃がしました。

 

 卑怯者……!トレーナーさんには逃げる道を塞いでおいて、お前は自分の醜さから逃げるのか!?

 

 それでも私は彼にどんな言葉をかけていいかも分からず、ただただ両手を握りしめて私の心とは真逆の純白なシーツを見ているだけでした。

 

「そろそろやるみたいだぞ。見てみろ」

 

 唐突にトレーナーさんから声がかかり顔を上げると、彼はテレビの方を指差していました。

 私は促されるままそちらの方に視線を移します。

 

 液晶には今年最後、中学一年の正念場。ホープフルステークスの生放送が写し出されていました。

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

「私も……聞きたいです。いえ、他人の口からではなく、トレーナーさんの口から直接」

 

 震える声と共に射ぬいたその双眸には、ゆらゆらと揺れる青い炎を携えていた。

 俺の手の甲に置かれた彼女の指は細くしなやかで、それでいて力強くおれの皮膚に食い込んで決して逃がさない意志が繋がれた手を通して伝わってきた。

 

「マルゼンスキーさんはどんなウマ娘でしたか?」

 

 きっと彼女は緊張している。俺の方から話してくれることをずっと待っていたのだ。

 それなのに、過去の担当バを引き合いに出される形で他人から自分の担当トレーナーの過去を聞かされた彼女の心持ちは如何ばかりか……。

 

 俺はいよいよ覚悟を決めてその重い口を開いた。

 

「……マルゼンスキーは俺が初めて担当したウマ娘だ」

 

 過去を思い出しながら窓から差す光を見やる。なんの汚れもない快晴の空に答えを求めようとして。たとえ分かったところで過去のことなんて変えられる術もないのに……。

 

「マルゼンスキー先輩の偉業は私でも存じております。初めて担当されたのにあのような偉大なウマ娘を育て上げたというのは、やはりトレーナーさんの腕も一流だったということですね」

 

「やめてくれ!」

 

 思わず声を荒げて否定する。

 散々聞き飽きた美辞麗句。分かってる。グラスは心から俺を褒めたのだ。

 それでも俺の心は、同じ言葉で言われた皮肉の嫌な思い出や、自分が彼女に対して何も出来なかったという無力感と後悔で満たされてしまう。

 

「俺は……あいつに何もしてやれなかった……」

 

 まだ新人時代、右も左も分からぬ自分がいかに無力か、マルゼンスキーの『才能』の前にいかに俺の存在意義が霞んでしまうか。

 かつてその苦痛とともに封印した悪夢のような記憶が甦る。

 

「あいつは最初から強かった。出会った時から化け物だったよ……。……そんな怪物をどんなベテラントレーナーも相手にせず、新人の俺にお鉢が回ってきたのは何故だか分かるか?」

 

 彼女は眉間に皺を寄せて真剣な面持ちで頭をゆっくりと振った。

 彼女の明るい栗毛が日の光に反射して、髪が流れる度に光の雫が踊っていた。

 

「……あいつは八大レースに出られなかったからだ。外国バという理由だけで……」

 

 グラスは何も答えなかった。

 いや、答えられなかったのか。同じ外国バとして思うところはいくらでもあっただろう。

 

「……私も、外国バです」

 

 選ぶように出たその言葉は、如何ようにも捉えられる曖昧なものだった。

 

「分かってるよ。外国バが八大レースにも出走出来るようになったのはマルゼンスキーが引退してすぐだった。今じゃ当たり前のように皆走っているが、昔はその当たり前が出来なかったんだ」

 

 何故彼女に八大レースを走らせてやれなかったのか……。今でも考えてしまう答えのないことに一人落胆し、俺は大きく溜め息をついた。

 殺風景な病室に放たれたその息は、暖房の効いたこの部屋の温度を下げたような気がした。

 

「……それでもあいつは腐らずにレースに出続けた。後は知っての通り、結局最後まで無敗のまま怪我で現役を引退した。それだけだ……」

 

「……それだけの実力がありながら……。なんとかならなかったのですか?」

 

「したさ。あらゆる努力をした。中央競バのお偉方にさんざん頭を下げた。『賞金なんかいらない。着順に入れられなくてもいい。最外枠でいいからなんとかダービーだけでも出走させてくれ!』って泣きついた。けど…………」

 

 そこで言葉が詰まる。

 俺の脳裏に巡るあの時の記憶。

 四方八方駆けずり回り、片っ端から頭を下げまくった。土下座までした。そんな俺に返ってくる言葉は皆同じだった。

 

 『規定だから認められない』、『新人トレーナーが偉くなったつもりか?』、『散々勝ちまくっているから出られなくたっていいだろう』、『あんたのとこのウマ娘が出走するとうちの選手が勝てなくなる』、『自分のとこの選手の評判を落とさせないでくれ』

 

 目から火が出んばかりの屈辱と怒り。

 ウマ娘本人の実力を素直に称賛しようともしない。私利私欲でウマ娘を差別する。こんな奴らに何であの怪物が出禁を食らわなきゃならないのか……。

 

 蓋をしたはずの地獄のような記憶が溢れだし、俺は堪らず口を抑えて項垂れた。

 

「……すいません。嫌なことを思い出させてしまって……」

 

 グラスに謝らせてしまったという思いは、止めどなく溢れてくる新人時代の思い出の中に流されてしまいそうになった。しかしすんでのところで思い直し、彼女が話を振った覚悟をないがしろにしないよう俺は辛うじて言葉を紡いだ。

 

「……いや、謝るのは俺の方だ。お前には今まで何も話してやれなかったんだから。すまない」

 

 今まで逃げ続けた俺は、まともにグラスの顔を見ることが出来ずに彼女の足元に広がる白いシーツに視線を落とした。

 

 また逃げるのか卑怯者!

 彼女を直視出来ないことがさらに自分の後ろめたさを加速させる。

 散々担当バに嫌な思いをさせて、自分の説明責任から逃げようとした俺は俺自身を許せなかった。

 

 テレビから漏れるうるさい音が二人だけの空間をかき乱す。

 ふと耳に入った実況の声。どうやらお目当てのレースがもうすぐ開催されるようだった。

 

 俺は静かに顔を上げると、彼女は何故か俯いてシーツを握りしめていた。

 

「そろそろやるみたいだぞ。見てみろ」

 

 彼女が視界に入らないように、テレビの方を見ながら俺はそれに指差した。

 

 もう一つの大一番のレース。ホープフルステークスが始まろうとしている。

 

 

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