「ゴオオオォォォォル!!二人の猛追を振り切り、一着を奪ったのは黒い新星!シンザンンン!!」
静かな病室に響く実況の叫び声。
私とトレーナーさんは黙ってこの2000mのレースを注視していました。
レースが終わり、ウイニングライブが始まっても沈痛な面持ちで画面を眺めるトレーナーさん。
賑やかなテレビとは対照的に彼の表情は強張り、まるで知り合いのお通夜のような陰鬱な空気が私達を支配しました。
「……残念、でしたね。私の同期には誰か勝って欲しかったですが……」
「あ?……ああ、そう、だな……」
彼はそう言って右手で口元を覆ってさすります。
いつもの考え事をする時の彼の癖です。
あんな化け物相手にどう勝てばいいのか……。
いつも何を考えているか分からない彼の顔から、まるで声が漏れるかのようにトレーナーさんの思考が読み取れます。それだけ余裕がない証拠でしょう。
私は雰囲気を変える為にわざと明るく話しかけました。
「心配いりませんよ!私はシンザンさんに一度勝っているのですから!」
正直に言えば、私はゴールの瞬間を覚えていないので勝った実感など微塵も無いのですが、いたたまれない彼の心情はそんなことを些末な問題にさせました。
「……ふ。中学一年の担当バに気をつかわれるとは、俺もまだまだだな。悪かった」
彼は薄く微笑を浮かべると視線を下にやって項垂れてしまった。
「……トレーナーさんは少し背負い込み過ぎだと思います。もし辛いことがあったら相談して下さい。私に出来ることがあれば何でもやらせて頂きます。相棒なんですから」
あの『ウマ娘潰し』の悪評とか……。
心の中でそう一人ごち、彼が私を頼ってくれないもどかしさでまたモヤモヤした気分になります。
「そんなことはできない。俺はトレーナーで、ウマ娘に気持ち良く走っていい成績を残してもらうのが俺の仕事だ。お前は何も考えずに走ることだけに集中すればいい」
私の気も知らず、彼はそう答えます。
確かに私はまだ子供かもしれません。ですが、自分に頼って欲しいという気持ちも汲んで頂ければと思う私は不遜なのでしょうか?
『仕事だから』という事務的な関係で終わらせるような間柄を彼は望んでいるのでしょうか……?
「そうだ。今日はお前に菓子を持ってきたんだ。和菓子が好きだっていうから、生八つ橋を買ってきたぞ」
唐突に彼はそう言って足元に置いていた紙袋から箱を取り出します。
私は自分が不機嫌な顔になってないか眉間を触りますが、それを確認する前に彼が八つ橋を勧めてきました。
私は生八つ橋を手に取り、そのモチモチとした手触りと白い布のような生地、それにくるまれた餡を見やります。
正直食欲はありませんでしたが折角トレーナーさんが買ってきてくれた物を無下には出来ません。私は三角になった八つ橋の先端を口に含み、噛みちぎりました。
米粉のもっちりとした食感と香り、舌の上に広がる砂糖の甘さ、そして僅かに鼻を通る胡麻の爽やかな匂いが私を刺激します。
「……美味しい」
はしたなく口に物を入れたまま思わず飛び出したその言葉は、私の一抹の不安を拭い去っていきました。
「お茶も用意したんだ。飲んでみてくれ」
お茶を欲する私の気持ちを察したかのように、彼は青い真空ポットを取り出してその蓋にお茶を注いでいきます。
促すように無言で差し出してきたそれを、私はおずおずと受け取って口に流し込みました。
少し酸化して渋味が強くなった緑茶でしたが、その苦味は八つ橋の甘味と調和して一層お菓子の美味しさを際立たせます。しかし、何より私が驚いたのは──
「このお茶、トレーナー室に置いてあった煎茶の茶葉で淹れましたね?」
そう言うと彼は視線をそらして、「やっぱり分かったか」と少し恥ずかしそうに小声で呟きました。聞こえてないと思ってるかもしれませんが、ウマ娘の耳は聞き逃さないですよ。トレーナーさん?
「ああ。お前が淹れるほど美味しくは出来なかったけどな、やっぱり和菓子にはお茶だろうと思って……」
癖っ毛を弄りながら話すその顔はいたずらがバレた子供のようで、とても三十半ばの無愛想な男の人とは思えませんでした。
「ええ、そうですね。お茶の淹れ方はまだまだ、という感じです」
私の心に広がるこの想いはなんでしょうか?
「なんだよ……。少しは頑張ったんだがな……」
ポカポカして温かい。色に例えるならそう、黄色でしょうか。
「ふふ……。冗談です。トレーナーさんのお心遣いだけでお腹一杯ですよ」
とても言葉に表せない、レースで勝つのとはまた違う、この高揚感。
「……ありがとう……」
故郷の妹と一緒にベッドでくるまっていた時に似た、何とも言えない安心感。
「今度は私がお茶の淹れ方を教えて差し上げますね」
今は怪我をしてしまったことにも感謝してしまいそうなほど……。
「トレーナーが教え子に教えられるのか……。ま、それも一興かもな」
きっとこれが──
暫くの静寂が二人を包みます。
けれど先程とは違う、なんだか気恥ずかしいような沈黙が流れていました。
私の背中から差し込む日の光は彼の端正な顔を横から照らして、滅多に見せたことのない恥ずかしげな表情を写し出しています。
鳥のさえずる声が私達の静けさをからかっていきました。
でもどうして今日に限ってこのような親切を働いて下さるのでしょうか?
失礼ながら、彼は気が利く方とは言えません。
未勝利戦で初勝利した時も、朝日杯の出場条件を満たして快勝した京都ジュニアステークスの時もお祝いの一つもしてくれませんでしたし、私が入院したこの一週間もお見舞いには来て下さいましたが、G1初勝利の成果も「おめでとう」の一言でした。
それでも彼の不器用な優しさに気付いてからは、なんだかそれも一昔前の日本男児のようで、私はそんなところも受け入れて特に気にするでもなく過ごしていました。
顔はむしろ外国の方に近いんですけどね……。
そんなことを思っていると、彼はボソッと一言呟きました。
「今日はクリスマスだからな……」
それを聞いてハッとしました。
そう、今日は12月25日。このところやることがなく、ずっとテレビや本ばかり読んでいた私は日付そのものを気にしなくなっていたので気付きませんでした。
彼のことを気が利かないと内心思っていながら自分がクリスマスのことを忘れるなど……。
穴があったら入りたい気持ちになって食べかけの八つ橋を持ったまま頬を赤くして俯くと、彼はさらに言葉を繋げます。
「本当は何か形に残るような物が良かったんだろうが、こういうのは慣れてなくてな……」
「……いいえ。いいえ。トレーナーさんのお心遣い、大変痛み入ります。それに──」
きっとこの日の思い出は私の心に残り続けますから──
心に浮かんだその想いは、言葉に出すと陳腐な気がして私の中に留まりました。
「それに、私の方こそクリスマスを忘れていまして、何も用意出来ていないんです」
私は食べかけの生八つ橋を一つ見やる。
「だから──」
私は彼の前に手にしていた白い菓子を差し出しました。
「何言ってんだ。お前からはG1勝利っていうデカいプレゼントを貰ってるんだ。今さらそれ以上は受け取れんよ」
私も目の前の人から頂いたものを返すような形で贈り物とするのは失礼かと思いましたが、この八つ橋は特別なんです。
「でしたらそれとは別に、蹄鉄代のお返しということでよろしいですか?」
「新品の蹄鉄を立て替えた件か?それならもうとっくに貰ってるが?」
「いいえ。利子を返し忘れていました。借りている間は利子がつくんですよ?」
そう言ってさらに彼の鼻先に八つ橋を差し出します。
彼は私の有無を言わせぬような雰囲気に気付きながら、私と八つ橋を交互に見つめた後、おずおずと食べかけのそれを手にしました。
「なんだかなあ……」
一人納得していないような複雑な表情で、彼は食べかけの生八つ橋を口に含みました。
ふふ……。間接キス、ですね。
彼はきっと気にもとめないでしょう。
けれどこれが私からのプレゼント。
相手に贈ったのに、贈った本人しか気付かないプレゼントなんて、なんて身勝手なんでしょう!
でもいつかは気付いて欲しいです……。
そんな儚い想いを抱きながら、トレーナーさんが八つ橋を食べてる姿を見ていると、
「……何がそんなに面白いんだ?」
いつの間にか、口元が緩んでいたみたいです。気付けば頬も熱を帯びているのが分かりました。
「なんでもありません」
わざとそっぽを向いて照れ隠しをしながら横目で彼を覗き見ます。
大の大人がハムハムと生八つ橋を頬張る姿がおかしくて、私はいよいよ吹き出してしまいました。
「ぷっ……!あはは……!」
久しぶりに感情に任せて笑ったその声は、無機質な病室に色を与えて飾り付けたような気がしました。